CORRESPONDANCES

記述内容はすべてBruxellesに属します。情報を使用する場合は、必ずリンクと前もっての御連絡をお願いします。

Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(6)

2016年07月31日 22時38分15秒 | Barbara関連情報

6.終わりに

 バルバラはパリに戻ってからGöttingen を完成させたが(Mémoires, p.135),アルバムが市場に出回る前にこの歌の試作盤LPをペンカートに贈っている。ペンカートやその周辺にいた人々にいち早くこの歌を聴いてもらいたかったからだろう。2014年6月,ゲッティンゲンで催されたGöttingen 誕生50周年記念式典の折に,ペンカートはこの試作盤を市に寄贈した。

 これまで見てきたように,歌の成立には,フランス語が非常によくでき,シャンソンが好きで,行動力もある女子学生ペンカート-男子学生を引き連れて老婦人にグランドピアノを借りに行ったのも実は彼女だった-が大きな役割を果たした。では,その彼女の名前がいったいどうしてMémoires にまったく登場しないのか。たんにバルバラが書き忘れたのか,それとも他に理由があるのか。この問題は,ゲッティンゲンでの2度目のコンサート(1967年)と大いに関わってくるが,冒頭で述べたように,ドイツ語版の歌詞の分析も含め,機会を改めて取り上げることにしたい。

 最後に,ゲッティンゲン市の公文書局で筆者が見つけたもう一つの大きな発見を紹介して小論を終えたい。

 それは,1986年7月,地元紙 Göttinger Tageblattに掲載された記事である。自動車耐久レースで知られるル・マンの西30kmにルエ(Loué)という小さな町がある。人口2千人ほどのこの町の中学生25人が2人の先生に引率されて,姉妹校協定を結んだばかりのゲッティンゲン市内の学校を訪問した。ルエの生徒たちが持参したお土産は,なんとGöttingen の成立事情を説明したバルバラ直筆の手紙であった23)。いきさつは至って単純だ。ドイツの姉妹校を訪ねるにあたって,生徒たちはバルバラに「ゲッティンゲンについて何か話をして下さい」と手紙を書いた。これに対し,バルバラは中学校に足を運んで直接話す代わりに,歌ができた事情を手紙で説明したというわけだ。

 記事には手紙の全文がドイツ語に訳されて掲載されている。筆者が驚いたのは,手紙の内容が,話の展開,語り口,全体の分量のどれをとってもMémoires の後半の記述(pp.133-136.)とよく似ている点だ。翻訳であることを差し引いたとしても8割以上同じ内容なのだ。

 このことから,Göttingen の成立事情を説明したMémoires の後半部分は,遅くとも亡くなる10年前には完成稿として存在していた可能性が極めて高いと考えられる。最晩年のバルバラは,すでに完成していた後半部分につながるように,気力を振り絞って前半部分(pp.130-131.)を書いていたはずだ。訳者の小沢氏は,前半と後半を区切るために挿入された空白の頁(p.132)を無視し,前半の最後の文に後半の最初の文を改行すらせずに続けてしまったが24),この空白の頁には浅からぬ意味があったのである。

 *    *    *    *    *    *

 小論は,第24回シャンソン研究会(2014年11月8日,於信州大学)で筆者が行なった発表内容に概ね基づいています。畑違いの筆者を研究会に誘って下さり,発表の機会を与えて下さった代表の吉田正明先生,また,発表の場で貴重なご質問やご意見を下さった皆様に,この場をお借りして心からお礼申し上げます。

 筆者がこのテーマに関心をもって以来,一番頼りにしてきたのがBruxellesさんのサイト(http://www.geocities.jp/planetebarbara/flamepage1.htm)です(Bruxellesはハンドルネーム)。量もさることながら,正確さ・質の高さ・思考の深さという点で妥協を許さずバルバラの情報や論考を発信し続けて来られたBruxellesさんの業績をとおして,筆者もバルバラの音楽に魅せられるようになりました。ありがとうございました。

 フランス語の疑問が出てきたときは,勤務校の神垣享介先生,田中寛一先生,Olivier Jamet 先生に助けていただきました。記して感謝申し上げます。

 最後に,ドイツで快くインタビューに応じて下さったSibylle Penkertさん,Katrin Bergemannさん,Karl-Udo Bigottさんと奥様のAnnette Casasusさん,そして貴重な資料を閲覧させていただいたゲッティンゲン市公文書局のUlrike Ehbrechtさんにも深い感謝の意を表したいと思います。

・・・(終わり)・・・

註 

 23) Göttinger Tageblatt(1986年7月5・6日付)。

 24) 小沢君江訳,141頁。前半の最後の文(「わたしはまたも,わたしの道を歩き出した。」)にそのまま後半の最初の文(「一九六四年七月,わたしはゲッティンゲンに向かった。」)が改行すらされずに同じ行で続いている。

・・・・・・・・・・・・・・
執筆者及び発表誌
・・・・・・・・・・・・・・・・
バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美 天理大学国際学部准教授
ドイツ文学・ドイツ地域研究・独仏関係史
 「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45

2015年12月 シャンソン研究会発行 
〒390-8621 松本市旭3-1-1

信州大学人文学部フランス語学
・フランス文学研究室内 
シャンソン研究会 代表者 吉田正明 

・・・・・・・・・・・・・・
参照:Correspondances 過去記事

Elysee Treaty(エリゼ条約)とBarbara
GOTTINGENのBARBARA
・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・
以下は付録として:仏独和解史
・・・・・・・・・・・・・・
 


参照 ついでに仏独和解史の復習
50 Jahre Elysée-Vertrag Deutschlandradio
Les coulisses diplomatiques
du Traité de l'Elysée
(22/01/2013)

◎De Gaulle und Adenauer -
Eine deutsch-französische Freundschaft
Traité de l'amitié franco-allemande
- Cinquante ans après:
今後EU(仏独)は踏ん張れるのか、
イギリスはどう身を処するのか?

・・・・・・・・・・・・・・
追記:2016年2月24日
・・・・・・・・・・・・・・・
地政学的隣国が和解・融和しようとする時
その最終仕上げは、共通する仮想敵国の存在と
それに対する軍事同盟というようなかたちをとる。
50年を過ぎて仏独和解はこういう成果?に到達している。
Correspondances過去記事:
dans la cour des Invalides à Paris
見えない鳥の存在 過去記事
JE SUIS CHARLIE (3)
Le Tango Stupefiant 幻覚のタンゴ(2)
「私はシャルリー」に関して(1)

不明な場合はこちら↓の上記記事内の引用部分を参照してください。
Pope Urban II’s Speech at Clermont
(十字軍とはなんだったのか 世界史の検証)


偶然買った3月特別号「文藝春秋」p.120~p.129に
歴史人口学者エマニュエル・トッドの
「世界の敵はイスラム恐怖症だ」という記事があった。独自の視点で
「私はシャルリー」と「パリ同時多発テロ」について書かれている。
長いので引用できないが、こちらも参照していただきたい。