CORRESPONDANCES

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石井好子 シャンソン歌手(5) : Ginette Reno

2010年07月27日 17時59分36秒 | 追悼:石井好子

カナダのシャンソン歌手のカセットテイプを一度だけ贈っていただいたことがある。「今、私の一番のお気に入りの歌手です」と。Ginnete Renoという。その時近所に私が日本語を教えているカナダ人がいたので「知ってる?」と聞いてみた。「見たことがある」という。彼のInternetで出してもらって、ちらりと見た。私は全く知らなかったがカナダでは大御所らしい。11,2年前だったので、そのテイプをウォークマンでくり返し聞いた。素晴らしい歌手だと言うことはすぐにわかった。聞く喜びに満たされた。さすが石井先生の耳を捉えただけのことはある。今もすぐに思い出せる曲を以下にリンクすると。
○Ginette Reno
Ma mère chantait toujours
○Ginette reno
J'ai besoin d un ami. :
○Ginette Reno :
Rouge 
○Ginette Reno :
La Vie :
○Ginette Reno -
Un Homme Ca Tien Chaud
○Ginette Reno :
Toi le poète :
○Ginette Reno
Je ne suis qu'une chanson :
(注:私のシャンソンBlog:Toi Le Poeteは6曲目のタイトルからの命名。リンクペイジに写真を沢山置いているがこれは、Ginetteの秘書のSuzieに送って貰ったもの)
(注:Ginette RenoはカナダからLa chanson de la vieに参加している。
参照:Music Cross Talk : La chanson de la vie : )

当時近隣のモーター騒音に苦しんでいる最中だったので、公園に出かけていって聞いた。音楽を聴くということがこんなに楽しいものかと心底思った。3時間ほど聞きつづけて、家に帰ってきた。家で聴くと、モーター音がかぶり歌声が少し息苦しくなってきた。声がやたら大きく、ゆとりが無くてしんどい。石井先生の手紙をよく見ると、7番目の曲を歌おうと思っていると書いてあった。7番目の曲をもう一回聞いた。そして五月蝿いと思った。
「最初は素敵な曲が一杯で楽しかったのですが、4,5回連続で聞くと、五月蝿いと思うようになりました。特に「Je ne suis q'une chanson」は、耳が弱っている時はしんどいです」と返事をかいた。ただ歌手としては心ひかれる曲なのだと思った。しばらくして返事が来た。読んで驚いた。
「確かにあなたの言う通り、聞いていて疲れますね。歌うのを止めにします」と書いてあったのだ。なんと素直で率直な方なのだろうと、吃驚した。納得されたからなのだろうけれども。何しろ大御所なのだから。

今回この原稿を書くにあたって調べてみて驚いた。やはりこの曲は歌手として心惹かれる曲なのだ。Michael Jacksonも歌っていた。えぇ?
Michael Jackson :Je ne suis qu'une chanson
この声はBruno Pelletier
、単にMichael Jacksonの人生に曲を被せたかっただけですね。「僕の人生は一曲の歌に過ぎない」と。

初回時忘れていたがそれから5,6年後6番目のToi le poète を勧めてみたのだった。なんとなく日本人好みの覚えやすい旋律、それにこの曲NHKでよくかかっていて、耳慣れもしている。いい詩に乗せれば、ひょっとして。
石井先生から返事が来た。「曲が単純すぎるので、その気になれない」と。確かに。歌手が曲を選ぶには、歌手としてなにか内から燃え立たせられるようなチャレンジ精神が奮い立つような要素が必要なのだと思った。歌手にとっては、曲との相性は想像を絶するほど重要なのだ。

Toi Le Poeteに関して:BlogToi Le Poeteより 追記


石井好子 シャンソン歌手 (3)

2010年07月23日 09時24分47秒 | 追悼:石井好子

石井好子さんは、多くのお友達のいるあちら側の世界に旅立たれた。
引き止める術も、そして行動も起こさなかった。後悔しても遅い。
新聞によると、病気は急に悪化したようだ。親族に看取られて、病院で。
そう、美しく旅立たれた。

石井好子さんの存在があるから、その眼差しを向けられていると言う思いがあるから、シャンソンのサイトやブログも頑張ってこれたような気がする。これから一体誰と、気楽に楽しくシャンソンの話をあれこれ、取りとめもなく自由にできるというのだろうか?私は人生の大きな柱を失ってしまった。石井好子さんにだけは、私のシャンソンに対する熱い思いが伝わっていたのだと思う。その一点でだけ、理解し合い繋がっていることが出来た。26,7年間、確かに長いけれど、その一点はか細い。

最初に「楽屋に来たら、バルバラ歌手の堀内美希を紹介してあげる」と言って下さった。行けばよかったのにこう言った。「不自然な会い方ではなく、必然があれば、必ず人生がどこかで、クロスする筈。それを信じて、会わないでおきましょう」と。
それが約束になった。石井好子さんも「会わない」ということを密かに楽しんでおられた。私はシャンソン歌手ではなく、しかも石井好子さんの日常には、決して存在しない観念的存在となることを選んだのだ。それでも、どうしたわけか、充分な身近さを感じることが出来た。お互いシャンソンを引き寄せているからだ。
もう一つ約束がある。お互いがお互いを知っていることを明らかにしない、ということ。無関係をよそおうことだ。これも、無名の私が「石井好子さんのお知り合い」という特別な立場を取りたくなかったから、私がお願いしたことだ。またそのほうが、なんでも気楽に話せる。観念的存在になることによって、儀礼的気兼ねを排除したかったのだ。
私には石井好子さんが見えるが、石井好子さんには私が見えない。けれども信頼があるから、言葉が充分機能するのだ。誤解があったことは、一度もなかったと私は思っている。後悔があるとすれば、二つの約束を破らなかったことだ。特に石井先生が病に臥されてからも、私は約束の言葉だけを何度も繰り返したことだ。

最後の葉書きにこう書いてあった。
「あなたにも会いたいのですが...」からだの調子がよくない、と。普通なら挨拶程度の言葉だけれど、二人の間ではこれは異常事態を意味する。2,3週間考えてから、せめて電話でもと思い、私は初めて思い切って自宅に電話をした。名前を言ったら、とりついでいただけた。
「いつもお手紙ありがとう」「腰の調子がおもわしくない」そうおっしゃったが、声にあまりに力がなくて、私はパニックに陥った。電話をかけたがために、これ以上体調が悪化してはいけない。早く電話を切らなければ、その思いにとらわれてすべての言葉が頭からも口からも消えてしまった。

・・・・・追記:2012年1月28日・・・・・
石井先生のCDを聞いていた。2年前の手帳を見ていた。電話をかけたのは6月と以前書いたような気がするが、5月6月7月で、ようやく一息ついたたったの一日は、7月14日だったことが手帳を見てわかった。とすると私が電話をしたのは7月14日の可能性が高い。亡くなられる3日前だ。7月初めから入院されていたとのことだったので、電話は6月と判断したのだけれど、自宅にかけた電話は病院に転送されたのかもしれない。そうだとすると、間違いなく7月14日だ。あまりにお声に力がなかったので、パニックに陥って早々と電話を切った。心配になり、その後2回手紙を書いたが、届いたのは、亡くなられた後かもしれない。そういえば、取次に少し時間がかかった。そして直感として「大変だ!」とお声を聴いて思った。
5月か6月か7月かもわからないのか、と言われそうだが、とにかくそれくらい人生の底辺に突き落とされて一人で必死に耐えていた、耐えるだけでなく、格闘していた、孤軍奮闘していた、多人数を相手に。そして、全身が崩れ落ちるような崖っぷっちの窮地を何度も体験していた。その真っ只中に石井先生は亡くなられたのだ。


追悼:石井好子: 祖父 久原房之助 (2)

2010年07月22日 11時39分18秒 | 追悼:石井好子

石井好子氏が大好きだった母方の祖父 久原房之助
石井好子氏にいただいた「惑星が行く 久原房之助伝」
(1)
その目次世界一の大煙突
今日は日立鉱山の大煙突を紹介します。
日立鉱山の大煙突ドキュメンタリー Video
そのBlog : Nikkei :
何年か前、日立市に招かれて式典に参加してきました、という嬉しいお手紙をいただいた。
(2)その目次 :孫文支援
孫文支援者としては宮崎滔天が有名だが
日本で孫文の革命に最大の援助を行ったのは
久原房之助である。
(3)その目次 :
孫文に救われる
孫文支援の記録が見つかり巣鴨から生還
久原房之助 47/9/1  不起訴釈放
石井好子氏には「おじい様、お帰りなさいませ」という記憶があるのだ。
(4)その目次 雪のクレムリン宮殿
戦争屋による極東アジアの分断、戦争を回避するため、中国、ロシア、日本による独自の“非戦中立緩衝地帯”論をスターリンに説こうとした久原房之助。スターリンに会うことに成功した3人の日本人の一人と言われている。(スターリンは聴く耳を持たない。むしろ会談セッティングのために周辺から多額の金品を要求された。ー今本が手元にないので、私の記憶によっている。本は読んだ後図書館に寄付しました。ー)

・・・・・追記:2011年1月22日・・・・・

久原房之助の別荘、
八芳園には遊覧列車が庭内を走っていた。すべての孫は平等に、全部集めて一緒に仲良く遊ばせた。この祖父にしてこの孫あり、のスケールの大きさ。ついでながら一方朝吹登水子氏の母方の祖父は、こちらも蒋介石に軍隊教育をほどこした長岡外史、スキーの導入者として、また日本航空界のパイオニアとしても、そして日露戦争の功労者明石元二郎の直属の上司として、時代を牽引した人物である。

・・・・・追記:2011年4月19日・・・・・
天馬空を行く 久原房之助物語
 
No.1 & No.2 & No.3


Yoshiko Ishii est morte : 石井好子かもめを歌う (1)

2010年07月21日 21時34分21秒 | 追悼:石井好子

ニュースで石井好子さんの死亡が報じられている。
友人からも電話がかかってくる。想い出を話す。
26,7年間いろんなことを語り合ってきた。
石井先生の凄いところは、ルネ・ルバはこんな声をしている、ミック・ミッシェルはこんな声をしていると、声の質でたいていの歌手の聞き分けができることだ。誰の声は誰と誰の声を足して2で割ったような声だ、という判定まで出来てしまう。古いレコード歌手で録音の悪さから、みんな同じような歌い方でみんな同じように聞こえてしまうような歌手の声なのにである。本場フランスで本物の歌手達と接触されてきたからこそである。
26,7年の間に歌ってみてはいかがですかと、3度提案したことがある。
勿論まずはBarbaraである。あの高音はでないと、断られた。2度目はRegine
Pourquoi un pyjama ? だった。イメージ・チェンジを勧めたのだが、これもお気に召さなかった。この曲はコミカルなのだが、自在に声を操れる人にしか歌えない実力派歌手の曲だと思ったからだった。後にRegineのLes p'tits papiers をレパートリーに加えられた。3度目はClaude FrancoisLe Chanteur Malheureux。歌詞はMy Wayほどに内容を変えてと。これはOKされて確か永六輔氏の日本語歌詞が付いている筈だ。結局はお蔵入りしたのだけれど。石井先生のレパートリーにはMichel Sardouも入っているくらいだから男女を問わない。

ダミアからDamiaまで / 石井好子
01.港町の居酒屋
02.云わないけれど
03.想い出
04.哀訴
05.いつの日か
06.バルバリ・バルバラ
07.海辺のバラード
08.夕映えの二人
09.サン・ザムール ~ ガラスの薔薇
10.暗い日曜日
11.人の気も知らないで
12.異国の人
13.かもめ
これは5,6回とり直しをされて、長い月日がかかった。10.暗い日曜日はなかったのだ。「
暗い日曜日」のないDamiaはおかしいといって、最後の1ヶ月に4曲を押し込んでみてはと提案した。私の好きな「港町の居酒屋」はTopに来ている。練習はされたが入らなかった2曲は
Damia - "
Le grand frisé " (1933)
La Guinguette a fermé ses volets :
Le grand friséに関してはBarbaraの「Le grand frisé」を送ったら「大変参考になった」と言って下さった。この曲は石井先生も大変お気に入りで意欲的だったのだけれど、時間切れのためにカットされた。

Yoshiko Ishii 見えない鳥の存在:Blog版:
上のBlogにも書いているが、You Tube等の共有動画サイトに、つまりinternet上に石井好子氏の動画は一切ない。日本人シャンソン歌手の動画も増えてきているのだが。石井好子氏のDVDから亡き友Jacquesに制作して貰ったBruxelles所有の「かもめ」が密かにあるだけだ。Internetに出してもいいですかと申し出たら「あなたのすることなら、なんでも了解」と言っていただいた。今日は特別の日だ。唯一存在するその動画をお見せすることにする。
(ある方にYou TubeにUpしていただいた)
You Tube
石井好子 かもめ

死因は肝不全となっている。本人には告知されなかったのではないだろうか。そのようなことは全く聞いていない。腰の調子が悪い。風邪が長引いている、としか聞いていない。あまりに不調が長いので、主治医に談判してみましょうか、とも申しでた。今は坦々と書いているが、明日からがきついだろう。ある意味母親のような方だった。
後半の10年は彼女の父や
祖父の背景に拡がる歴史や政治のことに関心を集中させていた。政治・産業そして歴史の証言者としての石井好子氏にもっともっと多くの貴重な体験をお聞きしたかった。

追記:2010年7月22日
早速You Tubeに素敵な歌で登場した。
追悼:石井好子 帰り来ぬ青春 Hierencore1989


Blog : Correspondances

2010年07月18日 08時53分15秒 | Bruxelles Talks

BarbaraのSiteを初めて今年で7年目。今はCorrespondancesがSiteの玄関になっている。時々更新行為の意味を問いたくなる時がある。何の意味があるのかと。どういう意味を見出そうとしているのかと。Internetを自分はどうとらえているのか、など。
文春文庫「ウェブ時代 5つの定理」(梅田望夫)を購入して読み始めた。
P.134に以下のような文章を見つけた。eBay創業者のPierre Omidyarの言葉である。
When individuals feel they can have an impact on issues they care about, it leads to making the world a better place.
To do that, we need to create an environment in which they can exercise their freedom of choice.- Pierre Omidyar
まだ第3定理しか読んでいない。とりあえずは上の言葉に共感し支えられ、これからも常にパースペクティブを持って、熱情と冷静を共存させていきたい。分かりやすく言うと、自問自答と自己把握、及びPositionの確認が必要だと言うことだ。
(2010年7月18日 Bruxelles記) 

The internet is helping to satisfy our most fundamental human needs- our desire for knowledge, communication and a sense of belonging.- Eric Schmidt (p202) 第4定理より
人間の最も基本的な要求として、この3つを取り出したところが非常に斬新だ。地位や名誉やお金や幸福等という概念は、やはり古いのだ。

Success in the New Normal is all about time management.
Time is the currency of this age.-
Roger McNamee (P.221) 第4定理より
説明や感想の必要がない至言である。

第1定理、第2定理に関しては、環境が違いすぎるためか、私の知る実態とはかけ離れすぎていて、絵空事のように感じてしまった。
ITの先端世界を熟知している人しか知りえない現実があるのだろう。
本書の指摘の中で私も注目、同感したことがある。
Wikipediaの各言語による充実度の差について。確かに日本語ペイジの充実度はかなり低い。Wikipediaを情報収集のためのある種の教科書と考えた場合、日本語ペイジは、他の言語に比べさらにどんどん見劣りがしてくるだろう。それが将来、日本語や日本国の存在感の低下に繋がらなければいいのだが。
(2010年7月19日 Bruxelles記)


Misia chante Barbara

2010年07月17日 09時32分14秒 | Barbara関連情報

Portuguese fado singer Misia chante (avec Agnes Jaoui)
Attendez Que Ma Joie Revienne de BARBARA
ファド歌手としては、日本でも有名なMisiaがBarbaraの
Attendez Que Ma Joie Revienne をFADO風に歌っている。
残念ながら短くはあるがあらかたを知るには充分な長さといえるだろう。
タイトルをクリックして視聴(23番)する。
この曲の素晴らしさがよくわかる筈だ。


Regine, Zaz et Mathieu Madenian

2010年07月14日 19時11分10秒 | 海外の放送

Europe1の放送 : Michel Drucker et Wendy Bouchard reçoivent Régine, Zaz et Mathieu Madénian という番組を偶然見つけた。
60分少々
Régineに興味があるから選んだわけだが、
このZAZもなかなかの掘り出しもの。
・・・・・・・・・・・・・・
この番組を聞いて少し調べてみた。
まずRegineのアルバムについて
アルバム制作過程をみる
 Les p'tits papiers avec Jane Birkin - Azzurro avec Paolo Conte - J'ai toujours porté bonheur aux hommes avec Boy George - Une valse pour toi et moi avec Maurane - Ouvre la bouche ferme les yeux avec Edouard Baer - L'emmerdeuse avec Bernard Lavilliers - I will survive avec Julia Migenes - La grande zoa avec Didier Wampas - Le cirque à tout le monde avec Pierre Palmade - Gueule de nuit avec Juliette - Capone et sa p'tite Phyllis avec Arthur H - Je viens danser avec Cali - My Yiddish Mome avec Fanny Ardant - The little papers avec Jane Birkin - Les lumières de Belleville avec La Grande Sophie - Un jour je quitterai tout (version 2009) ).
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ZAZのwikipedia :
ZAZのBio :
ZAZのmy space : なかなかの声
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Mathieu Madénian : Site
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昔からRegineに興味があり、上記の番組を選んだが、Europe1の放送、かなり聞き放題だと言う事が分かった。昔からのシャンソンファンはおそらくRegineを知っているが、若いファンは吃驚するかもしれない。なにしろこの顔。80歳。この人がParisの名物女だったのをご存知?告白本を書いているらしい。ちらりと見たが恋のお相手にClaude Francoisの名前が出ていた。本当?
ついでながらRegineとBarbaraはお友達。二人顔を寄せた写真も何枚か見た。BarbaraはRegineに曲も提供している。覚えていますか?Barbaraの秘書Marie Chaixがアメリカ人の秀才と初めて出合った席に、BarbaraとRegineが同席していたことを。
その秀才とMarie Chaixは駆け落ちして、アメリカに行ってしまうんですよね。その男は誰だって?その男性こそNIKIの最初の夫である。NIKIって誰なのよ、って?Niki de Saint Phalleです。


Liliane JameのBarbara Page

2010年07月13日 10時51分39秒 | Cockpitから

Barbara : Liliane Jame ;

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Chapeau Bas et merci Barbara par Patricia DAMIEN ;
Patricia DAMIENをクリックしその後
右側のタイトルをクリックしてください。

////追記:2010年7月13日/////
(上の記事は2007年10月13日の記事です。)
Quick TimeがないとLiliane Jameの写真が見られないことに今頃気づいた。Liliane Jameに関する資料を見つけた。少し付記しておく。
22歳の時にBarbaraのファンになり1964年のBobinoに行った。1965年のBobinoで写真を撮り、それをPhilips関係の人の手を通してBarbaraに渡した。この中の一枚がGottingen45回転に使われた。(1966年)
その後Barbaraから声がかかり、Remusatの家に撮影に行くことになった。1967年Bobinoのポスター用の撮影である。
面倒なので省略するがその時のことがLes Amis de Barbara 2008年秋号No.35に詳しく書かれている。当時の秘書はChaixを名のる前のMarieである。運転手のPierreが取りに来た。Barbaraはタバコを吸っている写真を選んだが、ちょうど禁煙運動期間でもあったので、結局ボツになった。
その後Barbaraにはスイス公演があって、そこで写真家のMarcel Imsandと出会う。以後はMarcelが専属カメラマンになった。
Barbaraの死後、写真が不足するあまり、特に昔の無名の60年代中頃の写真が探された。結果Barbaraの死後発売されたCDやDVDなどの中に、Liliane JameのBarbaraが何度か登場することになったが、撮影者の名前は記されていない、ということだ。
LilianeのBarbaraはとても柔らかい感じの顔のものが多い。
Barbaraの写真家はBarbaraの写真家としてすでにほとんど資料に名が残されているがLilianeは無視されてきた。Barbaraの手元には残ったのだが、その時点で使用されなかったこと、そしてまたその時点でLilianeがプロではなかったことなどが、原因だと思われる。

" A force de " De Barbara et Guillaume Depardieu
par Isabelle Vajra :撮影 Liliane Jame