CORRESPONDANCES

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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(4)

2016年02月07日 22時54分52秒 | Barbara関連情報

バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美 天理大学国際学部准教授
ドイツ文学・ドイツ地域研究・独仏関係史

「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45
より 筆者の許可を得て転載
2015年12月 シャンソン研究会発行 
〒390-8621 松本市旭3-1-1

信州大学人文学部フランス語学
・フランス文学研究室内 
シャンソン研究会 代表者 吉田正明 

第7号には中祢氏のほかに
高岡優希氏(大阪大学非常勤講師)
三木原浩史氏(神戸大学名誉教授)
吉田正明氏(信州大学人文学部教授)
らが研究を発表されている。
シャンソン・フランセ-ズ研究に興味のある方々には
魅力のある出会いに繋がりそうな気がする研究会である。
手にとってご覧になられると良い。存在自体が心強い。
中祢氏には、早くも続編への期待が高まっている。
どの方向にハンドルを切られても
Barbara Siteからの資料提供は出来ると思っている。
問題は「残された時間
とりあえず初編だけでもCorrespondances
にこうして取り上げることが出来た
この奇跡的邂逅に再び感謝したい。

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4.JTの「シェフ」,教授の「ミニ講義」

 バルバラが親しみを込めて「グンター」と呼んだハンス=グンター・クラインHans-Gunther Klein(1931~1982)は,とにかく芝居一筋に生きた男である。彼は大学には進まず,1957年,26歳の若さで小さな劇団JTを立ち上げた。JTすなわち「ユンゲス・テアーター」(Junges Theater)はドイツ語で「若い劇場・劇団」を意味するが,これは市内にあった「ドイチェス・テアーター」Deutsches Theater(「ドイツ劇場・劇団」の意)を意識した命名であった。19世紀末に創設され,ゲーテ,シラー,レッシング,シェイクスピアなど古典の大作を得意とするこの大きな劇場とは異なる路線を目指したクラインは,旗揚げの年から不条理の傑作とされるS.ベケットの『ゴドーを待ちながら』を年間60回も上演するなど,革新的・実験的な小品を精力的に取り上げた。バルバラが訪問する直前のシーズン(1963年9月~1964年6月)も,J.P.サルトルの『墓場なき死者』,M.カモレッティの『ボーイング・ボーイング』,S.ベケットの『芝居』など,フランス現代演劇を積極的に取り上げている17)。

 だが,実験好きな小劇場が商業的に成功するのは難しい。学生が常連客である点に配慮してチケット代を低めに抑えていたこともあり,JTは70年代に入るまでずっと赤字続きで,役者や裏方への報酬も低かった。赤字はクラインが母親から譲り受けた遺産を取り崩しながら補てんしていた。それでもJTにすべてを捧げた熱意の人クラインは,周囲から「シェフ」(Chef)と呼ばれ慕われていた。市は,1982年,51歳の若さで世を去った彼に「ゲッティンゲン市栄誉メダル」を贈り,「彼に率いられたJTは定評のある劇団に成長し,その芸術性は,市から遠く離れた地域でも高く評価されるようになった」とその功績を称えた18)。

 筆者は,2014年8月,この「シェフ」と親交があったK=U.ビゴット,K.ベルゲマンの両氏からも話を聞くことができた。1964年当時,ゲッティンゲン大学で仏文学を専攻していた二人は,仏文専攻の学生で組織されていた演劇部のメンバーだった。バルバラが来訪した7月初めは,上演を目前に控えたモリエールの『町人貴族』の稽古がまさに仕上げ段階を迎えていた。彼らは,夜にバルバラが歌うステージで,昼間に舞台稽古を行なった。フランス語の発音についてバルバラに質問したこともあったという。ハプニングに見舞われた最初の晩ではないものの,二人ともバルバラのリサイタルを生で聴いている。

 仏文学に加えて歴史学も専攻していたビゴットは,1964年当時,学生寮「歴史コロキウム」の寮生-ということはペンカートの後輩-でもあった。2014年6月,Göttingen 誕生50周年の記念行事が催される一週間前,彼はペンカート先輩に送った手紙のなかで次のように述べている。

 わが友ハンス=グンター・クラインとは,バルバラのリサイタルの話をよくしました。彼こそゲッティンゲンにおけるバルバラの「発見者」だと言う人もいますが,本人はそんなふうに考えていませんでした。彼はあなたが果たした役割をいつも高く評価していました19)。


  ゲッティンゲン滞在中の交流に話を戻せば,バルバラは教授の「ミニ講義」も2度受けている。講義といっても決して堅苦しいものではなく,JTの地下にあった談話室で行なわれたバルバラと学生との交流会の席でペンカートが恩師に頼んで実現したものだった。一つ目はフランスの歴代国王に関するもので,講師は歴史学の教授P.E.シュラム Percy Ernst Schramm(1894~1970)。中世史の大家シュラム先生によるフランス語での講義は,ブルゴーニュワインのグラスを傾けながら行なわれた20)。一緒に話を聞いていた学生もフランス語で発言し,彼らの知識の深さにバルバラはよほど驚いたのだろう。

 第3連に登場する名前のうち,Hermann, Peter, Helgaの3つは,バルバラから「ドイツ人っぽい名前」を求められたペンカートがとっさに提供したもので,ラジオ番組のなかで「Hermannは私の友人の一人,Peter は従兄弟,Helgaは父の再婚相手の名」と「種明かし」をしている21)。だが,4つ目の名については,先行する2行と同じ鼻母音 [ã:s] をもつHansをバルバラのほうですでに用意していた。『ムッシュ・ハンス』Monsieur Hans(作詞Eddy Marnay,作曲Emil Stern,1958年)から採ったのである。

 「ミニ講義」の二つ目は,1829年から8年間ゲッティンゲン大学で教鞭を執ったグリム兄弟に関するものだった。Mémoires では,滞在二日目にグリムの家を見つけたことが述べられている(p.135)だけだが,講義も行なわれていたのである。講師は,北欧文献学が専門で,古代ゲルマンの神話にも詳しいW.ランゲWolfgang Lange教授(1915~1984)。ペンカートによれば,彼はシュラム教授とも仲が良かったという。

(つづく)

 ・・・註・・・

17) Theater 1964.  Chronik und Bilanz des Bühnenjahres.  Friedrich Verlag, Velber bei Hannover, 1964. S.170.

18) 地元紙 Göttinger Tageblatt がJTの歴史を回顧した以下の記事を参照。http://www.goettinger-tageblatt.de/Nachrichten/Goettingen/Themen/Goettinger-Zeitreise/Mit-Ach-und-Krach-und-immer-wieder-aufs-Neue

19) 50周年記念行事は,2014年6月27日から3日間催された。フランスからは,バルバラの甥 Bernard Serf氏,"Barbara-Perlimpinpin" 代表のMartine Worms女史,歌手のMathieu Rosaz氏が招待された。手紙は入院中のためこの行事に出席できなくなったビゴット氏が,先輩のペンカートに送ったもので,筆者はペンカートからそのコピーをいただいた。

20) Schöne, Albrecht (Hrsg.): Göttinger Vademecum. Ein litearisches Gästebuch und historisches Poesiealbum, welches leselustige Fußgänger und spazierfreudige Leser in 5 Jahrhunderte führt und durch 172 Straßen der Stadt, München und Göttingen, 1985, S.167.  なお,シュラムは1960年に『フランスの国王 9~16世紀における君主制の本質』の改訂版を出していた(初版は1939年)。Schramm, Peter Ernst: Der König von Frankreich.  Das Wesen der Monarchie vom 9. zum 16. Jahrhundert. 2 Bde. Darmstadt, Wissenschaftliche Buchgesellschaft, 1960. 

21) 註15参照。

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Correspondances 過去記事
GOTTINGENのBARBARA
番組の文字記録は残っているが
時間が経ちすぎて現在は音声は出ないようだ。
このような放送を聴いた記憶をたよりに
過去記事を探してみた。
ひょっとしたら探せばCD化したものを
持っているかもしれない。
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Music Cross Talk過去記事
Claude Vinciについて
Claude Vinci (2)
Claude Vinciの証言 (3)
何故Claude Vinciかというと
Barbaraは昔の友達に対して
非常に冷たい、旧交を暖めるような
態度を一切とらない、というようなことを
発言していたからだ。
Barbaraを知るほとんどの人たちが
Barbaraとの交流を自慢げに語る中で。
GottingenがBarbara個人の歌でなく
政治色を帯びていくにつれて
Vinci氏のような「闘士」とのかかわりに
不都合が生じてきたためではないか?
Carl Einsteinを研究テーマにしたPenkert氏
がMemoiresから姿を消したことも、
そのひとつの理由として
Gottingenが長い年月の間に
仏独和解の歌として独自の成長を遂げたためではないだろうか?
Gottingenが引き受けた、ほかの歌とは全く異なる役割を
忘れないでおきたい。

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支配人のクライン氏は熱心な演劇人だった。
Barbaraは自分も演劇に親しんでいた?から
クライン氏とは特に共有する世界があることを
初対面の時から直感していたのではないか?
というのは、BarbaraはL'Ecluseから歩いて数分の
Huchette座に入り浸っていたという話を過去に
Les Amis de Barbaraの記事で読んでいるからだ。
ちょっと遠回りだが、まずこちらから。
Correspondances過去記事
Nicolas Bataille et Barbara (27)
次にNicolas Batailleのwikipedia:
Music Cross Talk過去記事
Nicolas BatailleとBarbaraの交友

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