CORRESPONDANCES

記述内容はすべてBruxellesに属します。情報を使用する場合は、必ずリンクと前もっての御連絡をお願いします。

Deuxième Guerre mondiale

2013年09月29日 10時55分04秒 | 海外の放送

Du Caf’Conc’a la rive gauche
Deuxième Guerre mondiale :

Suzy Solidorの Ouvreが出てきたので驚いた。
Suzy Solidorに関しては過去記事がいくつかある。
Suzy Solidor Ouvre
SUZY SOLIDORー「En Chantant 62号」
En Chantant Vol.63
最後にParis解放の時に大ヒットしたという
Fleur de Parisがかかった。
これはCorrespondancesとは別のBlogの過去記事に書いた。
 Jacques Helian : Fleur de Paris

さてDu Caf’Conc’a la rive gauche をタイトルとする番組はまだまだあるが、Correspondancesによる案内はここまでとする。
すべての番組はここにあるので、ここから気に入ったものを選んで御自分で記事を書いてみてください。そして気に入ったものが出来上がったらTrackbackでCorrespondancesにお知らせください。続きも共に楽しみましょう。

ここにフランス製の「第二次世界大戦(4/6)」という素晴らしいドキュメンタリーを置きますので、よかったらお楽しみください。日本のことも出てきます。日本とフランスの接点は仏領インドシナ真珠湾攻撃(開戦)の前にすでにフランスはドイツに敗北していて(占領されていて)、ドイツの同盟国日本は、(フランスが明け渡した)仏領インドシナに進駐します。それが日本の南進と言われているものです。日本は北進か南進かで意見が分かれていたのですが、ゾルゲや尾崎秀美などのスパイの工作、や書類改竄で、罠にはまって南進を選んでしまうのです。北進して西はドイツから東は日本からソ連を挟み撃ちすれば、ユーラシア大陸の戦争は日本とドイツの勝利で終わっていたかもしれません。日本に先の大戦で勝利するチャンスがあったとすれば、「あの時北進をとっていれば」というただ一回のチャンスしかありません。日本はアメリカの敵国になる必然はどこにもなかったのです。少なくとも日本側には。近年いろんな機密書類が公開されルーズベルトの陰謀論が有力になってきたのはそのためです。このドキュメンタリーはフランス製でヨーロッパから見た第二次世界大戦(4/6)が日本人には新鮮に映るかもしれません。リンクは6分の1しかしていませんが、残りは右側を探せば見つかります。
テーマ曲は日本人の作曲家の手になります。

・・・・・追記:2013年9月28日・・・・・
参照:2N世代:フランス映画「インドシナ」

・・・・・追記:2013年9月29日・・・・・
長い長いインドシナ戦争は一次と二次があり最終的にベトナム戦争に行き着く。フランスが敗退したあとアメリカがやって来たからだ。「可愛いトンキン娘」からインドシナに思いを馳せ、最後は昔、ベトナム戦争からの脱走兵に出会ったことを思い出した。興味のある方は
第一次インドシナ戦争&第二次インドシナ戦争:をクリッ


Josephine Baker

2013年09月14日 10時26分02秒 | 海外の放送

Du Caf’Conc’a la rive gauche
Joséphine Baker:
le vendredi 26 juillet 2013

Joséphine Bakerと孤児院の話は有名だが、Joséphine BakerがOSSのエージェント、スパイだったという話はそれほど知られてはいないだろう。楽譜に炙りだしインクで情報を書いて、情報伝達工作をしていたらしい。イギリスの作家サマセット・モームもスパイだったし女優のデートリッヒも同じくスパイ活動をしていたことがわかっている。変わったところでは日米親善野球に来たMoe Bergプロ野球選手のスパイだったと言われている。

Joséphine Bakerあたりになると、時代を感じさせてくれる。それで彼女のfilmを3本用意した。取りあえず置くので、時間のあるときにゆっくりお楽しみください。いろいろ感じるものがあると思います。当時アメリカはまだ黒人差別が激しく、彼女がレヴューの女王になれたのもParisという文化都市であればこその現象だったのではないでしょうか。
Joséphine Baker: The 1st Black Superstar

Chasing a Rainbow: The Life of Joséphine Baker
フランス人が最も身近に感じたアメリカは
ひょっとしたらJosephine Bakerを通してだったかもしれない。
異国でこれだけ自分を開花させた黒人は他にいないだろう。
人種差別と戦い苦戦しながらも地位向上に貢献したという点では
カシウス・クレイ(モハメッド・アリ)の偉大さに匹敵する。
夢を追い現実に挑戦し完璧に実現できなかったとは言え
夢の家族を手に入れた事実は、個人の夢としてだけでなく
人類史の夢へのチャレンジとしても大きな意義を残したのではないだろうか。
歌唱の実力もその向上ぶりは目を見張るものがある。
Zouzou (1934) - Josephine Baker Film

・・・・・追記:2013年9月11日・・・・・
Parisに到着して3日目、まだホテル暮らしをしている頃に現金、TC, Openの帰国航空券、パスポートなどをソックリひったくられて、手元に残ったのは10万円の日本円のTCのみという状況にあった。この先どうするか考える余地もない頃地下鉄の通路を通ったら、Josephine Baker死亡の号外が張り出されていた。それが新鮮な号外だったか何日も前に貼り付けられそのままになっていた古ぼけた号外だったのかは思い出せない。BOBINOに出演中に亡くなった。それが西暦何年の出来事か、だから私はよく覚えている。Josephine Bakerは既に過去の人でラジオで曲がかかることも滅多になかった。
夏にはジョー・ダッサンの「レテ・アンディアン」が大ヒットしマイク・ボランの「ディ・リュイ」は歌手がもうこの世にいないのにヒットパレードを賑わせていた。二度目の飛び降りで、思いを遂げて死んだ。
歌がうまくハンサムで若くてセクシィーで、何もかも思い通りのはずだったに違いないのに、何故死んだのだろう。イスラエル人なのだがイランのテヘランで歌っているところをシルビー・バルタン様御一行にスカウトされParisにやってきた。最初の曲から大人気、大スターである。モナコの王女様に失恋したとか噂を聞いたが、Dalidaを調べた時にはDalidaとも関係があったことを知った。女性は降る星のごとくに、魚の大群のごとくに彼に近づいてきた筈だ。キブツに住んでいた素朴な青年の目には全ての女性が幸運の女神、絶世の美女に見えたに違いない。勝手な想像だが、その全ての女性を相手にするには時間が足りなかった、そのことを深く悩んで、解決できないことに絶望して、自ら命を絶ったのではないかと思っている。冗談で言っているわけではない。そういう悩みも充分ありえると思う。

・・・・・追記:2013年9月15日・・・・・
Josephine Bakerと言えば日本で大ヒットした曲がふたつある。
どちらかを選べといわれたら、私はこちらをえらぶ。
Josephine Baker "La Petite tonkinoise" : 1930年
実はこちらのリバイバル 1920年代初め?
Esther Lekain " petite tonkinoise " 1953
創唱者はこの人 1906年
LA PETITE TONKINOISE - POLIN

La Petite Tonkinoise
:
ベトナムの歴史
French colonialism in Vietnam:
日本とベトナムの独立
「可愛いトンキン娘」が何故ベトナムの歴史と関係が
あるのかと思われるかもしれない。トンキンは東京と
書くがこれはハノイのこと。この曲は宗主国の人間が
植民地の娘を歌った歌であることがわかる。

Histoire du Music-Hall:Correspondances過去記事


La Belle Epoque ベル・エポック

2013年09月07日 08時49分23秒 | 海外の放送

両替橋 ↑
Du Caf’Conc’a la rive gauche

La Belle Epoque
le lundi 15 juillet 2013


Dranem ,Bourvil,Polin,Line Renaud,このあたりはCorrespondancesでも取り上げてきたように思う。DranemはJacquesが資料を送ってくれて初めて見たり聴いたりすることができた。
ただ、Gaby Montbreuse、Jean Segurel、Paul Lackは未紹介。PCの調子が悪いので完璧には探せなかったが、この3人に関する資料を集めてみた。
Gaby Montbreuse
Jean Segurel & Jean SegurelJean Segurel
Paul Lack:

PARIS 1900 1925 la belle epoque film:
la belle epoque のfilmにしてはrolling twenties
まで拡大して入っているが。歴史書や当時の文学書を
読みながらこのFilmをみると一層film価値が増すと思われる。

このあたりでシャンソンの100年特に前半の50年を
復習しておいたほうがいいかもしれない。
都合よくシャンソンの100年という貴重な資料が見つかった。
ここに登場する名前を掘り起こして順番に聞いていくと
シャンソン史ツアーを一人で独自に楽しめるかもしれない。
シャンソンの100年:非常に価値のあるサイト

L' Exposition Universelle de 1900 a Paris:


Le Chat Noir

2013年09月02日 16時08分26秒 | 海外の放送

↑ この部屋にあるものと同じ。

Le Chat Noir
 le vendredi 12 juillet 2013


Le Chat Noir : Wikipedia
Le Chat Noirの店名の由来はこの作品から。
黒猫:朗読を聞く
Livre audio : Le Chat noir, Edgar Allan Poe
Le chat noirとAristide Bruantを再現した劇?
Bruantの作品から以下を聞いてみようと思う。
A la Bastille、A Saint-Lazare、Le chat noir、Rue Saint Vincent 、A Montmerte
と思って探していたら、凄いものを見つけた。BarbaraのA Saint-Lazareは前から好きだったが、こういうYou Tubeがあるとは思わなかった。セットのなかに入り込んでいて、いつものBarbaraとは違う雰囲気を見せている。


Barbara - A Saint-Lazare (1967):
この曲は以前Veronique Sansonが素晴らしいと紹介したことがある。彼女が暮らしたアメリカがこの曲の中に溶け込んでいる。
Véronique Sanson: "Saint Lazare"
Bruant本人の歌唱でA la Bastille
Aristide Bruant - Nini peau d'chien
Michèle Torr - Rue Saint Vincent "Rose"
M.Ogéret / A.Bruant

Accordéon : Roland Romanéni
Champs-Elysées du 25/03/1989
Présentation : Michel Drucker
と説明がつけられている。アコーディオンはロマネリであることをお見逃しなく。
Barbaraから離れて仕事を始めたロラン。まだ若々しい。この場面ではMichèle TorrはBruantではなくYvette Guilbertの役割らしい。

Mouloudji le chat noir Aristide Bruant
Marc et André - A Montmerte
Recordの時代からのシャンソン・ファンはAristide BruantとYvette Guilbertは必ず購入して熱心に聴いている筈だから、葦原英了氏や永田文夫氏、塚本邦夫氏、特に塚本邦夫氏のBruantにかける思い入れの強さはご存知だろう。石井好子氏も後年のCDでBruantメドレーを楽しそうに歌われている。Le Chat Noirの雰囲気の再現の意図も充分感じられた。Bruant= Le Chat Noirなのだ。
そしてParisはモンマルトルの時代である。

参照:伊丹市立美術館 過去資料より


Frehel

2013年09月01日 18時27分27秒 | 海外の放送

Du Caf’Conc’a la rive gauche
Fréhel
le mardi 30 juillet 2013


私は「望郷」を見ていないが、これを見たシャンソン・ファンなら必ずこのシーンを話題に出す。
Frehel dans Pepe le Moko
映画の中であまりにも自分にピッタリな役をやりすぎているからだ。それにしても、気の毒な太り方だ。望んで太っているわけではない。辛い人生の心の叫びが表面化したに過ぎない。
FREHEL - Où est-il donc
「モンマルトルの挽歌」
映画「望郷」を見た人から話は聞くが、このフレールを見た人で、生きている人はもはや数少ないだろう。見たい人はどうぞ、「望郷」fullでご覧ください。
Pépé Le Moko .望郷 You Tube: Full

Fréhelを知るためのペイジ
Frehelの人生に関しては葦原英了氏や永田文夫氏の著作で既に暗記するほど知っている。知らない人には、誠文堂新光社刊、永田文夫著、世界の名曲とレコード「シャンソン」をお薦めしておく。私の持っているものは昭和59年8月25日発行、定価2200円となっている。この本には歌手の人生や歌詞の意味だけではなく、シャンソンの歴史がかなり詳しく解説されている。この放送でもあらかた同じことを言っているが、フレールから抜粋するとこのようなことが書かれている。
ーしかし、ロベルティは彼女を食い物にしたあげく、ダミアという次のカモを見つけて去っていった。いっぽう、フレールの前にはモーリス・シュバリエが現れた。シュバリエに対するフレールの愛情は激しく真剣なものだったが、それがかえって彼にとっては重荷だったのかもしれない。シュバリエがミスタンゲットの許へ走り、破局が決定的になったとき、フレールは半狂乱の状態になり、自殺をはかった。ー
籔内久氏の「シャンソンのアーティストたち」ではこの部分、ーシュバリエを殺そうとしたが果たせずーと書いてある。永田氏の本からの引用を続ける。
ー1923年、フレールはパリに戻って奇跡的にカムバックする。(略)収入はとだえ、露天の八百屋の手伝いまでして糧を得た。そして1951年2月、モンマルトルのピギャール街にある安ホテルの一室で貧困のうちに世を去った。ー
映画のシーンといい、この解説といい、心潰れる人生だったようだが、背景の時代を考えると、フレールだけが特に不幸だったというわけではないだろう。それにフレールには劇場やスクリーンで活躍した栄光の時代もあったのだから。

さてFrance Musiqueの放送だが、今回も選曲がものたりない。何故なら私Bruxellesの大好きな「Comme un moineau」がないではないか!そこで、リンクを探してみた。
Fréhel - comme un moineau
Marie Paule Belle comme un moineau
Comme un Moineau - Berthe Sylva - 1925:
Piafの映画の中で、ルイ・ルプレに路上で歌っている小娘ピアフがスカウトされるシーンがあるが、あの時ピアフが歌っていたのがこの歌だった。
日本語のタイトルは「雀のように」、塚本邦雄氏が「薔薇色のゴリラ」で素晴らしい訳を付けておられるのでここでは省略する。シャンソンの中でも特筆すべき名曲だと思う。もうひとつ古い1974年のピアフの映画のレコードを持っている。そこではBetty Marsがこの歌を吹き替えて歌っている。
この人「初日の夜」のヒットもある力強い歌声の歌手なのだが、1989年2月、意外にも自宅の窓から飛び降りて44歳で自殺している。