CORRESPONDANCES

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石井好子 (22) ホスピスで歌う

2014年04月20日 20時48分36秒 | 追悼:石井好子

以前に書いたかどうか忘れたが、多分まだだと思う。石井先生はホスピスで歌う活動もされていた。誰も知らないことだ。
昔の文学上の知り合いに芦原修二という方がいて、彼が「短説」なるものを考え出した。短い小説の新しいジャンルである。昔の好で毎月月刊短説を送っていただいていた。私は一度も参加しなかったのだが、新聞に紹介されたときには関西地区の連絡係をした。原稿用紙2枚の小説で、座会を開いて、天地人と得点をつける新鮮味が受けてか結構会員も全国的で多かった。
その中のある号において、石川と言う方が「ホスピス」をテーマに作品を書いておられた。
病院の中のコンサートホールに母を車椅子に乗せて連れて行く。今日はシャンソン歌手の石井好子さんがいらっしゃる。コンサートが始まると会場は一杯になり熱気に包まれた。母は、懐かしい曲を聴いて指揮棒を振っているつもりか、腕でリズムを取っている。母はその一瞬死から解放されて、楽しみに浸っている。知っている曲ばかりなのか、時々くちずさんで、自分の生を回想しているのだろうか。-と言うような作品だったと思う。
私Bruxellesは、この石川と言う方の作品を石井先生に送った。石井先生にしてもこうして自分の歌声を聞いている人の立場から客観的に見ること、知ることは稀だったのではないかと思う。改めてホスピスで歌うと言うことの意味を、認識されたのではなかったかと思う。
この方のお母様はまだご存命でしょうか?と問いがあったが、私は知る由もない。
手紙にはこう書かれてあった。-この病院の若いドクターの知り合いに頼まれて、病院でのコンサートを引き受けた。ボランティアである。自分が人の役に立つならと出かけたが、いざホスピスのステージに立つと、そこから客席をみると、どのひともこのひとも、半年後、一年後にはもうこの世にいらっしゃらない、そう思うと胸が一杯になり気持ちも引き締まった。普通のステージとは全く違う何か真剣な一秒一秒が流れていく、と。生きる側であるからこそそこで「死」に直面し、消え行く側であるからこそそこに「生」を感じるのではないだろうか?シャンソンを通した「生」と「死」の真剣勝負の出会いである。
石井先生はこの作品を前にどう反応してよいのか迷われたようだが、結局短説の会のほうに、御自分のカセットとCDを贈られたようだ。
考えてみれば「お母様はまだご存命でしょうか?」と言う問いは野暮だ。場所はホスピスなのだ。石川さんの作品を読んで、石井先生のお手紙を読んで、私もあたかもこのホスピスでのコンサートの場にいたような気持ちになった。それ以来、死を拒否せず、できるだけ受け入れてそれに向かってゆっくりと進むことも、またひとつの立派な選択肢なのだと考えるようになった。老化でも死でも抗うよりは、受け入れる方がよいに決まっている。誰が考えたか知らないが、ホスピスと言う場をこの世に存在させた発想は素晴らしいと思った。孤独死ではない。大勢の仲間たちと一緒に暮らし同じ方向に進んでゆくのだから、そしてこの石川さんのお母さんのように、時には子供や孫にも支えられふれあい、愛され、それゆえに病院で死ぬより心穏やかで、自分自身に「さよなら」がいえるのではないか?
現実的にはどうか知らないが、それ以来、私はどうもこの甘い「ホスピス」と言う夢に取りつかれてしまっている。ホスピスで石井先生の歌声におくられて旅立つのもいいかなと...

Edith Piaf : Mon Dieu :


石井好子 (21) 最初のリクエスト La Chanson de Margaret

2011年07月17日 22時31分02秒 | 追悼:石井好子

Jacquesに貰ったシャンソンのDVDの一部をようやくまた見る気になった。封筒の中に石井先生の60周年リサイタルのチケットと平成17年9月17日の消印のある速達のハガキが一枚紛れ込んでいた。新たな発見である。初めてのことで、少し傾いているが、スキャナーでBlogに取り込んでみました。↓

長引いたトラブルの最中で、一度行けないと連絡していた。日程が立てられなかったからだ。結局、60周年に行くことは数年前からの約束だったので、トラブルが悪化することに目をつむっても、60周年に行くことを選んだ。それにしてもハガキが速達でなければ、間に合わないぎりぎりの決心だった。チケットは既に完売していたので、この時点では入手不可能。この速達のハガキが来なかったら、どうするつもりだったのだろう。当日厚かましくも、会場の入口の横にあった、特別テーブルに名乗り出た。その上に私の名前を書いた封筒を見つけたからだ。
「石井がいつも大変お世話になっております」などと言われて、吃驚して招待券を受け取った。
早めに新宿に着いたので、麻布十番でシャンパンを買って、それを特別
テーブルに差し入れした。花束ならたくさん来ると思ったからだ。
確かに花束はジャングルのように来ていた!

「さよならは云わない」コンサートレポート
そのほかの日々より
(このレポートのごく一部は日本シャンソン協会刊のシャンソン情報誌「En Chantant」に紹介された。そこでは編集の方に筆者は超シャンソン通と紹介されている
。「まだ一度も会っていない、というと皆が吃驚する。吃驚されるのがちょっぴり楽しいし、それでいてこんなにも長く持続する関係を得意に思う気持ち、自慢したい気持ちもある」石井先生は言葉でそう伝えてくださった。)
・・・・・・・

最初私は「Toi et Moi」(
この人がアシスタント
という番組のリスナーだった。
最初に読んでいただいたリクエストはもう覚えていない。
ただ質問を書いた記憶がある。
「わかりません」というお答えだったが、その質問は
放送で取り上げていただいたのだと思う。
そうだ、質問からして、
私の最初のリクエスト
はこの曲だったに違いない。
参照:
見えない鳥の存在マルガレの歌
Monique Morelli :
La chanson de Margaret:
Germain Montero:
La chanson de Margaret:

歌の内容は「見えない鳥の存在」に書いてある通りなのだが、「女が集まる場所には、その少し前に男達が大勢押し寄せてきているのだ。メキシコの歴史にまでまだ手が出ないので、詳しくは書けないのが残念」とあるように、今一つ歴史的背景が読み取れない。タンピコはメキシコにあり石油の産地だということ。その石油を求めて、フランス軍がメキシコに(娼婦となる若いフランス女性を引き連れて)侵攻したことが、背景にあるのではないですかと、この曲は何年の曲で、その頃、そういった事実は果たしてあったのでしょうか、と質問したのだった。

昨日面白い頁を見つけた。
主人公は
Le Havreの出身で、はるばる大西洋を渡ってTampicoまで行く。そこに高額の仕事があるからだろう。若いうちに稼ぐ。
参照:
L'église de Sanvic & Le Bassin du Roy
Le Havre d'avant...のおかげで、歌詞の背景が具体的に見えてきた。
さらに昨日質問した事項に今日早速返事が寄せられた。
モンテロが創唱したのは1957年、作詞したのは1952年、従って、19世紀後半のフランス軍のメキシコ侵攻とは無縁だろうということ。歌詞に歌われたLe Havreはサイト筆者のPatard氏によると、1920~1930年代あたりらしい。
(私の考えすぎだということがわかってすっきりした。何故そう考えたのかというと「マルガレの歌」は「MADAMA/BARBARA」というLPの最後に入っている。この曲は舞台「MADAME」で歌われたわけではないが、内容的に言ってBARBARAはこの曲によって舞台「MADAME」の構想を得たのではないかと思われる。もう一つ、この曲にBARBARAのコートジボワール出演の体験とが重なって、「MADAME」が完成したと思われる。TampicoをAbidjanにすると、状況及び双方の主人公が重なるのだ。「MADAME」のLPの最後にこの曲が入っている意味にも納得できる。
植民地に類するような外地に、お金を稼ぐために流れて行った女の歌であることに、間違いはない。)
(私の考えすぎは石油だ。タンピコだ、メキシコだ。マルガレの歌の主人公は、貧困が生んだ単なる「からゆきさん」だったのだろうか。表面には出てこないが、やはり他国同様タンピコの石油利権を自由にしようとした時のフランス政府の意図が、20世紀中頃にもまだ(追記:タンピコの発見は1910年)
、隠されていたのではないだろうか。たくさんの資料に当たってみたが、南米を支配しようとするのはたいていアメリカで、フランスのメキシコ干渉もあるが、Patard氏の言うように時代が異なる。読み捨てた資料の中で一つだけ残してリンクすることにします。だからどうだと断定は出来ませんが、「マルガレの歌」のなかに私が感じた石油のにおい、この資料の中に見出していただければと思っています。)↓
参照:メキシコをむしばんだもう一つの大国

Toi Le Poete」に「La Chanson de Margaret」
を訳出する予定です。お楽しみに。
そこには作詞家Pierre Mac Orlanに関する
およそ一時間の番組にもリンクしています。
Mac Orlanを歌った歌手たち、
Mac Orlanと組んだ作曲家たちも
詳しく紹介されています。
Patard氏もご存じなかったとのことでしたが
この番組ではBarbaraのLa Chanson de Margaret
を聞くこともできます。
Toi Le Poete」では、Pierre Mac Orlan氏の
声も顔も聞き、見ることができます。
余談ですがPierre Mac Orlan氏は
あのラパンアジールの経営者で
歌にも歌われた「フレデ」の義理の娘と結婚しています。


//////////////////追記////////////////
中南米の特にメキシコの政治は常にわかりにくい。
参照:Ceci n'est pas une pipe
No.1 & No.2 :


////////////////////////P.S.//////////////////
//////

石井先生、そこでは時間を逆に戻せますか?

そこからはこの世は見えますか?

そこには光があるのですか?

そこでも言葉は機能しますか?

「いかに生きるか」に意味があるのはこの世だけですか?

存在は他者の観念の中に命を得るんですよね、
永遠の命を、相互の想いを糧として

2011年7月17日 M.Taïraquas 記



石井好子 (20) 文藝別冊 【追悼総特集】

2011年05月19日 08時52分54秒 | 追悼:石井好子

昨日阿倍野のユーゴ書店で文藝別冊 、『石井好子【追悼総特集】シャンソンとオムレツとエッセイと』(河出書房新社)を手に取った。追悼総特集であるが、シャンソンとオムレツとエッセイと、3方面からのやや軽いタッチのアプローチ。著作などに掲載された写真も、集中していると思えるくらいに集められている。DVD「ローバは一日にしてならず」(参照1)(参照2)(参照3)に比べると、そしてシャンソンの石井好子、個人の石井好子に関する洞察は物足りないが、それぞれの書き手とのかかわりは、よく書かれていると思う。略式だが年譜も入っていた。総特集、まるまる一冊である。再評価の手掛かりになれば、そしてシャンソンの石井好子が再び考察されるきっかけになればと願っている。...

石井好子の何にひかれたかといえば、その奥深さ、スケールの大きさ、偏見のない寛容さ、度量の深さ、堂々とした肉体的精神的姿勢である。虚偽が一切ない。物怖じすることも、自慢する必要もない充分なバックグラウンドと本物の経験と人脈がある。日本が生んだ昭和を代表する女傑である。
私は最近「生前どうして会わなかったのか」と悔やんでみたり、「会わなくてよかったのだ」と思い直してみたり、気持ちが波のように揺れている。entourageが多いから、近寄りがたい、実際そんな体験を夢の中でしたことがある。
上の本の中の文章に「私には子供がいないからお墓も不要である。死んだら灰を、ヘリコプターをチャーターして空から撒いてほしい」とあった。これは私の祖母が言った言葉である。しかし石井先生の生死観がよく出ていると思う。
また別の上の本の文の中で「西洋の男性は、何を言えば女性が喜ぶかを常に考えているが、日本の男性は、そういう配慮が欠落している。というより怒らすことを平気で言う」というようなことを書かれていた。確かに、女性は征服するものであり「言葉で喜ばせる」などという手間暇をかけるのを良しとしない、という風な変なところが一般論として日本男性にはあるような気がする。石井先生ならではの、ズバリ発言であった。
食に関して言えば、シャンソンも何も知らない私の若い知人がパリ祭で歌う石井好子を見て「このひと、おいしいものばかり食べていそう」と言ったことがある。なんという感想かと、びっくりしたが言葉を変えて言えば、このひと生活の惨めさがない、ハイソが漂うと言いたかったのだろう。「この人はコルドンブルーでお料理を学んで、自分でもたくさん料理の本を執筆されている。確かに食通、その感想当たりね」と返事した。多くの人が石井好子に関して抱く、最も多い感想だと言っても間違いないだろう、「おいしいものばかり食べている人」。面白かったのでこの話も石井先生に確か伝えた。その子はその時こうも言った。「このひと長生きしそう」そしてその感想も伝えた。
エッセイに関しては、2006年くらいだっただろうか、突然こんな手紙が来た。「私は文章だ下手だ。書く才能が私には全くない」と。あれだけのエッセイストが何故こんなことを思われるのか、何があったのかと不思議だった。確かにそれ以後あまり文章を書かれていないし、ご自身のサイトの近況報告の文章も滞りがちになった。書く才能はおありだ。現にその血を受け継いだ親族の若手から芥川賞作家が誕生した、きっと天国でお喜びになっていらっしゃるだろう
上の写真のお顔など、よく似ていらっしゃる。

追記:2011年5月18日
参照:二人のBigshow
オムレツの石井好子しか知らない人
(これが意外に多い)にもお勧めのTV番組。
80年代のまだあまり石井好子の凄さを知らない頃
「石井先生は正直ゆえにどうしても素が出る」等と
失礼なことを平気で書いていた。演技力が足りない、など。
演じるを良しとしない、歌はあくまでも
「歌」としての完成度で勝負だという心意気が
おありだったのだろう。
それが正解だったと、この番組を見て思う。
演技力とは声量や歌唱を補足するものだと
この番組を見て初めて説得された。
鑑賞前にあった微かな不安が鑑賞後には
喜びと安心に姿を変えた。
ずっと後には「石井好子はまじめすぎる」等とも書いた。
真剣さは聴衆にも真剣さを要求してしまう。もっと
遊びがあってもいいのではないか。「手を抜いたら」
とも書いたかもしれない。
余裕綽々にみえて、責任感の重さからか
実は常に(全力)と(必死)の方だった。
Juliette Grecoのコンサートに行った。
「なるほどと思える何かを掴めた」と
お返事があった。「気持ちが楽になった」とも。
付随する可能性のある無用な「りきみ」を
そぎ落とす、新たな自信の確認であったのだと思う。
時代をよく思い出せないが
70歳の後半になられていたと思う。

Adamoのコンサートに行って感動されたこともあった。
脳梗塞からあそこまで復帰するには
血のにじむような努力をしたに違いない。
同じ歌手としてその努力に感動されたのだ。
新聞によると亡くなられる2010年の7月の
入院時にも復帰準備をされていたとある。
Adamo以上の感動の復帰を
すでにイメージされていたに違いない。
運命の風が少し別方向から吹いていれば
それは可能だった筈だ。
現実は人間の意志や努力を一切斟酌しないのだろうか、
そう思うと残念でならない。

石井先生に亡くなられて、私自身
チャレンジ精神と前向きな視点を失くしてしまって
ヘナヘナになっている。私にとっては
身近で大きな存在だったのだと
弱い心を支えていただいていたのだと
改めて思う。


石井好子 (19) 伝えたこと、思い出しながら-1

2011年01月25日 12時58分12秒 | 追悼:石井好子

「私はまだ入院中と言ったら驚かれることと思います」というお便りが見つかった。
「でも二週間後に退院と決まりましたのでご安心下さい。まだそんなわけでお手紙は、とてもとても嬉しく拝見しましたが、しっかりしたお返事はもう少し先にしますね。」と続いている。その後は八芳園に暮らした祖父、久原房之助氏の思い出が綴られている。最後に「外は寒い由、お大切に」とある。封筒は、これがその封筒かどうか確信は持てないが平成21年2月3日となっている。

近年のお手紙がポツリポツリとしか見つからないのは、20数年分のお手紙の束を、平成21年あたりに処分してしまったからだ。お手紙だけではない、その時事情があり、冷暖房器具、TV、ラジカセ、冷蔵庫、書籍数百冊、机と椅子、和ダンス、写真、食器棚一杯の食器全部などなど数多くを捨てた。冷暖房や冷蔵庫は今も無いまま暮らしている。残っているお手紙は、辞書やら便箋ケイスやら、新しく買った本やらに無造作に挿んであったもののみ。それになにより、自分が何を書いたのかは一切記録が無いので、曖昧な記憶を呼び戻すしかない。
今2000年12月発売の「暁に」を手にしている。それを聞いて2010年の7月初旬頃に書いた最後の手紙を思い出した。その頃石井先生のCDをとりだしては聴いていて「石井先生も他の歌手のCDを聞くよりご自分のCDをお聞きになった方が、元気が出るのでは」と書いた。この中なら私は断然「港町の居酒屋」が好きで、また「ジャヴァ・ブルー」が次に好き,その次は「フレデ」、今まではそうだった。だがその時は「海辺のバラード」が最高にいいと思ったのだ。これはシャンソンではないが、落ち着いた完璧な歌唱だ。
♪それは遠い昔のような
それはほんの昨日のような♪
そしてある一定の年を越えると過去は時系列ではなく、目の前に一列に横並びする、という持論を書いた。そして先を思い煩うよりも充実して生きた過去を再び味わいながら時間を過ごす事の素晴らしさを書いた。(説得力は無いと思ったが)
さらに今でも一番後悔していることを書いた。石井先生のお体を常に案じながら、最後の最後に「お見舞いにはいけないと思います」と書いたのだ。しかもそれを自分の年齢のせいにして。本当はこの時、辛い辛いトラブルに巻き込まれていて、精神的に両手両膝をついて喘いでいるという状態だった。私自身力尽きていたのだ。2010年6月後半?(記憶が曖昧で日を特定できない)に一度電話しているが、トラブルが解決しそうに錯覚しえた、偶然の一日だった。石井先生が亡くなられた7月17日は、最悪の場面を迎え私は家の前にしゃがみこんで頭を抱えていた。そこからさらに辛い日々が重なった。7月21日石井先生が亡くなられた報道に接した時も、感受性がへこたれていて、混乱するのみだった。石井先生と私は四柱推命的に同じ運気が巡る、とはこういうことなのか?大雨の梅雨の後に記録的な猛暑がやって来た。何とか生き延びるだけの夏だった。言い訳がましいことを書いているが、私にはわかっている。裏切り者である事に違いは無い。

・・・追記:2011年1月25日・・・
「暁に」C'EST A L'AUBE 21の21の意味がわからなかったがこれは,21世紀の意味かと今気づいた。「セタローブ(暁に)」はこのCDの23番目、最後にボーナストラックとして入っている。2000年パリ祭よりとある。このパリ祭は近所の家の大型スクリーンでみた。特に最後に全員で歌う「暁に」は歌も照明も、舞台装置も、全員の配置も素晴らしく、記憶では石井先生は銀色の衣装で登場された。壮大な感じで、曲としてもとても印象に残っている。
今日歌詞を調べてみた。Yves Montandの歌うこの曲、内容的には学生運動華やかなりし頃、若者達が歌った「友よ」に類似する。
♪友よ、夜明け前の闇の中で♪
♪夜明けは近い、夜明けは近い♪
1949年の曲、作詞はFlavien Monod。この人の資料を探しに探したが見つからず、この人より有名な父親の資料に行き着いた。
参照:Maximilien Vox
Yves MontandがCommunistだったので、作詞家にどれくらい政治性があるのか調べてみたが父親がL'Humanitéの仕事をしていたというくらいで、人的にも内容的にもほとんど政治色は無いとみていい。
参照:Yves Montand : C'est a l'aube:
最後に出てくる曲がC'est a l'aube。
CDの23番目を改めて聴くと、3番まである歌詞のうち、3番だけが歌われている。日本語歌詞もあり訳詞はアン・あんどう氏。よく内容を伝えていると思う。何故3番だけかと言うと、1,2番は夜明け前の暗さを歌い、3番だけが夜明け前の希望を歌っている。「友よ」から好戦性が消え「夜明けの歌」へと内容的に変身する。2000年のパリ祭でシャンソン歌手達が全員で歌った曲は21世紀への希望なのだと言う事が分かる。

・・・・・追記:2011年4月19日・・・・・
「暁に」C'EST A L'AUBE 21:函館のシト



石井好子 (17) 謎の電報

2011年01月11日 15時16分44秒 | 追悼:石井好子

「今頃、どこで何をしていらっしゃるのだろう」と最近よく思う。その度にもう旅立ってしまわれたのだと、無理に認識する。
いつだったか、突然電報が届いた事があった。差出人は石井好子とあった。事務所ではない。吃驚して開けて見ると「今夜○○劇場に出演します」とあった。「歌を聴きに来てください」と言うことなのか「今回は一度お会いしませんか」と言うことなのか「話したい事があります」なのか、意味がわからなかった。時間の都合がついたら、劇場に足を運んでください、というのが一番妥当な解釈だと思ったが、今までも当日にそのような電報が来た事は無い。3つのどれかとは思うが、本来そういう要求を突然される方ではない。だから「出演します」で止められたのだと思う。(今から思えばお互いにdiscretionを持ちすぎていた。)後はこちらが判断しなければならない。迷ったが複雑な用件があって、誰かが家に来る事になっていた。行けない。事務所からの連絡なら、メイルを返せる。ご本人は大阪だ。どうしようかと迷ったが事務所に行けませんとメイルを出す事にした。60周年の時に連絡係りになってくださった矢野さん宛てに。今送信済みメイルを調べたら2008年5月11日(日)とある。腰の手術のおよそ4ヶ月前である。
入院初日の9月のお手紙から判断すると、大阪での引退前の最後のステージ、それをとりあえず知らせようと電報を打たれたのかもしれない。
もう一つ考えられる事がある。昔のシャンソン歌手の動画がたくさん見れるので、石井先生もインターネットをされたらいかがですか、と何度もお勧めした。その時、今思い返せばだけれども「大阪にお見えになったら、一緒にネットカフェに行きましょう。何も覚えなくてもクリックするだけで、たくさんのシャンソンが楽しめるので、実際にお見せしたい」と言っていた。その言葉を思い出されての、電報かもしれない。
それとも、もし私がその時ひょっとして楽屋まで行けば、目の前の引退に関するお気持ちを伝えようとされたのかも知れない。腰の手術もその時既に思案されていたのかもしれない。
気になる電報である。会場に行き、楽屋にも行き、ネットカフェにも一緒に行くべきだったと、くり返し後悔している。このときにお目にかかっていれば、お見舞いにも気楽に行けたかも知れない。
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石井先生が90歳になられたら、一緒にSantiago de Compostelaに行きませんか、と、いい加減なお誘いをしたこともある。Barbaraの葬儀でBarbaraのFanだと知ったMuriel Robinが「
サンジャックへの道」と言う映画に出ていたので、その影響で思いついたのだった。とてもお元気そうだったので90歳のSantiago de Compostelaも決して夢ではないと思っていた。むしろそれまで私の寿命がもつかどうかの方が不確かだった。
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10年程前からの数年間、せっせとシャンソンのDJ風テイプを作っては石井先生のもとに届けていた。日記風に纏めた文章もつけて。プロのピアニストの前でピアノを弾いて聞かせる間抜けの素人のようなものだ。ほとんど忘れてしまったが、石井先生のお気に入りの中では
Joe Dassinの「L'ete Indien」(勿論フランス語版で)そしてPierre Bacheletの「Les Corons」の2曲だけは覚えている。「Les Corons」は峰大介さんに歌うように勧めていると書いてあった。
またある曲をそのDJ風テイプに入れた時「この曲は私も歌っています」というお返事と共に
CDが送られてきた事もあった。そのCDは既に聞いていたのだが、「終戦の後の進駐軍の上陸と共に...」という石井先生の歌手生活をふり返った長いセリフが入っていて、メロディーは単なるback musicだと思っていた。
その曲とは
Voila Pourquoi Je Chante de Dalida 和訳 by Bruxelles:
石井先生のタイトルは「だから私は歌う」。CD用のオリジナルメロディーと思えるほど、石井先生のセリフがピッタリ嵌まっていて、昔に聞いた時元歌があるとは考えもしなかった。CD以外ではめったに歌われなかったのではないだろうか。石井先生の選曲はいつも素晴らしいが、この曲など、どう考えても石井先生のCDのlast曲として書き下ろされたものとしか考えられないくらいだ。
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これを書くとこのペイジはとりとめが無くなってしまうが、石井先生は紅白の
第9回から第12回まで連続4回出場しておられる。曲目は「ゴンドリエ」「小さな花」「黒いオルフェ」「鐘よ鳴れ」。こう見ると選曲はNHKの指定・強制だった感じがする。それとも石井好子がシャンソン歌手としての王道を歩み始めるのは第一回パリ祭
(1963年)あたりからと言えるかもしれない。やはり私生活が忙しかったこともあるだろうし、日本の芸能界に根をはるには海外になじんだ方だけに多少の時間を要したのかもしれない。石井先生のDVDタイトルではないが「ローバは一日にしてならず」である。

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・・・・追記:2011年1月9日・・・・・
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石井先生のCDを探していたら「謎の電報」の続編のお手紙が見つかった。結構長い。まず「急に大阪の事、Faxしてごめんなさい」と書いてある。と言う事は、誰かに指示されたのだ。こちらにはFaxがないから、秘書の方が困り果てて電報にされたのだろう。しかし何のための電報だったのかは書いていない。スポニチ文化藝術大賞の受賞や朝吹登水子さんのお孫さんの結婚式の事、それからPLANETE BARBARAに協力してくれたJacquesの死に対するお悔やみ等が書かれている。
ー石井好子「ダミアからDamiaまで」-「悲劇の歌手」の魂に迫るーという日経の文化欄の切抜きが同封されていた。

そしてそのCDも。「あなたには送ったつもりですが、ぼーっとしている私はもしかして,とも思うので」と。CDの出来に関しては「何回も取り直しもっと取り直したかったのですが、もうこれ以上やってもダメかなと、諦めて出します。必死みたいなところだけが取り柄かもしれません」調子が悪くてよい出来ではないとある。
バルバラとの写真お見せしたことがあったでせうか。それもはっきりしませんのでお送りします」とある。(これは今Les Amis de Barbaraの手に渡って、フランス各地の展示会に必ず登場している筈だ)
何故かくもぼーっとしているかと言えば、一位二位に大好きだった木原ミミさんと、由紀ちゃん(朝吹登水子さんのお嬢さん)が亡くなって、辛い事に襲われたためと言うか、何がなんだか唖然と言うか、自分でもわからなくてぼーっとしている、と書いてあった。(こういう風に悲しみをダイレクトに表現されたことは今までにはなかった。体重が激減するほどの激しいショックだのだと、改めて思う。)


そして見落としていたのだが
「私は大阪2日間歌って,歌った後すぐ新幹線で帰ったのが無理だったのか、持病のヘルニアがこのところ痛くて、昨日昼夜三越劇場で歌うのきつかったです」とある。


精神肉体両面で疲労が積み重なったところへ、ヘルニアがここぞと暴れだした、それがこの時期だということがこの文章から特定できる。
(NITTSUメール便の受諾日は2008年5月19日とある。)
大阪でもう一泊して翌日飛行機で帰京されればよかったのだろうか。電報にお応えしてお目にかかっていれば、公演の後一泊されたかもしれない。何かトラブルの最中だったことをうっすらと覚えているが、一体何の用で誰が何しに来る事になっていたのか、全く思い出せない。

///////追記2011年1月10日///////
電報までは思い出したのに、何故この続編の手紙を失念していたのか考えてみた。これを読んだ時私も悲しみに共振したのだが、いただいたBarbaraの33年前の来日写真に舞い上がってしまい、他のすべてが頭から消えてしまったのだ。何をしたかといえば、あるBarbaraファンの方に、その写真を送りfile作りを依頼し、1週間後に写真が戻ってくると、早速Les amis de BARBARAの会長Fabienneにfileと
写真を送った。じっとしている事が出来ずに「Du Soleil Levant」に「ここに入れるのはちょっと勇み足?」というわけの分からないタイトルをつけてその日のうちにBlogに写真を掲載した。同日Fabienneには嬉しさに溢れたこんなメイルを出している。
Chere Fabienne
Je suis tres heureuse de vous envoyer une photo de Barbara au Japon 1975.
Barbara etait venue au Japon pour chanter.
L'autre femme sur la photo est Madame Yoshiko Ishii....
C'etait elle qui avait invite Barbara, et aussi c'est elle qui m'a donne cette photo.
Madame Ishii chantait a Paris autrefois. Elle avait beaucoup d'amis francais comme Damia, Yves Montand, Marcel Amond, Josephine Baker, Lucienne Boyer,etc...
Fabienneからはすぐに返事がきた。
Bonjour Bruxelles,
Un GRAND MERCI pour la photo. Bien entendu, nous allons l'utiliser pour les prochaines expositions.
Si vous en etes d'accord nous pouvons l'utiliser egalement dans la Lettre des Amis de Barbara, peut-etre souhaitez-vous ecrire quelques lignes pour expliquer la photo ?
Serait-il aussi possible de contacter (par mail) Madame Ishii qui pourrait nous raconter ses souvenirs avec Barbara, pensez-vous que cela puisse se faire ?
Amicalement.Fabienne   それに対して
...Et puis elle est ecrivain aussi, alors je ne crois  pas que ca  marche  bien de lui demander ecrire ses souvenirs de Barbara pour rien...
...Si vous etiez en faveur aupres d'elle, il y aurait de la chance pour vous de ganger plus de photos ou bien quelques documents interessants de Barbara...
...Bon courage, Fabienne, personne sauf vous pourrait y reussir...
Les amis de Barbaraが頼めば,もっと資料が貰えるかもしれないから、頼んでみたらどうですか、とFabienneにアドヴァイスして、自分自身も石井先生に厚かましくも、他には資料はもうありませんか、などと書いたことまで思い出した。あさましい。あきれて物も言えないとはこのことだ。
2008年5月11日夜から9月の入院まで石井先生の腰痛は悪化の一途をたどったのだろう。7月29日立川パリ祭で腰痛の中でも歌いきれた、最後の力ふりしぼって29日まで歌えたことを神様に感謝したい、と入院初日の手紙に書いてあったではないか。2008年はParis祭から、入院を急遽決意されるまでの間、苦渋にみちた、しかしぎりぎりまで力を振り絞ってのステイジだったのだろう。

BARBARAの来日写真が目の前でちらつくだけで、思考がショートし、discretionが吹き飛んでしまうとは、なんたることか!別にBARBARAに恋しているわけでもないのに。
あの電報は賭けだったのかもしれない。もし来れば
生涯最後のCDを手渡そうと思っておられたような気もする。そしてあのツーショット写真は、Site (PLANETE BARBARA 2 )
のpartner、Jacquesの死に落ち込んでいる私を励ますために、ひょっとしたらあの日、大阪に持参されていたのではないだろうか。

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・・・・・追記:2011年1月11日・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Automne 2009 No.39 : La lettre des Amis de Barbara


1975: Aeroport Haneda (Tokyo)
Barbara avec Mme Yoshiko Ishii

HISTOIRE D'UNE PHOTO:
BARBARA AU JAPON par Fabienne David

Madame Yoshiko Ishii, des 1952, se passionne pour la chanson francaise et devient chanteuse. Elle donne un concert a Paris 1963 et est la premiere artiste japonaise a faire un recital a L'Olympia en 1990.
Fill d'un grand politicien, petite-fille d'un grand homme d'affaires, elle cotoie Sartre et Beauvoir. Grande amie de Damia, elle s'occupe de la venue au Japon de Charles Trenet, Enrico Macias, Jean Sablon, Charles Dumont.
Elle est presidente de l'Association de la Chanson Francaise au Japon, enregistre plusieurs disques de reprises de chansons francaises.
C'est donc tout naturellement qu'elle invita Barbara a venir chanter au Japon en 1975.

Un grand merci a notre amie adherente Bruxelles pour la photo, vous pourrez decouvrir son site Internet dedie a Barbara
http://www.geocities.jp/planetebarbara/


石井好子 (18) 日本シャンソン・コンクール

2011年01月09日 21時39分52秒 | 追悼:石井好子

シャンソン歌手はすべて大変個性的である。しかし石井先生が日本シャンソンコンクールで発掘された新人歌手の中で、最も個性的で最も前衛的で最も芸術家的で、最も完成度の高いシャンソン歌手は、薩めぐみ、ではないかと私は思う。
Brigitte Fontaineの「ラジオのように」の場合は喫茶店で初めて聞いて、飛び上がってそのままレコード店に駆け込んだ。薩めぐみの場合は自宅でラジオで聞いて、駆け出して近所のレコード店に発注に行った
PLANETE BARBARAで大して取上げなかったのは、Brigitte Fontaine同様あちらの世界に行き過ぎていて、ある種の異様さを感じたことと(たとえばBARBARAに比べ)声が重過ぎることだ。
何かで読んだ記憶があるが、彼女はシャンソン界のみならずフランス前衛演劇界でも活躍したそうだ。Artistだなと思った。しかも最前衛の。それより10年前にアメリカに行った小野洋子を思い出させる。FRUXUS時代のオノ・ヨーコ  や塩見允枝子 や久保田成子のフランス版のような感じがした。FRUXUSは当時一応グループとみなされていたので 、親和性のある世界にいる事が出来たが、薩めぐみの場合は、Parisという表現のためのヒリヒリと孤立したむき出しの感性の世界で、どうやって神経のバランスを保とうかと、非常に苦渋に充ちた、あるいは敢えて苦渋を味わい尽くすために苦渋に埋没した日々だったのではないかと想像する。そして異郷に生きた本物のArtistらしく、やはり傷み壊れていた部分もあった筈だと思う。

「今でもときどき夜に電話がかかってくる。あの人はもう〇〇〇にやられている。立ち直れないのではないかとも感じる時がある」石井先生の手紙にあった。 薩めぐみがParisからSOSにも似た電話を石井先生にかけているとは、不思議なつながりを感じた。
フランス在住のシャンソン歌手として生きた。どの程度認知されていたのか私にはわからない。「健康」などは最も過小視していたに違いない。
薩めぐみが石井先生に遅れること3ヶ月、2010年10月18日喉頭癌のために死去していた事を今日知った。
以前「Ceci n'est pas une pipe」に書いたRoland Toporの記事を再読して再クリックして知った。
あれだけの個性は多分Parisでなければ生きていけなかったのではないかと思う。Parisで過ごした人生を、自分らしく生きた手ごたえのある人生だったと今頃天国で満足していらっしゃると信じている。

参照:薩めぐみsite
参照:Ceci n'est pas une pipe: Roland Topor
(薩めぐみが歌う動画を2本リンクしています)
参照:「見えない鳥の存在」:黒トカゲ
(薩めぐみのTV出演を2本リンクしています)

・・・・・追記:2011年1月10日・・・・・
Roland Topor & Jean Baudrillard
sur Megumi Satsu- chanteuse: chansons:
Sujet : Megumi Satsu : Ecouter CDs :

//////////////////追記//////////////
第144回芥川賞候補の朝吹真理子氏の大叔母は翻訳家「朝吹登水子」である、とかなり紹介されているが、こちらは祖父の妹。祖母の妹の大叔母は石井好子氏である。どこにも書かれていないのはJournalistの不勉強だと言わざるを得ない。
・・・・・追記:2011年1月18日・・・・・
朝吹真理子さん第144回芥川賞受賞
・・・・・追記:2011年4月19日・・・・・
石井好子の母


石井好子 (16) ステイジはボクシングリング

2010年11月08日 22時28分16秒 | 追悼:石井好子

-そんな下り坂の時代の中で、私たちは何を支えに生きていけばいいんでしょう-
「思い出を語る事です。人間にとって一番大切なものは、思い出だと私は考えています。(中略)思い出を語る事は、決して後ろ向きな事ではありません。思い出を語る事で、人は我が人生を肯定することができるのです。」
ライフプラス12月特別増刊号、五木寛之ロングインタヴューから抜粋しました。昨日書店でこの部分を見て思わずこの雑誌を購入してしまいました。

最初で最後の電話をした後で、生意気にも私は石井先生にこんな手紙を書きました。あまりにもお声に力がなかったので、動転してしまった事。そしてアドヴァイスをしたのです。
1.もしベッドに臥せっておられるなら、手足を動かすとか、寝ていてもできる運動をすること。2.毎日1時間、楽しく話ができる人と、会話をすること。3.先のことを思い煩わずに、過去の思い出を蘇らせて時間を過ごすこと。
3.は豊穣な人生を歩んできたからこそ可能な、ある種の贅沢であって、未来ばかり見据えるのは必ずしも意味のある時間の過ごし方ではない、と。
その事をずっと後悔してきました。石井先生はどんなときも常に前向きに生きてこられた方です。「思い出に生きること」など性に合わない。だから書店で上記の文章を目にしたときは、ほっとしました。ひょっとしたら、石井先生もこの点を理解して下さったのではないかと。五木寛之氏は、惨めで浅はかな、むやみなプラス思考をいつも否定されている。石井先生も根拠の無い
病的楽観主義に組してこられなかった。だから決して気を悪くする事無く、理解していただけたかもしれない、と。前向きであることや未来志向が、マイナスにしかならないこともあるのだと。

石井先生は、よく歌手をボクサーにたとえられた。リングに上がれば孤独である事。そしてリングに上がるまでの練習と体調管理こそがすべてであること。だからまとまった休みがあれば、いつも健康診断を受けておられた。そして毎回「異常なし」という結果だった。
もう15年以上前になるかもしれない。「今度はインド式の健康診断で全身をチェックする事にしました」と連絡が来た。「ひょっとして、それは○○や●●や××のようなことをするのではないですか?あれはとても過激ですよ」と書いた。しばらくして「調べてみるとあなたの言う、アーユルベーダというインド式の全身検査でした。それがわかって、断りにくかったけれどもなんとか、キャンセルしました。早めに分かってよかったです」という返事が来た。検査風景をちょっとイメージしてみたけれど、やっぱりやめられてよかったと思った。
20年位前には「今トレッキングから戻ってきました」という手紙が来た事もあった。海外か日本か思い出せないけれど、それも足腰の鍛錬のためにされていたのだと思う。御殿場の2000坪の別荘では、毎朝散歩をされていた。そして心的リラックスのためには、別荘の部屋の窓から見える富士山の眺めを楽しんでおられた。
ボイス・トレーニングはずっと続けておられた。そしていろんな自分に合う独自の体操も毎日されていた。もっと昔はジムにも通っておられた。忘れてはならないのは水泳。1987年、65歳の時にはマスターズ水泳台湾大会、平泳ぎ50メートルの部で優勝されている。
体調に関して命に関わる不安要素はなにもなかったが、十年前頃だったろうか、実は私は30代の頃からずっと不眠症で、毎晩睡眠薬を欠かしたことが無いとおっしゃった。睡眠薬が常習化しているので、年とったら、ボケるかもしれない、と不安を漏らされた。しかし計算するとすでに75歳を過ぎておられたので「今大丈夫だから、睡眠薬は常習化しても大丈夫だ」とかえって確信をもった。その頃「歌詞を覚えるのに、一苦労するようになって、愕然としている」というお手紙をいただいたが、それは睡眠薬に関係なく大体60歳を過ぎると、どんなに頭のいい人でも、記憶力は過激に低下するものだ。新しい事を覚えられないという話はよく聞く。
腰痛というウィークポイントがあるとおっしゃったのは、4,5年前だったように思う。どの程度なのか、全く分からなかった。そしてあれは手術をされる10ヶ月くらい前だったと思う。「あまり歩くと腰に悪いのだけれど、北海道の旭山動物園に行って、たくさんたくさん歩いて、とても楽しかった」というお手紙をいただいた。旭山動物園のパンフレットまで入っていた。見ると本当に楽しそうな動物園だった。
手術のために、今日入院しました、という手紙が来た時にはだから驚いた。そこまで悪いとは想像だにしていなかった。こちらから出す手紙には「一体どのようにどの程度悪いのですか」「回復が思わしくないのはどの程度思わしくないのですか」等と馬鹿げた質問を繰り返した。今年の1月から3月にかけて私自身が酷い腰痛に襲われ「イテテイテテ」の日々をおくったときは、お見舞いにも行かない罰があたったのだと思った。入院初日病院からの手紙「何か古い作家のパリの小説みたいなの、入院中に読みたいなと思っています。教えてくださいね。」と書いてあったのに、あれから1年数ヶ月も経っているのに、その約束の本も送っていなかった。慌てて本を送る事にした。約束の、古い作家のパリの小説、ではなく、石井先生のご主人が元特攻隊員で、たくさんの戦友の死を目撃しまたその苦しみを心に深く抱えていらっしゃった方だということを思い出して、手元にあった「永遠のゼロ」を送った。しかしその頃は既に、本を読むような状態ではなかったのではないかと、今になって思う。

腰の手術のための入院初日に下さった手紙に
「では元気になりましたら、又すぐあなたにお手紙出します。3週間くらいだめみたいですが心配しないで下さい。」と書いてあった。この前Planete Barbaraのメイルボックスを整理していたら、2008年10月8日に石井好子音楽事務所からのメイルが入っていた。
・・・・・・
Bruxelles(ここには私の本名)さま
石井より電話があり、お伝えするようにとのことです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

長い事御無沙汰してすみません。
私は9月8日腰の手術をいたしました。
少し無理をしましたため
少し手遅れとなり
本当は今日あたり退院しているところなのですが
あと1ヶ月くらい入院とのことのようです。
今はリハビリに努めている状態なのでご安心下さい。
この際、しっかりと休養したいと思っております。
おかしな事に今レイ・チャールズそして
ポピュラーなシャンソンをを聞いています。
又連絡いたしますが、ご心配かけてすみませんでした。
あなたもお大切に
石井好子
・・・・・・
伝言という形をとってまで、手術後の状況を知らせてくださっていたのだ。よく読むと大変な事態なのに、当時は「退院が少し遅れた」という認識だけでこのメイルを見たのだと思う。ついこの前まで、手術後の第一報が、E-mailによる事務所からの伝言だった事まですっかり忘れていた。
観念的交流の限界かもしれない。何故ならそして多分それゆえにこそ、石井先生の死が、私にはいつまでたっても全く現実味を帯びない。

追記:2010年11月9日
送信済みメイルボックスに上記のメイルに対する返事が残っていた。日付は2008年10月8日、すぐに返事を出したようだ。
(略)あと一ヶ月は長いけれど
これから日一日と良くなることを思えば
未来は明るいと言うことですよね。(略)
等とのん気な事を書いている。
同じメイルボックスに2008年8月1日付けで、石井好子音楽事務所に宛てたメイルも見つかった。
---さっき郵便ポストに「パリ祭」のビデオ
を発見大変有難う御座いました。
嬉しいです。いまから早速拝見します。
キム・ヨンジャさんが「黒い鷲」を歌った
という情報は、
九州のBarbaraファンから届いています。
それも含めて早速拝見させていただきます。
石井先生に、どうぞ宜しく。---
そう言えば、翌年2009年のParis祭の後
石井先生からお手紙をいただいた。
---出演はしたけれど、歌は歌わなかった。
本当のことを言うと
ステイジの中央まで出て行くだけで
死ぬような思いをした。---
それに対して、こんな返事を書いたのを覚えている。
---インターネットでパリ祭を見れば、石井好子華やかに完全復活、というコメントばかりでした。もう一人で歩けるということは、いずれにせよ回復の証明です。来年こそ、完全復活ですね。
のん気なものである。私の記憶では2009年はこのParis祭以外ステイジには立たれていない。そして又結果としてこのParis祭が石井先生最後のステイジとなった。
入院は一ヶ月の延長ではなく結局数ヶ月の延長となった。今から思うと、思わしくない体調は、2008年の9月から、2010年の7月まで延々と石井先生を苦しめたのだった。決して愚痴を言わない方だったので、何がどのように思わしくないのか、決しておっしゃらなかった。否、むしろご自分でも「風邪が治りにくくなった」くらいに考えておられたのではないかと思う。
2010年の年賀状にはこう書いてあった。
今年こそは、シャキッとした一年にしたいです、と。


石井好子 (15) : 一人の人間として 私のmentorとして

2010年10月26日 15時35分37秒 | 追悼:石井好子

気がつけば石井先生のいろんな面を書いてきた。たとえば
1.ParisとFranceを身にまとい、本場のシャンソン歌手にも多くの友人を持つシャンソンの真髄を知ったシャンソン歌手として。
2.本場の歌手を招聘し、同時に数々の日本人シャンソン歌手を育てた、日仏シャンソン界の大功労者として。
3.厳しい真似の出来ない選曲で、シャンソン史をトータルに、又解説をつけて日本に紹介した大御所歌手として。
3.大政治家を父に持つ令嬢として、生活の中で昭和の歴史的現場を目撃し、歴史に関わった貴重な体験者として。
4.桁外れのスケールを持ち、日本の政財界の基礎を築いた祖父の遺伝子を引き継ぎ、実業家としての実績を残した女傑として。
5.芸能界から政財界に至るまでの幅広いしかも超一流の世界的人脈を持つ稀有な国際人として。
6.日本の上流階級を代表する名門の出でしかも、政財界のみならず文化・藝術においても常にTopクラスの一族の一員として、それにふさわしい風格・頭脳・思考・感性を持つ、圧倒的にハイソな血脈を有する女性として。
7.ノブレス・オブリージュを生まれもって体得し、ごくさりげなく当たり前のこととしてそれを実践した篤志家として。
石井好子は当然このように語り継がれなければならないと思っている。
しかし私が安心し信頼し個人的に自分のメンターだとして接してきた石井先生は、こう言うものをすべて脱ぎ捨てておられた。そうでなければ、私ごときがほとんど対等に気安く意見の交換など出来る訳がない。それはそれとして認識してはいるが、私もまたそう言うものに惹きつけられていたわけでもない。もしそうなら、真っ先に会って、その世界を覗こうとしたり、その世界に踏み込もうとしただろう。徹底的に観念的存在であろうとしたのは、私自身が非現実的・抽象的価値観を持つ人間だからに他ならない。
敢えて言うなら、しかも箇条書きするなら、私が惹きつけられたのは御著作などに書かれた以下の四つの発言と、私が感じた一つの事実に起因する。他の人たちからみれば、どうと言う事のない発言かもしれない。表面に出た言葉は、驚くほどさしたる意味はないかも知れない。が、その発言の根っこにある、発言を生んだ根源的体験や思考法や視点にその人の核を見、感服したのだ。
・・・・・・・・・・
1.出所は不明だがこういう言葉を記憶している。「女が本当に男を恋しく思うのは、40過ぎてからだ」。賛否両論があるかもしれないが、私は思わず唸ってしまった。勿論共感である。説明は省略するが、石井好子でないと、この箴言ははけない、と確信した。
2.「60を過ぎると、毎朝自分を励まさないと、起きる気になれない」こちらも出所不明、私の記憶からだ。こう言い切る凄さを感じた。私はまだまだ若かったが、真実だと直感した。そして石井好子と言う人は人生の真実を述べる人だと。「人生いかに生きるか」などの本を書く人たちや、哲学者は、こう言うことは教えてくれない。含みの多い言葉だ。そしてなにより誤魔化しがない。華やかな人生を生き、肯定的な人生を獲得していらっしゃればこそ、この言葉が生きるのだ。
3.これは以前に触れた事があるが次の言葉だ。-「わたしだって、シャンソンならフランスの一流の歌手を聞きたいし、ジャズならアメリカ人で聴きたい。では日本人シャンソン歌手とは一体何なのか」と。-そしてさらに「シャンソン歌手である事に、忸怩たる思いがある」と言う発言がある。気づいていても普通のレベルの人間には決していえない発言だ。シャンソン歌手は既に誰かが歌った歌を、日本人に分かるように日本語で歌う。所詮他人が異国でヒットさせた歌なのだ。歌手ならば忸怩たる思いがあって当然である。しかし石井好子以外に、こう言う発想こう言う発言は有りえない。人間としての大きさを感じる、そういう表現しか今思い当たらない。
4.御著作「さようなら 私の二十世紀」最後の2行にこう書いてある。
-二十一世紀に期待を抱けない私は、胸一杯の懐かしさと愛惜の念をこめて「さようなら私の二十世紀」と、この本を題した。-「二十一世紀に期待を抱けない私は」のところで、やはり石井好子の凄さを感じた。人間とは妄想的期待にすがって、辛うじて生きているものだ。期待を抱けない、という発言を可能にしているのはまさに「克己の精神」である。自己卑下や謙遜などという生易しい次元ではない。
4つ並べてみるとその根底に共通するのは「正直さ、素直さ」だとわかる筈だ。人間として生きるにおいて「正直である、素直である」ために要求される前提条件は、実は最も過酷である。一番多くの条件をクリアーした者のみが、そこに到達できる。
5.最後に私が感じた一つの事実を書いておこう。それは懐の深さ、寛大さ、つまりは人間的スケールの大きさだ。石井先生との出会いは、Barbaraの訳詞集を送った、26,7年前から始まっている。つまり私はBarbaraファンなのだ。手紙の7割はシャンソンのこと、さらにそのうちの7割はBarbaraのことばかり書いた。自らもシャンソン歌手である石井先生は、そのような普通なら許しがたい不遜な私をなんの御咎めもなく、許容してくださった。シャンソンに対する共通の熱い思いが、ある筈の垣根を乗り越えさせた、といえないこともない。しかし並みの歌手なら、自分のコンサートに来ない顔も見せないファンなど、決して大切にはしない。

最初にいただいたのはレコードだった。まだレコードの時代だったのだ。その頃から60周年のコンサートには行こうと思っていた。60周年には行こうと思っています、と手紙に書いたのはまだ55周年よりも前だった。6年かけて体質改善をしてもっと元気になって、60周年に行こうと思って、その決意を手紙に書いた。「体質改善の計画にしては6年はちょっと長すぎる」と返事が来た。それで、3年計画に変更した。3年で私は吸入器とおさらばする事が出来た。あとの3年で脚力をつけて、ステージに上がり花束を渡そうと考えていたのだが、それは失敗した。脚力は、努力しなかったのでつかなかった。しかし劇薬を含む薬物依存的生活から脱却できたのは、石井先生のおかげだ。誤解されては困るのだが、そう言った不可能を可能にする力を、やはり私は愛と呼びたい。

You Tube : Yoshiko Ishii - Hymne a l'amour


石井好子 (14) 二人のMarcel  その二 Marcel Amont

2010年10月08日 06時13分44秒 | 追悼:石井好子

Marcel Amont

小学校5年生の3月に父をなくした。その1年前からプレドニゾロンを飲み始めていた。葬儀に来た父の従兄弟のドクターに叱られた。すでにステロイド中毒になっていたのだ。葬儀には注射を打って出席したが、出棺の見送りも出来なかった。
その後市大病院の小児科の喘息教室に入院する事になった。薬を抜くためにである。何度か入退院を繰り返した。そのうちに病院生活が楽しくなってきた。看護婦の藤井さんが、歌の好きな入院中の私を「ナンバ一番」に連れて行って下さった。初めてコカコーラを飲んだ。(コカコーラはまだ市販されていなかった)。出演者は若き日の内田裕也氏。バンド交代の音楽は「Take the A train」。
インターンの春本先生が初デイト(お見合い)をすることになり、照れくさいので私に一緒についてきてくれ、と言われた。お相手はお見合いらしく着物で現れた。場所は労音の音楽会。私は二人の真中に座った。「どういうお知りあい?」と聞かれ、春本先生がしどろもどろなのを見て、咄嗟に言った。「春本先生の隠し子!」
当時労音は藝術の大衆化を目的に一流の音楽家や歌手をたくさん抱えていた。音楽会は需要が供給を遥かに上回り、日本全国で大人気だった。
勤労者音楽協議会:wikipedia 労音の歴史と実績 wikipedia
その人の存在は、何でも知っている祖母から既に聞いていた。記憶では'60または'61年だから、2度目の帰国になるのだろう。看板には大きく「お帰りなさい 石井好子さん リサイタル」と書いてあったように思う。確かに豪華で華やかな異国の空気が流れていた。そのなかでお客さんたちと一緒に歌いましょう、というシーンがあった。その曲は
Marcel Amont - Bleu Blanc Blond
Bleu Blanc Blond Lyrics
このbleu bleu, blanc blanc, blond blond
の部分をお客さんたちが一緒に唱和するのだ。
楽しい曲だった。メロディーも覚えやすい。随分後にこれがMarcel Amontの歌だと突き止めた。カセットテイプもフランス人の友達に送ってもらった。
石井先生と私の、言わば出会いの曲となる。
最近これに元歌があり、本来はアメリカの曲だと言うことを知った。
Johnny Tillotson - True True Happiness
True True Hapiness : Lyrics
フランスで大ヒットしたのは、ひとえにMarcel Amontの歌唱力とキャラクターにあるのではないだろうか。

・・・・・・・・・・・・・
調べてみて分かったのだが、石井先生がParisデビューされた最初の店「パスドックの家」のトリはミック・ミッシェルで、Marcel Amontと石井先生は共に新人だったらしい。つまりMarcelはパスドックの同僚だった。石井先生が第一回目の帰国をされた数ヶ月のちにMarcel Amontはエディット・ピアフのリサイタルの第一部に起用されオランピアへの出場を果たす。その後ブレイクする。
石井先生が歌われた「Bleu Blanc Blond」はMarcel Amontがパスドック時代に歌っていた曲を石井先生が持ち帰られたものだと、最近まで思っていたが、調べてみるとこれは'60の大ヒット曲とある。労音で歌われた時は、まだホヤホヤのヒット曲だったわけだ。おそらくMarcel Amontと石井先生はその後もずっとコンタクトがあったのだろう。
(追記:2010年10月14日:調べてみたら1990年12月10日、石井先生はオランピア劇場でのリサイタルで、この曲をMarcel Amontとデュエットされていた!)
Marcel Amontは2度来日している(石井音楽事務所招聘)。「日本語のおけいこ」と言う歌を日本語で歌った。谷川俊太郎作詞、寺島尚彦作曲で、日本語の特訓はオペラ歌手長門美保氏。石井先生の人脈が見えてくる。またMarcel Amontは永六輔作詞、中村八大作曲「Sous une pluie d'etoiles-上を向いて歩こう」を録音している。やはり石井先生の人脈が見える。
Marcel Amontの家に昼食に招待されたら、そこが藤田画伯の家に近かったのでその事を言うと、ぜひ連れて行って欲しいと頼まれた、という記述が「私は私」p.77にある。Marcelは嬉しさのあまりセーターを藤田画伯の家に置き忘れた。パスドックの同じ新人の同僚として親しくされていたことがうかがえるエピソードだ。
前回のMarcel MouloudjiとMarcel Amontは細身の雰囲気は似ていないこともないが、キャラクターはまさに陰と陽で対をなしている。どちらも楽屋を共にする、偶然の出会いに違いないが、石井先生の中にも、その「対」に共感できる陰と陽が共存していたのかもしれない。
・・・・・・・・・・


Marcel Amontがカンバックしたという情報(2008年)を見つけた。
マルセル・アモン (Marcel Amont) のカムバック !!!
Marcel Amontに少しリンクを貼るので、彼がどのくらい「陽」か、できるだけ味わっていただきたい。飛びきり明るく楽しい芸達者なシャンソン歌手だ。
Marcel Amont : Deezer com
Marcel Amont : Home Page
Marcel Amont : Blog
若いMichel SardouとMarcel Amont:

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参照:石井好子 interview-1
         石井好子 imterview-2
Net上の一番詳しいBiographyとなっている

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::追記::
いま思えば、この音楽会は、私にとっての初めてのシャンソン直体験だったと言えるかもしれない。幼稚園の頃からの宝塚ファンだったので、宝塚経由でシャンソンには親しんでいた。それとは別に「河は呼んでいる」「幸福を売る男」「薔薇色の人生」「可哀想なジャン」「小さな靴屋さん」「私の回転木馬」「ワンワン・ワルツ」「待ちましょう」等など、幼稚園から小学5年生までの間に、どこからともなく耳に入ってくるシャンソンも多かった。日本にまだ戦後が色濃く残っていた頃、ジャズやシャンソンやラテンなどの所謂洋楽は今よりももっと日本中に溢れていた。

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追記:2010年10月8日
石井先生をparisデビューに導いた「パスドックの家」の主
Andre Pasdocの写真と歌声を見つけた。
石井先生の御著作には石井先生の歌の伴奏でピアノを弾く
Pasdocの写真があったので本人確認が出来た。



Andre Pasdocはこのペイジの19番目
「Un petit mot de toi」
という歌を歌っている。Fullで聞ける。
なをこのペイジではめったに聞けない
1940年のシャンソンをfullで24曲も聴ける。


石井好子 (13) 二人のMarcel その一 Marcel Mouloudji

2010年10月05日 06時02分06秒 | 追悼:石井好子

Marcel Mouloudji:

4,5年位前だったと思う、石井先生から「今ムルージの『
エンリコ』を再読している」というお手紙をいただいた時、私も偶然同じ本を読んでいたことがあった。社会的背景は全く異なるが、石井先生と私は四柱推命によると同じ運勢のカテゴリーに入るということを最近知った。ほとんど人生はクロスしないが、理解と安心と信頼を常に感じていることができる,私にとっては唯一の、メンターと呼べる方だった。そして何故石井先生が1942年の「エンリコ」を今頃手にとっておられるのか、少し分かる気がした。

翌1953年ディスク大賞を受賞した「
小さなひなげしのように」を毎晩歌っていた。(注:ナチュリストの稽古に入る前、凱旋門に近いナイトクラブという名のナイトクラブで、石井先生、マガリ・ノエル、マルセル・ムルージが真打として歌っていた時期があった)
「麦畑の真中で殺されていた少女の姿は、まるでひなげしの花のようだった」とさりげなく、しみじみと歌うムルージに聞きほれた。...
ムルージは、物静かな目立たない人というより、目立ちたがらない人だった。笑う時ですら、ひっそりと声をたてなかったし、いつも淋しそうに見えた。
ボリス・ヴィアン作の「
脱走兵」というシャンソンは、彼のヒット曲だった。...
女優だった彼の妻フローランス・フーケは、勇敢にもレジスタンス活動に加わりドイツ軍にとらわれ、苦悩に満ちた日々を送ったと言う。
逃げた夫、戦った妻・・・。冷たい空気が流れていた。そして別れた。
むさくるしい小さい楽屋で、ムルージと二人、ソファーに座って出を待っていた。
そっと握ったっ手を離さないまま「ヨシコは静かで優しいね。なんだか淋しそうで気になってしまう」と言った。同じことを私も彼に言いたかった。
家にいると、よく、ムルージのレコードを聞いた。ムルージの新曲、私にくれたレコード「
いつの日か」...
「ムルージ、好きなのね」と登水子が言った。
そう、ムルージ、心の琴線に触れる人だった。
ー1997年岩波書店刊 石井好子著「私は私」p.109~p.112より引用ー

Deezer com: Marcel Mouloudji:
RFI Biographie : Marcel Mouloudji:
Wat.tv video : Marcel Mouloudji :
脱走兵は沢田研二も歌っている)

Un jour tu verras 歌詞:いつの日か
Un jour tu verras
On se rencontrera
Quelque part, n'importe où
Guidés par le hasard...
手紙を交わすようになって間もない頃...
あまり慌ててお目にかからなくても
もし人生がクロスするなら、と書いた後に
上の4行を書き足して送った。
そうですね、そのうちきっとどこかでね,いつの日か
と書かれた後に石井先生からのお返事にも
上の4行が書かれていた。
「いつの日か分かるでしょう、(どことはいえなくても)どこかで、私たちは偶然に導かれて、出会う事になっているのでしょう、きっと(和訳)」
その日以来、言葉で確認はしなかったが、この曲が二人の約束のテーマ曲になった。


石井好子 (12) サンフランシスコ講和条約

2010年10月03日 16時29分44秒 | 追悼:石井好子

Shigeru Yoshida, shook hands with then-U.S. Secretary of State Dean Acheson at the signing in San Francisco of the peace treaty between the two nations.

吉田茂 ~「日本独立」 その光と影 Part.5 You Tube
吉田茂 ~「日本独立」 その光と影 Part.6 You Tube
サンフランシスコ平和条約:英語版 Video
吉田茂 サンフランシスコ 演説 09/08/1951
Signing of US-Japan Security Treaty 1951
日本語資料英語資料:日米安全保障条約(旧)
サンフランシスコ平和条約とは

石井好子(9) 朝吹登水子
で、石井先生もハーバート・ノーマンとお会いになったことがありますか、と聞いた質問にも無回答であった。と書いたが、解答が見つかった。
9日の昼、ゴールデン・ゲートパークの野外劇場で講和条約記念コンサートがあり、海軍の軍楽隊の伴奏で、また「荒城の月」と「さくらさくら」を歌った。日本通で知られるカナダの元公使ハーバート・ノーマン氏にも久しぶりでお会いした(ノーマン氏については工藤美代子著『悲劇の外交官 ハーバート・ノーマンの生涯』にくわしい)。ダレス夫人、アチソン夫人にも紹介された。(Bruxelles注:国務長官といえばダレスの名が浮かぶがこの時の国務長官はアチソン)
-石井好子著「私は私」p.47-

1997年に読んだ時に見落としていたのだった。
1951年9月4日から8日までサンフランシスコのオペラハウスで講和条約の調印会議が行われた。9月5日にはフェアモント・ホテルで日系アメリカ人たちが日本代表団を迎えて歓迎夕食パーティーを開いた。その時も石井先生は「荒城の月」を歌っておられる。
日本からは吉田茂首相、自由党の池田勇人、星島二郎、一万田日銀総裁が出席した。参加国は52ヶ国、議長は米国務長官のアチソン。と上記の本に書いてある。つまりハーバート・ノーマンを以前から知っていただけではなく、あの日本が独立国として復帰したサンフランシスコ講和条約調印会議に際して、日本人歌手として参加されていたのだ。
今なら、ダレス夫人、アチソン夫人にも紹介された、と言う事がどんなに凄い事かと言う事も分かる。
間接的であれ直接的であれ、これほど昭和の歴史の場を目撃してきた歌手はそうはいない。

参照:写真右がハーバート・ノーマン氏
参照:ダレス国務長官の弟がこのAllen Dulles氏
(米国史にも日本史にも大きな関わりを持つ大変興味ある人物である。)

追記:2010年10月5日
サンフランシスコ講和条約と現代日本
西尾幹二氏のblog:ダレスの結果としての役割


・・・・・追記:2011年4月18日・・・・・
San Francisco Peace Treaty
日米友好記念式典 41分 2001年9月8日
San Francisco Peace Treaty50周年記念


石井好子 (11) 石井好子音楽事務所と赤軍合唱団

2010年09月29日 11時39分13秒 | 追悼:石井好子

隆盛を極めシャンソン人気を独占したかにみえた石井好子音楽事務所が倒産した。石井好子著「さようなら私の20世紀」でその原因を初めて知った。何が起きるかわからないとは言え、この事件が後々まで災いしたとはそれまで全く知らなかった。それは
チェコ事件と呼ばれる :8月20日夜、ソ連、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアの5か国軍20万は一気にチェコスロバキアに侵入、ドプチェクら改革派指導者をソ連に連行した。
私は地理が苦手で政治経済と世界史で受験したのだが、高校時代政治経済の授業は一回も出席せず、当然単位を落としている。政治に関心はあるが現実社会(政治経済)に疎いそんな私にもこの事件は耳に入ってきた。報道もされ、日本国内でもソ連に対する怒りの声が沸き起こった。メキシコオリンピックの時の異様なまでの
チャスラフスカ人気も、この事件に起因している。

思い出せば当時うたごえ喫茶が盛んで、歌われる歌はほとんどがロシア民謡だった。この時代に生きた人ならロシア民謡の4,5曲は誰でも歌える筈だ。この事件が勃発するまで親ソ派親中派の学生は、この時代おそらく9割を超えていたのではないだろうか。赤軍合唱団招聘は音楽事務所としては、充分に勝算ありの切り札的大仕事だったにちがいない。1967年から交渉が始まり1968年5月からチケット販売、公演日程は9月から。ところが8月20日突然ソ連軍がチェコに侵入した。

何年か前に上京して靖国神社付近を歩いていると「赤尾敏生誕100周年」のチラシが歩道橋に敷き詰めるように張り巡らされていた。
ー大日本愛国党の赤尾敏総裁が、杖を突きながら7階の事務所まで上がってきて「チェコを侵略した赤の奴らを呼ぶとは何事だ!」と宣伝部のI さんを突き飛ばし首を締めんばかりにしたー
ー「赤軍軍隊日本上陸を阻止せよ」という垂れ幕を張った大型トラックが並び、右翼団体の人たちが「国賊石井音楽事務所!」「赤軍合唱団来日反対」と一日中叫び始めた。-
出典:「さようなら私の21世紀」
この本のそんな文章を思い出した。
当時の視点はわからないが、現代の視点で見れば「石井先生やっぱりそれは、そのタイミングでまずいですよ」の話になる。
’68、音楽・映画・文学・美術、およそ文化と呼ばれるものは、徹底的に左を向いていて、ちょうどこの年’68に世界の若者が様々な意識革命を起こしていく。日本に於いてはその勢いのままに70年安保闘争と高揚していく。
最初「困ったことになった」くらいの印象しかなかったのは、こういった時代の強風が背中を押していたこと、向かいから吹く風は、赤尾敏の勢力だけだったからだろう。世論的には微風である。しかしチェコ事件そのものは、弁解の余地のない露骨なソ連の武力侵略である。「軍服を着ているだけで芸術家なのです」といっても、次第に高まる逆風によって、その声は誰の耳にも届かなくなる。
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ネット上に詳しい経緯が記されているペイジを発見した。
赤軍合唱団
「赤軍合唱団」招聘計画とその顛末
この規模とスケジュールそしてその後始末を考える
だけで私なら卒倒する。しかも原因は他国の事件だ。
赤軍合唱団のペイジ
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赤軍合唱団をYou Tubeで
赤軍合唱団の「アムールのさざなみ」:
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石井先生は赤軍合唱団招聘も、債務処理も、
そして事務所解散残務処理も全部お一人で
誰に寄りかかることもなく、逃げ出すこともなく
現在の流行語を用いれば、粛々とされた。
まさに耐え難きを耐え忍び難きを忍ぶ
絶体絶命の日々だったに違いない。久原房之助
の血が流れていればこそ、乗り越えられた苦難
だったのではないだろうか。人間のスケールを感じる。
戦後Parisのミュージックホールで主役をはっている
孫を見て「女の子は母方の祖父に似るのだ」と
久原氏はいつも喜んでおられたそうだ。
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追記:プラハの春
岸恵子著「30年の物語」にもリアルタイムのチェコ事件が語られる。彼女の自宅にチェコの若者達が逃げ込んでくるのだ。昔に読んだ本なので記憶が朧なのだが、その青年の一人と、岸恵子と思しき女性が淡い恋をする。それと、チェコの若者達のその仲間の中に「存在の耐えられない軽さ」のクンデラがいたと書いてあった記憶がある。
また「プラハの春」に関しては、春江一也氏のリアルタイム体験に基づく小説もある。これも購入して一気に読んだのだが、政治小説というより恋愛小説として、記憶に残っている。
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参照:Barbaraを羽田空港に出迎える
音楽事務所社長としての石井好子氏
ーDu Solei Levant過去記事よりー


石井好子 (10) 入院初日 手術・再起

2010年09月05日 06時22分01秒 | 追悼:石井好子

封筒を無くしているので日付がわからない。2年前の秋。腰の手術のための入院初日の心境が語られている。今日見つけた。

Bruxelles(ここには私の本名が入っている)様
ご無沙汰しておりました。
あなたの手紙はいつもいつも私にとって楽しみな貴重なものです。
大切にとってときどき読み返します。
私やっとひまになりお手紙する次第です。
今日入院したのです。家にいるとバタバタ、アタフタ、あっという間に午前二時、どういうわけか必ず午前二時なのですね。
今まだ午後9時、ひとりで何もする事がないってすばらしいでせう。
でも手術はけっこう大変みたい
それと闘うのも十日くらいかかるみたいで1ヶ月の入院。
入院グッズ買い集めたり、ドタキャンした仕事、十四コンサート、お詫び、代役で、毎日めまぐるしく過ぎまして、今新しい戦いに入る寸前のお休みです。
東京タワーがここから見えるのです。
みのもんた氏も私の弟も同じ腰の狭窄病で手術成功してますから、私も多分大丈夫です。
でも大事とって年内休業ということにして手術にのぞみます。


86才の再起と思っています。
85才で歌はやめると前から言ってましたし、85才の終わり頃、7月29日立川パリ祭で腰痛の中でも歌いきれた時ほっとして、これでやめられるとも思ったのです。
あなたはわかってくれると思うけど、私一生懸命歌ってきましたし、最後の力ふりしぼって29日まで歌えたこと、神様に感謝と、そう思ったのです。
その思いは今もありますけど手術してみて又気が変るのかどうなるのか分かりません。
1ヶ月の入院生活、その後私は歌いたくなるのかどうかも分からないです。といいながら今回の入院、夕方は病室でレオ・フェレセルジュ・ラマのCDを聞きました。シャンソンのCDも久しぶりに聞いた次第です。何か古い作家のパリの小説みたいなの、入院中に読みたいなと思っています。教えてくださいね。
では元気になりましたら、又すぐあなたにお手紙出します。3週間くらいだめみたいですが心配しないで下さい。
私は大コンサートに向かうつもりで、8月体調を整え、今とても元気ですから
じゃ又ね、お元気で、お大切に
石井好子



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引きのタイミングを考えながらも、86才の再起を心に誓われていたのだと思う。
ー東京タワーがここから見えるのです。ー
の一行を見たとき、お見舞いに行こうと思った。
ー古い作家のパリの小説みたいなのー
を探そうとも思った。
腰の手術を決意することが、どれだけの大決心が要ることかということもよく分かっていた。そして入院初日の午後9時にようやく手に入れた一人の時間の心の中。全部理解できていた。
なのに適切な本は思い至らず、病院に駆けつけることもしなかった。
こんな時にまで観念的存在でありつづけようとした自分自身を卑怯だと以来ずっと後悔している。

追記:2010年9月13日
体調は大コンサートにむかえるほど万全だったことが再確認できる。腰の手術をして、弱点を克服した上で歌手としての生き方を熟考したかった。そのためにリスクを覚悟で、手術を決断された。その勇気、そして前向きな姿勢は生涯一貫している。「肝不全による急死」の報道は誰か別の人のこととしか思えない。


石井好子(9) 朝吹登水子

2010年08月30日 17時19分05秒 | 追悼:石井好子

ホテルに行く途中のタクシーでは、石井好子をサルトル達の真ん中に座らせた。後続のタクシーに乗っていた私は、石井好子がボーヴォワールの肩に顔を寄せているのが見えた。タクシーを降りたボーヴォワールと好子は二人ともよいご機嫌で、いささか千鳥足。好子は好きだったジャコメッティのことをボーヴォワールとしゃべって、彼女の腕の中で泣いたのだった。大のボーヴォワールの愛読者であり、最も尊敬する作家の腕の中で泣いた好子は幸福だった。-出典「サルトルボーヴォワールとの28日間・日本」朝吹登水子著 同朋舎出版 P.96ー
肩書きを外した石井好子さんが、ここには見える。パリ滞在中ジャコメッティと親しくされていたことはご自分の著作にも書かれている。そしてサルトルとボーヴォワールが来日した時、手料理をご馳走したのは石井好子さんだった。

朝吹氏に関して「著作でレジーヌのことを味噌糞に書かれてますよ」と石井先生に言ったのは私だ。その頃のレジーヌは夜のパリに君臨した成り上がりの女実業家(金主はロスチャイルド)だった。その背後にはユダヤ人コネクションが存在していたのだ。バルバラがゲンズブールと一緒にツアーをしていたり、駆け出しのバルバラがマリー・デュバを病院に見舞ったりしているのもその関係だ。石井先生はエミール・ステルン(
この曲の作曲者)に連れられてレジーヌのパーティーにいったことがあるそうだ。そこには誰と誰がいてとかかれていたが、フランス芸能界にはユダヤ系はたくさんいるので、名前は大部分忘れてしまった。意外だったのがロミー・シュナイダーの名前。ひょっとしたらドロンと結婚できなかったのは、ユダヤ系の家系が原因(宗教)だったのかもしれない。

昨日ベルサイユから里帰りした登水子と会った、これは登水子のお土産です、と言って小さなカレンダーの壁掛けをいただいたことがある。あのサガンの朝吹登水子さんのお土産だと思うと嬉しかった。

登水子が倒れた、というお手紙もいただいた。朧な記憶だがこのとき既に娘の由紀子さんは入院中だったかもしれない。喪主は孫の牛場潤一氏。また凄く優秀な方で、石井先生によると、大変なおばあちゃん孝行な人で、年上の女医と結婚したとあった。さすが登水子氏のお孫さん、素晴らしい研究をされている。
牛場というのは珍しい名前、ひょっとして牛場友彦と関連があるのですか、という愚問には、無回答であった。(追記:10月9日:由紀子さんのご主人は牛場友彦の甥だと判明

ハーバート・ノーマンと朝吹家の関係を知って、石井先生もハーバート・ノーマンとお会いになったことがありますか、と聞いた質問にも無回答であった。(訂正:12月21日: 古い便箋の中に、ノーマンについて詳しく書いて質問もしているものが見つかった。石井先生の体調を考えて、結局この手紙は出さなかったのだ。無回答であったわけではない)こういう政治的なことを聞かれても困惑されただけだろう。(追記:そう思って出さなかったのだろう)この人は日本に深い知識をもち、近年非常に評価がわかれる人物。日本の多くの最先端知識人と深い交友関係がある。
そう言えば何かの著書で読んだ記憶(ちょっと朧)があるのだが、朝日新聞(尾崎はお父上の新聞社の同僚)の関係からと思われるが、石井先生は逮捕前日の尾崎秀美ゾルゲ事件)と確かご自宅の庭で言葉を交わしておられる。翌日逮捕されて吃驚したと書いてあった。
ハーバート・ノーマン(1)ハーバート・ノーマン(2)
ハーバート・ノーマン(3)ハーバート・ノーマン(4)
ハーバート・ノーマン(5)ハーバート・ノーマン(6)

石井先生は著作も多く、その中で2度の結婚についても詳しく書かれている。そして恋人だった人たちも恋心を抱いた人たちの名前も結構登場する。ただ石井先生に「先生の大切な○○さんのことが、朝吹登水子氏の著作に、初恋の人、として登場してますよ」と指摘したのは私だ。「一緒にパリに住んでいた頃、その話を登水子から聞いて、私は実はその人と婚約してたのよ、といったら、登水子が物凄く吃驚してとてもとても悔しがった」という話は他のどこにも書かれていない。二人が昔同じ人を好きだったと言う話は今回初公開。その男性は
この人(作家)の次男。この人(俳優)の弟。有島敏行氏。若くして亡くなられた。どんなに素敵な男性だったかは、想像するに容易い。

・・・・・追記:2010年10月14日・・・・・
石井好子とジャコメッティに関して
参照:ジャコメッティと二人の日本人


石井好子 (8) 歌手は恋を歌う

2010年08月24日 13時08分18秒 | 追悼:石井好子

「ご無沙汰してます
私ずっと病気で長いこと寝てます。
直りが悪く、自宅でぶらぶらしてます。
元気になり、いつの日か
あなたとも会えることを願ってます
あなたは元気でいてね。
楽しい手紙下さい。
石井好子」
やっと最後の葉書きを見つけた。消印は5月18日、渋谷となっている。
いままでは病気だったけれど、今は元気です、という風な手紙しか来た事が無い。これはただ事ではないと思った最後の葉書きだ。すぐに会いに行くべきだった。でも自分が行って何の力になれるのかと考えた。自分が若くてハンサムな男性なら、多少はうぬぼれることもできる。石井先生のまわりの、きら星のごとく才能に輝く人たちの世界に、どういう顔で入っていけばいいのか。行って何かプラスになれる自信などまるでなかった。
最初で最後の電話の後、2度手紙を書いた。内容は上に書いたようなことだ。
「若いハンサムな男性ではないのでお見舞いに行っても無意味なので、行かない」と言うことを手紙に書いたのには理由がある。

若い恋人が晩年のデュラスと自分の関係を書いた本が映画になって、それを見て、身につまされた、という手紙を石井先生から受け取ったことがある。似たような体験があると書かれていた。迷った上で拒否したとあった。映画見て、かつての恋を思い出すとうことは、彼女は恋に生きる人だったのだ。恋の歌を歌う歌手なので当然のことである。一生ときめいていたい、とも手紙に書かれていた。
以前Barbaraの照明担当ジャック・ロベラリスのことを書いたときも()()、ジャック・ロベラリスは自分にとって特別な人で、心ときめいているのだと返事が来た事がある。ジャック・ロベラリスは石井先生のオランピアの照明をあてている。この恋心に関しては、手紙だけでなくどこかの本にも書かれていた。
歌手は常に恋心を失ってはいけない。だから病院に見舞うにしても、その可能性のある人物でないと絵にならないと私は考えた。イメージを守るためにも姿を見せてはならない存在というものはあるのだ。
・・・・・・
私にはベルギー人のRoseという友人がいて、Roseの写真を人に見せると10人中10人が必ず「おかま」だという。それで一度石井先生にも、これが私ですと書いてRoseの写真を20年位前に送った。石井先生の反応は「あなたって、外人なの、ではなく、あなたって、おかまなの」と言うもので大笑いした。勿論冗談のきつい人だと思われたに違いない。
一度、森林ボランティアの集団の中にいる自分の写真を送ったことがある。都市生活に疲れて森林活動に熱中していた頃だ。
「写真有難う。なかなか可愛らしい人ですね」と返事が来た。
「あなたが山に行く気持ちわかります」と書いた手紙も来た。
いずれにせよ、私に関しては、オカマではないらしいというくらいのイメージしかなかったと思う。
・・・・・・
あとは60周年だ。一度断念して、直前にやはり行くことに決めた。席は用意してくださった。感想を書いたら)()返事が来た。
「来てくださってとても嬉しかったけれど、楽屋に顔を見せてくれませんでしたね」とあった。私にははじめからその発想はなかった。
最後は木原さんの死だ。木原さんの代役になど、とてもなれない。

「あなたとも会えることを願ってます。」
最後の葉書きを見て思う。
独り善がりなほど徹頭徹尾観念的存在でありつづけたことは、距離を取るための、それなりの意味があったのだろうか、それとも、無責任で卑怯な気持ちがどこかに隠れていたのだろうか。