CORRESPONDANCES

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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(5)

2016年02月12日 18時47分38秒 | Barbara関連情報

5."entre nous" な雰囲気

 前述したように,第二次大戦中のバルバラは,ユダヤ人であることを隠し,密告や逮捕の恐怖に怯えながら過ごさねばならなかった。戦後20年経ってもその記憶は鮮明で,ドイツに行くのは当然嫌だった。その彼女が,行かねばならぬ義理などこれっぽちもない「敵地」に-ましてやグンターに口説かれたわけでもないのに-乗り込むことにしたのは,結局,タイミングの問題が大きかったのではないか,と筆者は考えている。
 1963年末から1964年春にかけての時期は,バルバラの一大転機にあたる。「相変わらず私はレクリューズにいたが,そこを辞めて自分の翼で飛び立ちたいと思っていた。[レクリューズの共同経営者である]Léo Noël,Marc Chevalier,André Schlesser,Brigitte Sabouraudは,私が1964年の春で辞めることに同意してくれた」(Mémoires, p.124)のである。初めてアシスタント(Françoise Lo)を雇った後,彼女はレコード業界屈指の実力者として知られていたフィリップス社のクロード・ドジャックClaude Dejacquesから誘われ,年明けとともにCBS社との契約を解除してフィリップス社に移り,彼の監修で自作の歌からなるアルバム作りを始める。6年間続いたレクリューズでのステージは1964年2月をもって終わり,その後,単発であちこちのコンサートに出演していた(Lehoux, p.411)。そんな,新しいステップを踏み出そうとしていた時期に届いた「熱い恋文」だったからこそ,彼女の心は大いに揺れ,結局ゲッティンゲン行きを決めたのだ。
 ところが,バルバラが恐る恐るひとりで飛び込んだ場所は,彼女がイメージしていたドイツとは大きくかけ離れていた。そこには,バルバラを受け入れようとする空気-稀にみるフランスびいきの雰囲気-がペンカートを中心に醸成されていた。それは,決して急ごしらえのものではなく,彼女が学生雑誌『プリズマ』に記事を載せた頃,いやそれより前の,パリに交換留学生を派遣するようになった1950年代前半からこの大学で育まれていた伝統のようなものであった。そのことは,ハプニングで始まった最初の晩の一部始終を報じた地元紙の記事からもはっきり読み取れる。

   開演予定の22時になっても楽器はまだ届いていなかった。一方,パリの香りがする音楽を聴きたいと思った聴衆は皆集まっていた。彼らは模範的な態度で,劇場の地下にある談話室で待機した。ボヘミアンの(=束縛のない自由気ままな)空気が全体を覆っていた。軽い,和気あいあいとした雰囲気で,人々は "entre nous"(仲間うち)のように感じていた22)。

 開演予定時刻について,Mémoiresは20時30分としているが(p.134)これはバルバラの記憶違いで,この記事が述べているとおり-そしてその時刻はペンカートが「最終確認書」で伝えていた時刻と一致する-22時だった。全体を通じて情報が驚くほど正確なこの記事によれば,グランドピアノがステージに運ばれ,開演されたのは23時。この,文句を言ったり,怒って帰ったりするどころか,軽い,和気あいあいとした雰囲気で人々が待っていたというのは,驚嘆すべき心の余裕ではなかろうか。バルバラが「真夜中の歌手」と呼ばれていたことはペンカートから聞き知っていたはずだから,いっそ開演が本当に真夜中になることを期待する人さえいたかもしれない。ともかく,この冷静な記者が観察したように,開演前から "entre nous" な雰囲気が存在したことが,バルバラの心の変化=「赦し」(だからこそCar il y a des gens que j'aimeという歌詞が生まれた)を引き出す大きな要因でもあったと思う。ペンカート,JTのスタッフと支配人,学生,教授という集団はたしかに内輪の小さな集まりだった。しかし,彼らのフランスびいきは本物であり,その意味でゲッティンゲンはドイツの中でも極めて特異な町だったと言えよう。

・・・つづく・・・


22) Göttinger Presse(1964年7月6日付),因みにこの "entre nous" は,ドイツ語の辞書にも載っている。

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執筆者及び発表誌
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バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美 天理大学国際学部准教授
ドイツ文学・ドイツ地域研究・独仏関係史
 「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45

2015年12月 シャンソン研究会発行 
〒390-8621 松本市旭3-1-1

信州大学人文学部フランス語学
・フランス文学研究室内 
シャンソン研究会 代表者 吉田正明 

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参照: 人物関係に関して
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Claude DejacquesとBarbara
Music Cross Talk -1
Music Cross Talk -2
Music Cross Talk -3
Music Cross Talk -4
Sophie Makhno (=Francoise Lo)とBarbara
Music Cross Talk -1

Music Cross Talk -2
Music Cross Talk -3
Correspondances -1

追記:2016年2月13日
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参照:entre nousに関して
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番外編に出したこれや、これや、この3枚の写真を見れば、「entre nous」は濃厚に理解できる。Barbaraをこれほどまでに暖かく迎え入れた人たちはどういう人たちなのだろう。
ミュンヘンのDie Weiße Roseのグループに類似した人たちなのだろうか?あるいはこの映画のように反Hitlerの人たち子供たちなのか?あるいはこの複雑な映画制作に何か関連のあるひとたちなのだろうか?
それとも単に偶然に気持ちの似通った人たちとの稀有で貴重な出会いだったのか?ずっと考えているが答えが出ない。
それで思い出したのだが、私にも一人で偶然訪ねた街で、その地区のほぼ全員の方達とすっかり意気投合した街がある。
私がBruxellesというハンドルネイムを使っているのはその思い出のためだ。
祖国でもその生まれ故郷でもこれだけ気の会う人たちには出会えない、と思った。BarbaraにとってはGottingenがそうなのだ。
Gottingenの誕生は偶然の、従ってある意味神様の思し召しなのだろう。
「une femme qui chante」のBarbaraに、最初は仏独和解の政治的意図などなかったことだけは、今ここで明快にしておきたい。
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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(4)

2016年02月07日 22時54分52秒 | Barbara関連情報

バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美 天理大学国際学部准教授
ドイツ文学・ドイツ地域研究・独仏関係史

「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45
より 筆者の許可を得て転載
2015年12月 シャンソン研究会発行 
〒390-8621 松本市旭3-1-1

信州大学人文学部フランス語学
・フランス文学研究室内 
シャンソン研究会 代表者 吉田正明 

第7号には中祢氏のほかに
高岡優希氏(大阪大学非常勤講師)
三木原浩史氏(神戸大学名誉教授)
吉田正明氏(信州大学人文学部教授)
らが研究を発表されている。
シャンソン・フランセ-ズ研究に興味のある方々には
魅力のある出会いに繋がりそうな気がする研究会である。
手にとってご覧になられると良い。存在自体が心強い。
中祢氏には、早くも続編への期待が高まっている。
どの方向にハンドルを切られても
Barbara Siteからの資料提供は出来ると思っている。
問題は「残された時間
とりあえず初編だけでもCorrespondances
にこうして取り上げることが出来た
この奇跡的邂逅に再び感謝したい。

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4.JTの「シェフ」,教授の「ミニ講義」

 バルバラが親しみを込めて「グンター」と呼んだハンス=グンター・クラインHans-Gunther Klein(1931~1982)は,とにかく芝居一筋に生きた男である。彼は大学には進まず,1957年,26歳の若さで小さな劇団JTを立ち上げた。JTすなわち「ユンゲス・テアーター」(Junges Theater)はドイツ語で「若い劇場・劇団」を意味するが,これは市内にあった「ドイチェス・テアーター」Deutsches Theater(「ドイツ劇場・劇団」の意)を意識した命名であった。19世紀末に創設され,ゲーテ,シラー,レッシング,シェイクスピアなど古典の大作を得意とするこの大きな劇場とは異なる路線を目指したクラインは,旗揚げの年から不条理の傑作とされるS.ベケットの『ゴドーを待ちながら』を年間60回も上演するなど,革新的・実験的な小品を精力的に取り上げた。バルバラが訪問する直前のシーズン(1963年9月~1964年6月)も,J.P.サルトルの『墓場なき死者』,M.カモレッティの『ボーイング・ボーイング』,S.ベケットの『芝居』など,フランス現代演劇を積極的に取り上げている17)。

 だが,実験好きな小劇場が商業的に成功するのは難しい。学生が常連客である点に配慮してチケット代を低めに抑えていたこともあり,JTは70年代に入るまでずっと赤字続きで,役者や裏方への報酬も低かった。赤字はクラインが母親から譲り受けた遺産を取り崩しながら補てんしていた。それでもJTにすべてを捧げた熱意の人クラインは,周囲から「シェフ」(Chef)と呼ばれ慕われていた。市は,1982年,51歳の若さで世を去った彼に「ゲッティンゲン市栄誉メダル」を贈り,「彼に率いられたJTは定評のある劇団に成長し,その芸術性は,市から遠く離れた地域でも高く評価されるようになった」とその功績を称えた18)。

 筆者は,2014年8月,この「シェフ」と親交があったK=U.ビゴット,K.ベルゲマンの両氏からも話を聞くことができた。1964年当時,ゲッティンゲン大学で仏文学を専攻していた二人は,仏文専攻の学生で組織されていた演劇部のメンバーだった。バルバラが来訪した7月初めは,上演を目前に控えたモリエールの『町人貴族』の稽古がまさに仕上げ段階を迎えていた。彼らは,夜にバルバラが歌うステージで,昼間に舞台稽古を行なった。フランス語の発音についてバルバラに質問したこともあったという。ハプニングに見舞われた最初の晩ではないものの,二人ともバルバラのリサイタルを生で聴いている。

 仏文学に加えて歴史学も専攻していたビゴットは,1964年当時,学生寮「歴史コロキウム」の寮生-ということはペンカートの後輩-でもあった。2014年6月,Göttingen 誕生50周年の記念行事が催される一週間前,彼はペンカート先輩に送った手紙のなかで次のように述べている。

 わが友ハンス=グンター・クラインとは,バルバラのリサイタルの話をよくしました。彼こそゲッティンゲンにおけるバルバラの「発見者」だと言う人もいますが,本人はそんなふうに考えていませんでした。彼はあなたが果たした役割をいつも高く評価していました19)。


  ゲッティンゲン滞在中の交流に話を戻せば,バルバラは教授の「ミニ講義」も2度受けている。講義といっても決して堅苦しいものではなく,JTの地下にあった談話室で行なわれたバルバラと学生との交流会の席でペンカートが恩師に頼んで実現したものだった。一つ目はフランスの歴代国王に関するもので,講師は歴史学の教授P.E.シュラム Percy Ernst Schramm(1894~1970)。中世史の大家シュラム先生によるフランス語での講義は,ブルゴーニュワインのグラスを傾けながら行なわれた20)。一緒に話を聞いていた学生もフランス語で発言し,彼らの知識の深さにバルバラはよほど驚いたのだろう。

 第3連に登場する名前のうち,Hermann, Peter, Helgaの3つは,バルバラから「ドイツ人っぽい名前」を求められたペンカートがとっさに提供したもので,ラジオ番組のなかで「Hermannは私の友人の一人,Peter は従兄弟,Helgaは父の再婚相手の名」と「種明かし」をしている21)。だが,4つ目の名については,先行する2行と同じ鼻母音 [ã:s] をもつHansをバルバラのほうですでに用意していた。『ムッシュ・ハンス』Monsieur Hans(作詞Eddy Marnay,作曲Emil Stern,1958年)から採ったのである。

 「ミニ講義」の二つ目は,1829年から8年間ゲッティンゲン大学で教鞭を執ったグリム兄弟に関するものだった。Mémoires では,滞在二日目にグリムの家を見つけたことが述べられている(p.135)だけだが,講義も行なわれていたのである。講師は,北欧文献学が専門で,古代ゲルマンの神話にも詳しいW.ランゲWolfgang Lange教授(1915~1984)。ペンカートによれば,彼はシュラム教授とも仲が良かったという。

(つづく)

 ・・・註・・・

17) Theater 1964.  Chronik und Bilanz des Bühnenjahres.  Friedrich Verlag, Velber bei Hannover, 1964. S.170.

18) 地元紙 Göttinger Tageblatt がJTの歴史を回顧した以下の記事を参照。http://www.goettinger-tageblatt.de/Nachrichten/Goettingen/Themen/Goettinger-Zeitreise/Mit-Ach-und-Krach-und-immer-wieder-aufs-Neue

19) 50周年記念行事は,2014年6月27日から3日間催された。フランスからは,バルバラの甥 Bernard Serf氏,"Barbara-Perlimpinpin" 代表のMartine Worms女史,歌手のMathieu Rosaz氏が招待された。手紙は入院中のためこの行事に出席できなくなったビゴット氏が,先輩のペンカートに送ったもので,筆者はペンカートからそのコピーをいただいた。

20) Schöne, Albrecht (Hrsg.): Göttinger Vademecum. Ein litearisches Gästebuch und historisches Poesiealbum, welches leselustige Fußgänger und spazierfreudige Leser in 5 Jahrhunderte führt und durch 172 Straßen der Stadt, München und Göttingen, 1985, S.167.  なお,シュラムは1960年に『フランスの国王 9~16世紀における君主制の本質』の改訂版を出していた(初版は1939年)。Schramm, Peter Ernst: Der König von Frankreich.  Das Wesen der Monarchie vom 9. zum 16. Jahrhundert. 2 Bde. Darmstadt, Wissenschaftliche Buchgesellschaft, 1960. 

21) 註15参照。

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Correspondances 過去記事
GOTTINGENのBARBARA
番組の文字記録は残っているが
時間が経ちすぎて現在は音声は出ないようだ。
このような放送を聴いた記憶をたよりに
過去記事を探してみた。
ひょっとしたら探せばCD化したものを
持っているかもしれない。
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Music Cross Talk過去記事
Claude Vinciについて
Claude Vinci (2)
Claude Vinciの証言 (3)
何故Claude Vinciかというと
Barbaraは昔の友達に対して
非常に冷たい、旧交を暖めるような
態度を一切とらない、というようなことを
発言していたからだ。
Barbaraを知るほとんどの人たちが
Barbaraとの交流を自慢げに語る中で。
GottingenがBarbara個人の歌でなく
政治色を帯びていくにつれて
Vinci氏のような「闘士」とのかかわりに
不都合が生じてきたためではないか?
Carl Einsteinを研究テーマにしたPenkert氏
がMemoiresから姿を消したことも、
そのひとつの理由として
Gottingenが長い年月の間に
仏独和解の歌として独自の成長を遂げたためではないだろうか?
Gottingenが引き受けた、ほかの歌とは全く異なる役割を
忘れないでおきたい。

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支配人のクライン氏は熱心な演劇人だった。
Barbaraは自分も演劇に親しんでいた?から
クライン氏とは特に共有する世界があることを
初対面の時から直感していたのではないか?
というのは、BarbaraはL'Ecluseから歩いて数分の
Huchette座に入り浸っていたという話を過去に
Les Amis de Barbaraの記事で読んでいるからだ。
ちょっと遠回りだが、まずこちらから。
Correspondances過去記事
Nicolas Bataille et Barbara (27)
次にNicolas Batailleのwikipedia:
Music Cross Talk過去記事
Nicolas BatailleとBarbaraの交友

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Barbara論の誕生 Junges Theater 番外

2016年02月02日 12時58分07秒 | Barbara関連情報

写真:7. Juli 1964: Barbara im Jungen Theater in Göttingen.
出典元:Gottingen Tageblatt

右端がグンター・クライン
ピアノが届きいよいよコンサートが始まる直前なのだろうか?
三角形の頂点に(つまり真ん中に)位置するのが
Sibylle Penkert氏、
この写真を見るだけで彼女の果たした役割の重要さが理解できる。

クライン氏の人柄も良く伝わってくる。
Barbaraは観念して「歌うことに集中しようとしている」のだろうか。


説明の必要はないだろう。上のピアノはこうして脚をはずして劇場に運び込まれた。右から2番目のチリジリの頭はグンター氏のもの
と思われる。証拠写真のちからをまざまざと思い知らされる。
Im Juli 1964 kommt die Chansonsängerin Barbara zu einem Gastspiel nach Göttingen. ©
EF 出典

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参照ー1
Penkert氏やKlein氏がBarbaraと出会った
BarbaraのL'Ecluse時代

Music Cross Talk < PLANETE BARBARA
過去記事にリンクを貼ります。

Music Cross Talk L'Ecluse (1):
Music Cross Talk L'Ecluse (2):
Music Cross Talk L'Ecluse (3):
Music Cross Talk L'Ecluse (4):
Music Cross Talk L'Ecluse (5):
Music Cross Talk L'Ecluse (6):
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参照ー2
ICI RADIO CANADA より Barbara 特番
2012年の再放送:この内容もすでに聞いているがこのような素晴らしいペイジに出会うのは、初めてのような気がする。
写真もバラバラにはほとんど見ているが、
こうしてまとまって集められたものは初めてだ
Vos souvenirs de Barbar:
BarbaraのL'Ecluse時代から1970年の黒い鷲の大ヒットまでに集中する必要がある(その過程におけるGottingen解明の果たすだろう役割への考察)と思われるので、これを参照として追記します。

参照ー3
DER SPIEGEL 32/1959: 「Barbaraの第一発見者」、
若き日のSibylle Penkert氏の紹介

すでにBarbaraと出会っていた? 写真が無いのが残念だ。

参照ー4
BarbaraとGunterの再会
Penkert氏にしろGunterにしろ人格の成熟を
感じさせるひとたちだ。
Gunterの瞳に出会ってBarbaraは彼の中に暖かい「父性」を
感じたのではないだろうか。


参照ー5
ペンカート氏が、リサイタル4日前に、フランソワーズ・ロ に送った
「最終確認書」。中祢氏がPenkert氏から入手された。
Penkert氏がいなければ、Gottinegnの曲だけでなく
BarbaraとGunterは出会っていなかった可能性が高い。
最終確認書1 & 最終確認書2
内容に関して必要とあらば、いずれ中祢氏が
追加の論文で解説されるだろう。

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