私たち衆生は、自分では何年何月何日に生まれたということは知(識)りません。
自分の名前を付けられたことも知(識)りません。
しかし、知らず識らずの内に「私は太郎です、私は花子です」といえる
ようになるのです。実に不思議です。
そして、物心がつく頃になると自分自身のことは考える暇もなく、物から
吸収する力が強くなってきてますます「本来の自己」から遠ざかっていく
のです。
また、亡くなられる人も自分の死ということは自分では分かりません。
自分の死を自分で知(識)る人はいないのです。
私たち衆生は「本来の自己」ということをはっきり知(識)らずに
「自分(?)の一生」を過ごしているのです。