CORRESPONDANCES

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石井好子 (19) 伝えたこと、思い出しながら-1

2011年01月25日 12時58分12秒 | 追悼:石井好子

「私はまだ入院中と言ったら驚かれることと思います」というお便りが見つかった。
「でも二週間後に退院と決まりましたのでご安心下さい。まだそんなわけでお手紙は、とてもとても嬉しく拝見しましたが、しっかりしたお返事はもう少し先にしますね。」と続いている。その後は八芳園に暮らした祖父、久原房之助氏の思い出が綴られている。最後に「外は寒い由、お大切に」とある。封筒は、これがその封筒かどうか確信は持てないが平成21年2月3日となっている。

近年のお手紙がポツリポツリとしか見つからないのは、20数年分のお手紙の束を、平成21年あたりに処分してしまったからだ。お手紙だけではない、その時事情があり、冷暖房器具、TV、ラジカセ、冷蔵庫、書籍数百冊、机と椅子、和ダンス、写真、食器棚一杯の食器全部などなど数多くを捨てた。冷暖房や冷蔵庫は今も無いまま暮らしている。残っているお手紙は、辞書やら便箋ケイスやら、新しく買った本やらに無造作に挿んであったもののみ。それになにより、自分が何を書いたのかは一切記録が無いので、曖昧な記憶を呼び戻すしかない。
今2000年12月発売の「暁に」を手にしている。それを聞いて2010年の7月初旬頃に書いた最後の手紙を思い出した。その頃石井先生のCDをとりだしては聴いていて「石井先生も他の歌手のCDを聞くよりご自分のCDをお聞きになった方が、元気が出るのでは」と書いた。この中なら私は断然「港町の居酒屋」が好きで、また「ジャヴァ・ブルー」が次に好き,その次は「フレデ」、今まではそうだった。だがその時は「海辺のバラード」が最高にいいと思ったのだ。これはシャンソンではないが、落ち着いた完璧な歌唱だ。
♪それは遠い昔のような
それはほんの昨日のような♪
そしてある一定の年を越えると過去は時系列ではなく、目の前に一列に横並びする、という持論を書いた。そして先を思い煩うよりも充実して生きた過去を再び味わいながら時間を過ごす事の素晴らしさを書いた。(説得力は無いと思ったが)
さらに今でも一番後悔していることを書いた。石井先生のお体を常に案じながら、最後の最後に「お見舞いにはいけないと思います」と書いたのだ。しかもそれを自分の年齢のせいにして。本当はこの時、辛い辛いトラブルに巻き込まれていて、精神的に両手両膝をついて喘いでいるという状態だった。私自身力尽きていたのだ。2010年6月後半?(記憶が曖昧で日を特定できない)に一度電話しているが、トラブルが解決しそうに錯覚しえた、偶然の一日だった。石井先生が亡くなられた7月17日は、最悪の場面を迎え私は家の前にしゃがみこんで頭を抱えていた。そこからさらに辛い日々が重なった。7月21日石井先生が亡くなられた報道に接した時も、感受性がへこたれていて、混乱するのみだった。石井先生と私は四柱推命的に同じ運気が巡る、とはこういうことなのか?大雨の梅雨の後に記録的な猛暑がやって来た。何とか生き延びるだけの夏だった。言い訳がましいことを書いているが、私にはわかっている。裏切り者である事に違いは無い。

・・・追記:2011年1月25日・・・
「暁に」C'EST A L'AUBE 21の21の意味がわからなかったがこれは,21世紀の意味かと今気づいた。「セタローブ(暁に)」はこのCDの23番目、最後にボーナストラックとして入っている。2000年パリ祭よりとある。このパリ祭は近所の家の大型スクリーンでみた。特に最後に全員で歌う「暁に」は歌も照明も、舞台装置も、全員の配置も素晴らしく、記憶では石井先生は銀色の衣装で登場された。壮大な感じで、曲としてもとても印象に残っている。
今日歌詞を調べてみた。Yves Montandの歌うこの曲、内容的には学生運動華やかなりし頃、若者達が歌った「友よ」に類似する。
♪友よ、夜明け前の闇の中で♪
♪夜明けは近い、夜明けは近い♪
1949年の曲、作詞はFlavien Monod。この人の資料を探しに探したが見つからず、この人より有名な父親の資料に行き着いた。
参照:Maximilien Vox
Yves MontandがCommunistだったので、作詞家にどれくらい政治性があるのか調べてみたが父親がL'Humanitéの仕事をしていたというくらいで、人的にも内容的にもほとんど政治色は無いとみていい。
参照:Yves Montand : C'est a l'aube:
最後に出てくる曲がC'est a l'aube。
CDの23番目を改めて聴くと、3番まである歌詞のうち、3番だけが歌われている。日本語歌詞もあり訳詞はアン・あんどう氏。よく内容を伝えていると思う。何故3番だけかと言うと、1,2番は夜明け前の暗さを歌い、3番だけが夜明け前の希望を歌っている。「友よ」から好戦性が消え「夜明けの歌」へと内容的に変身する。2000年のパリ祭でシャンソン歌手達が全員で歌った曲は21世紀への希望なのだと言う事が分かる。

・・・・・追記:2011年4月19日・・・・・
「暁に」C'EST A L'AUBE 21:函館のシト



石井好子 (17) 謎の電報

2011年01月11日 15時16分44秒 | 追悼:石井好子

「今頃、どこで何をしていらっしゃるのだろう」と最近よく思う。その度にもう旅立ってしまわれたのだと、無理に認識する。
いつだったか、突然電報が届いた事があった。差出人は石井好子とあった。事務所ではない。吃驚して開けて見ると「今夜○○劇場に出演します」とあった。「歌を聴きに来てください」と言うことなのか「今回は一度お会いしませんか」と言うことなのか「話したい事があります」なのか、意味がわからなかった。時間の都合がついたら、劇場に足を運んでください、というのが一番妥当な解釈だと思ったが、今までも当日にそのような電報が来た事は無い。3つのどれかとは思うが、本来そういう要求を突然される方ではない。だから「出演します」で止められたのだと思う。(今から思えばお互いにdiscretionを持ちすぎていた。)後はこちらが判断しなければならない。迷ったが複雑な用件があって、誰かが家に来る事になっていた。行けない。事務所からの連絡なら、メイルを返せる。ご本人は大阪だ。どうしようかと迷ったが事務所に行けませんとメイルを出す事にした。60周年の時に連絡係りになってくださった矢野さん宛てに。今送信済みメイルを調べたら2008年5月11日(日)とある。腰の手術のおよそ4ヶ月前である。
入院初日の9月のお手紙から判断すると、大阪での引退前の最後のステージ、それをとりあえず知らせようと電報を打たれたのかもしれない。
もう一つ考えられる事がある。昔のシャンソン歌手の動画がたくさん見れるので、石井先生もインターネットをされたらいかがですか、と何度もお勧めした。その時、今思い返せばだけれども「大阪にお見えになったら、一緒にネットカフェに行きましょう。何も覚えなくてもクリックするだけで、たくさんのシャンソンが楽しめるので、実際にお見せしたい」と言っていた。その言葉を思い出されての、電報かもしれない。
それとも、もし私がその時ひょっとして楽屋まで行けば、目の前の引退に関するお気持ちを伝えようとされたのかも知れない。腰の手術もその時既に思案されていたのかもしれない。
気になる電報である。会場に行き、楽屋にも行き、ネットカフェにも一緒に行くべきだったと、くり返し後悔している。このときにお目にかかっていれば、お見舞いにも気楽に行けたかも知れない。
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石井先生が90歳になられたら、一緒にSantiago de Compostelaに行きませんか、と、いい加減なお誘いをしたこともある。Barbaraの葬儀でBarbaraのFanだと知ったMuriel Robinが「
サンジャックへの道」と言う映画に出ていたので、その影響で思いついたのだった。とてもお元気そうだったので90歳のSantiago de Compostelaも決して夢ではないと思っていた。むしろそれまで私の寿命がもつかどうかの方が不確かだった。
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10年程前からの数年間、せっせとシャンソンのDJ風テイプを作っては石井先生のもとに届けていた。日記風に纏めた文章もつけて。プロのピアニストの前でピアノを弾いて聞かせる間抜けの素人のようなものだ。ほとんど忘れてしまったが、石井先生のお気に入りの中では
Joe Dassinの「L'ete Indien」(勿論フランス語版で)そしてPierre Bacheletの「Les Corons」の2曲だけは覚えている。「Les Corons」は峰大介さんに歌うように勧めていると書いてあった。
またある曲をそのDJ風テイプに入れた時「この曲は私も歌っています」というお返事と共に
CDが送られてきた事もあった。そのCDは既に聞いていたのだが、「終戦の後の進駐軍の上陸と共に...」という石井先生の歌手生活をふり返った長いセリフが入っていて、メロディーは単なるback musicだと思っていた。
その曲とは
Voila Pourquoi Je Chante de Dalida 和訳 by Bruxelles:
石井先生のタイトルは「だから私は歌う」。CD用のオリジナルメロディーと思えるほど、石井先生のセリフがピッタリ嵌まっていて、昔に聞いた時元歌があるとは考えもしなかった。CD以外ではめったに歌われなかったのではないだろうか。石井先生の選曲はいつも素晴らしいが、この曲など、どう考えても石井先生のCDのlast曲として書き下ろされたものとしか考えられないくらいだ。
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これを書くとこのペイジはとりとめが無くなってしまうが、石井先生は紅白の
第9回から第12回まで連続4回出場しておられる。曲目は「ゴンドリエ」「小さな花」「黒いオルフェ」「鐘よ鳴れ」。こう見ると選曲はNHKの指定・強制だった感じがする。それとも石井好子がシャンソン歌手としての王道を歩み始めるのは第一回パリ祭
(1963年)あたりからと言えるかもしれない。やはり私生活が忙しかったこともあるだろうし、日本の芸能界に根をはるには海外になじんだ方だけに多少の時間を要したのかもしれない。石井先生のDVDタイトルではないが「ローバは一日にしてならず」である。

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・・・・追記:2011年1月9日・・・・・
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石井先生のCDを探していたら「謎の電報」の続編のお手紙が見つかった。結構長い。まず「急に大阪の事、Faxしてごめんなさい」と書いてある。と言う事は、誰かに指示されたのだ。こちらにはFaxがないから、秘書の方が困り果てて電報にされたのだろう。しかし何のための電報だったのかは書いていない。スポニチ文化藝術大賞の受賞や朝吹登水子さんのお孫さんの結婚式の事、それからPLANETE BARBARAに協力してくれたJacquesの死に対するお悔やみ等が書かれている。
ー石井好子「ダミアからDamiaまで」-「悲劇の歌手」の魂に迫るーという日経の文化欄の切抜きが同封されていた。

そしてそのCDも。「あなたには送ったつもりですが、ぼーっとしている私はもしかして,とも思うので」と。CDの出来に関しては「何回も取り直しもっと取り直したかったのですが、もうこれ以上やってもダメかなと、諦めて出します。必死みたいなところだけが取り柄かもしれません」調子が悪くてよい出来ではないとある。
バルバラとの写真お見せしたことがあったでせうか。それもはっきりしませんのでお送りします」とある。(これは今Les Amis de Barbaraの手に渡って、フランス各地の展示会に必ず登場している筈だ)
何故かくもぼーっとしているかと言えば、一位二位に大好きだった木原ミミさんと、由紀ちゃん(朝吹登水子さんのお嬢さん)が亡くなって、辛い事に襲われたためと言うか、何がなんだか唖然と言うか、自分でもわからなくてぼーっとしている、と書いてあった。(こういう風に悲しみをダイレクトに表現されたことは今までにはなかった。体重が激減するほどの激しいショックだのだと、改めて思う。)


そして見落としていたのだが
「私は大阪2日間歌って,歌った後すぐ新幹線で帰ったのが無理だったのか、持病のヘルニアがこのところ痛くて、昨日昼夜三越劇場で歌うのきつかったです」とある。


精神肉体両面で疲労が積み重なったところへ、ヘルニアがここぞと暴れだした、それがこの時期だということがこの文章から特定できる。
(NITTSUメール便の受諾日は2008年5月19日とある。)
大阪でもう一泊して翌日飛行機で帰京されればよかったのだろうか。電報にお応えしてお目にかかっていれば、公演の後一泊されたかもしれない。何かトラブルの最中だったことをうっすらと覚えているが、一体何の用で誰が何しに来る事になっていたのか、全く思い出せない。

///////追記2011年1月10日///////
電報までは思い出したのに、何故この続編の手紙を失念していたのか考えてみた。これを読んだ時私も悲しみに共振したのだが、いただいたBarbaraの33年前の来日写真に舞い上がってしまい、他のすべてが頭から消えてしまったのだ。何をしたかといえば、あるBarbaraファンの方に、その写真を送りfile作りを依頼し、1週間後に写真が戻ってくると、早速Les amis de BARBARAの会長Fabienneにfileと
写真を送った。じっとしている事が出来ずに「Du Soleil Levant」に「ここに入れるのはちょっと勇み足?」というわけの分からないタイトルをつけてその日のうちにBlogに写真を掲載した。同日Fabienneには嬉しさに溢れたこんなメイルを出している。
Chere Fabienne
Je suis tres heureuse de vous envoyer une photo de Barbara au Japon 1975.
Barbara etait venue au Japon pour chanter.
L'autre femme sur la photo est Madame Yoshiko Ishii....
C'etait elle qui avait invite Barbara, et aussi c'est elle qui m'a donne cette photo.
Madame Ishii chantait a Paris autrefois. Elle avait beaucoup d'amis francais comme Damia, Yves Montand, Marcel Amond, Josephine Baker, Lucienne Boyer,etc...
Fabienneからはすぐに返事がきた。
Bonjour Bruxelles,
Un GRAND MERCI pour la photo. Bien entendu, nous allons l'utiliser pour les prochaines expositions.
Si vous en etes d'accord nous pouvons l'utiliser egalement dans la Lettre des Amis de Barbara, peut-etre souhaitez-vous ecrire quelques lignes pour expliquer la photo ?
Serait-il aussi possible de contacter (par mail) Madame Ishii qui pourrait nous raconter ses souvenirs avec Barbara, pensez-vous que cela puisse se faire ?
Amicalement.Fabienne   それに対して
...Et puis elle est ecrivain aussi, alors je ne crois  pas que ca  marche  bien de lui demander ecrire ses souvenirs de Barbara pour rien...
...Si vous etiez en faveur aupres d'elle, il y aurait de la chance pour vous de ganger plus de photos ou bien quelques documents interessants de Barbara...
...Bon courage, Fabienne, personne sauf vous pourrait y reussir...
Les amis de Barbaraが頼めば,もっと資料が貰えるかもしれないから、頼んでみたらどうですか、とFabienneにアドヴァイスして、自分自身も石井先生に厚かましくも、他には資料はもうありませんか、などと書いたことまで思い出した。あさましい。あきれて物も言えないとはこのことだ。
2008年5月11日夜から9月の入院まで石井先生の腰痛は悪化の一途をたどったのだろう。7月29日立川パリ祭で腰痛の中でも歌いきれた、最後の力ふりしぼって29日まで歌えたことを神様に感謝したい、と入院初日の手紙に書いてあったではないか。2008年はParis祭から、入院を急遽決意されるまでの間、苦渋にみちた、しかしぎりぎりまで力を振り絞ってのステイジだったのだろう。

BARBARAの来日写真が目の前でちらつくだけで、思考がショートし、discretionが吹き飛んでしまうとは、なんたることか!別にBARBARAに恋しているわけでもないのに。
あの電報は賭けだったのかもしれない。もし来れば
生涯最後のCDを手渡そうと思っておられたような気もする。そしてあのツーショット写真は、Site (PLANETE BARBARA 2 )
のpartner、Jacquesの死に落ち込んでいる私を励ますために、ひょっとしたらあの日、大阪に持参されていたのではないだろうか。

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・・・・・追記:2011年1月11日・・・・・
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Automne 2009 No.39 : La lettre des Amis de Barbara


1975: Aeroport Haneda (Tokyo)
Barbara avec Mme Yoshiko Ishii

HISTOIRE D'UNE PHOTO:
BARBARA AU JAPON par Fabienne David

Madame Yoshiko Ishii, des 1952, se passionne pour la chanson francaise et devient chanteuse. Elle donne un concert a Paris 1963 et est la premiere artiste japonaise a faire un recital a L'Olympia en 1990.
Fill d'un grand politicien, petite-fille d'un grand homme d'affaires, elle cotoie Sartre et Beauvoir. Grande amie de Damia, elle s'occupe de la venue au Japon de Charles Trenet, Enrico Macias, Jean Sablon, Charles Dumont.
Elle est presidente de l'Association de la Chanson Francaise au Japon, enregistre plusieurs disques de reprises de chansons francaises.
C'est donc tout naturellement qu'elle invita Barbara a venir chanter au Japon en 1975.

Un grand merci a notre amie adherente Bruxelles pour la photo, vous pourrez decouvrir son site Internet dedie a Barbara
http://www.geocities.jp/planetebarbara/


石井好子 (18) 日本シャンソン・コンクール

2011年01月09日 21時39分52秒 | 追悼:石井好子

シャンソン歌手はすべて大変個性的である。しかし石井先生が日本シャンソンコンクールで発掘された新人歌手の中で、最も個性的で最も前衛的で最も芸術家的で、最も完成度の高いシャンソン歌手は、薩めぐみ、ではないかと私は思う。
Brigitte Fontaineの「ラジオのように」の場合は喫茶店で初めて聞いて、飛び上がってそのままレコード店に駆け込んだ。薩めぐみの場合は自宅でラジオで聞いて、駆け出して近所のレコード店に発注に行った
PLANETE BARBARAで大して取上げなかったのは、Brigitte Fontaine同様あちらの世界に行き過ぎていて、ある種の異様さを感じたことと(たとえばBARBARAに比べ)声が重過ぎることだ。
何かで読んだ記憶があるが、彼女はシャンソン界のみならずフランス前衛演劇界でも活躍したそうだ。Artistだなと思った。しかも最前衛の。それより10年前にアメリカに行った小野洋子を思い出させる。FRUXUS時代のオノ・ヨーコ  や塩見允枝子 や久保田成子のフランス版のような感じがした。FRUXUSは当時一応グループとみなされていたので 、親和性のある世界にいる事が出来たが、薩めぐみの場合は、Parisという表現のためのヒリヒリと孤立したむき出しの感性の世界で、どうやって神経のバランスを保とうかと、非常に苦渋に充ちた、あるいは敢えて苦渋を味わい尽くすために苦渋に埋没した日々だったのではないかと想像する。そして異郷に生きた本物のArtistらしく、やはり傷み壊れていた部分もあった筈だと思う。

「今でもときどき夜に電話がかかってくる。あの人はもう〇〇〇にやられている。立ち直れないのではないかとも感じる時がある」石井先生の手紙にあった。 薩めぐみがParisからSOSにも似た電話を石井先生にかけているとは、不思議なつながりを感じた。
フランス在住のシャンソン歌手として生きた。どの程度認知されていたのか私にはわからない。「健康」などは最も過小視していたに違いない。
薩めぐみが石井先生に遅れること3ヶ月、2010年10月18日喉頭癌のために死去していた事を今日知った。
以前「Ceci n'est pas une pipe」に書いたRoland Toporの記事を再読して再クリックして知った。
あれだけの個性は多分Parisでなければ生きていけなかったのではないかと思う。Parisで過ごした人生を、自分らしく生きた手ごたえのある人生だったと今頃天国で満足していらっしゃると信じている。

参照:薩めぐみsite
参照:Ceci n'est pas une pipe: Roland Topor
(薩めぐみが歌う動画を2本リンクしています)
参照:「見えない鳥の存在」:黒トカゲ
(薩めぐみのTV出演を2本リンクしています)

・・・・・追記:2011年1月10日・・・・・
Roland Topor & Jean Baudrillard
sur Megumi Satsu- chanteuse: chansons:
Sujet : Megumi Satsu : Ecouter CDs :

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第144回芥川賞候補の朝吹真理子氏の大叔母は翻訳家「朝吹登水子」である、とかなり紹介されているが、こちらは祖父の妹。祖母の妹の大叔母は石井好子氏である。どこにも書かれていないのはJournalistの不勉強だと言わざるを得ない。
・・・・・追記:2011年1月18日・・・・・
朝吹真理子さん第144回芥川賞受賞
・・・・・追記:2011年4月19日・・・・・
石井好子の母