CORRESPONDANCES

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Il etait un piano noir...: Bruxelles (20)

2014年06月01日 11時13分48秒 | Bruxellesが守れなかったBarbara

このシリーズ原稿、数えたら今回が20回目、最初の予想に反して
石井好子先生追悼記事の連続21回を超えてしまうかもしれない。
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Drouot - Barbara:You Tube:
Music Cross Talk 過去記事 Drouot
//////////校正12回目//////////
○原文P.147: C'est la que je croise un matin cette femme bouleversante pour laquelle j'ecrirai la chanson Drouot.
訳文:そこで出会った一人の女性から、あまりにも衝撃的な話を聞き、私はシャンソン「ドルオー」を歌うことになる。
上の仏文に「衝撃的な話を聞き」などという意味は全くない。人から話を聞いてそれをそのまま歌にするようなBarbaraでもない。ある朝ある女性とすれ違ったのはその場所でだった。私はその女性の様子に衝撃を受けこれを「ドルオー」というシャンソンに仕上げた。が正しい。Music Cross Talk過去記事参照。日本歌詞の「貴婦人」に関しても触れている。

○「訳者解題」P.206 この時にその後、30年間バルバラのアコーディオン奏者を務めるロマン・ロマネりともであっている。これを読めばバルバラの人生がわかります、と訳者がいう「解題」や訳本全体の中に、ロマン・ロマネりはこのたったの一行である。Barbaraが回想録にロマネりの名を出していないので、重要さがわからないのだろう。もちろん、Lily Passionの最中に喧嘩してそのまま絶交になったことも全く知らないのだろう。別に構わないが、30年がいけない。Barbaraの人生を全く知らないから30年などと書けるのだ。Roland Romanelliの本「Barbara 20 ans d'Amour」もRomanelliとレベッカの舞台「Barbara 20 ans d'Amour」もご存知ない。計算ができなくても、20年は当然頭に入っているものだ。Barbaraの曲に疎いだけでなく、バルバラにとってのロマネりを知らず、下のこの有名な本も見たことがないのではないか。

私はサンケイホールだったか毎日ホールだったか忘れたがRolandと出会い頭にぶつかっている。38年前、当時銀ギラ銀に輝いていたRolandがすっかりおじいさんになっているのもこれは時の流れ、仕方がない。レベッカとの二人の舞台には客席から最後に拍手が沸き起こるが、Barbaraを支えたRolandに対するBarbaraファンからの温かい拍手だと感じた。Rolandの作曲の歌も多いのだ。観客はRolandに「BarbaraとRolandの時代」を見ている。付け加えるがRolandは単なるアコーディオン奏者ではない。作曲も編曲もピアノもシンセも、とくにいち早くシンセの豊富な音をシャンソンのバックに取り入れた、その分野の先駆者ではないかと思う。BarbaraがRolandに電話して「ジャン・ミッシェル・ジャールさんのお宅ですか」と冗談を言うのも、Barbaraもそのあたりを認識していたからだと考えられる。
Roland Romanelliバルバラを語る(1)

Roland Romanelliバルバラを語る(2)
Roland Romanelliバルバラを語る(3)
(Music Cross Talkより ↑)

○訳本の表紙を外して見てみると、表紙にも帯と全く同じことが書いてある。何故そんなことに気づいたかというと、原本の裏表紙には全く違うことが書いてあることに気づいたからだ。
過去記事で著者紹介にBarbara最後の舞台や1993年のシャトレが記載されていないことを指摘し、これでは紹介にならない、と書いた。Barbaraの人生をほとんど知らない人が書いたのだから仕方がないにしても、Barbara自身はこの本を1994年3月26日、トゥールでの最後の公演で終えている。そしてBarbara自身の「まえがき」は、1993年のシャトレ、中断を繰り返し、最終的に「もう舞台には立てない」と決定せざるを得なかった、1993年のシャトレで始まっている。無知でも自分が訳した内容さえ記憶できていれば、そして多少の熱意があれば、Barbara自身がその著作でこれほど強調した、シャトレとトゥールを、「著者紹介」でうっかり落とすことなどありえないのだ。過去記事で少し触れた内容を何故繰り返しているかといえば、原本の裏表紙に気づいたからだ。裏表紙にはまえがきのはじめの部分、すなわち1993年のシャトレに関する部分が取り上げられていた。「まえがき」である。訳本ではこれが無視されている。「もう二度とステイジには戻らないだろう、もう決して歌わないだろう」と歌手Barbaraがまえがきに書いたのである。シャトレでどれほど重大な事態が発生したか、シャトレでの体験はバルバラにとって、言わば死刑宣告であった。Barbaraはそのことを「まえがき」に書き、編集者は同じ内容を裏表紙に入れた。それが訳本の表紙にはない。訳本の表紙を広げてみると、訳者小沢君江氏が書いた要約らしきものにすり替わっている。1993年のシャトレがなければ、Barbaraはそもそもこの本を書く必要はなかったのである。

2013年7月8日France CultureでBarbaraのこの本
「Il etait un piano noir...」を基にしたラジオ放送がはじまった。
すでに2回放送を聞いたが共に、
シャトレの出来事「もう二度とステイジには...」
のBarbaraの本の「まえがき」で始まる。
訳本の表紙から消えただけでなく、訳者の記憶からも消された
あのシャトレの体験の言葉が毎回初めに繰り返されるのである。

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