CORRESPONDANCES

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石井好子 (15) : 一人の人間として 私のmentorとして

2010年10月26日 15時35分37秒 | 追悼:石井好子

気がつけば石井先生のいろんな面を書いてきた。たとえば
1.ParisとFranceを身にまとい、本場のシャンソン歌手にも多くの友人を持つシャンソンの真髄を知ったシャンソン歌手として。
2.本場の歌手を招聘し、同時に数々の日本人シャンソン歌手を育てた、日仏シャンソン界の大功労者として。
3.厳しい真似の出来ない選曲で、シャンソン史をトータルに、又解説をつけて日本に紹介した大御所歌手として。
3.大政治家を父に持つ令嬢として、生活の中で昭和の歴史的現場を目撃し、歴史に関わった貴重な体験者として。
4.桁外れのスケールを持ち、日本の政財界の基礎を築いた祖父の遺伝子を引き継ぎ、実業家としての実績を残した女傑として。
5.芸能界から政財界に至るまでの幅広いしかも超一流の世界的人脈を持つ稀有な国際人として。
6.日本の上流階級を代表する名門の出でしかも、政財界のみならず文化・藝術においても常にTopクラスの一族の一員として、それにふさわしい風格・頭脳・思考・感性を持つ、圧倒的にハイソな血脈を有する女性として。
7.ノブレス・オブリージュを生まれもって体得し、ごくさりげなく当たり前のこととしてそれを実践した篤志家として。
石井好子は当然このように語り継がれなければならないと思っている。
しかし私が安心し信頼し個人的に自分のメンターだとして接してきた石井先生は、こう言うものをすべて脱ぎ捨てておられた。そうでなければ、私ごときがほとんど対等に気安く意見の交換など出来る訳がない。それはそれとして認識してはいるが、私もまたそう言うものに惹きつけられていたわけでもない。もしそうなら、真っ先に会って、その世界を覗こうとしたり、その世界に踏み込もうとしただろう。徹底的に観念的存在であろうとしたのは、私自身が非現実的・抽象的価値観を持つ人間だからに他ならない。
敢えて言うなら、しかも箇条書きするなら、私が惹きつけられたのは御著作などに書かれた以下の四つの発言と、私が感じた一つの事実に起因する。他の人たちからみれば、どうと言う事のない発言かもしれない。表面に出た言葉は、驚くほどさしたる意味はないかも知れない。が、その発言の根っこにある、発言を生んだ根源的体験や思考法や視点にその人の核を見、感服したのだ。
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1.出所は不明だがこういう言葉を記憶している。「女が本当に男を恋しく思うのは、40過ぎてからだ」。賛否両論があるかもしれないが、私は思わず唸ってしまった。勿論共感である。説明は省略するが、石井好子でないと、この箴言ははけない、と確信した。
2.「60を過ぎると、毎朝自分を励まさないと、起きる気になれない」こちらも出所不明、私の記憶からだ。こう言い切る凄さを感じた。私はまだまだ若かったが、真実だと直感した。そして石井好子と言う人は人生の真実を述べる人だと。「人生いかに生きるか」などの本を書く人たちや、哲学者は、こう言うことは教えてくれない。含みの多い言葉だ。そしてなにより誤魔化しがない。華やかな人生を生き、肯定的な人生を獲得していらっしゃればこそ、この言葉が生きるのだ。
3.これは以前に触れた事があるが次の言葉だ。-「わたしだって、シャンソンならフランスの一流の歌手を聞きたいし、ジャズならアメリカ人で聴きたい。では日本人シャンソン歌手とは一体何なのか」と。-そしてさらに「シャンソン歌手である事に、忸怩たる思いがある」と言う発言がある。気づいていても普通のレベルの人間には決していえない発言だ。シャンソン歌手は既に誰かが歌った歌を、日本人に分かるように日本語で歌う。所詮他人が異国でヒットさせた歌なのだ。歌手ならば忸怩たる思いがあって当然である。しかし石井好子以外に、こう言う発想こう言う発言は有りえない。人間としての大きさを感じる、そういう表現しか今思い当たらない。
4.御著作「さようなら 私の二十世紀」最後の2行にこう書いてある。
-二十一世紀に期待を抱けない私は、胸一杯の懐かしさと愛惜の念をこめて「さようなら私の二十世紀」と、この本を題した。-「二十一世紀に期待を抱けない私は」のところで、やはり石井好子の凄さを感じた。人間とは妄想的期待にすがって、辛うじて生きているものだ。期待を抱けない、という発言を可能にしているのはまさに「克己の精神」である。自己卑下や謙遜などという生易しい次元ではない。
4つ並べてみるとその根底に共通するのは「正直さ、素直さ」だとわかる筈だ。人間として生きるにおいて「正直である、素直である」ために要求される前提条件は、実は最も過酷である。一番多くの条件をクリアーした者のみが、そこに到達できる。
5.最後に私が感じた一つの事実を書いておこう。それは懐の深さ、寛大さ、つまりは人間的スケールの大きさだ。石井先生との出会いは、Barbaraの訳詞集を送った、26,7年前から始まっている。つまり私はBarbaraファンなのだ。手紙の7割はシャンソンのこと、さらにそのうちの7割はBarbaraのことばかり書いた。自らもシャンソン歌手である石井先生は、そのような普通なら許しがたい不遜な私をなんの御咎めもなく、許容してくださった。シャンソンに対する共通の熱い思いが、ある筈の垣根を乗り越えさせた、といえないこともない。しかし並みの歌手なら、自分のコンサートに来ない顔も見せないファンなど、決して大切にはしない。

最初にいただいたのはレコードだった。まだレコードの時代だったのだ。その頃から60周年のコンサートには行こうと思っていた。60周年には行こうと思っています、と手紙に書いたのはまだ55周年よりも前だった。6年かけて体質改善をしてもっと元気になって、60周年に行こうと思って、その決意を手紙に書いた。「体質改善の計画にしては6年はちょっと長すぎる」と返事が来た。それで、3年計画に変更した。3年で私は吸入器とおさらばする事が出来た。あとの3年で脚力をつけて、ステージに上がり花束を渡そうと考えていたのだが、それは失敗した。脚力は、努力しなかったのでつかなかった。しかし劇薬を含む薬物依存的生活から脱却できたのは、石井先生のおかげだ。誤解されては困るのだが、そう言った不可能を可能にする力を、やはり私は愛と呼びたい。

You Tube : Yoshiko Ishii - Hymne a l'amour


石井好子 (14) 二人のMarcel  その二 Marcel Amont

2010年10月08日 06時13分44秒 | 追悼:石井好子

Marcel Amont

小学校5年生の3月に父をなくした。その1年前からプレドニゾロンを飲み始めていた。葬儀に来た父の従兄弟のドクターに叱られた。すでにステロイド中毒になっていたのだ。葬儀には注射を打って出席したが、出棺の見送りも出来なかった。
その後市大病院の小児科の喘息教室に入院する事になった。薬を抜くためにである。何度か入退院を繰り返した。そのうちに病院生活が楽しくなってきた。看護婦の藤井さんが、歌の好きな入院中の私を「ナンバ一番」に連れて行って下さった。初めてコカコーラを飲んだ。(コカコーラはまだ市販されていなかった)。出演者は若き日の内田裕也氏。バンド交代の音楽は「Take the A train」。
インターンの春本先生が初デイト(お見合い)をすることになり、照れくさいので私に一緒についてきてくれ、と言われた。お相手はお見合いらしく着物で現れた。場所は労音の音楽会。私は二人の真中に座った。「どういうお知りあい?」と聞かれ、春本先生がしどろもどろなのを見て、咄嗟に言った。「春本先生の隠し子!」
当時労音は藝術の大衆化を目的に一流の音楽家や歌手をたくさん抱えていた。音楽会は需要が供給を遥かに上回り、日本全国で大人気だった。
勤労者音楽協議会:wikipedia 労音の歴史と実績 wikipedia
その人の存在は、何でも知っている祖母から既に聞いていた。記憶では'60または'61年だから、2度目の帰国になるのだろう。看板には大きく「お帰りなさい 石井好子さん リサイタル」と書いてあったように思う。確かに豪華で華やかな異国の空気が流れていた。そのなかでお客さんたちと一緒に歌いましょう、というシーンがあった。その曲は
Marcel Amont - Bleu Blanc Blond
Bleu Blanc Blond Lyrics
このbleu bleu, blanc blanc, blond blond
の部分をお客さんたちが一緒に唱和するのだ。
楽しい曲だった。メロディーも覚えやすい。随分後にこれがMarcel Amontの歌だと突き止めた。カセットテイプもフランス人の友達に送ってもらった。
石井先生と私の、言わば出会いの曲となる。
最近これに元歌があり、本来はアメリカの曲だと言うことを知った。
Johnny Tillotson - True True Happiness
True True Hapiness : Lyrics
フランスで大ヒットしたのは、ひとえにMarcel Amontの歌唱力とキャラクターにあるのではないだろうか。

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調べてみて分かったのだが、石井先生がParisデビューされた最初の店「パスドックの家」のトリはミック・ミッシェルで、Marcel Amontと石井先生は共に新人だったらしい。つまりMarcelはパスドックの同僚だった。石井先生が第一回目の帰国をされた数ヶ月のちにMarcel Amontはエディット・ピアフのリサイタルの第一部に起用されオランピアへの出場を果たす。その後ブレイクする。
石井先生が歌われた「Bleu Blanc Blond」はMarcel Amontがパスドック時代に歌っていた曲を石井先生が持ち帰られたものだと、最近まで思っていたが、調べてみるとこれは'60の大ヒット曲とある。労音で歌われた時は、まだホヤホヤのヒット曲だったわけだ。おそらくMarcel Amontと石井先生はその後もずっとコンタクトがあったのだろう。
(追記:2010年10月14日:調べてみたら1990年12月10日、石井先生はオランピア劇場でのリサイタルで、この曲をMarcel Amontとデュエットされていた!)
Marcel Amontは2度来日している(石井音楽事務所招聘)。「日本語のおけいこ」と言う歌を日本語で歌った。谷川俊太郎作詞、寺島尚彦作曲で、日本語の特訓はオペラ歌手長門美保氏。石井先生の人脈が見えてくる。またMarcel Amontは永六輔作詞、中村八大作曲「Sous une pluie d'etoiles-上を向いて歩こう」を録音している。やはり石井先生の人脈が見える。
Marcel Amontの家に昼食に招待されたら、そこが藤田画伯の家に近かったのでその事を言うと、ぜひ連れて行って欲しいと頼まれた、という記述が「私は私」p.77にある。Marcelは嬉しさのあまりセーターを藤田画伯の家に置き忘れた。パスドックの同じ新人の同僚として親しくされていたことがうかがえるエピソードだ。
前回のMarcel MouloudjiとMarcel Amontは細身の雰囲気は似ていないこともないが、キャラクターはまさに陰と陽で対をなしている。どちらも楽屋を共にする、偶然の出会いに違いないが、石井先生の中にも、その「対」に共感できる陰と陽が共存していたのかもしれない。
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Marcel Amontがカンバックしたという情報(2008年)を見つけた。
マルセル・アモン (Marcel Amont) のカムバック !!!
Marcel Amontに少しリンクを貼るので、彼がどのくらい「陽」か、できるだけ味わっていただきたい。飛びきり明るく楽しい芸達者なシャンソン歌手だ。
Marcel Amont : Deezer com
Marcel Amont : Home Page
Marcel Amont : Blog
若いMichel SardouとMarcel Amont:

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参照:石井好子 interview-1
         石井好子 imterview-2
Net上の一番詳しいBiographyとなっている

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::追記::
いま思えば、この音楽会は、私にとっての初めてのシャンソン直体験だったと言えるかもしれない。幼稚園の頃からの宝塚ファンだったので、宝塚経由でシャンソンには親しんでいた。それとは別に「河は呼んでいる」「幸福を売る男」「薔薇色の人生」「可哀想なジャン」「小さな靴屋さん」「私の回転木馬」「ワンワン・ワルツ」「待ちましょう」等など、幼稚園から小学5年生までの間に、どこからともなく耳に入ってくるシャンソンも多かった。日本にまだ戦後が色濃く残っていた頃、ジャズやシャンソンやラテンなどの所謂洋楽は今よりももっと日本中に溢れていた。

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追記:2010年10月8日
石井先生をparisデビューに導いた「パスドックの家」の主
Andre Pasdocの写真と歌声を見つけた。
石井先生の御著作には石井先生の歌の伴奏でピアノを弾く
Pasdocの写真があったので本人確認が出来た。



Andre Pasdocはこのペイジの19番目
「Un petit mot de toi」
という歌を歌っている。Fullで聞ける。
なをこのペイジではめったに聞けない
1940年のシャンソンをfullで24曲も聴ける。


石井好子 (13) 二人のMarcel その一 Marcel Mouloudji

2010年10月05日 06時02分06秒 | 追悼:石井好子

Marcel Mouloudji:

4,5年位前だったと思う、石井先生から「今ムルージの『
エンリコ』を再読している」というお手紙をいただいた時、私も偶然同じ本を読んでいたことがあった。社会的背景は全く異なるが、石井先生と私は四柱推命によると同じ運勢のカテゴリーに入るということを最近知った。ほとんど人生はクロスしないが、理解と安心と信頼を常に感じていることができる,私にとっては唯一の、メンターと呼べる方だった。そして何故石井先生が1942年の「エンリコ」を今頃手にとっておられるのか、少し分かる気がした。

翌1953年ディスク大賞を受賞した「
小さなひなげしのように」を毎晩歌っていた。(注:ナチュリストの稽古に入る前、凱旋門に近いナイトクラブという名のナイトクラブで、石井先生、マガリ・ノエル、マルセル・ムルージが真打として歌っていた時期があった)
「麦畑の真中で殺されていた少女の姿は、まるでひなげしの花のようだった」とさりげなく、しみじみと歌うムルージに聞きほれた。...
ムルージは、物静かな目立たない人というより、目立ちたがらない人だった。笑う時ですら、ひっそりと声をたてなかったし、いつも淋しそうに見えた。
ボリス・ヴィアン作の「
脱走兵」というシャンソンは、彼のヒット曲だった。...
女優だった彼の妻フローランス・フーケは、勇敢にもレジスタンス活動に加わりドイツ軍にとらわれ、苦悩に満ちた日々を送ったと言う。
逃げた夫、戦った妻・・・。冷たい空気が流れていた。そして別れた。
むさくるしい小さい楽屋で、ムルージと二人、ソファーに座って出を待っていた。
そっと握ったっ手を離さないまま「ヨシコは静かで優しいね。なんだか淋しそうで気になってしまう」と言った。同じことを私も彼に言いたかった。
家にいると、よく、ムルージのレコードを聞いた。ムルージの新曲、私にくれたレコード「
いつの日か」...
「ムルージ、好きなのね」と登水子が言った。
そう、ムルージ、心の琴線に触れる人だった。
ー1997年岩波書店刊 石井好子著「私は私」p.109~p.112より引用ー

Deezer com: Marcel Mouloudji:
RFI Biographie : Marcel Mouloudji:
Wat.tv video : Marcel Mouloudji :
脱走兵は沢田研二も歌っている)

Un jour tu verras 歌詞:いつの日か
Un jour tu verras
On se rencontrera
Quelque part, n'importe où
Guidés par le hasard...
手紙を交わすようになって間もない頃...
あまり慌ててお目にかからなくても
もし人生がクロスするなら、と書いた後に
上の4行を書き足して送った。
そうですね、そのうちきっとどこかでね,いつの日か
と書かれた後に石井先生からのお返事にも
上の4行が書かれていた。
「いつの日か分かるでしょう、(どことはいえなくても)どこかで、私たちは偶然に導かれて、出会う事になっているのでしょう、きっと(和訳)」
その日以来、言葉で確認はしなかったが、この曲が二人の約束のテーマ曲になった。


石井好子 (12) サンフランシスコ講和条約

2010年10月03日 16時29分44秒 | 追悼:石井好子

Shigeru Yoshida, shook hands with then-U.S. Secretary of State Dean Acheson at the signing in San Francisco of the peace treaty between the two nations.

吉田茂 ~「日本独立」 その光と影 Part.5 You Tube
吉田茂 ~「日本独立」 その光と影 Part.6 You Tube
サンフランシスコ平和条約:英語版 Video
吉田茂 サンフランシスコ 演説 09/08/1951
Signing of US-Japan Security Treaty 1951
日本語資料英語資料:日米安全保障条約(旧)
サンフランシスコ平和条約とは

石井好子(9) 朝吹登水子
で、石井先生もハーバート・ノーマンとお会いになったことがありますか、と聞いた質問にも無回答であった。と書いたが、解答が見つかった。
9日の昼、ゴールデン・ゲートパークの野外劇場で講和条約記念コンサートがあり、海軍の軍楽隊の伴奏で、また「荒城の月」と「さくらさくら」を歌った。日本通で知られるカナダの元公使ハーバート・ノーマン氏にも久しぶりでお会いした(ノーマン氏については工藤美代子著『悲劇の外交官 ハーバート・ノーマンの生涯』にくわしい)。ダレス夫人、アチソン夫人にも紹介された。(Bruxelles注:国務長官といえばダレスの名が浮かぶがこの時の国務長官はアチソン)
-石井好子著「私は私」p.47-

1997年に読んだ時に見落としていたのだった。
1951年9月4日から8日までサンフランシスコのオペラハウスで講和条約の調印会議が行われた。9月5日にはフェアモント・ホテルで日系アメリカ人たちが日本代表団を迎えて歓迎夕食パーティーを開いた。その時も石井先生は「荒城の月」を歌っておられる。
日本からは吉田茂首相、自由党の池田勇人、星島二郎、一万田日銀総裁が出席した。参加国は52ヶ国、議長は米国務長官のアチソン。と上記の本に書いてある。つまりハーバート・ノーマンを以前から知っていただけではなく、あの日本が独立国として復帰したサンフランシスコ講和条約調印会議に際して、日本人歌手として参加されていたのだ。
今なら、ダレス夫人、アチソン夫人にも紹介された、と言う事がどんなに凄い事かと言う事も分かる。
間接的であれ直接的であれ、これほど昭和の歴史の場を目撃してきた歌手はそうはいない。

参照:写真右がハーバート・ノーマン氏
参照:ダレス国務長官の弟がこのAllen Dulles氏
(米国史にも日本史にも大きな関わりを持つ大変興味ある人物である。)

追記:2010年10月5日
サンフランシスコ講和条約と現代日本
西尾幹二氏のblog:ダレスの結果としての役割


・・・・・追記:2011年4月18日・・・・・
San Francisco Peace Treaty
日米友好記念式典 41分 2001年9月8日
San Francisco Peace Treaty50周年記念