CORRESPONDANCES

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一台の黒いピアノ...Bruxelles (2)- 人物紹介-6-2

2014年06月01日 11時27分11秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

//////////校正7回目//////////
〇P.78(原文P.92): 「エディット・ピアフが彼のアドバイスを聞きに来たときも、こんな感じだったのだろう」とある。ここはJean Wienerが自分の口ではっきりと「かつてエディット・ピアフも君と同じように僕のところに突然来てそんな相談をしていったんだよ」とIl m'a dit que...となっていてこれは彼自身の言葉で、ここを勝手にBarbaraの推量のように訳してはいけない。Jean Wienerはla Fontaine des Quatre Saisonsを紹介しただけでなく、ピアフの名を挙げ、君もいずれきっと本格的なプロになれるよ、僕は確信してるよ、と言ってくれたのだ。この励ましは大きい。その世界をめざすBarbaraには大きな希望と自信に繋がった筈だ。「こんな感じだったのだろう」などという訳を一体どこからひねり出されたのか理解に苦しむ。

●私は視力に弱点があり校正作業には全く向かない。プロの校正者のように、最初から厳密に読んで赤ペンを入れているわけではない。この原本は友人のJeanneが十数年前、発売と同時に私にプレゼントしてくれた。その時に読んだ内容や、訳出した記憶を思い出しながら、ペラペラとペイジをめくり、目で文字を追う。記憶と符合しない内容の箇所で立ち止まり、取り出し検討を加え、間違いと判断した部分を校正しているに過ぎない。人物紹介に校正を付記するのは、人物ごとにペラペラとペイジをめくることが多いからだ。従って校正のペイジがあちこち飛ぶのはそのためだ。人物との関係は重要なので、人物紹介はこれからも独自に書き足していくつもりでいる。
ただペラペラめくっていても、人物関係以外に、ごくごく単純なミスに気づく時もある。形容詞のかけ方、つまり単なる修飾、被修飾の関係が、おかしいと思うこともたまにある。私は昔短詩型文学の世界で、言語論を書いていた時期があるので、修飾・被修飾の関係には、ことのほか敏感になってしまう。以下は今までに気づいた其の辺の間違いを集めてみたものである。
〇P.97. 「9時からの出番」は9時半から
〇P.137. 「木曜日のシャンソン」は火曜日のシャンソン
(バカバカしい話だがこんなうっかりミスでも原書を所有していなければ誰も間違いに気づけない。間違いにはこのような単純な校正不足の他に、仏語読解ミス、Barbaraに関する知識不足からくる内容取り違え、また「訳者解題」等に於いては資料を厳選せずに丸写しすることによる検証不足に起因するものなどがある)

〇P.131 (原文P.153) 「私の生きがいであるピアノも、シャンソンも、観衆にも怒り狂う」となっている。がIl va se battre contre un piano, contre des chansons, contre un piblique peu nombreux, mais qui constitue deja ma raison de vivre. 「私の生きがいである」は観衆すなわちファンにだけかけるのが正しい。つまり下線部はun publiqueのみにかかるのである。更に翻訳では太字部分が抜け落ちている。まだ少ししかいなかったとは言え、既に私の生きがいにさえなっていたファンたちに対しても、という訳が正しい。

〇P.86 固有名詞でもないune brasserieがそのままブラッスリーと訳されていた。たとえば、ピアノとかブランディ、アルコールなどはカタカナにすればそのまま日本語として通用するが「ポルト・ド・ナミュールブラスリーで待っていた」では、このブラスリーは固有名詞のように受け止められる可能性がある。フランス語にはその辺りを明快にするためにuneという不定冠詞がついている。「ポルト・ド・ナミュールにある(ある)カフェレストランで待っていた」とすれば、読者はよりたやすくイメージ創造することができる。より正確な翻訳とは、そういった言語的配慮を言う。


●校正というのは決して楽しい作業ではない。苦痛である。せっかく知り合えた翻訳者への敬意や翻訳者のプロの仕事に、クレイムをつけているようで、気分は良くない。最悪である。しかしこれはBarbara自身の手になる、彼女の唯一の貴重な自書である。しかもその間違いのほとんどはBruxellesにしか気づくことができない。PLANETE BARBARAは世界の人たちにBARBARAをより広くより正しく知っていただくためにこの世に存在する。気分が悪いからといってこの作業から逃げ出せば、BruxellesはもはやBruxellesではなくなってしまう。その人にしかできないことはその人がやるしかない。と私の中のBarbaraが言う。書くということは快不快でする行為ではない。使命感につき動かされる行為なのだと。
昨晩から今日の午前中にかけて読んだ漫画にこういうセリフが出てきた。
「私は写真を撮るために山に登ってたわ。でも祐介は山が好きで...その好きな山だからこそ写真を撮っていたんだわ。ひとを好きになるのと同じように、被写体に愛が必要だって...」
(山靴と疾走れ!! Vol.3 P.113より)
ペラペラと読みながらこの訳本には何故これほど誤訳が多いのか、敵を多く作る結果しか生まない、誰も望まない校正を何故続けるのか?毎日苦悩の中で自問を続けてきた。この漫画で解答がでた。Barbaraが好きでBarbara研究の原稿を長年書き続けてきた者と、本を出版するためにテーマ素材としてBarbaraの「Il etait un piano noir...」を選んだ者とが、この翻訳書を介して出会ってしまったからだ。

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Rappelle-toi Barbara, hors-serie d’On connait la musique ?
一番長時間のBarbaraの特番。
Daphnéの歌声が長々と続くので
(Daphnéはどう考えてもBarbara歌手ではない)、
さすがにBruxellesもくたびれて未だに最後まで聞いていない。
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・・・・・追記:2013年7月4日・・・・・
訳本P.53&P.54に1948年の初めにモガドール劇場のオーディションを受ける場面が出てくる。バルバラはLudwig van BeethovenのIn Questa Tomba Oscuraを歌う。
In questa tomba oscura(この暗い墓の中で)
Lachiami reposar(わたしを休ませてくれ)
Quando vivevo ingrata...(私が生きていた時に、不実な人よ・・・)
おかしな単語がある、ことに気づいた。あれれ。原本を見ると、同じになっている。これは原本のミスプリを間違いのまま丸写ししているのだ。私はこの部分は訳していないので今まで気づかなかった。
正しくはLasciami riposar; またQuando vivevo ingrataはQuando vivevo, ingrata,でなくてはならない。日本語訳から見てingrataの前にカンマが必要。Lachiami reposarはともに存在しないスペリングだ。Lasciami riposarならlet me reposeで意味が出る。
訳者が手を抜くならせめてプロの校正者の目を通して欲しい。
In Questa Tomba Oscura Cecilia Bartoli 


一台の黒いピアノ...Bruxelles (2)- 人物紹介-6-3

2014年06月01日 11時26分21秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

//////////校正8回目//////////
○P.32(原文P.41): 「小さいのによく口のまわる弟は無性にかわいい!」 un petite frere qui parleとしか書いていない。「よく口の回る」は書いていないだけでなく、誤訳である。C'est drole de retrouver un petit frere qui parle! の原文を見ればわかるが、「口が回る、回らない」ではなく、しばらく会わない間に赤ちゃんだった弟がカタコトであれなんであれ「言葉を話す!Parle」という事実に、感動しているのである。次の「乳母車に乗せて散歩するのがとても楽しい」にも原文には「楽しい」はないが、こちらはこれでも誤訳ではない。

○P.203「訳者解題」 ーバルバラは (略)「真夜中の歌手」として再出発した。ーとあるが、ブリュッセルから戻り、レクリューズで「真夜中の歌手」として再出発したのではない。はじめは8日、次は2週間と次第に契約期間が長くなり、人気がジワジワ定着して最終的に遅い時間に歌う「真夜中の歌手」となった、つまり何年もかけてレクリューズの人気を背負うようになったのだ。そもそもBarbaraは歌わせてもらえるようになる前に、何度かレクリューズのオーディションに落ちている。

○P.203「訳者解題」 レミュザ通りの高級アパルトマン(後に母も同居し...):とあるが、14 rue Rémusatのバルバラのアパルトマンと同じ建物のなかのstudio(ひと部屋)を母のためにBarbaraが借りてあげたので、後に母を呼び寄せ同じ建物に住まわせた、が正しい。Barbaraの入居は1961年10月母の入居は1962年のはじめ。この辺はBarbaraの専門家でなければ、誤訳してもしかたがない。

○P.205「訳者解題」 リュック・シモンはHに「パリに帰るなら、彼女にあったら?」とバルバラを紹介された。ーとある。どの資料の何ペイジを使用されたのかは不明だが、嫉妬深いHが魅力的な男に、自分のいないParisでBarbaraに会ったら、などと勧めるはずがない。Hの発言として私が所有する資料では、Hはリュックに「俺の彼女がParisにひとりでいるので、悪い虫がつかないように、時々見張って報告してくれ」と言ったという内容になっている。

○最後の著者紹介、BARBARAのところで、64年、ブラッサンスのリサイタルの「真打ち」としてボビノ劇場に初出演。とある。ーここは間違い二ヶ所。64年がボビノ初出演ではない。1961年にFelix Martenの前座としてすでに舞台を踏んでいる。これは本の中でもBarbaraが書いていた。またブラッサンスのリサイタルの「真打ち」はブラッサンスである。バルバラはゲスト歌手のひとり。

○上と同じ著者紹介のペイジで、69年、78年と2回、オランピア劇場でリサイタル、とあるがこれも間違い。これは前ペイジに書いたが、P.149,「(オランピア劇場)でのリサイタルの歓びを実現できたのは、まさに彼のおかげだった。」と自ら訳出されている。本を訳しただけでは記憶に残らないのだろう。「人物紹介5-2」の一番下の写真にL'Olympia 1968 Musicoramaの文字が見えるはずだ。Barbaraのオランピアリサイタルは68年、69年、78年の3回である。

●この本の翻訳を知ったとき、真っ先にBARABARA氏が喜ばれるだろうな、と思った。何故なら昔々に訳して欲しいと言われていて、出版だったら大野先生にお願いしてみたら?と提案したら、BARABARA氏はすぐに大野先生の掲示板にその旨書き込みをされた。その記憶があったので、私も多少責任を感じていた。幸いBARABARA氏は今もParis滞在中で、本を手にされてはいないが、日本の家族の方が既に読まれたようだ。感想は「暗い本」とのこと。それで「何%かはブリュッセルさんにも責任がある」とメイルが来た。「何故?」と問うと、例の本の訳があなたによって訳されなかったことは、残念で、「あんた、はよせんからこんなことになったんやんか」と何故か大阪弁の言い回しで、返事が来た。先に誰かが訳せばよかったというような問題ではない。原本を読んでいない人の誤解だ。
この本は、ただ翻訳しても意味がないと私は考えていたし、ずっとそう思っている。翻訳して本にする気持ちは私には一貫してない。ここでも書いている(その前にこの原書がなぜ15年近く翻訳されなかったかについても分析するつもりだ)ように、この本が15年近く翻訳されなかったことには、理由がいくつもあるのだ。それは説明しなければわからないだろう。BARABARA氏の返事を見て、分析を急がなければ、と今は思っている。
また翻訳本に関してはまだこの本の校正も終わっていないし、まだ本全体に目を通したわけでもない。まだ校正のための、ペラペラめくりの段階なのだ。人物説明自体もまだほとんど書き込んでいない。実はこれにも理由があって、今パソコンがクラッシュ寸前なのだ。いつまでもつかわからない。で何一つ、完了できないでいる。一週間以上書き込みがなかったら、ついにクラッシュしたと思って欲しい。

Bruxellesは今そんな状態だ。BARABARA氏にお叱りを受けて、ついでにはっと気づいたのだが、この「一台の黒いピアノ」もそもそもバルバラの「未完の回想録」の訳本ではない。それに気づいていない読者も多いかもしれない。はじめは訳本だと思っていたのだが、届いたものには、意外にも「訳者解題」という珍しいタイトルの結構長い文章がついていた。読者は翻訳の部分も「訳者解題」も同じ訳者の手になるものだから、一冊の本として読むだろう。ひょっとしたら本文よりも読みやすいので帯を見て「訳者解題」を読んでBARBARAがわかった、と思っているひとも多いかもしれない。私自身こういう形の本になるとは、実際にペイジをめくって、はっと気づくまで夢にも思わなかった。繰り返す。これはバルバラの「未完の回想録」の訳本ではない。翻訳者や出版社を責めているわけではない。帯やら「訳者解題」がなかったら、これは完成した一冊の本にはなり得なかった。ここでもこう(近親相姦をテーマにする本にはなりえない)書いている。編集のデコレーションがなければ、そして訳者の解題がなければ、この本は問題だけがあって、解答や解説のない数学の参考書のようなものにしかなり得ない。どんな意図であれ、どんなテーマであれ、本としての出版は日本では不可能だっただろう。はっと気づいたと書いたが、そう言えば気づく伏線はあった。きのうネット上であるシャンソン界のかたがこの本を「ノンフィクション!」と紹介されていた。ノンフィクションという以上は、Barbaraの手になるものというより、翻訳者の書かれたノンフィクションという認識で読書を堪能されたのだろう。そう勘違いされてもそれも仕方がない。
いずれにせよ
この本はバルバラ自身が書いた回想録の純粋な訳本ではない、ということだ。

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On connaît la musique - Le mag spécial Barbara:
Barbaraを歌う若い歌手たち。50人くらいまでは
名前と顔と声とを耳だけで判断できたが50人を過ぎると
名前さへ記憶の外にはみ出てしまう。
自らのidentityとしてBarbaraを内に取り込んでBarbaraを歌おうとする
プロ歌手は有名無名を問わなければ
フランスだけでおそらく既に100人を超えているだろう。
とは言えBarbaraと父との関係に衝撃を受けそれをテーマに
Barbaraを歌おうとする歌手など、フランスにはひとりもいない。
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//////////校正9回目//////////

2014年06月01日 11時25分17秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

この本はよく売れているようだ。しかしほとんど話題になっていない。話題にしているのはCorrespondancesの記事、つまりBruxellesだけ?本が売れるかどうかはひとえに話題性にかかっている。とすると、この本が今もし完売なら、それはひとえに、Bruxellesが紹介記事を書き続けているから?しかもボランティアでぼちぼちとはいえ校正までして、本の信頼性を高めている。おまけに詳細な解説まで加えて、ラジオの特番のリンクまでしている。いくらBarbaraに関する本だからといって、そこまで販売協力する必要はない。翻訳者の小沢氏は優秀で礼儀正しく気持ちのいい方だと思うので、必要がなくても、宣伝の役に立つならいいと思っている。それに既に本は書店に並んでいるのだし、今Bruxellesにできることは、校正をしてできるだけ正しい内容を読者に伝えることだ。否より正確により正直に言おう。Barbaraをイメージを含めトータルとして守ることだ。より多くの方々に正しくBarbaraを知っていただくことだ。それが世界中のBARBARAサイトの共通の目的であることは既に確認している。しかし、いくら使命感からとはいえ、校正という作業は、繰り返すが決して楽しいものではない。眼の調子もPCの調子も悪いし、今日もパスしようと思っていた。そこへ帰国準備にはいられたBARABARA氏からこんなメイルが届いた。ごく一部分を。
・・・実は私はバルバラの近親姦などというものがあったとかなかったとか、初めから全く無視してただ音楽そのものの素晴らしい独創性にまいっていたのです。少々、詩の意味など不鮮明でも「読書百ぺん意自ずから通ず」で、彼女の深い悲しみや、ふとこみ上げてくるような喜びの息遣いを感じて来ました。またいつか聞いた近親姦のことなど、聞いたこと自体も忘れていました。・・・娘とはそんなものです。とても敏感です。ましてバルバラのように鋭い人は、自分の微笑みを(許しの微笑みを)父が願っていることを痛いほどに分かっていました。彼女はただ父を許したかったのです。・・・父親のことは一時期は確かに大きなトラウマになったでしょうが、女として成長し、男を知るに従って彼女は早くから父親を許し、更に父がどういう生活をしているのか、案じていたに相違ありません。・・・
これをBARBARAファンの声ととっても間違いではないだろう。幸いまだBARABARA氏は本をご覧になっていない。ご覧になれば、本は買ってもペイジはめくられないかもしれない。これは翻訳者や出版社には「何故」だか決して理解できないBARBARAファンだけの特有の本能である、直感である。読むべき立場の私自身もまだトータルには一度も読んでいない。ただ今日「ナントの成立」あたりを初めて、昔に書いた自分の訳と比べながら(そんな面倒なことはしたくなかった)読んでみることにした。そして重大な発見をした。訳の食い違いである。

P.111& P.112.「彼が私になした悪を忘れることもできる。でもわたしが父をどれほど嫌悪していたか口に出して言えなかったことだけが、大きな絶望となって残った」この部分はこの訳本の最重要部分である。したがって当然「訳者解題」にも繰り返されている。P.200.「彼が私になした悪を忘れることもできる。でもわたしが父をどれほど嫌悪していたか口に出して言えなかったことだけが、大きな絶望となって残った」さらに「バルバラは父から別れの言葉の他に、許してくれという言葉を期待していたのではなかろうか」とつづく。
2004年10月05日 「ナント成立過程」(3)「さよなら」さへ言わないで...というBruxellesの訳文のなかでこの部分は、以下のように訳されている。「父のいやな思い出は忘れよう。後悔を伴った一番深い絶望、それは、大嫌いだった父に、最後に今溢れ出る言葉を、かけられなかったことだ。「お父さん、許します。忘れます。どうぞ安らかにお眠りください。私は、もう苦しんではいません。お父さん、私、歌手になったの!歌ってるの!」
J'oublie tout le mal qu'il m'a fait, et mon plus grand desespoir sera de ne pas avoir pu dire a ce pere que j'ai tant deteste: 〈 Je te pardonne, tu peux dormir tranquille. Je m'en suis sortie, puisque je chante! 〉P.132
説明しよう。que j'ai tant detesteはdireの目的節ではない。下線部の仏語と和文が対応する。direの目的語は〈 〉内の太文字部分である。もっとわかりやすく説明しよう。ce pere que j'ai tant deteste:のqueは接続詞ではなく関係代名詞である。指摘すれば誰にでもすぐにわかる誤訳である。この誤訳は校正云々次元の問題ではない。これではこの本の帯にあるテーマ自体を、この部分の訳を捻じ曲げて、捏造したことになってしまう、根幹を揺るがす誤訳と言わざるを得ない。

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Nantes  : ナント-日本語歌詞
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//////////校正10回目//////////

2014年06月01日 11時19分11秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

「訳者あとがき」に特別にシャンソン通でもない、と出だしから断りがあったので、多少の内容の間違いにも鷹揚な対応をしてきた。バルバラの曲を初めから最後まで仮に一曲も歌えなくても、ラジオでBarbaraのマイナーな曲がかかっても、それがBarbaraと気づかなくても、徹底的に資料調査をすれば、翻訳に支障をきたすことはないだろうと思ってきた。翻訳家は翻訳家の範囲でBarbaraを訳せばいい。Barbaraの専門家じゃないのだから、仕方がないね、と笑って読めるだろうと思ってきたが、ここへ来て、論理の杜撰さが目につくようになった。

○例えば、「訳者解題」の最初のあたりに「バルバラは1996年に録音した、つきまとう場面、を最後に、(略)プレシー村の自宅に隠遁し、自らの喪に服しはじめ、本書を綴りつつ、衰弱した体を(略)」と書いてある。バルバラ自身の「まえがき」の部分には、「そのあと、(略)プレシーに帰った。それからの2年間、私は寂寞とした喪失感に襲われながら(略)人生の喪に服することになる」とある。「そのあと」とは人生最後の舞台のことだ。(参照:Music Cross Talk)1994年3月26日土曜日ToursのVinci、フランソワ1世ホール。つまり人生の喪は、1994年に始まっている。「訳者解題」では1996年「自らの喪に服しはじめ」と解説している。自分で訳しながら、意味内容を把握していないということだ。

○Barbara自身が書いた文章も、1994年3月26日、トゥールでの最後の公演を終えた夜の状態が書かれ、「わたしはひとりの幸せな女だった」で最後の筆を置いている(P.197)。その前には何度も中断され、取り消され、最終的に中止された1993年のシャトレ座の公演がある。Barbaraを紹介するにはこの最後の公演やシャトレを落とすわけにはいかない。ところが筆者紹介「バルバラ」のペイジには90年モガドール劇場で10週間のリサイタル、でそのあとが書かれていない。重要な舞台が抜け落ちているのである。これでは紹介にならない。

○「訳者解題」では文章を綴り始めたのも、1996年からのように書かれているが、Barbaraの兄弟が書いた「序」の最初の行に「書き出したのは1997年の春のことです」と訳されている。訳者が「訳者解題」に取り掛かる頃には、自分が訳した内容が、ほとんど頭から抜け落ちていたことになる。

○戻って、喪がいつから始まったかについて言うと、1994年3月26日からである。Barbaraが2年間と書いているのはなぜかというと、活動を休止していたBarbaraが2年後の1996年に突如最後のスタジオ録音のCD制作に取り掛かるからである。つまり喪を破ったのが、1996年のアルバムであり、このアルバムのあと喪が始まったとするのは、完全な取り違えである。喪の再開とでも言えば、言い逃れ可能なのだが。

○論理的欠陥について言うと、前にも触れたがP.201「父への怨念がこれらのシャンソンに潜んでいる」としながら、同じ「訳者解題」の、P.207では、「黒い鷲やナントでは、父親のイメージが美化され、ポエジーとなって、昇華されることによって、カタルシスの役を果たしているといえよう」となっている。「美化されポエジーとなっているのか、怨念が潜んでいるのか」同じ文章の中で整合性を欠いている。これは、Barbaraに関する知識というより、頭の中の論理力が訳者の意思にもかかわらず、お昼寝でも決め込んでいたからだろう。

○論理性の欠如は「訳者解題」の中に目立つ。Barbaraの人生を時系列に整理しないままに、訳した内容も把握・理解しないままに、かなり慌てて、書けば書くほど間違いで腹ふくるる「訳者解題」を闇雲に執筆された状況が想像できる。P.206に,「1970年以降、プレシーに移り住んでからは、新作の数も減り、(省略)」とあり一方P.207には「40代に入ってからバルバラに新鮮な空気を吹き込んだのは、当時25歳の(省略)」とあり、次々に生まれた新曲のタイトルが並ぶ。Barbaraは1930年生まれ、1970年以降はつまり40代に入ってから、ということになる。

「新作の数が減った」のと同じ時期に、「F.W.に刺激を受けて次々に新作が登場する」と横並びのペイジに平気でかけるのも、論理力のお昼寝、に起因するのだろうか。また古くからの日本のファンは誰でも知っているが1970年代前半は日本におけるBarbaraの絶頂期である。またプレシーにBarbaraと一緒に移り住んだのはF.W.その人である。P.206とP.207はもう内容が支離滅裂なのだ。

○「訳者解題」P.209.Barbaraがエイズの活動をすることに関して「かつて彼女が愛したひとりの男性が、刑務所につながれた思い出があり、また近親姦容疑者として手錠をはめられるべきだった父親に代わっての、罪滅し的行動ではないかと解される」、一人の男性の名前が特定できないなら、情報価値はない。それはどうでもいいが、バルバラのエイズの活動に、どうして父親の話が関連付けられるのか?しかもBarbaraは被害者であり、「罪滅し」の必然もない。「罪滅し的行為ではないかと解される」と書く以上、論拠を示すべきだろう。はっきり言うが「訳者解題」自体が、訳者の独断と偏見に満ちた見苦しいこじつけである。Barbaraがエイズの活動で刑務所を訪問することに、「手錠をはめられるべきだった父親」が、また「罪滅し」が何故くっつくのか?論理的云々よりはるか以前の、単なる露骨な連想ゲームであり、論理が導く「文章」とは言い難い。

○P.207「訳者解題」バルバラの「不倫」を取り上げ、この歌は「息子が母親を愛しすぎたこと」で、警察沙汰になる物語を歌っている、と書かれている。どの資料の何ペイジからの「丸写し」なのだろうか?歌を聞けば分かることだがそんな内容の歌ではない。1975年のコンサートでバルバラ自身が「これは近親相姦愛というより、親子ほど年の離れた女と男の愛の物語です」とステージ上で解説したのを私は聞いて覚えている。そのほかに、Barbaraが歌詞のまだ出来ていないこの歌を練習しているFilmがある。全編スキャットであるが最後だけ「私の愛しいイサベル」と歌詞がついていた。「イサベルって誰?」という苦笑のコメントが付いていた。これがまたBarbara目を閉じて実に官能的に歌っていた。資料を使う場合は確認作業が絶対的に必要だということを忘れないでいただきたい。

実は今回問題はここではなくて、この部分のあとに「ここでバルバラにつきまとう父親との関係が浮かび上がってくる」とまたしても、父親との関係へのこじつけが出てくることだ。大した説明もなくいきなりの結論でp.208「歌によって通俗化させることで、少女時代に刻まれた傷痕を形骸化させたかったのではないか」と解題されている。タイトルだけの連想ゲームではなく、まず前提としてこの曲と、父親による近親愛との関連を、論理的に説明してから「解題」していただきたい。繰り返す。論理的云々よりはるか以前の、単なる言葉の連想ゲームである。論理が導く「文章」とは言い難い。

長い文章になってしまった。今日は文章の中に「はっきり言うが訳者解題自体が、訳者の独断と偏見に満ちた見苦しいこじつけである」と、いつも遠慮してうじうじしているBruxellesとしては珍しく思い切った書き方をした一行がある。
Bruxellesブチ切れの巻である。
Je voudrais l'epargner, dire les choses le plus doucement possible.
Mais je ne peux reprimer par moments mon agressivite,
malheureuse de ne pas etre aidee, comprise.


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Barbara, quinze ans déjà : France Inter:
・・・・・・・・・・
参照 Actualités : Yves Montand
参照 Damia - Le grand frisé
参照:Georges Brassens Oncle Archibald
参照:Marianne Oswald - Évidemment bien sûr
参照:Damia "Les ménétriers" 1927
参照 Claude Francois - Meme Si Tu Revenais
参照:Dalida - Non è casa mia (Même Si Tu Revenais)
Les dames de la poste:  du soleil levant Bruxelles:
:
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できるだけ多くの資料を読み
できるだけ多くの歌を聴き
Interviewや特番を聞き
多くの人の見解を聞き見識を拡め
VideoやDVDや、生のステイジをたくさん見て
選択し分析し検証し整理して
最後には独自の思考をまとめる。
文章を公に商業化するのはその後でいい。
それらのどれ一つを省略しても、
文章に対する義務や責任は自覚できない。
書き手の実力やプライドはその自覚の裏側に
自然発生的に付着するものでしかない。

・・・・・・・・・
人々はBarbaraが亡くなる前に自ら書いた
回想録だと思うからこそこの本に飛びつくのだ。

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Il etait un piano noir...memoire interrompus : Barbara

2014年06月01日 11時18分22秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

過去記事Bruxelles (2)- 人物紹介-6-3で以下のように書いている部分がある。
ー「あんた、はよせんからこんなことになったんやんか」と何故か大阪弁の言い回しで、返事が来た。先に誰かが訳せばよかったというような問題ではない。原本を読んでいない人の誤解だ。この本は、ただ翻訳しても意味がないと私は考えていたし、ずっとそう思っている。翻訳して本にする気持ちは私には一貫してない。ここでも書いている(その前にこの原書がなぜ15年近く翻訳されなかったかについても分析するつもりだ)ように、この本が15年近く翻訳されなかったことには、理由がいくつもあるのだ。それは説明しなければわからないだろう。BARABARA氏の返事を見て、分析を急がなければ、と今は思っている。ー

原本を読んでいない人の誤解だ。翻訳して本にする気持ちは私には一貫してない。と書いている。この辺は早く書かねば、何を言わんとしているか、誤解される可能性がある。例えば、「BruxellesがBarbaraファンに知らせたくないことが、書いてあるからではないか」とか「原本でなければ、わからない秘密があるのではないか」とか、不安を喚起してしまったかもしれない。まずBruxellesには何故翻訳して本にする気は一貫してないのかから説明したい。
(1)2004年まだBlogがなく、Siteのみだった頃、最初に「ナントの成立過程」を書き込んでから、次々と記事にしていった。ゲッチンゲンの成立過程、「私自身のシャンソン」というアルバムの成立過程, Monsieur H.やLuc Simonのこと、何より今まで全く明かされなかったBarbaraのBruxelles時代のこと、(注:Bruxellesのhandle nameがBruxellesであるのは、3つの理由があって、歌手Barbara誕生の基礎となったBruxelles時代を忘れないため、というのがその理由の一つである)L'Ecluseのこと、Gribouilleのこと、などなど書き続けた。つまり、情報価値のある書くべきことは、全部すでに書いたのである。Barbaraファンに伝えたのである。だから、わざわざ本にする必要はない、と考えている。BARABARA氏が「翻訳出版」を望まれたのは、これだけの尊い記述があるなら、「もっと読みたい」「部分的にではなく全部読みたい」と思われたのだと思う。これで全部ですよ、と仮に言っても納得されなかったと思う。何故なら、来日したBarbaraや1970年代前半に出た数々のヒットアルバムについて、つまり私たちが知っているBarbaraのその内側、その心情をぜひ知りたいと願われたのだと思う。それにBarbara自身が書いたものなら、電話帳でも読みたいというのがBarbaraファンの心理である。それが私にはよくわかるので、大野先生にお願いしたら、とアドバイスした。まとまった一冊の本を読むのと、Net上の記事を読むのとでは、気持ち的に違う。ただ出版となると採算も問題になる。掲示板に書き込むだけで叶えられる話ではない。2004年当時はフランスでもまだようやく、Marie-Paule BelleとMathieu Rosazの二人くらいが、Barbaraを取り上げ始めたばかりだった。日本でも「そう言えば、岸洋子さんや加藤登紀子さんが歌う黒い鷲とかを歌ったというBarbaraという歌手がいたようね」程度の一般的認識だった。フランスではそれでもLes Amis de Barbaraや Perlimpinpinという組織は存在しすでに活発な活動を展開していた。日本はというと、Barbara人気はほとんど消えていて大金持ちの500部程度の自費出版、くらいしか可能性はなかった。かつてのBarbaraファンがどれくらい蘇るかということは完全未知数だった。この過去記事で「(BARABARA氏に)私も多少責任を感じていた」とあるのは、そのへんの過去を覚えているからである。
次に「原本を読んでいない人の誤解だ」について追加説明すると、
(2)本文はゲッチンゲンの成立過程、で終わっているのである。私自身「エェ!これで終わり!まさか!」「いよいよこれから佳境に入る筈なのに!」と驚いた。確かに突然中断された未完の回想録なのである。
(3)そのあとに断片という小見出しがあって、そこに短い断片的記述が数篇集められている。これは完全に未編集、重要な内容もあれば、さほどイミのない内容もある。断片たちの相互関連はない。断片の順序は思い出すままにであり、優秀な編集者なら、内容を考えて本文のふさわしい場所に入れ込むかもしれない。
(4)前の記事に翻訳者の小沢氏には時系列の把握・整理ができていない、と書いたが、本文を順番に訳していくだけでは、誰でもそこまでの理解は不可能なのだ。年月日時が7割がた無記入で、途中で頻繁に、現在執筆中の時点での心境が挿入される。私は最初のPLANETE BARBARA執筆時にBiographie,Dicographieをかなり詳しく制作しているので、それを参照にしながら読みながら細部の脈絡を把握できたが、Barbaraの素人には所詮この本の翻訳は不可能だと思う。私が大野先生にお願いしたら、と提案したのは、大野先生なら、当然日本語版にはBiographie,Dicographieを付加されると思ったからである。今回のような文字に置き換えただけの意味不明の翻訳では、一般読者は読んでも内容が理解できなかっただろう。
(5)P.217~P.223まではコンサートパンフレットなどからの転記が、断片集のなかに紛れ込んでいる。突然の中断をリアルに表現するために、断片は敢えて断片のまま未編集で付け足されたのではないかと思うが、プログラムなどからの文章転載は、不要だったような気がする。紙面を埋めるための苦肉の策?なのだろうか。少なくともこれはBarbaraがこの本のために書き下ろしたものではない。従って私が日本語版の編集者なら、取り除くかもしれない。
(6)過去記事に「この本が翻訳されることを初めて知ったとき、熱烈なバルバラファンと出版社が、採算を度外視して大きな賭けに出た、と勝手に思い込んだ」と書いているが、以上のような理由からこういう条件が揃わなければまともな翻訳本の出現は無理だと前から思っていたからだ。熱心なBarbaraファンならば、徹底的に調べいい加減なことは書かない。それとBarbaraファンに伝えたいという気持ちから、(地名がやたら出てくるので)地図を付けるだろうと考えた。住んだ建物の写真も付記する。転居するたびに地名が出てくるが、そのままカタカナにしても読者にはイメージは湧かない。L'Ecluseも当然写真が必要だ。私があらまほしき、と考えていた編集である。
(7)L'Ecluseの経営者4人の顔写真はこれはもう必須。最後のペイジには登場人物の人名辞典をつける。訳本を手にされた方はわかると思うが、やたら歌手名、人物名が多い。8割がたは無名である。(薮内久氏の「シャンソンのアーティストたち」に影も形も現れない、という意味である)。名前をカタカナ表記しただけでは何の意味もない。Lucian Morisseをカタカナにしただけでは、翻訳者さえ何者か把握できなくて、無茶苦茶な訳になっていたではないか。人名辞典も必須である。それが私があらまほしきと考えていた、編集である。さらに劇場である。出てくる劇場は、場所の説明のための地図、正面及び内部の写真、日本のBarbaraファンに正しく伝えたい熱意があれば、そこまで考えて当然であると思う。
(8)この原本を読んで、この翻訳本の出版を試みるならそれが必要だ。出版なのだから写真は自分で撮る。ParisやBruxellesを自ら往復する現地調査も必要だ。本に出てくる人物を探し当てて、interviewすることも必要だろう。人名辞典のためには。Barbaraに対する情熱及びBarbaraに関する徹底的な探究心、知識、そして伝えたい心、最後に極めて高度な校正・構成・編集能力が必要だ。フランス語版を上回る素晴らしい翻訳本ができるだろう。
翻訳して本にする気持ちは私には一貫してない。その2番目の理由は、私にはそれを達成できる時間的余裕と金銭的余裕がないということだ。いつか誰かそれを達成できる状況と能力を所有する人がファンの中からきっと現れるだろう。

過去記事に以下のように書いている。
先に誰かが訳せばよかったというような問題ではない原本を読んでいない人の誤解だ。この本は、ただ翻訳しても意味がないと私は考えていたし、ずっとそう思っている翻訳して本にする気持ちは私には一貫してないここでも書いている(その前にこの原書がなぜ15年近く翻訳されなかったかについても分析するつもりだ)ように、この本が15年近く翻訳されなかったことには、理由がいくつもあるのだ。ー

今日この本の素晴らしい日本語版出現の必要条件を上に列挙してみた。以前に書いた不十分だった事柄を(誤解のないように)少しは明快にできたのではないかと思っている。


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Jacques Attali à propos Barbara: INA.FR
Jacques Attali à propos Barbara: Correspondances

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参照:固有名詞 (言語エネルギー論)
ただToulouse-Lautrecと正しく書けて発音できても固有名詞はそれだけでは語彙としては機能しない。人名の場合ならば人物理解や作品理解が要求されるのだ。(略)会話を弾ませるのはむしろそちらの力なのだ。固有名詞力は、語学カルチャー力に平行するといっても、あながち間違いではないと思う。
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・・・・・追記:2013年7月3日・・・・・
とても長い記事になってしまった。バルバラの未完の回想録、
なるべくそのままだということや、断片は未整理のまま並べられている
ことなどを書いた。ただ誤解のないように追記したいのだが
Barbaraが思いつくままに気の向くままに書いたというわけではない。
年月日や場所、その場にいた人など、正確を期するために
執筆中は昔の友人たちに全部確認の電話をしている。
「こういうことがあったのは何年だったと思うのだけれど
確認したい。その時あなたの他に、○○も近くにいたわよね」
というふうに記憶確認のための検証作業をしている。
その際実は、長い間音信不通だった元夫のClaude宅にも
電話を入れている。弁護士の卵だったClaudeは結局
弁護士にはならずに骨董品屋になっていた。この元夫の
Claude確か、以前Barbaraの特番に出演していたように思う。
その後亡くなったようだ。そう言えば誰それが亡くなった
という記事をたくさん書いた。ふと思い出すだけでも
Maurice Béjart, Frédéric Botton , Sophie Makhno, Georges Moustaki,Jean-Claude Brialy,Serge Reggiani,Luc Simon,等など。
Hubert Ballayは元気でBarbaraの特番にも出ていたように記憶しているが、
今調べてみると今年の2月24日、85歳で亡くなっていた。
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//////////校正11回目//////////

2014年06月01日 11時17分08秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

原文P.135&P.136
Je m'y rends lentement, seule, eperdue.(私は一人ぽっちで、取り乱したまま、家に足を進める。) Je vais me retrouver devant ma mere.(私は家で母と対面することになる。) Je voudrais l'epargner, dire les choses le plus doucement possible.(出来たら母をいたわりたいと思う、そしてナントの出来事を出来うる限り心に優しさを持って伝えたいと思った) J'entre, ma mere est allongee sur le petit divan, les yraits tires, inquiete.(家に入っていく。母は小さな長椅子に横たわっていた。やつれ果て、不安げな表情が見て取れた。) 
- L'enterrement...C'etait l'enterrement...-(「埋葬、土の中に埋葬...」) Je tombe.(私はその場に崩れ落ちた。) Je raconte sans tout dire, sachant que l'apparente indifference de ma mere masques un vrai chagrin.(母の一見淡々とした無関心な表情の裏に真の深い悲しみが隠れているのが私にはわかったので、内容を選択しながら、話した。)
Mais je ne peux reprimer par moments mon agressivite, malheureuse de ne pas etre aidee, comprise, et tout a coup, je vouvoie ma mere: (しかし私は、時折飛び出しそうな私自身の心の辛さを抑えることができなかった、何故ならこの時の私には誰ひとり助けてくれる人はいなくて、理解してくれる人もいなくて、私自身が不幸そのものだったから。そして突然思いもかけず、私は母にヴヴワイエ(他人行儀な話し方)で話していた。) je lui parle comme a une etrangere, peut-etre pour pouvoir raconter avec plus de distance.つまり見知らぬ女性に話すように話していた。そうすれば実際よりも心理的な距離を遠くに置いて(なるべく客観的に)話すことができると思ったからだ。

・・・・・・・・・

訳本の訳(P.115)はこうなっている。アンダーライン部分のみ書き出す。
できれば、いたわってやりたかった。できるだけ穏やかに話してやりたかった。...
しかし母に対して、時として表れる自分のアグレッシブな態度は抑えようもなかった。昔からわたしを理解することも、手を差し伸べることもしなかった母が、急に未知の女性のように感じられ、距離をおき、他人に対するようにヴヴォワイエ(よそよそしい話し方)で話している自分に気づく
そして例の如く、ここを強調するために「訳者解題」にもこの訳を書き出している。
P.200.「また母に対しては、「昔からわたしを理解することも、手を差し伸べることもしなかったと、本書に書かれているが(原本には書いていない、父親が幼いバルバラを数年にわたって犯していたことに、母親は目をつぶっていたのか。母に父のことを告げても、信じてはもらえないだろう、という絶望感から、バルバラは沈黙の塔に閉じこもった。」と帯のテーマにそうように、捏造訳を根拠に、強引に自説を創作している。

上のBruxellesの訳と比較すればどこが捏造かすぐにわかると思うが、この際きっちり説明しておこう。
1。malheureuse de ne pas etre aidee, comprise
2.この時の私には誰ひとり助けてくれる人はいなくて、理解してくれる人もいなくて、私自身が不幸そのものだったから。
3.昔からわたしを理解することも、手を差し伸べることもしなかった母が
(解説):de ne pas etre aidee, comprise,を見れば分かるが、昔から云々などという時制ではない。完了不定詞ではない。(この時)のことなのだ。家に来るまで母をできるだけいたわろう、母に優しくしようと思っていたが、母を前にした(この時)、自分自身が一人ぽっちで、取り乱して、誰にも理解されず、助けてもらえず、不幸で、母を前にして崩れ落ちているのである。Mais (最初の思いに反して)je ne peux reprimer par moments mon agressivite(←だからこうなってしまうのだ)。
また、助けてくれる人も理解してくれる人もいなくて、であって
「昔から母はわたしを理解することも、私に手をさし伸べることもなかった」などという訳を1。malheureuse de ne pas etre aidee, comprise、から引き出すのは、これはもう捏造と断じて良い。「昔から」も「母」も、原文には書かれていない。
また
1。
je lui parle comme a une etrangere, peut-etre pour pouvoir raconter avec plus de distance
2.見知らぬ女性に話すように話していた。そうすれば実際よりも心理的な距離を遠くに置いて(なるべく客観的に)話すことができると思ったからだ。
3.急に未知の女性のように感じられ、距離をおき
この箇所はヴヴワイエで話したということはどういうことかということの、説明である。赤の仏文からは緑の訳しか出てこない。「急に未知の女性のように感じられ、距離をおき」は、「未知の女性のように感じた」とか「距離を置いた」とか全く書いていないのだから、誤訳というよりもやはり捏造と断じてよい。
またこれは些細なことだが、母が「私の愛しい子ども」(「娘の子」も誤訳)、になるのは、帰ってきて母と対面したあとである。母に対面する前から、「いたわってやりたかった。できるだけ穏やかに話してやりたかった。」というこの上から目線の訳者独自の表現「やりたかった」は、Lucien Morisseの時と同様、感性の鋭い読者にはかなりの不快感を与える。こころの視点が狂っているからである。

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前々回「校正10回目」は「訳者解題」の誘導性と訳者のBarbaraに関する把握の杜撰さについて書いたが、今回は翻訳そのものの、根幹に関わる誤訳について書いた。誤訳であれ捏造であれ、ひどさから言えば、これは3番目と言える。2番目は何かというと既に指摘したが、訳本P.64「でも歌と舞台と衣装の他に、私に誇示できるものがあるとすれば、それは自分への執着であり、生きるあつかましさでしかない」のとてつもない誤訳・捏造である。バルバラが生きていたら裁判を起こすであろう。
参照:Correspondances過去記事
1番目はなにかというと、
J'oublie tout le mal qu'il m'a fait, et mon plus grand desespoir sera de ne pas avoir pu dire a ce pere que j'ai tant deteste: 〈 Je te pardonne, tu peux dormir tranquille. Je m'en suis sortie, puisque je chante! 〉P.132
詳しい説明は
校正9回目に書いている。これが何故一番目かというと、「訳者解題」も訳本自体もこの誤訳・捏造を基盤に呼吸し得ているからである。接続詞のqueと関係代名詞のqueの単なる取り違えから発している間違いだが、最初から思い込みがなければ〈 〉で、気づく筈である。読者を馬鹿にして、最後まで企画を放棄せず何が何でも、捏造してでも出版にこぎつけようと、がむしゃらに自分自身意味不明のままに、混沌としたまま誤訳や誤記述を乱発し続けたとは、いくらなんでも思いたくない。知識不足に視野狭窄が重なり、錯覚・勘違い・思い込みの落とし穴にズボズボと足を取られ、また運命の悪意に目を覆われ続けた不幸・不運の連続の結果だと思いたい。この辺も後日分析せねばなるまい。

・・・・・追記:2013年7月7日・・・・・
上に(「娘の子」も誤訳)と書いているが、その片を少しだけ追記する。原本P.136.
Elle deviendra elle-meme mon enfant cherie que j'assumerai, protegerai toujours et du mieux que je pourrai. 訳本P.115
今は自分が保護され、面倒を見てもらう「娘の子」になったようだった。
Bruxelles訳↓
母自身が、娘の私が存在を引き受けなければならない、私の愛しい子供になった。私は出来うる限りの力で、この母をずっと守っていくだろう。
もう説明の必要はないだろう。Barbaraが打ちひしがれた母と対面して、これからは「私の母を私は私の愛しい子供として、背負い、あらん限りのちからで、守っていこう」と決意しているのである。ナントを最初に歌った、11月最初の火曜日、キャピュシーヌ劇場にバルバラは兄、弟、母、妹の家族全員を招待し、全員が「ナント」を聞きに来る。
1.Je suis tellemment emue de savoir ma famille dans la salle(原文P.157; 私は会場に家族全員がいることを知ってとても感動した) Je chante Nantes; ma mere trouve la chanson tres belle.(原文P.157; わたしは「ナント」を歌った。母はとても素晴らしい歌だと言ってくれた)
2.また前に書いたが、レミュザの同じ建物の一室を母のために用意し、母を引き取るのだ。Barbaraは母が死ぬまで母の面倒を見る。
1、2の流れを見ただけでもわかると思うが、赤色の仏文を青色に訳しては、「Barbaraの母に対する想い」は、意図的にかどうかはわからないが、完全にかき消される。赤、青、緑を比べていただきたい。青色の訳の杜撰さがはっきりとわかると思う。訳者解題P.201.には「昔からわたしを理解することも、手を差し伸べることもしなかった母」という誤訳を基に、「父の死だけでは解消できなかった、バルバラの心の中に刻まれた傷痕の一部が、年老いた母の姿と重なったのではないか。」等と、解説をつけている。Barbara力完全欠損と言えるほどBarbaraに無知で、誤訳と捏造を乱発する人間が、
「解説を書こう」などと、どうして思ったのだろうか。

・・・・・・・・・追記:2013年7月11日・・・・・・・・・・
BARBARA : Pour une absente :
BARBARA :
Chanson pour une absente.
Chanson pour une Absente: Music Cross Talk:
小さな証言1,2,3: Music Cross Talk より一部引用↓

50年代の終わり頃です。とマダムMarie-Georgette Boyerは語る。夫はVitruve50番地のマダムSerfの家に石炭を配達していました。いつも奥さんは夫にこう言っていました。「娘の唄を聴きにいってくださいな。あのねえ、娘には才能があるんです。立派な歌手なんですよ」夫はいつも忙しくしていましたが、もともとミュージックホールが好きでバイオリンを弾きたがっていました。そしてついに我慢できなくて行ったんです。・・大きくて美人の娘さんでした。グラマーなね。私もよく彼女を見かけましたよ。Saint-Blaise30番地のうちの隣の靴屋さんの所に来てよく話し込んでましたよ。おしゃべりな靴屋さんでした。彼女はカウンターに肘をついて楽しそうに冗談を言い合ってましたよ」
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Il etait un piano noir... France Culture-1 (21)

2014年06月01日 11時15分30秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

≪ Plus jamais je ne rentrerai en scene. Je ne chanterai jamais plus. Plus jamais ces heures passees dans la loge a souligner l’?il et a dessiner les levres avec toute cette scintillance de poudre et de lumiere. Plus jamais revetir le strass, le paillete du velours noir. Plus jamais cette attente dans les coulisses, le coeur a se rompre. Plus jamais descendre vers vous, venir a vous pour enfin nous retrouver. Ecrire, aujourd’hui, est un moyen de continuer le dialogue. ≫

France Culture 7月8日から7月19日 夜の8時半から8時55分 合計10回
番組は「Il etait un piano noir...」を基に構成されている。Barbaraの声優の声が年寄り臭くて耳障りなのが気になるが、そのうち慣れるだろう。心地よい声でも明快なアナウンサーのような発音でもない。音声がくぐもっている。ざっと聞いただけだが、Barbaraの役割の声優は、本の中にある言葉以外を喋らない。それだけ本を徹底的に尊重している。男の声が、相手役になってBarbaraの声優が「本の内容を読む」ことを誘発するのだが、厳密な対話ではない。男の声は「黒いピアノ」の声という設定。読む部分はテーマによってあちこち飛ぶので、最初は本の内容を読んでいるとは思わなかったが、記憶にあることばかりをしゃべるので、「朗読している」ということがわかった。
翻訳ではない(誤訳がない)ので、安心して聞ける。久しぶりにやれやれだ。


1er episode : Une enfance nomade
1.Il etait un piano noir… d’apres les Memoires interrompus de Barbara 1/10 :

2eme episode :La folie de chanter
2.Il etait un piano noir… d’apres les Memoires interrompus de Barbara 2/10 :

//////////////////////////校正:13回目///////////////////////////
1er episode : Une enfance nomadeを聞いていて
校正すべきところを思い出した。
○原本P.31:J'ai tellement besoin de ma mere, mais comment faire pour lui parler ?  Et que lui dire ? Que je trouve le comportement de mon pere bizarre ? Je me tais. これが訳本では
訳本P.23  私は母をひどく必要としていた。でもどうやって母にそれを父に言わせるようにする? 何と言ってもらう? 私が父の態度を変だと思っているって?ここで私は口をつぐむ
難しい箇所ではない。太字にしたluiを取り違えているのであるが、何をどう勘違いしてこんな訳をひねり出したのか、あまりに初歩的な間違いなのでむしろ驚く。
母の存在が私にはとても必要だった。でも母にどのように言えばいいのか?そして母に何がどうだと告げればいいのか?お父さんの様子が変だとでも母に言う?(母を戸惑わせ、苦しめるだけではないか)私は黙るしかない。
「母にそれを父に言わせる」の誤訳であるが、子供のBarbaraが母を使役するかのようで、誤訳に加えて可愛げのないBarbaraをさりげなく生み出している。不快さの加わる誤訳である。
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シャンソンにもバルバラにもさほど関心がない、しかし信頼できる私の友人に一連の記事の感想を聞いてみた。まず、間違いの多さにびっくりしたという答えが返ってきた。そして、ほかの翻訳本も、気づかないだけで、同じようにたくさんの間違いがあるのではないかと、そういう不信感をふと抱いてしまったと。単なるミスプリ、単なる勘違いの誤訳、内容に関する知識不足ゆえの誤訳、あるいは理解不足ゆえの支離滅裂、ほかには内容誘導のための捏造、目的を達成したいがための思慮を欠いた激しい思い込み、間違った資料の丸写し、資料収集や資料確認の省略、心理的圧迫感からの逃げのための手抜き、いろいろ原因はあると思うが、間違いは必ず誰かによって暴かれる。ところが、中身も読まない確認もしない無責任な評論家の存在によって、暴かれるどころかよいしょされ、善良な読者の前に嘘偽りが黴菌のようにばら蒔かれるのが、資本主義社会のむしろ現状であると言わねばならない。良心は消し飛び、出版した以上売上以外なにも考えられなくなった人間が、ひたすらプロモーションに奔走する。これは供給側の見苦しい狂態である。需要側はどうか?およそ100%の読み手は正否の判断がまず不可能で、鵜呑み、しかできない。「矛盾を突く目」を持った読者など0.001%にもみたないだろう。頭の中は支離滅裂が渦を巻いているのに、見栄からかよく理解できたように振舞う。あるいはそのように錯覚している。そして内心では宝くじが外れたときと同じように自分を慰める。もう一種類別の人種もいる。権威に阿て、わかったような顔をして被害者であることを隠すタイプである。バカがバレるのをひたすら恐れて、むしろトチ狂って加害者側に与しようと謀る、事なかれ主義の似非平和主義者である。
翻訳というものを改めて考えると、読者に原本がない、原語がわからない、という決定的な弱点があるので、錯乱して良心を無くしていても、翻訳者は平然と高笑いできるのである。私はこれまでに2度今回にも増してバカバカしい翻訳本の存在を知ったことがある。一冊は歴史書である。翻訳本なのだが、ネット翻訳のような日本語で、最初から最後まで、全く日本語が意味をなすものになり得ていなかった。もう一冊は高名な筑波大学名誉教授の翻訳本であった。なんと、元の本が出版されていないのだ。お分かりだろうか?原本がないのだから、訳本は何を書いても自由自在。誰にも誤訳や、内容の理解不足を暴かれることもない。「権力に阿て、わかったような顔をしている」輩が多いので、その訳本に原本が存在しないことなど、その手の輩は保身から敢えて口にしない。訳本は原語と訳を左右見開きにして、両方並べるのが望ましい。否そこまでは不要かもしれないが、少なくとも詩作品の翻訳にはそのほうが望ましい。それと絶対に忘れてはいけないのは専門家の厳格な校正である。また出来たら責任を取らせるという意味で(宣伝とは別の意味で)、その分野の権威者の推薦文を帯に掲げるべきだ。この内容を保証しますよ、という推薦者がいれば、その推薦者自身がいい加減な内容の本の出版を許さないだろう。権威に頼りたくない場合は、誠意ある翻訳者がしばしばあとがきに書いているように「不備・誤訳に気づかれた場合は、御教示をよろしくお願いいたします」と書くべきだ。内容に万全を期した、実力に真に自信のあるものだけがとれる謙虚な姿勢である。
出版という知的作業を生業とするものは、プライドとそれに相応する責任と、読者に対する誠意・敬意そして愛情を片時も疎かにしてはならない。翻訳の場合は読者に対してだけでなく、そこに原執筆者に対しても、が加わるのは言うまでもない。


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//////////////追記:2013年7月15日////////////
現在7月15日午前1時
今年のBarbara特番を1回から5回までつまり
すでに半分を聴き終えた。毎回時間も30分にみたない。
早々と中断された回想録に資料を限定しているので
内容的にも広くも深くもない。とても物足りない。
バックに犬や猫の声、意味のない笑い声などが入って
構成的にも面白みに欠ける。なにより最初に書いたように
Barbaraの声優の声に精神の老いとザラつきを感じて、好きになれない。
去年のものと比べてどれくらい品質が落ちたかといえば...
というわけで去年のものを再掲載することにした。
毎回1時間、没後15年だったので特に力が入っていた。
没後15年Barbara特番 第一回:
Barbara en noir et blanc (1) 過去記事
Barbara en noir et blanc : Episode-1


Il etait un piano noir...: Bruxelles (20)

2014年06月01日 11時13分48秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

このシリーズ原稿、数えたら今回が20回目、最初の予想に反して
石井好子先生追悼記事の連続21回を超えてしまうかもしれない。
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Drouot - Barbara:You Tube:
Music Cross Talk 過去記事 Drouot
//////////校正12回目//////////
○原文P.147: C'est la que je croise un matin cette femme bouleversante pour laquelle j'ecrirai la chanson Drouot.
訳文:そこで出会った一人の女性から、あまりにも衝撃的な話を聞き、私はシャンソン「ドルオー」を歌うことになる。
上の仏文に「衝撃的な話を聞き」などという意味は全くない。人から話を聞いてそれをそのまま歌にするようなBarbaraでもない。ある朝ある女性とすれ違ったのはその場所でだった。私はその女性の様子に衝撃を受けこれを「ドルオー」というシャンソンに仕上げた。が正しい。Music Cross Talk過去記事参照。日本歌詞の「貴婦人」に関しても触れている。

○「訳者解題」P.206 この時にその後、30年間バルバラのアコーディオン奏者を務めるロマン・ロマネりともであっている。これを読めばバルバラの人生がわかります、と訳者がいう「解題」や訳本全体の中に、ロマン・ロマネりはこのたったの一行である。Barbaraが回想録にロマネりの名を出していないので、重要さがわからないのだろう。もちろん、Lily Passionの最中に喧嘩してそのまま絶交になったことも全く知らないのだろう。別に構わないが、30年がいけない。Barbaraの人生を全く知らないから30年などと書けるのだ。Roland Romanelliの本「Barbara 20 ans d'Amour」もRomanelliとレベッカの舞台「Barbara 20 ans d'Amour」もご存知ない。計算ができなくても、20年は当然頭に入っているものだ。Barbaraの曲に疎いだけでなく、バルバラにとってのロマネりを知らず、下のこの有名な本も見たことがないのではないか。

私はサンケイホールだったか毎日ホールだったか忘れたがRolandと出会い頭にぶつかっている。38年前、当時銀ギラ銀に輝いていたRolandがすっかりおじいさんになっているのもこれは時の流れ、仕方がない。レベッカとの二人の舞台には客席から最後に拍手が沸き起こるが、Barbaraを支えたRolandに対するBarbaraファンからの温かい拍手だと感じた。Rolandの作曲の歌も多いのだ。観客はRolandに「BarbaraとRolandの時代」を見ている。付け加えるがRolandは単なるアコーディオン奏者ではない。作曲も編曲もピアノもシンセも、とくにいち早くシンセの豊富な音をシャンソンのバックに取り入れた、その分野の先駆者ではないかと思う。BarbaraがRolandに電話して「ジャン・ミッシェル・ジャールさんのお宅ですか」と冗談を言うのも、Barbaraもそのあたりを認識していたからだと考えられる。
Roland Romanelliバルバラを語る(1)

Roland Romanelliバルバラを語る(2)
Roland Romanelliバルバラを語る(3)
(Music Cross Talkより ↑)

○訳本の表紙を外して見てみると、表紙にも帯と全く同じことが書いてある。何故そんなことに気づいたかというと、原本の裏表紙には全く違うことが書いてあることに気づいたからだ。
過去記事で著者紹介にBarbara最後の舞台や1993年のシャトレが記載されていないことを指摘し、これでは紹介にならない、と書いた。Barbaraの人生をほとんど知らない人が書いたのだから仕方がないにしても、Barbara自身はこの本を1994年3月26日、トゥールでの最後の公演で終えている。そしてBarbara自身の「まえがき」は、1993年のシャトレ、中断を繰り返し、最終的に「もう舞台には立てない」と決定せざるを得なかった、1993年のシャトレで始まっている。無知でも自分が訳した内容さえ記憶できていれば、そして多少の熱意があれば、Barbara自身がその著作でこれほど強調した、シャトレとトゥールを、「著者紹介」でうっかり落とすことなどありえないのだ。過去記事で少し触れた内容を何故繰り返しているかといえば、原本の裏表紙に気づいたからだ。裏表紙にはまえがきのはじめの部分、すなわち1993年のシャトレに関する部分が取り上げられていた。「まえがき」である。訳本ではこれが無視されている。「もう二度とステイジには戻らないだろう、もう決して歌わないだろう」と歌手Barbaraがまえがきに書いたのである。シャトレでどれほど重大な事態が発生したか、シャトレでの体験はバルバラにとって、言わば死刑宣告であった。Barbaraはそのことを「まえがき」に書き、編集者は同じ内容を裏表紙に入れた。それが訳本の表紙にはない。訳本の表紙を広げてみると、訳者小沢君江氏が書いた要約らしきものにすり替わっている。1993年のシャトレがなければ、Barbaraはそもそもこの本を書く必要はなかったのである。

2013年7月8日France CultureでBarbaraのこの本
「Il etait un piano noir...」を基にしたラジオ放送がはじまった。
すでに2回放送を聞いたが共に、
シャトレの出来事「もう二度とステイジには...」
のBarbaraの本の「まえがき」で始まる。
訳本の表紙から消えただけでなく、訳者の記憶からも消された
あのシャトレの体験の言葉が毎回初めに繰り返されるのである。

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Il etait un piano noir...Bruxelles (2)- 人物紹介-(7)

2014年06月01日 11時12分51秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

人物紹介(7)にはBarbaraの人生に深く関わるわけではないが、本にその名前が出てくる、やや意外な人物を紹介したいと思う。このペイジは追記予定。

Paul Nouge シュールレアリズムの詩人といっても、ベルギー人はあまり知られていない。それは女性のシュールレアリストがあまり知られていないのに似ているかもしれない。Paul Nougeは、あのルネ・マグリットに多大な影響を与えた詩人、となれば、検証しないわけにはいかない。
Paul Nouge & Rene Magritte:Ceci n'est pas une pipeより

・・・・・・・・・・・・・・・追記:2013年7月12日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Giuseppe Arcimboldo: Ceci n'est pas une pipeより
Giuseppe Arcimboldo: The Librarian c. 1566


Il etait un piano noir... France Culture-2 (22)

2014年06月01日 11時12分08秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

3ème épisode :Chanteuse de minuit
3.Il était un piano noir d’après les Mémoires interrompus de Barbara 3/10

4ème épisode Devenir Barbara
4.Il était un piano noir d’après les Mémoires interrompus de Barbara 4/10 :

//////////校正14回目//////////
早急に対処しなければならないことが一気に複数件重なって
ボランティアの校正に時間が取れなくなった。
今回は結構はじめの方で気づいた、
非常に重要な誤訳のひとつに触れるに留める。
訳本P.58: ピアノのレンタル料が払えなくなった場面である。
まるで肉体の一部が切断されたようだった。助けて欲しかった...。その時腎臓の下あたりがずきずき痛むのを感じた。この痛みは私が人生の大きな困難に直面するたびに生じるようになる。
原文P.70:C'etait comme une amputation, j'aurais voulu que l'on m'aide...Je me souviens de la douleur lancinante que je ressentis dans le bas des reins; elle reviendra a chaque bouleversement intense de ma vie.
この辺は一度自分で訳した人間にしかわからないかもしれないが「腎臓の下」がおかしいと思い出したのだ。自分は腰と訳したはずだ。「人生の困難に直面するたびに生じる」とBarbaraが書いているように、この同じ痛みは本の中に二度でてくる。一度はナントの病院から電話がかかってくる場面、二度目はタクシーで病院につき、病院の入り口に立った時である。訳本ではP.106&P.107。原文ではP.127&P.128
Une douleur brulante glisse dans mes reins.とDevant ses portes, la meme douleur me cloue sur place. 訳:「焼け付くような痛みが腰を貫く」と「病院の入り口に立ったとき、電話で父の死を知らされたときと同じ痛みが腰まで貫き、その場に釘づけになる」、ナントの場面ではreinsを腰と訳している。自分が訳した内容をしっかり記憶している翻訳者ならば、「 ピアノのレンタル料が払えなくなった」前の場面を思い出すはずだ。「この痛みは私が人生の大きな困難に直面するたびに生じるようになる。」の自分の訳を覚えていれば、「腎臓の下」が誤訳であったことに、ここで気付くはずだ。繰り返す。人生の困難な場面は三度、1.ピアノが家から持ち去られたとき。2.病院から父の死を告げる電話を受ける場面。3.病院の入り口で立ちすくんだ場面。同じ衝撃なのだ、同じ痛みなのだ。Barbara自身がそう書いているのに、ひとつだけ「腎臓の下」と訳しては、全体的インパクトがなくなってしまう。作業を急ぐあまり、翻訳に身もココロも入っていない、この翻訳者のいい加減ぶりが重要な場面の誤訳で、モロに出てしまっていると言わざるを得ない。
これもそうだが、考えられないような初歩的な誤訳が多すぎる。しかも重要な場面で。ところどころ学生崩れを複数雇って、お金を払って原稿用紙を埋めさせたのではないかと思えるくらいだ。肉体に痛みを感じる場合、背中、腰、胃、心臓、胸などが痛いと人はいうが、医者でもない限り「腎臓の下」が痛い、などとそもそも人が言うだろうか。仮に超入門クラスのフランス語学習者であっても、辞書をみてreinsには普通「腰」という日本語を当てる。どこから腎臓が出てきたのかわからないが、本人校正を一度でもしていたら、赤面して校正は済んでいた筈なのだが。

最初に書いたように、時間が取れなくなったので、この致命的誤訳づくめの訳本のボランティアの校正は、そしてこの訳本に関する記事はあと1、2回で終わりにしようと思っている。まだ4割程度しか、目を通してはいないが、Barbaraファンに伝えるべきことは、おおよそ伝えられたように思う。特にBarbaraが(もし日本語がわかれば)絶対訂正したいと思うようなところは、ほぼ校正できたのではないかと思う。あくまでも「おおよそ」であり「ほぼ」ではあるけれども。

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Il etait un piano noir... France Culture-3 (24)

2014年06月01日 11時08分59秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

5ème  épisode : De l’écluse au Chatelet
Il était un piano noir… d’après les Mémoires interrompus de Barbara 5/10:
-Ma plus belle histoire d’amour- Le Piano noir-Ô mes théâtres-Pantin-des extraits de “Barbara et son public”

6ème épisode Des maisons, un jardin
Il était un piano noir… d’après les Mémoires interrompus de Barbara 6/10:
-Drouot, Rémusat, Précy jardin, Ma maison et un extrait de Pierre de Barbara

7ème épisode Amoureuse
Il était un piano noir… d’après les Mémoires interrompus de Barbara 7/10:
-Toi l’homme, C’est parce que (je t’aime, Amoureuse, A chaque fois, Je ne sais pas dire, Ma plus belle histoire d’amour de Barbara

8ème épisode Rencontres de hasard
Il était un piano noir… d’après les Mémoires interrompus de Barbara 8/10:
-Une petite cantate, Le mal de vivre, Campadile, Quand ceux qui vont et des extraits de Mr Victor de Barbara





一番最初に入手した最も思い出深いLP

好きな曲ばかりで埋め尽くされている


Il etait un piano noir... France Culture-4 (25)

2014年06月01日 11時08分21秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

9ème épisode Pour d’autres que soi
Il était un piano noir… d’après les Mémoires interrompus de Barbara 9/10:
-Sid’amour à mort, Rêveuses de parloir, Sans bagages, Perlimpinpin de Barbara
私自身のためのシャンソン(4) Sans Bagage秘話: Music Cross Talk:

Episode 10 : Seule
Il était un piano noir… d’après les Mémoires interrompus de Barbara 10/10
-Attendez que ma joie revienne, La solitude, L’enfant laboureur, Mémoire mémoire de Barbara

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Sarah chante Barbara  You Tube
声もいいし歌唱もいい。何よりBarbaraを歌った
歌手の中では(このfilmに関しては)一番の美人、
何もそんなに急いでクリックしなくても...
Sarah Rubato: Pierre et Nantes

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没後15年Barbara特番 第二回:
Barbara en noir et blanc : Episode-2
2012年07月10日 Correspondances 過去記事
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Mon Enfance Barbara (26)

2014年06月01日 11時07分48秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

Gérard Berliner Mon Enfance
以前に一度紹介しているかもしれない

Sylvie Vartan Mon Enfance
以前に紹介したがリンクが切れてしまったので再度

Calogero - Mon enfance
紹介したが、あまり記憶に残っていない

Mon enfance -Angelina Wismes
今回初めて
(Angelina Wismes et Fanny Leeb : L'aigle noir )

Mon Enfance par Vincent Delerm
紹介済み

Mon Enfance by Thomas Vitriol
今回初めて 下に写真を置きました

Barbara - Mon Enfance
このyou tubeはすでに紹介済み
しかしこれが最高の仕上がりなので再度

没後15年のBarbara特番
素晴らしいので再掲載中
Barbara en noir et blanc : Episode-3

・・・・・追記2013年7月25日・・・・・
石井先生と連絡を取り合うようになって一番最初の頃
最初の年だったか、パリ祭の切符を頂いた。
「楽屋に来たら堀内美希を紹介する」と言われた。
バルバラファンとしては嬉しいお誘いだったが
おじけづいていかなかった。そんなことを思い出した。
堀内美希 「Pierre」: You Tubeにあった。


Nicolas Bataille et Barbara (27)

2014年06月01日 11時07分02秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

昨日ある方にメイルを入れていて、なんとなく書物と文学の話になった。まあ40年くらい前の話になったのだが、その頃詩人のあいだで絶大な人気があったのはジョルジュ・バタイユ、でバタイユのことを書こうとしたら、なんのことはないNicolas Batailleが先に思い浮かんできた。そしてNicolas BatailleとBarbaraの交友について自分が書いた過去記事を思い出した。
Music Cross Talkを目を皿のようにして読む熱心なBarbaraファンしか、おそらくだれも知らない話題だと思う。
なぜこういう文学の話になったかというと、昔石井好子先生に先生の愛読書だったロルカの詩集を頂いた。確か英語版だったと思う。石井先生は詩作品がお好きな方で、コンサートでも時々詩の朗読をされた。好きな詩人はロルカであり、頂いたその詩集も手に取るだけで、石井先生のロルカに対する深い愛情が伝わってくるようなものだった。長い間大切に保存していたのだが、愚かしくも最後にその本を捨ててしまったのだ。詩に関する本を全部処分したのだ。バシュラールの「空間の詩学」も栗田勇の「アントニオ・ガウディー論」、「マルドロールの歌」、そして吉原幸子をはじめたくさんの日本の現代詩人たちの詩集。一斉に捨てた。私は昔々詩の朗読をしていて、そのテイプの一つを石井先生に送ったのだと思う。朗読を褒められた記憶はないが「この人は詩が好きなようだから、この一番大事な私の愛読詩集をあげよう」ときっと思われたのだろう。本当に後悔している。しかし詩集に限らず、私はよく本を捨てる。なぜだろう。身近に置くと本に支配されるとでも思っているのだろうか?否、おそらく消化したいと思っているのだ。消化したからいらない、と思いたいのだ。だから大事なものでも、たいていは読んだら捨てる。悪い癖だ。その癖のために読まないものまで捨てるのだから。
クセナキスの音楽理論の本は20年近くもっていた。いつか消化しようと思っていたのだ。何年経っても歯が立たず、これも結局読まずに捨ててしまった。繰り言はこれくらいにして「Nicolas BatailleとBarbaraの交友」という過去記事を紹介しよう。

Music Cross Talk過去記事
Nicolas BatailleとBarbaraの交友
Nicolas Batailleとは
ついでにGeorges Batailleも紹介しておこう。
Georges Bataille - À perte de vue :You Tube


Barbara - Depardieu: Lily passion (28)

2014年06月01日 11時03分17秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

出していないわけではないが、Lily Passionは滅多に出さない。
思い出したように、とりあえず出してみる。
Lily Passionを見たいという日本のファンはそんなにいないだろう。
DepardieuとBarbara、Lily Passion Zenith 1986
No.1  &  No.2  &  No.3  :

こちらは同じものを何度か出している。
最後に一番近くにいたのはDepardieuだったという事実。
OBSEQUES BARBARA BAGNEUX
日本のDepardieuファンは
Lily PassionのBarbaraをどう見ているのだろう。

Barbara inaugure la rue de la grange au loup:video
Barbara inaugure la rue de la grange au loup:article


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マリー・ポール・ベルよりも前にBarbaraを録音した歌手がいる。
しかもドイツ人の美人歌手。
PLANETE BARBARAではもちろん紹介済み。
しかしPLANETEに来ていたBarbaraファンでも憶えている人は少ないだろう。
今彼女は歌手であり画家である。彼女の画家の部分をArt Blog
Ceci n'est pas une pipeで記事にした。
Nanette Scriba: 歌手兼画家
興味のある方はクリックしてみては?
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