CORRESPONDANCES

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石井好子(9) 朝吹登水子

2010年08月30日 17時19分05秒 | 追悼:石井好子

ホテルに行く途中のタクシーでは、石井好子をサルトル達の真ん中に座らせた。後続のタクシーに乗っていた私は、石井好子がボーヴォワールの肩に顔を寄せているのが見えた。タクシーを降りたボーヴォワールと好子は二人ともよいご機嫌で、いささか千鳥足。好子は好きだったジャコメッティのことをボーヴォワールとしゃべって、彼女の腕の中で泣いたのだった。大のボーヴォワールの愛読者であり、最も尊敬する作家の腕の中で泣いた好子は幸福だった。-出典「サルトルボーヴォワールとの28日間・日本」朝吹登水子著 同朋舎出版 P.96ー
肩書きを外した石井好子さんが、ここには見える。パリ滞在中ジャコメッティと親しくされていたことはご自分の著作にも書かれている。そしてサルトルとボーヴォワールが来日した時、手料理をご馳走したのは石井好子さんだった。

朝吹氏に関して「著作でレジーヌのことを味噌糞に書かれてますよ」と石井先生に言ったのは私だ。その頃のレジーヌは夜のパリに君臨した成り上がりの女実業家(金主はロスチャイルド)だった。その背後にはユダヤ人コネクションが存在していたのだ。バルバラがゲンズブールと一緒にツアーをしていたり、駆け出しのバルバラがマリー・デュバを病院に見舞ったりしているのもその関係だ。石井先生はエミール・ステルン(
この曲の作曲者)に連れられてレジーヌのパーティーにいったことがあるそうだ。そこには誰と誰がいてとかかれていたが、フランス芸能界にはユダヤ系はたくさんいるので、名前は大部分忘れてしまった。意外だったのがロミー・シュナイダーの名前。ひょっとしたらドロンと結婚できなかったのは、ユダヤ系の家系が原因(宗教)だったのかもしれない。

昨日ベルサイユから里帰りした登水子と会った、これは登水子のお土産です、と言って小さなカレンダーの壁掛けをいただいたことがある。あのサガンの朝吹登水子さんのお土産だと思うと嬉しかった。

登水子が倒れた、というお手紙もいただいた。朧な記憶だがこのとき既に娘の由紀子さんは入院中だったかもしれない。喪主は孫の牛場潤一氏。また凄く優秀な方で、石井先生によると、大変なおばあちゃん孝行な人で、年上の女医と結婚したとあった。さすが登水子氏のお孫さん、素晴らしい研究をされている。
牛場というのは珍しい名前、ひょっとして牛場友彦と関連があるのですか、という愚問には、無回答であった。(追記:10月9日:由紀子さんのご主人は牛場友彦の甥だと判明

ハーバート・ノーマンと朝吹家の関係を知って、石井先生もハーバート・ノーマンとお会いになったことがありますか、と聞いた質問にも無回答であった。(訂正:12月21日: 古い便箋の中に、ノーマンについて詳しく書いて質問もしているものが見つかった。石井先生の体調を考えて、結局この手紙は出さなかったのだ。無回答であったわけではない)こういう政治的なことを聞かれても困惑されただけだろう。(追記:そう思って出さなかったのだろう)この人は日本に深い知識をもち、近年非常に評価がわかれる人物。日本の多くの最先端知識人と深い交友関係がある。
そう言えば何かの著書で読んだ記憶(ちょっと朧)があるのだが、朝日新聞(尾崎はお父上の新聞社の同僚)の関係からと思われるが、石井先生は逮捕前日の尾崎秀美ゾルゲ事件)と確かご自宅の庭で言葉を交わしておられる。翌日逮捕されて吃驚したと書いてあった。
ハーバート・ノーマン(1)ハーバート・ノーマン(2)
ハーバート・ノーマン(3)ハーバート・ノーマン(4)
ハーバート・ノーマン(5)ハーバート・ノーマン(6)

石井先生は著作も多く、その中で2度の結婚についても詳しく書かれている。そして恋人だった人たちも恋心を抱いた人たちの名前も結構登場する。ただ石井先生に「先生の大切な○○さんのことが、朝吹登水子氏の著作に、初恋の人、として登場してますよ」と指摘したのは私だ。「一緒にパリに住んでいた頃、その話を登水子から聞いて、私は実はその人と婚約してたのよ、といったら、登水子が物凄く吃驚してとてもとても悔しがった」という話は他のどこにも書かれていない。二人が昔同じ人を好きだったと言う話は今回初公開。その男性は
この人(作家)の次男。この人(俳優)の弟。有島敏行氏。若くして亡くなられた。どんなに素敵な男性だったかは、想像するに容易い。

・・・・・追記:2010年10月14日・・・・・
石井好子とジャコメッティに関して
参照:ジャコメッティと二人の日本人


石井好子 (8) 歌手は恋を歌う

2010年08月24日 13時08分18秒 | 追悼:石井好子

「ご無沙汰してます
私ずっと病気で長いこと寝てます。
直りが悪く、自宅でぶらぶらしてます。
元気になり、いつの日か
あなたとも会えることを願ってます
あなたは元気でいてね。
楽しい手紙下さい。
石井好子」
やっと最後の葉書きを見つけた。消印は5月18日、渋谷となっている。
いままでは病気だったけれど、今は元気です、という風な手紙しか来た事が無い。これはただ事ではないと思った最後の葉書きだ。すぐに会いに行くべきだった。でも自分が行って何の力になれるのかと考えた。自分が若くてハンサムな男性なら、多少はうぬぼれることもできる。石井先生のまわりの、きら星のごとく才能に輝く人たちの世界に、どういう顔で入っていけばいいのか。行って何かプラスになれる自信などまるでなかった。
最初で最後の電話の後、2度手紙を書いた。内容は上に書いたようなことだ。
「若いハンサムな男性ではないのでお見舞いに行っても無意味なので、行かない」と言うことを手紙に書いたのには理由がある。

若い恋人が晩年のデュラスと自分の関係を書いた本が映画になって、それを見て、身につまされた、という手紙を石井先生から受け取ったことがある。似たような体験があると書かれていた。迷った上で拒否したとあった。映画見て、かつての恋を思い出すとうことは、彼女は恋に生きる人だったのだ。恋の歌を歌う歌手なので当然のことである。一生ときめいていたい、とも手紙に書かれていた。
以前Barbaraの照明担当ジャック・ロベラリスのことを書いたときも()()、ジャック・ロベラリスは自分にとって特別な人で、心ときめいているのだと返事が来た事がある。ジャック・ロベラリスは石井先生のオランピアの照明をあてている。この恋心に関しては、手紙だけでなくどこかの本にも書かれていた。
歌手は常に恋心を失ってはいけない。だから病院に見舞うにしても、その可能性のある人物でないと絵にならないと私は考えた。イメージを守るためにも姿を見せてはならない存在というものはあるのだ。
・・・・・・
私にはベルギー人のRoseという友人がいて、Roseの写真を人に見せると10人中10人が必ず「おかま」だという。それで一度石井先生にも、これが私ですと書いてRoseの写真を20年位前に送った。石井先生の反応は「あなたって、外人なの、ではなく、あなたって、おかまなの」と言うもので大笑いした。勿論冗談のきつい人だと思われたに違いない。
一度、森林ボランティアの集団の中にいる自分の写真を送ったことがある。都市生活に疲れて森林活動に熱中していた頃だ。
「写真有難う。なかなか可愛らしい人ですね」と返事が来た。
「あなたが山に行く気持ちわかります」と書いた手紙も来た。
いずれにせよ、私に関しては、オカマではないらしいというくらいのイメージしかなかったと思う。
・・・・・・
あとは60周年だ。一度断念して、直前にやはり行くことに決めた。席は用意してくださった。感想を書いたら)()返事が来た。
「来てくださってとても嬉しかったけれど、楽屋に顔を見せてくれませんでしたね」とあった。私にははじめからその発想はなかった。
最後は木原さんの死だ。木原さんの代役になど、とてもなれない。

「あなたとも会えることを願ってます。」
最後の葉書きを見て思う。
独り善がりなほど徹頭徹尾観念的存在でありつづけたことは、距離を取るための、それなりの意味があったのだろうか、それとも、無責任で卑怯な気持ちがどこかに隠れていたのだろうか。


石井好子 (7)

2010年08月16日 17時57分45秒 | 追悼:石井好子

想い出や、あまり知られていないことの紹介などを書こうと思っているのだけれど、書くべきか書かざるべきか迷う時もある。故人の想い出を書くことは言葉の中にその魂を再生して見せることだと思っているから、本当は書き尽くすことこそ残された者の愛情だとも思う。しかしどうしたことか思考にまとまりを欠いてしまっている。思考も筆も動かないのだ。

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追記:2010年10月4日
石井先生はその著書「私は私」のあとがきに
死して亡びざるものは寿し(命永し=いのちながし)
と言う言葉を紹介しておられる。
死んでしまった人の事を話す。その時、死者は話の中によみがえって生きてくる。それは寿ぐ(ことほぐ)ことなのだーと言う意味の老子の言葉らしい。
石井先生はスケールの大きな人生を歩まれた。もっと多くの人達に繰り返し語られてしかるべき方だったと思う。


石井好子 Her Children (6)

2010年08月02日 15時51分55秒 | 追悼:石井好子

喪服姿の写真が送られてきた。場所は自宅。運転手の愛犬Paricoちゃんもいる。十数年前だっただろうか?
その人は孤児で、石井先生はその人に奨学金を送りつづける「母」をずっと続けてこられて。その男性を大学まで通わせ、電通に就職させ...。どんな親子だったのだろうか。その男性は結婚し、子供をもうけ、家庭を築き。その間ずっと母親をされたのだろう。名前は書かれていない。あるのは、息子に死なれた母親の無念の気持ち、それもママ母に近い、誰にも言えない複雑な喪失感だったに違いない。血を分けたでもない、生活を共にしたでもない親子。お互いにとってお互いは特別な存在であった筈だ。大人になって仕事上でも彼はとても私によくしてくれた、と書かれてあった。
この息子のことは著作のどこにも書かれていない。歌手石井好子ではない、別の領域での交流であったのだろう。「親よりも先に死ぬ以上の親不孝は無い」-父が死んだとき祖母が言っていた言葉を思い出した。喪服を着た石井先生。あなたに若死にしたこんな息子がいたことを、何人の人が知っているのでしょうね。
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娘なら多い。岸洋子、加藤登紀子、田代美代子、しかし何といっても一番の娘は木原光知子さんに違いない。木原さんの急死はどんなにショックだっただろうか。木原光知子さんには高齢の実母もいて、その方と二人で手を取って悲しみを共にされた。それから体重の激減、10キロを超える減量だった。体形は別人になられた。食欲が無いので、口に無理に食べ物を押し込んで口を動かしている状態だと、書かれていた。ミミちゃんが石井先生にとってどのような存在かはFM放送を聞いているだけでよく分かった。二人の気持ちの間に垣根がないのだ。木原さんが倒れたその夜、実は4人で食事の約束があった。木原さん、木原さんのお友達、石井先生、そして葬儀委員長をされた弟君の公一郎氏。急遽キャンセルされた。その日をどんなに楽しみにされておられたことか。
手元に手紙もメモも無いので、年月は前後するかもしれないが、木原さんの後大木康子さん、その数年前には朝吹登水子さん。そして近年には「実の娘のように思っていた」大切な可愛い由紀ちゃん(朝吹氏の愛娘)。あちらの綱引きに引き手が急激に増えすぎた。

しかし腰の手術を決断されたのは、あちら側に目が向いたからではない。旅立ちよりも復活に、心はそのための腰の回復にフォーカスしていた。常にベストコンディションを心がけておられた。手術少し前の健康診断でも、全くの異常なし、従って手術には完全に健康体で臨まれた。あちこちで入院グッズを買い揃え、覚悟を決め希望に燃えた入院だった。