活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

意(心)の働きというもの

2019年12月20日 | 法理

「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」の働きのなかで、一番難しいのは「意(心)の働き」です。

 

「意(心)」というものは姿形を見ることが出来ませんけれども「他の五根」

と同じです。

 

しかし、他の五根はものが映る、聞こえる、嗅ぐ、味わう、触れるという

ことだけで終わるものですが、「意(心)の働き」というものは、なかなか

それだけでは終わらないのです。

 

例えば、一つのものを考えたとします。

 

そうするとその考えをもう一つ考えに考えを重ねてドンドン考えていって

しまうようになるのです。

 

それが「意(心)の働き」です。

眼や耳のように見たらみたまま、聞こえたら聞こえたままにということが

なかなかならないのです。

 

「六根」は元々鏡の如きものですけれども、この「六根」から入るさまざまな

様子の「六境(六塵)」に私たち衆生は縛られているわけです。


意識について

2019年12月19日 | 法理

「意識」とは広辞苑①仏 に拠れば「認識し、思考する心の働き」とあります。

 

しかし、「意識そのもの」は妄想でも分別でも正念でも邪念でもありません。

「意識そのもの」なのです。

 

ですから「意識」とは、思ったこと考えたことそのもの」なのです。

 

そこに私たち衆生はわざわざ「妄想だ分別だ邪念だ」というものを「自らが

付けて(隔てを認めて)苦しむ」ということなのです。


原因・結果5

2019年12月18日 | 法理

成功する場合でも、同じ事がいえます。

 

「成功する」ということは、それだけの「道理に合って成功」した訳ですから

これも喜ぶべきことではありません。

 

ごくごく当然のことですけれども、成功した場合はとかく失敗した場合と比べて

非常に喜ぶものです。

 

それは本当から言えば「人間(にんげん)のわがまま」です。


原因・結果4

2019年12月17日 | 法理

私たち衆生の今の状態は何時でも何処でも何をしていても「結果」だけに

安住している状態なのです。

 

一例をあげると、「いろんな仕事をしたけれども結果として失敗に終わった」

という人がいるとします。

 

そういう結果になったということは必ずそういう原因を作っている訳です。

 

必ず「因果の道理」に合った「結果」が出て来る訳ですから、失敗しても

これは道理に合った失敗であって別に驚いたり悲しんだりすべきことでは

ありません。


原因・結果3

2019年12月16日 | 法理

ところが、私たち衆生はどうしても「無い」ものを「有(在)る」と認める

「我見」というものが中心になって「善悪(是非)」を比較して見るという習慣が

付いてしまっているために、人の考えとして悪いものを無くしてしまえば

後は善いものだけが残るだろうという考えになりがちです。

 

ところが、対照として善悪が有(在)って、悪いものが無くなれば当然対照

になる善もありませんから、一方(悪)が無くなればもう片方(善)も無くならないと

いけない訳です。

 

おシャカ様の考えというのは、全て「結果」からものを見て説いています。

 

ですから、「結果に未だ到らない者が、おシャカ様の教えだけ見て分かったとか

分からないとかということを言うのは本当は有り得ないこと」なのです。


原因・結果2

2019年12月15日 | 法理

私たち衆生は習慣で「此の物(自分自身)」を無条件で認めがちです。

 

何故ならば「ものが在るという考えの中で生まれてきた」から「ものが無い」

ということは普通では考えられないのです。

 

人間(にんげん)が「認識」を起こして認めることの出来る時間というのは

必ず「過去(過ぎ去ったこと)と未来(未だ来ない)」のことだけなのです。

 

人間は相対的な二つの考えを「同時に考える」ことは出来ません。

 

ですから、本来「ものを比較して見る(善悪を比較して見る、是非を比較して見る)」

ということは不可能なことなのです。

 


原因・結果1

2019年12月14日 | 法理

「過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ」というお示しがあります。

過去にどういう因縁があったかということを知ろうと思う人は、今の結果を

見てごらんなさいということです。

 

必ず過去の原因に因って今の自分の状態が現れているということです。

そして現在のことが原因になって将来の結果を生む訳です。

 

私たち衆生は呼吸をする際に、吐いたままで吸うことが出来ないと死んでしまいます。

 

ですから、「私たち衆生の命は吐く息と吸う息の間だけに在る」ということです。

従って人間(にんげん)は何時でも生まれ変わっている訳です。


因縁・縁起説について2

2019年12月13日 | 法理

おシャカ様は「苦しみの根源」というものが「何か有(在)るだろう」という

考えから修行に入られたのです。

 

ところが、「自己の正体」を見極められ、「苦しみの根源」になるようなものは

何も無かったことに気が付かれたのです。

 

即ち「一切のものは縁に因って滅する」ということに気が付かれたのです。

それを「縁起の法」というのです。

 

そして、そのことを説明していくことに仮の城「仮城(けじょう)」を建てられた

のです。

 

その仮の城のことを「空」と名付けられたのです。

 

 

 


因縁・縁起説について1

2019年12月12日 | 法理

「因縁・縁起説」とは、ものの有(在)ることを説明したものではありません。

「もともとものの認めようがないこと」を説明したものです。

 

もともと「私」という存在は有(在)りません。

あるときから「私」を認めたのです。

 

これを「自我」といいます。

 

「自我」というものだけが「生死」を繰り返しているのです。

 

ですから、「自我の正体」さえ自分ではっきり見極めることが出来れば

「生死」を超越したところで、私たちは「今」、日常生活を営んでいると

確信出来ると思います。

 

「覚者のいう自己」というのは、中心のない、何処にもつかみ所の無いそういう

「自己」のことです。

 

 

 


「縁」について2

2019年12月11日 | 法理

おシャカ様はご自身が非常にご苦労をなさったものですから、後進の「法(道)」を

求める私たち衆生のためにいろいろ方便を巡らして経典を残しておいて下さったのです。

 

「こういう道さえ間違えなく一歩一歩確実に歩いて行きさえすれば必ず道に

到達しますよ」ということです。

 

おシャカ様だけではありません。

 

歴代の覚者といわれる方々は、私たち衆生にあまり苦労をかけないように、この道が

分かるようにと、いろいろ方便をお示しになったのです。

 

しかし、私たち衆生が「私」というものを差し挟んで読んだり聞いたり修行する

ものですから「縁」に突き当たったとしてもそのことが自分のものにならない

というもどかしさが有(在)る訳です。