CORRESPONDANCES

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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(2-1)

2016年01月23日 14時58分55秒 | Barbara関連情報

バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美

「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45
より 筆者の許可を得て転載
2015年12月 シャンソン研究会発行 
信州大学人文学科内 代表者 吉田正明 

滑り込みセーフのタイミングで 中祢氏のBarbara論に出会えたことをことのほか嬉しく思っています。ここ数年でJacquesと石井好子氏を失いそして今Bruxelles自身が死神の綱に引きづられてこの世から消え行く運命に見舞われています。
PLANETE BARBARAのNew Conceptに書いた言葉 「夢かもしれない 夢を 夢見て」は夢で終わってしまうところでしたが、中祢氏のこの論文の登場でひとつだけ夢が叶いました。
一人でBarbaraサイトを運営してきた私には中祢氏の孤軍奮闘と、障害だらけで何一つ報われない長い長い苦労の連続と、これまでの疲労と絶望の日々が手に取るようにわかります。
それゆえここまで漕ぎ着けた完成の喜びも共有したいと思っています。
Correspondancesに転載することによって多くの読者、
多くの熱心なBarbaraファンとこの喜びをさらに拡散拡大共有できることを、心より願っています。


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2.Mémoiresを批判的に読む

 まずは歌詞7)をみよう。日本語訳は,さまざまなかたの訳を参考に筆者が試みた。

Göttingen         『ゲッティンゲン』

 Bien sûr ce n'est pas la Seine もちろん,ここにはセーヌ川はない
Ce n'est pas le bois de Vincennes     ヴァンセンヌの森も
Mais c'est bien joli tout de même   それでも,ここはとても素敵
À Göttingen, à Göttingen.  ゲッティンゲンは ゲッティンゲンは
Pas de quais et pas de rengaines 川べりの道も,恋のつれなさを
Qui se lamentent et qui se traînent 這いずるように歌う嘆き節もない
Mais l'amour y fleurit quand même でも,そんな町にも恋の花は開く
À Göttingen, à Göttingen. ゲッティンゲンにも ゲッティンゲンにも
Ils savent mieux que nous, je pense フランスの王様の歴史のことなら
L'histoire de nos rois de France, 私たちフランス人よりも詳しいと思う
Hermann, Peter, Helga et Hans  ゲッティンゲンの
À Göttingen. ヘルマン,ペーター,ヘルガ,ハンスはEt que personne ne s'offense  どうか気を悪くする人がいませんように
Mais les contes de notre enfance でも,私たちが幼い頃に親しんだ
« Il était une fois » commencent  「昔々あるところに…」というおとぎ話
À Göttingen.  そのふるさとが,このゲッティンゲンBien sûr nous, nous avons la Seine  もちろん,私たちにはセーヌ川がある
Et puis notre bois de Vincennes  それにヴァンセンヌの森もMais Dieu que les roses sont belles  でもまあ,このバラのなんと美しいこと
À Göttingen, à Göttingen.  ゲッティンゲンの ゲッティンゲンのバラは
Nous, nous avons nos matins blêmes 私たちにはフランス人ならではの青白い朝と
Et l'âme grise de Verlaine ヴェルレーヌ譲りの灰色の心がある
Eux, c'est la mélancolie même でも,ここの人たちはメランコリーそのもの
À Göttingen, à Göttingen. ゲッティンゲン ゲッティンゲンの人たちは
Quand ils ne savent rien nous dire 私たちに話しかける言葉を知らなくても
ls restent là, à nous sourire あの子たちは逃げたりせずに微笑みをくれる
Mais nous les comprenons quand même  それでも私たちにはわかる
Les enfants blonds de Göttingen. ゲッティンゲンの金髪の子らの気持ちが
Et tant pis pour ceux qui s'étonnent 眉をひそめる人には,お気の毒様
Et que les autres me pardonnent でも,私に共感してくれる人もいますように
Mais les enfants ce sont les mêmes どこの子だって子どもは同じ
À Paris ou à Göttingen. パリでも,ゲッティンゲンでもÔ faites que jamais ne revienne  ああ,二度と繰り返さないでLe temps du sang et de la haine  血と憎しみにまみれたあの時代を
Car il y a des gens que j'aime 私の愛する人たちがいるのだから
À Göttingen, à Göttingen. ゲッティンゲンには ゲッティンゲンには
Et lorsque sonnerait l'alarme それでも万一,戦闘警報が鳴り響き
S'il fallait reprendre les armes  再び武器を取らねばならなくなったとしたら
Mon cœur verserait une larme  私の心は一粒の涙を流すでしょう
Pour Göttingen, pour Göttingen. ゲッティンゲンの ゲッティンゲンのために
Mais c'est bien joli tout de même それでも,ここはとても素敵
À Göttingen, à Göttingen. ゲッティンゲンは ゲッティンゲンは
Et lorsque sonnerait l'alarme それでも万一,戦闘警報が鳴り響き
S'il fallait reprendre les armes 再び武器を取らねばならなくなったとしたら
Mon cœur verserait une larme 私の心は一粒の涙を流すでしょう
Pour Göttingen, pour Göttingen. ゲッティンゲンの ゲッティンゲンのために

 
「歌を書くために,私は生きなくてはならない。」-機会があるたびにバルバラはこう断言した8)。言葉を補って説明すれば,「至福の瞬間であれ,耐え難い悲しみや苦しみであれ,<生きている>という強烈な感覚に貫かれたとき,はじめて私は納得できる歌を書くことができる」という意であろう。魂を揺さぶられる体験こそバルバラの歌の源泉だった。それゆえ,父の死,母の死,戻って来ない恋人,交通事故死した音楽仲間,歌を聴きに来てくれた観客への感謝,子ども時代の思い出など,「彼女が作った歌はどれもみな自伝的な性格をもっている」9) のだ。そうした強烈な体験は,もちろんすべてそのまま歌詞になるのではなく,「父親三部作」(L'Aigle noir, Au cœur de la nuit, Nantes)のように,体験で負った傷(この場合,大好きだった実父による近親姦)が深ければ深いほど暗示的な表現になった。いずれにしても彼女の歌は自身の体験と不可分のものばかりである。このことはGöttingen にもあてはまる。では,いったいどんな体験が彼女の創作意欲を掻き立てたのか。ゲッティンゲン側の人々はどのように関わったのか。それをみていくことにしよう。

 歌の成立経緯については,死の翌年に刊行された未完の回想録(=以下,略記のMémoiresと頁数で示す)10) で本人がかなり詳しく説明している。但しその説明は,ゲッティンゲンで歌うことになった経緯を述べた短い前半(pp.130-131.)と,ゲッティンゲンに出発してから歌を完成させるまでを語った長い後半(pp.133-136.)の2つに分かれており,両者に挟まれた132頁は,区切りを示すため空白のページになっている。歌の成立に直接関わる後半部分を要約すると,だいたい以下のような話である。

 当初からあまり行きたくなかったゲッティンゲンの劇場「ユンゲス・テアーター」(Junges Theater,以下「JT」と略記)に着いてみると,約束したはずのグランドピアノではなく,巨大なアップライトがステージに鎮座していた。「これでは歌えません。こちらからはお客さんの顔がぜんぜん見えないし,観客席からも私が見えません。ここに来る条件として黒いグランドピアノをお願いしたはずです。」このピアノで我慢して欲しい,と頭を下げる劇場支配人グンター・クラインにも私は頑として譲らなかった。だが,困惑し切った彼の口から,「実は昨夜から市内のピアノ運送業者がストに突入していて…」という言葉が出たとき,怒りは悲しみに変わった。私は打ちのめされ,気分が悪くなり,あらゆるものから見捨てられた気がした。窮地を救ってくれたのは,フランス語を上手に話す10人の陽気な男子学生たちだった。彼らは,近所の老婦人からグランドピアノを借りてステージに運び込んでくれた。予定時刻を大幅に過ぎて始まったリサイタルは大成功に終わり,支配人は契約を延長してくれた。翌日,学生たちは町を案内してくれた。私たちが幼い頃からよく親しんでいる童話が書かれたグリムの家を見つけた。滞在最終日の午後,劇場に隣接する小さな庭で殴り書きした Göttingen を,その晩,未完成のまま歌詞を半ば読み上げるように歌った。そしてパリに戻ってから歌を完成させた。

 以上があらましである。Göttingenは,一晩で劇的に変わった人間によって書かれた歌,起死回生の歌である。確かにその成立は,絶体絶命のピンチ,「万事休す」の状況をひっくり返してくれた学生たちの機転と行動力に多くを負っているが,それがすべてではない。たまたま近所にグランドピアノを貸してくれる老婦人がいた幸運(強運),開演前の極度の緊張や不安を見事に吹き飛ばしてくれた観客の熱狂的な反応,またそれを見てすぐに契約の延長を申し出た劇場支配人のきっぷのよさ,これらが重なってバルバラの固い殻,すなわちドイツおよびドイツ人に対する先入観を破ったのである。Mémoires の中で彼女は,この歌が生まれた理由の一つに「忘却ではなく心の底から和解を願う気持ち」(un profond désir de réconciliation, mais non d'oubli)を挙げているが(p.135),ゲッティンゲンに到着した時点で彼女がそのような気持ちを抱いていたとは到底思えない。

 ユダヤ人の家庭に生まれたバルバラは,戦争と重なった9歳から14歳までの多感な時期を,ユダヤ人であることを隠し続け,密告や逮捕の恐怖に怯えながら過ごさねばならなかった。ポーランドに侵攻したドイツに英仏が宣戦布告した1939年9月,一家はパリ近郊のヴェジネVésinetで暮らしていたが,すぐに父は召集されて出征した。以後,終戦まで,一家は時として離散しながら,ポワティエPoitiers,ブロワBlois,プレオーPréaux,タルブTarbes,シャスヌイユChasseneuil,グルノーブルGrenoble,サン・マルスランSaint-Marcellinを転々とする。絶えざる逃走と密告に対する恐怖の記憶はMémoires の中で生々しく語られている。

 そんな彼女が平和な時代になってもドイツやドイツ人に対して生理的な嫌悪感を引きずっていたのは当然だった。だからこそ最初は誘いを断ったのだし,パリを発った日も,ゲッティンゲンに到着する前から,ドイツでのリサイイタルを引き受けてしまったことに腹を立てていたほどだった。その人間が,この晩のできごとに魂を揺さぶられて変わった。Göttingenの歌詞は,生まれ変わったバルバラの心が捉えた,町や出会った人々へのいとおしさの吐露なのだ。彼女の心に芽生えたいとおしいという感情は,二つの町(国)の共通点,二つの(国)民の共通点(恋,童話,子ども,メランコリー)を見出そうと努める。詞の随所に発見の喜びが溢れているのはそのためだ。もちろん「気を悪くする人」や「眉をひそめる人」が故国に多くいることは百も承知している11)。何より彼女自身がそうだったし,左岸のキャバレーの空気を何年も吸ってきたわけだから。「それでも,私の心はゲッティンゲンのために一粒の涙を流すでしょう。」「号泣」では却って嘘っぽくなる。「一粒の涙」は,一見弱々しそうだが,ゲッティンゲンの人々に寄り添おうとする,静かだが強い決意を表している。詞の冒頭から「それでも」(mais, quand même)を多用してきた効果がようやくこの第9連・第10連で発揮されている観がある。

 このようにGöttingen 誕生の物語は,ドラマチックで感動を誘う要素に満ちているだけに,これで完結している印象を受けるし,バルバラ本人も説明し尽くしているようにみえる。

 しかし,Mémoiresを他の資料と突き合わせながら批判的に読んでみると,意外な事実が浮かび上がってくる。ここでいう「他の資料」とは,シャンソンジャーナリストのヴァレリー・ルウー Valérie Lehouxの信頼できる伝記(註2参照),バルバラと交流をもったゲッティンゲンの人々が残した資料,それに2014年8月に筆者が彼らに行なった聴き取り調査である。

 ではMémoires の問題の個所を検討しよう。以下は,ゲッティンゲンで歌うことになった経緯を述べた短い前半(pp.130-131.)の冒頭部分である。

  1964年の初め,ゲッティンゲンの劇場JTの若い支配人グンター・クラインが,私と出演契約を結ぶためにレクリューズ(L'Écluse)にやってきた。私は断った。ドイツにリサイタルにでかけるなど問題外だった。

   グンターは食い下がった。100席ある自分の劇場について詳しく説明し,学生たちについても話した。
「でも,ゲッティンゲンの誰が私のことを知っていると言うんです?」「学生たちです。彼らはあなたのことを知っています。」
 「ドイツに行くのはいやです。」
そう答えたにもかかわらず,私は,一晩考えさせて欲しい,と言った。
翌日,私は意を翻し,同意する,とグンターに伝えた。ただし一つだけ,黒いコンパクト・グランドピアノを用意してもらえるなら,という条件をつけて。
グンターは承諾した。リサイタルは7月と決まった。

 この部分を読むと,バルバラがなぜゲッティンゲン側からリサイタルの誘いを受けたのか,という点に関して大きな疑問が生じる。パリから遠く離れた隣国の地方都市にある小劇場の支配人が,当時ドイツでほぼ無名だったバルバラの情報を入手していて,出演契約を結ぶためにいきなりパリのキャバレーに現れたというのは,いかにも唐突で不自然ではないか。ゲッティンゲンの学生たちが彼女を知っていたという点も同じように不可解だ。

 ・・・・(つづく)・・・・・

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Barbara - 1967 Göttingen (in German)
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