CORRESPONDANCES

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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(3)

2016年01月29日 15時03分35秒 | Barbara関連情報

バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美 天理大学国際学部准教授
ドイツ文学・ドイツ地域研究・独仏関係史

「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45
より 筆者の許可を得て転載
2015年12月 シャンソン研究会発行 
信州大学人文学科内 代表者 吉田正明 

このあたりから中祢氏の真価が現われる。
Sibylle Penkert氏への直撃取材によって
Barbaraが書き残したゲッチンゲンの物語
からまったく消されてしまった
バルバラの「第一発見者」が
浮かび上がってきた。
そしてゲッチンゲンの歌は
彼女なしでは生まれなかったことも
判明してきた。

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3.バルバラの「第一発見者」

 実は,バルバラと劇場支配人,そしてバルバラと学生をつなぐキーパーソンがいたのである。バルバラより5歳年下のジビレ・ペンカート(Sibylle Penkert, 1935年生まれ)である。彼女は文学研究者としてドイツ各地の大学で教鞭を執ったほか,ロシア,ポーランド,アメリカの大学でも客員講師を歴任した。筆者は,断片的な資料を読み進めていくうちにGöttingenの成立において彼女が果たした役割の大きさに気づき,思い切って手紙を書いた。何度かやりとりをした後,2014年8月,ベルリンの自宅に彼女を訪ね,話を聞くことができた。

 ギムナジウムを卒業したペンカートは,父親の強い意向に従って通訳を目指し,マインツ大学言語通訳研究所に進んで英語とフランス語を磨いたものの,同大学の講義やゼミをとおして歴史学とドイツ文学の面白さに目覚め,それらを本格的に学ぶため,1957年にゲッティンゲン大学に移った。1年後,彼女は交換留学生試験を受けて合格し,1958年の5月から7月にかけてパリ政治学院(Institut d'Etudes Politiques de Paris = Sciences Po)で学ぶチャンスをつかんだ。

 ところで,この仏独間の交換留学制度は,西ドイツ建国から僅か3年後の1952年に-ということはエリゼ条約締結の10年以上も前に(!)-ゲッティンゲン大学で歴史学を専攻する学生有志が作った討論サークル「歴史コロキウム」(Das Historische Colloquium)の強力なイニシアチブで発足したもので,当時としては極めて画期的な制度であった。それどころかこのサークルは,公益後援会を作って資金を工面し,同じ名前,すなわち「歴史コロキウム」という名前の学生寮まで建設してしまった。「学術的な議論(=コロキウム)を決まった場所で継続して行えるように,しかも従来より安くかつ良好な環境で勉強できるように」12) というのがその理由だった。確かに一つ屋根の下に暮らしていたほうが集まり易いし,夜遅くまで議論しても金はかからない。彼らは,日中に受ける講義やゼミの延長戦を学生寮でやろうとしたのだ。何という向学心だろう。当時,パリ政治学院に派遣される交換留学生選抜試験に応募できたのは,討論サークル「歴史コロキウム」に所属する学生もしくは学生寮「歴史コロキウム」の寮生に限られており,ペンカートは後者の資格で応募し,奨学金を獲得したのだった。

 ところが,意気揚々と花の都に乗り込んだものの,エリート校の閉鎖的な空気に馴染めなかった彼女は,もともと好きだったシャンソンを聞きにセーヌ川沿いのキャバレー,レクリューズに通うようになり,そこでバルバラを「発見」し,のめり込んだ。1958年5月のことである。

 一方バルバラのほうは,それまでの長い苦労がやっと報われ,その年の2月からレクリューズの夜の公演の取りを任される看板歌手に抜擢されていた。彼女とレクリューズとの関係は,初めてオーディションを受けて落ちた1952年に遡る。2年後の再挑戦で合格して,初めて夜の公演の冒頭で少し歌わせてもらった。その後も歌う機会はときどきあったが,レクリューズが彼女のホームグラウンドになるまでに6年の歳月が流れていた。毎晩23時30分ごろに登場するバルバラは「真夜中の歌手」La chanteuse de minuit と呼ばれ,注目されつつあった(Lehoux, pp.405-411.)。

 すっかりバルバラに魅せられたペンカートは,1958年6月,ゲッティンゲン大学の学生雑誌 Prisma『プリズマ』-彼女は留学前からこの雑誌の編集部員を務め,文芸欄を担当していた-に "Cher lecteur" というフランス語の呼びかけで始まる「セーヌ川からの手紙」という長い記事を執筆した。これを読むと,50人も入れば満員になったという狭いキャバレーで,憧れの歌手の一挙手一投足を食い入るようにみつめている姿が目に浮かんでくるようだ。

 狭いステージの上でライトを浴びると,細身のシルエットが浮かび上がる。ついにバルバラの登場だ!彼女の姿は,私の目には「悲しげな夜の鳥」に映る。その微笑はいかにも観客慣れしているが,片足はこの世に置きつつ,もう片方の足はどこに掛けているのやら,見当がつかない。だが,迷いのようなものは微塵もない。その姿からは反逆の精神と気高さが同時に立ち昇ってくる。ゆったりした黒い衣装に身を包んだ彼女は,ピアノに向かって腰かけ,歌い始める。ボーイッシュなヘアスタイルの下からのぞく東洋的な瞳は,常に何かをあざけるような煌めきを放っている。賛美してくれる人をもあざ笑う瞳だ13)。

 
 短い留学生活を終えてゲッティンゲンに戻ったペンカートは,1959年と1960年にもレクリューズに足を運んだが,その後肺結核を患い,2年間の入院生活を余儀なくされた。彼女が久しぶりにパリに戻って来たのは1963年の晩秋だった。博士論文執筆に必要な資料の入手が本来の目的だったが14),バルバラにも再会し,招かれた彼女の自宅でゲッティンゲンでのリサイタルを口頭で提案した。「11月23日でした。ケネディ大統領が暗殺された日でしたからよく覚えています」15) とペンカートはドイツのラジオ番組で証言している。

 ゲッティンゲンに戻り,JTという受け皿を確保したペンカートは,4か月半後の1964年4月8日,「満を持して」バルバラの自宅Remusat通り14番地に招待状を送る。ルウーは,「7月の数日間,ゲッティンゲンでのリサイタルにあなたをご招待できることになりました。会場は前衛劇を上演する劇場で,客席数は100です。」(Lehoux, p.315)という書き出し部分のみ紹介しているが,ゲッティンゲン市の公文書局(Stadtarchiv)に保管されている全文の写しを通読すると,リサイタルを開く場としてゲッティンゲンのJTがいかに魅力的か(「レクリューズと同じようにマリオネットもやる」「観客席数はレクリューズより多い100席で,ギャラも悪くない」),そして成功の見込みが高いか(「学生は自分が書いた記事をとおしてあなたのことをよく知っている」,「その学生も喜んでPRしてくれるはずだ」,「自分はこの町を知り尽くしているし、芸術関係者や一流の教授の知り合いも多い」)を,さまざまな角度からアピールする内容になっており,なんとしてもバルバラをゲッティンゲンに呼ぶのだ,という執念がひしひと伝わってくる。

 この招待状の中で一番着目したいのは,ペンカートがJTの支配人の名前を出していない点である。「私はJTのシェフをずっと前から知っています」あるいは「明晩,私は劇場のシェフと会う予定です」16)(傍点筆者)は,言うまでもなくバルバラがJTの支配人と面識がないことを前提にした書き方だ。しかもこの招待状を書く前にペンカートは支配人と直談判しているわけだから,もし彼がその時点でバルバラと面識をもっていたなら,そのことをペンカートに伝えていないはずがない。

 猛烈なアタックは功を奏し,バルバラから受諾の回答が届いた。回答そのものは残っていないが,4月23日付でペンカートが再度バルバラ宛てに書いた手紙の冒頭からそれがわかる。「バルバラ様。お返事ありがとうございます!本日,私はJTの支配人クライン氏(Monsieur Klein)と会ってきました。3日間のリサイタルのために彼が出してくれた申し出は以下のとおりです」とあるように,ペンカートはこのとき初めて支配人の姓のみをバルバラに紹介し,日程,旅費,宿舎,報酬を提示している。

 この手紙に対しても返事が届いたことは,ペンカートが書いた6月30日付の手紙から明白である。というのも,宛名がそれまでのバルバラではなく,前年末から彼女のアシスタントを務めていたフランソワーズ・ロFrançoise Lo(本名:Sophie Makhno)に変わっているからだ。バルバラの訪問は7月4日だったので,その4日前(!)に書かれた,文字どおり「最終確認書」であった。タイプで打たれたそれまでの手紙とは違って,走り書きで判読しづらい。よほど急いでいたのだ。「JTの支配人に代わって下記の条件を確認させていただきます」という事務的な短文に続き,合意された条件が番号を振って列挙されている。その筆頭に置かれたのが,①「バルバラ用のグランドピアノ」(piano à queue à la disposition de Barbara)であった。以下,②マイク,③出演する3日間の開演日時(初日は22時とされている),④飛行機の便と時刻(Mémoiresでは列車を利用したと述べているが,これはバルバラの記憶違い),⑤往復旅費,⑥宿舎,⑦報酬,と続き,⑧帰りの飛行機の便で締めくくられている。Mémoiresでバルバラが「ただし,一つだけ条件をつけた」と書いているのは「嘘」ではなかった。実際には多くの条件があったわけだが,グランドピアノはやはり別格で,「他はどうでもいいから,これだけは絶対に守ってもらわねば」という趣旨の強い要請がFrançoise Loを通じてペンカートに届いていたことが,この順序から推測されるのである。

 以上見てきたように,ゲッティンゲン側の交渉の窓口は終始一貫してペンカートひとりであった。JTの支配人がレクリューズに現れ,バルバラを説得したというのは,彼女の創作,作り話だったのである。もちろん彼がレクリューズに来た可能性は完全には否定できない。バルバラはMémoires(pp.133-134.)で「ぼくが君に会いにレクリューズに行ったときは,アップライトで歌っていたよ,そう彼は言った」とも述べているからだ。だが,仮に彼女が正しいとしても,彼がレクリューズを訪れた時期は4月から6月のあいだしか考えられず,そのときはすでにバルバラはゲッティンゲン行きを決めていたのである。

・・・つづく・・・・

12) Barbara Nägele u. a. (Hrsg.),  Das Historische Colloquium in Göttingen.  Die Geschichte eines selbstverwalteten studentischen Wohnprojektes seit 1952. Göttingen, 2004. S. 22. 実際,この寮では1960年代末まで毎週水曜の夜に研究発表と討論会が行なわれたほか,学期の初めや終わりにはパーティも開かれた。そうした機会には教授陣も必ず参加し,学生との密な関係を築いた。

13) Prisma, 3. Jg. (1958), Nr.5, Juli, S.21. より抜粋。ここに訳出した文のフランス語訳は,François Faurant氏のサイトwww.passion-barbara.net)にも掲載されている(http://francois.faurant.free.fr/33_t_brassens/barbara_33_t_brassens.html)。14) ペンカートが博士論文のテーマに選んだのは,ユダヤ系ドイツ人の作家・芸術批評家カール・アインシュタイン(Carl Einstein,1885~1940)であった。アインシュタインは,ベルリンでダダイズム小説や評論を発表する以前からパリを訪れ,P.ピカソやG.ブラックらキュビスムの画家と親交を結んでいた。1928年にパリ移住してからはシュールリアリズム研究に没頭したが,1940年,ドイツ軍がフランスを占領した後,ゲシュタポに捕まるのを拒みPauで入水自殺した。ペンカートが入手したのは,彼の妻によってG.ブラックに預けられていたアインシュタインの遺稿であった。邦訳に『二十世紀の芸術』,『ベビュカン-あるいは奇蹟のディレッタントたち』,『黒人彫刻』(いずれも未知谷,鈴木芳子訳)がある。訳者の鈴木氏は『二十世紀の芸術』の「解説・あとがき」(445頁)で,アインシュタインの未発表原稿を掘り起こしたペンカートの基礎研究を高く評価している。

15) DeutschlandRadio Kultur : Zeitreisen. Barbara, Göttingen. Die Geschichte einer französisch-deutschen Annährung,(2013年1月16日放送)

16) 以下に何度か引用するペンカートの手紙の写しは,ゲッティンゲン市公文書局(Stadtarchiv)に保管されている

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こういった資料確認を繰り返していると
資料によって記載がことなり戸惑うことが頻繁にある。
Francoise LoかSophie Makhnoかどちらが
本名か、これがまちまちなのだ。
Makhnoがウクライナの革命家からとったという
記憶
があったので確認のために調べてみた。
SophieはFrancoiseの娘の名前から
の拝借であることも確認できた。
したがってFrancoise Loのほうが本名であると
しておきたい。
娘の名前はしたがってSophie Loである。
イギリスに住みロック系のジャケットやポスターで
名を成しているようだ。


Sophie Makhno by Sophie Lo 2011

Barbaraに提供したQuel Joli tempsを
作詞家自身が歌っている。
Quel Joli Temps par
Sophie Makhno et Charles Dumont :


Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(2-2)

2016年01月29日 14時56分06秒 | Barbara関連情報

Barbara - und wer ist noch auf dem Foto?
Deutschlandradio Kultur  Barbara, Göttingen:
追記:2016年1月30日
上の写真に関して中祢氏からご連絡をいただいた。
資料には1964年と記されてはいるが本当は1967年のものらしい。
判定の根拠はMonsieur Kleinの顎鬚の有無。

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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(2-2)

文字数過剰のため前ペイジに入りきれなかった、
註、の部分を以下に追記します。
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 7) 歌詞の表記はBarbara: Ma plus belles histoire d'amour, Lœuvre intégrale, Archiposche, 2000. pp.83-84. に依った。

 8) ibid., p.17.

 9) ibid.

 10) Barbara, Il était un piano noir... Mémoires interrompus, Fayard, 1998. なお,小沢君江氏による訳書(『一台の黒いピアノ… 未完の回想』,緑風出版,2013年)も参照したが,小論ではその訳文は借りず,筆者が訳した。小沢訳は,驚くほど初歩的なものから致命的なものまで,夥しい数の誤訳を含んでいるうえ,巻末の「訳者解題」における「捏造」も甚だしいからである。この点については,Bruxelles氏の徹底的な分析に基づく説得力ある批判(「Bruxellesが守れなかったBarbara」:http://blog.goo.ne.jp/correspondances/c/470863a6f52a899a97886cc0a79d300e)を参照。ちなみにBruxelles氏は小沢訳が出る9年前にこの部分をほぼ完全なかたちで翻訳している(「GOTTINGENの成立過程(1)~(3)」:http://musiccrosstalk.blog7.fc2.com/blog-entry-22.html)。Mémoires は,話の筋を組み立てた「未完の物語」(Récit inachevé)と,「記憶の断片」(Fragments)からなるが,前者はGöttingenの成立過程の記述で終わっている。バルバラはここを書きかけているときに急死したのである。

 11) バルバラが Göttingen を発表した1960年代半ば,フランスではホロコーストの時効をめぐる論議もあった。人類史上例のない犯罪に時効概念を適用することに仮借ない異議を唱えたV.ジャンケレヴィッチ(Vladimir Jankélévitch,1903-1985)は,「罪人が『経済の奇跡』によって肥満し,[…]富んでいるならば,許しなどは腹黒い冗談である。[…]自分たちの諸々の大罪を後悔することがあれほどに少なく,あれほどに稀な者たちを,どうしてわれわれは許すだろうか」と,ドイツ人を厳しい口調で糾弾している(「われわれは許しを乞う言葉を聞いたか?」吉田はるみ訳,『現代思想』[特集]和解の政治学,2000年11月,vol.28-13,78-88頁より抜粋)。エリゼ条約締結後も,ドイツ人に不信感を抱くフランス人は多かったのである。

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参照:世界を変えた歌(2)中澤英雄(東京大学名誉教授)
参照:Goettingen: The song that made history:
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参照:La Belle Dame Sans Publicité:
参照:Here are a few of the songs
featured in Radio 3's documentary:
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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(2-1)

2016年01月23日 14時58分55秒 | Barbara関連情報

バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美

「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45
より 筆者の許可を得て転載
2015年12月 シャンソン研究会発行 
信州大学人文学科内 代表者 吉田正明 

滑り込みセーフのタイミングで 中祢氏のBarbara論に出会えたことをことのほか嬉しく思っています。ここ数年でJacquesと石井好子氏を失いそして今Bruxelles自身が死神の綱に引きづられてこの世から消え行く運命に見舞われています。
PLANETE BARBARAのNew Conceptに書いた言葉 「夢かもしれない 夢を 夢見て」は夢で終わってしまうところでしたが、中祢氏のこの論文の登場でひとつだけ夢が叶いました。
一人でBarbaraサイトを運営してきた私には中祢氏の孤軍奮闘と、障害だらけで何一つ報われない長い長い苦労の連続と、これまでの疲労と絶望の日々が手に取るようにわかります。
それゆえここまで漕ぎ着けた完成の喜びも共有したいと思っています。
Correspondancesに転載することによって多くの読者、
多くの熱心なBarbaraファンとこの喜びをさらに拡散拡大共有できることを、心より願っています。


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2.Mémoiresを批判的に読む

 まずは歌詞7)をみよう。日本語訳は,さまざまなかたの訳を参考に筆者が試みた。

Göttingen         『ゲッティンゲン』

 Bien sûr ce n'est pas la Seine もちろん,ここにはセーヌ川はない
Ce n'est pas le bois de Vincennes     ヴァンセンヌの森も
Mais c'est bien joli tout de même   それでも,ここはとても素敵
À Göttingen, à Göttingen.  ゲッティンゲンは ゲッティンゲンは
Pas de quais et pas de rengaines 川べりの道も,恋のつれなさを
Qui se lamentent et qui se traînent 這いずるように歌う嘆き節もない
Mais l'amour y fleurit quand même でも,そんな町にも恋の花は開く
À Göttingen, à Göttingen. ゲッティンゲンにも ゲッティンゲンにも
Ils savent mieux que nous, je pense フランスの王様の歴史のことなら
L'histoire de nos rois de France, 私たちフランス人よりも詳しいと思う
Hermann, Peter, Helga et Hans  ゲッティンゲンの
À Göttingen. ヘルマン,ペーター,ヘルガ,ハンスはEt que personne ne s'offense  どうか気を悪くする人がいませんように
Mais les contes de notre enfance でも,私たちが幼い頃に親しんだ
« Il était une fois » commencent  「昔々あるところに…」というおとぎ話
À Göttingen.  そのふるさとが,このゲッティンゲンBien sûr nous, nous avons la Seine  もちろん,私たちにはセーヌ川がある
Et puis notre bois de Vincennes  それにヴァンセンヌの森もMais Dieu que les roses sont belles  でもまあ,このバラのなんと美しいこと
À Göttingen, à Göttingen.  ゲッティンゲンの ゲッティンゲンのバラは
Nous, nous avons nos matins blêmes 私たちにはフランス人ならではの青白い朝と
Et l'âme grise de Verlaine ヴェルレーヌ譲りの灰色の心がある
Eux, c'est la mélancolie même でも,ここの人たちはメランコリーそのもの
À Göttingen, à Göttingen. ゲッティンゲン ゲッティンゲンの人たちは
Quand ils ne savent rien nous dire 私たちに話しかける言葉を知らなくても
ls restent là, à nous sourire あの子たちは逃げたりせずに微笑みをくれる
Mais nous les comprenons quand même  それでも私たちにはわかる
Les enfants blonds de Göttingen. ゲッティンゲンの金髪の子らの気持ちが
Et tant pis pour ceux qui s'étonnent 眉をひそめる人には,お気の毒様
Et que les autres me pardonnent でも,私に共感してくれる人もいますように
Mais les enfants ce sont les mêmes どこの子だって子どもは同じ
À Paris ou à Göttingen. パリでも,ゲッティンゲンでもÔ faites que jamais ne revienne  ああ,二度と繰り返さないでLe temps du sang et de la haine  血と憎しみにまみれたあの時代を
Car il y a des gens que j'aime 私の愛する人たちがいるのだから
À Göttingen, à Göttingen. ゲッティンゲンには ゲッティンゲンには
Et lorsque sonnerait l'alarme それでも万一,戦闘警報が鳴り響き
S'il fallait reprendre les armes  再び武器を取らねばならなくなったとしたら
Mon cœur verserait une larme  私の心は一粒の涙を流すでしょう
Pour Göttingen, pour Göttingen. ゲッティンゲンの ゲッティンゲンのために
Mais c'est bien joli tout de même それでも,ここはとても素敵
À Göttingen, à Göttingen. ゲッティンゲンは ゲッティンゲンは
Et lorsque sonnerait l'alarme それでも万一,戦闘警報が鳴り響き
S'il fallait reprendre les armes 再び武器を取らねばならなくなったとしたら
Mon cœur verserait une larme 私の心は一粒の涙を流すでしょう
Pour Göttingen, pour Göttingen. ゲッティンゲンの ゲッティンゲンのために

 
「歌を書くために,私は生きなくてはならない。」-機会があるたびにバルバラはこう断言した8)。言葉を補って説明すれば,「至福の瞬間であれ,耐え難い悲しみや苦しみであれ,<生きている>という強烈な感覚に貫かれたとき,はじめて私は納得できる歌を書くことができる」という意であろう。魂を揺さぶられる体験こそバルバラの歌の源泉だった。それゆえ,父の死,母の死,戻って来ない恋人,交通事故死した音楽仲間,歌を聴きに来てくれた観客への感謝,子ども時代の思い出など,「彼女が作った歌はどれもみな自伝的な性格をもっている」9) のだ。そうした強烈な体験は,もちろんすべてそのまま歌詞になるのではなく,「父親三部作」(L'Aigle noir, Au cœur de la nuit, Nantes)のように,体験で負った傷(この場合,大好きだった実父による近親姦)が深ければ深いほど暗示的な表現になった。いずれにしても彼女の歌は自身の体験と不可分のものばかりである。このことはGöttingen にもあてはまる。では,いったいどんな体験が彼女の創作意欲を掻き立てたのか。ゲッティンゲン側の人々はどのように関わったのか。それをみていくことにしよう。

 歌の成立経緯については,死の翌年に刊行された未完の回想録(=以下,略記のMémoiresと頁数で示す)10) で本人がかなり詳しく説明している。但しその説明は,ゲッティンゲンで歌うことになった経緯を述べた短い前半(pp.130-131.)と,ゲッティンゲンに出発してから歌を完成させるまでを語った長い後半(pp.133-136.)の2つに分かれており,両者に挟まれた132頁は,区切りを示すため空白のページになっている。歌の成立に直接関わる後半部分を要約すると,だいたい以下のような話である。

 当初からあまり行きたくなかったゲッティンゲンの劇場「ユンゲス・テアーター」(Junges Theater,以下「JT」と略記)に着いてみると,約束したはずのグランドピアノではなく,巨大なアップライトがステージに鎮座していた。「これでは歌えません。こちらからはお客さんの顔がぜんぜん見えないし,観客席からも私が見えません。ここに来る条件として黒いグランドピアノをお願いしたはずです。」このピアノで我慢して欲しい,と頭を下げる劇場支配人グンター・クラインにも私は頑として譲らなかった。だが,困惑し切った彼の口から,「実は昨夜から市内のピアノ運送業者がストに突入していて…」という言葉が出たとき,怒りは悲しみに変わった。私は打ちのめされ,気分が悪くなり,あらゆるものから見捨てられた気がした。窮地を救ってくれたのは,フランス語を上手に話す10人の陽気な男子学生たちだった。彼らは,近所の老婦人からグランドピアノを借りてステージに運び込んでくれた。予定時刻を大幅に過ぎて始まったリサイタルは大成功に終わり,支配人は契約を延長してくれた。翌日,学生たちは町を案内してくれた。私たちが幼い頃からよく親しんでいる童話が書かれたグリムの家を見つけた。滞在最終日の午後,劇場に隣接する小さな庭で殴り書きした Göttingen を,その晩,未完成のまま歌詞を半ば読み上げるように歌った。そしてパリに戻ってから歌を完成させた。

 以上があらましである。Göttingenは,一晩で劇的に変わった人間によって書かれた歌,起死回生の歌である。確かにその成立は,絶体絶命のピンチ,「万事休す」の状況をひっくり返してくれた学生たちの機転と行動力に多くを負っているが,それがすべてではない。たまたま近所にグランドピアノを貸してくれる老婦人がいた幸運(強運),開演前の極度の緊張や不安を見事に吹き飛ばしてくれた観客の熱狂的な反応,またそれを見てすぐに契約の延長を申し出た劇場支配人のきっぷのよさ,これらが重なってバルバラの固い殻,すなわちドイツおよびドイツ人に対する先入観を破ったのである。Mémoires の中で彼女は,この歌が生まれた理由の一つに「忘却ではなく心の底から和解を願う気持ち」(un profond désir de réconciliation, mais non d'oubli)を挙げているが(p.135),ゲッティンゲンに到着した時点で彼女がそのような気持ちを抱いていたとは到底思えない。

 ユダヤ人の家庭に生まれたバルバラは,戦争と重なった9歳から14歳までの多感な時期を,ユダヤ人であることを隠し続け,密告や逮捕の恐怖に怯えながら過ごさねばならなかった。ポーランドに侵攻したドイツに英仏が宣戦布告した1939年9月,一家はパリ近郊のヴェジネVésinetで暮らしていたが,すぐに父は召集されて出征した。以後,終戦まで,一家は時として離散しながら,ポワティエPoitiers,ブロワBlois,プレオーPréaux,タルブTarbes,シャスヌイユChasseneuil,グルノーブルGrenoble,サン・マルスランSaint-Marcellinを転々とする。絶えざる逃走と密告に対する恐怖の記憶はMémoires の中で生々しく語られている。

 そんな彼女が平和な時代になってもドイツやドイツ人に対して生理的な嫌悪感を引きずっていたのは当然だった。だからこそ最初は誘いを断ったのだし,パリを発った日も,ゲッティンゲンに到着する前から,ドイツでのリサイイタルを引き受けてしまったことに腹を立てていたほどだった。その人間が,この晩のできごとに魂を揺さぶられて変わった。Göttingenの歌詞は,生まれ変わったバルバラの心が捉えた,町や出会った人々へのいとおしさの吐露なのだ。彼女の心に芽生えたいとおしいという感情は,二つの町(国)の共通点,二つの(国)民の共通点(恋,童話,子ども,メランコリー)を見出そうと努める。詞の随所に発見の喜びが溢れているのはそのためだ。もちろん「気を悪くする人」や「眉をひそめる人」が故国に多くいることは百も承知している11)。何より彼女自身がそうだったし,左岸のキャバレーの空気を何年も吸ってきたわけだから。「それでも,私の心はゲッティンゲンのために一粒の涙を流すでしょう。」「号泣」では却って嘘っぽくなる。「一粒の涙」は,一見弱々しそうだが,ゲッティンゲンの人々に寄り添おうとする,静かだが強い決意を表している。詞の冒頭から「それでも」(mais, quand même)を多用してきた効果がようやくこの第9連・第10連で発揮されている観がある。

 このようにGöttingen 誕生の物語は,ドラマチックで感動を誘う要素に満ちているだけに,これで完結している印象を受けるし,バルバラ本人も説明し尽くしているようにみえる。

 しかし,Mémoiresを他の資料と突き合わせながら批判的に読んでみると,意外な事実が浮かび上がってくる。ここでいう「他の資料」とは,シャンソンジャーナリストのヴァレリー・ルウー Valérie Lehouxの信頼できる伝記(註2参照),バルバラと交流をもったゲッティンゲンの人々が残した資料,それに2014年8月に筆者が彼らに行なった聴き取り調査である。

 ではMémoires の問題の個所を検討しよう。以下は,ゲッティンゲンで歌うことになった経緯を述べた短い前半(pp.130-131.)の冒頭部分である。

  1964年の初め,ゲッティンゲンの劇場JTの若い支配人グンター・クラインが,私と出演契約を結ぶためにレクリューズ(L'Écluse)にやってきた。私は断った。ドイツにリサイタルにでかけるなど問題外だった。

   グンターは食い下がった。100席ある自分の劇場について詳しく説明し,学生たちについても話した。
「でも,ゲッティンゲンの誰が私のことを知っていると言うんです?」「学生たちです。彼らはあなたのことを知っています。」
 「ドイツに行くのはいやです。」
そう答えたにもかかわらず,私は,一晩考えさせて欲しい,と言った。
翌日,私は意を翻し,同意する,とグンターに伝えた。ただし一つだけ,黒いコンパクト・グランドピアノを用意してもらえるなら,という条件をつけて。
グンターは承諾した。リサイタルは7月と決まった。

 この部分を読むと,バルバラがなぜゲッティンゲン側からリサイタルの誘いを受けたのか,という点に関して大きな疑問が生じる。パリから遠く離れた隣国の地方都市にある小劇場の支配人が,当時ドイツでほぼ無名だったバルバラの情報を入手していて,出演契約を結ぶためにいきなりパリのキャバレーに現れたというのは,いかにも唐突で不自然ではないか。ゲッティンゲンの学生たちが彼女を知っていたという点も同じように不可解だ。

 ・・・・(つづく)・・・・・

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Barbara - 1967 Göttingen (in German)
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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(1)

2016年01月20日 22時21分28秒 | Barbara関連情報

バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美

「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45
より 筆者の許可を得て転載
2015年12月 シャンソン研究会発行 
信州大学人文学科内 代表者 吉田正明 

PLANETE BARBARA誕生丸12年を迎えるにあたり
Bruxelles以外の手になるBarbara論を掲載できる
喜びの日を、思いもかけずに迎えることができました。
数回に分けて掲載していく予定です。
ゲッチンゲン誕生に関わった、ドイツ側の人たちへの
取材を含む、独自の視点を切り開いた
ドイツ語の専門家の手になる本格的なBarbara論の登場です。
今回はまずその第1回目です。

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1.はじめに

 シャンソン・フランセーズとは無縁だった筆者が,バルバラ(Barbara, 本名:モニック・セルフ1) Monique Serf, 1930~1997)とその代表作のひとつである『ゲッティンゲン』Göttingen 2) に出会ったのは,2013年,仏独協力条約(以下,通称の「エリゼ条約」とする)締結50周年を記念するサイト3) を読んでいたときだった。そこには,ド=ゴール大統領とアデナウアー西独首相が過去の宿敵関係を断ち切って友好関係を築いていくことを誓ったランスの大聖堂での「和解のミサ」(1962年7月)以降に積み重ねられてきた成果が,40件ほど時系列に紹介されていた。主なものとしては,青少年の交流促進を統括する「仏独青少年友好事務局」の設立(1963年),旅客機「エアバス」の共同生産(1969年),どちらの国でも認定される大学入学資格制度(Abi-Bac制)の導入(1972年),両大戦の戦没兵を追悼するヴェルダンでの記念式典(1984年),仏独合同旅団の編成(1989年),共同テレビ局ARTEの設立(1990年),仏独社会科学研究センター(マルク・ブロック研究所)の設立(1992年),両国の180以上の大学を結ぶハブ大学としての「仏独大学」の設立(2000年),仏独共通歴史教科書の刊行開始(2006年)などがある。政治,経済,教育,安全保障,メディア,学術研究など多岐の分野にわたるが,どれも政府や企業の強いリーダーシップで開始された事業や制度ないし創設された機関である。

 それだけに,「1964年,ひとりのフランス人女性歌手の作った歌が仏独の和解に大いに寄与した」4) という項目がこれらに混じって掲載されていることにまず驚いた。政府や企業が関与していない一個人の,しかも歌手の(!)貢献として取り上げられていたのはこれだけだったからだ。エリゼ条約締結の翌年という時期の早さも目を引いた。リンクされた本人の弾き語りを視聴してみると,三拍子に乗った翳りのある曲調,エレガントで瑞々しい声が耳に残った。妖艶な笑みを時折カメラに向けながら歌うその目力も印象的だった。

 フランス語の独学を再開して日の浅い筆者が,無謀を承知でバルバラと『ゲッティンゲン』について調べ始めた理由は二つある。一つは歌のタイトルになった町への愛着からだ。ドイツのほぼ中央,ニーダーザクセン州南部に位置する人口12万人弱(2013年現在)のこの地方都市は,ドイツ屈指の「大学の町」として知られる。ゲッティンゲン大学(1732年創設,学生数約3万人)をはじめとする教育研究機関は,これまでに40名以上ものノーベル賞受賞者を輩出してきた。これは,ノーベル賞受賞者が多いドイツの大学でも堂々トップの数字だ。市が "Stadt(シュタット), die(ディー) Wissen(ヴィッセン) schafft(シャフト)"(「知を創造する町」)-これは Wissen(ヴィッセン)(知)と schaffen(シャッフェン)(~を創造する)を Wissenschaft(ヴィッセンシャフト)(学問,サイエンス)に掛けた言葉遊び-を標榜しているのも,ゆえあってのことなのだ。戦災を免れた旧市街には美しい木組みの家も残り,緑も多い。そんな町に筆者は2000年の夏,ゲーテ・インスティテュート(ドイツ文化センター)が主催するドイツ語教員向けの研修で約10日間滞在した。ホームステイ先のドイツ人に親切にしていただいたこともあり,この町がすっかり気に入った。だが,当時はバルバラの歌のことなど知らなかった。無知だった己に対する罪滅ぼしではないが,詳しく知りたい気持ちがむくむくと湧いてきた。そう思って,市の観光局が編集したパンフレットを手に取って見ると,表紙をめくった最初のページがいきなりGöttingen の歌詞の一節で始まっている。それは,この歌が市の誇りになっていることを物語っていた。

 Mais Dieu que les roses sont belles à Göttingen, à Göttingen ...「ああ,なんて素敵なの。ゲッティゲンのバラは…」フランスのシャンソン歌手バーバラはこうゲッティンゲンの魅力をたたえています5)。

 このテーマに挑戦したもう一つの理由は,ドイツ語版の存在だ6)。そもそもなぜドイツ語版があるのか。誰が翻訳したのか。フランス語版の歌詞とどこがどう違うのか。素朴な問いが次々に浮かんだ。

 この歌がフランス人バルバラとドイツ人の交流のなかから生まれた作品であり,ドイツ語版もある以上,ドイツ語の資料は少なからず存在するはずだ。フランス語の資料に加えてドイツ語の資料にもあたっていけば,この歌の成立事情について何か面白いことがわかるかもしれない。そんなふうに考えた。

 結果的に期待を上回る収穫が得られたのは有難いことだった。エリゼ条約締結50周年の2013年およびGöttingen成立50周年の2014年にドイツ語圏の新聞,テレビ,ラジオなどが取り上げてくれた歌の由来に関する情報を足掛かりにして,半世紀前にバルバラと関わった人たちから貴重な話を聞くことができたからだ。ゲッティンゲン市の公文書局が保管する資料を入手できたのも大きい。こうして,最初はごく断片的だった情報がジグソーパズルのピースのようにつながり始めた。

 ただ,調べていくうちに,二つの版は,歌詞内容はよく似ているが,成立の事情が大きく異なるため,一度に論じるのは難しいと感じるようになった。したがって本稿では,フランス語版のGöttingen が成立した経緯を明らかにすることに主眼を置きたい。それは,バルバラとゲッティンゲンの人々との交流を,主にドイツ語圏の側から捉え直そうとする試みといえる。ドイツ語版の成立事情ならびにドイツ語版とフランス語版の比較については,本稿の続編として機会を改めて取り上げたいと考えている。

・・・・・(つづく)・・・・・

 1) Serfの日本語表記について,籔内久の『シャンソンのアーティストたち』(松本工房,1993年)は「セール」としているが(79頁),Cinétévé と Inaが共同制作したドキュメンタリー映像 Rappelle-toi Barbara(2007年)やRadio France のL'enfance de Barbara(2012年7月7日放送)ではfの音がはっきり聴き取れることから,「セルフ」とした。

2) 最晩年のバルバラは,回想録の執筆と並行して,歌手人生の集大成としてベストアルバムを編んだ。自ら「ゴールドディスク」と呼んだ(Lehoux, Valérie: Barbara. Portrait en claire-obscur, Fayard, 2007. p.435)この2枚組アルバム Femme Piano に彼女は,Ma plus belle histoire d'amour,L'aigle noir,Nantes,Dis quand reviendras-tu?  など,文句なしの代表作とともにGöttingen を-しかも仏語版のすぐあとに独語版が続く配列にして-収めた。Bruxelles氏は,たいして評判も売れ行きもよくなかった独語版を入れた点,および仏語と独語の両方の版を初めて同じアルバムに収めた点から,この曲に対するバルバラなりのこだわりがあったのだろう,と分析しているhttp://musiccrosstalk.blog7.fc2.com/blog-entry-211.html)。実際,ボビノ(1965年),オランピア(1968年),パンタン(1981年),シャトレ(1987年)など主なリサイタルでこの歌を欠かすことはなかった。

3) 50周年終了後,同サイト(http://www.elysee50.fr)は削除されたが,ここに挙げた成果はARTEのサイト上に残されている(ただしドイツ語版のみ)。(http://arte.tv/de/7233176.html)。

4) (http://arte.tv/de/7233176.html)。

5) ゲッティンゲン観光局(Göttingen Tourismus e.V.)が編集したパンフレットの日本語版から引用。なお,「バーバラ」という表記は筆者のうっかりではない。独語版,英語版,仏語版も同じ内容になっている。

6) フランス語版をB面1曲目に収めたLPアルバム Barbara no 2 は1965年9月,Philips社から発表された。また,ドイツ語版をA面1曲目に収めたLPアルバムBarbara singt Barbara zum ersten Mal in deutscher Sprache (『バルバラ初めてドイツ語で自作を歌う』)は,2年後の1967年7月,同じPhilips社から発表された。ドイツ語への訳詞は,ヴァルター・ブランディン(Walter Brandin)が全曲担当している。

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Barbara Gottingen
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