CORRESPONDANCES

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石井好子 (16) ステイジはボクシングリング

2010年11月08日 22時28分16秒 | 追悼:石井好子

-そんな下り坂の時代の中で、私たちは何を支えに生きていけばいいんでしょう-
「思い出を語る事です。人間にとって一番大切なものは、思い出だと私は考えています。(中略)思い出を語る事は、決して後ろ向きな事ではありません。思い出を語る事で、人は我が人生を肯定することができるのです。」
ライフプラス12月特別増刊号、五木寛之ロングインタヴューから抜粋しました。昨日書店でこの部分を見て思わずこの雑誌を購入してしまいました。

最初で最後の電話をした後で、生意気にも私は石井先生にこんな手紙を書きました。あまりにもお声に力がなかったので、動転してしまった事。そしてアドヴァイスをしたのです。
1.もしベッドに臥せっておられるなら、手足を動かすとか、寝ていてもできる運動をすること。2.毎日1時間、楽しく話ができる人と、会話をすること。3.先のことを思い煩わずに、過去の思い出を蘇らせて時間を過ごすこと。
3.は豊穣な人生を歩んできたからこそ可能な、ある種の贅沢であって、未来ばかり見据えるのは必ずしも意味のある時間の過ごし方ではない、と。
その事をずっと後悔してきました。石井先生はどんなときも常に前向きに生きてこられた方です。「思い出に生きること」など性に合わない。だから書店で上記の文章を目にしたときは、ほっとしました。ひょっとしたら、石井先生もこの点を理解して下さったのではないかと。五木寛之氏は、惨めで浅はかな、むやみなプラス思考をいつも否定されている。石井先生も根拠の無い
病的楽観主義に組してこられなかった。だから決して気を悪くする事無く、理解していただけたかもしれない、と。前向きであることや未来志向が、マイナスにしかならないこともあるのだと。

石井先生は、よく歌手をボクサーにたとえられた。リングに上がれば孤独である事。そしてリングに上がるまでの練習と体調管理こそがすべてであること。だからまとまった休みがあれば、いつも健康診断を受けておられた。そして毎回「異常なし」という結果だった。
もう15年以上前になるかもしれない。「今度はインド式の健康診断で全身をチェックする事にしました」と連絡が来た。「ひょっとして、それは○○や●●や××のようなことをするのではないですか?あれはとても過激ですよ」と書いた。しばらくして「調べてみるとあなたの言う、アーユルベーダというインド式の全身検査でした。それがわかって、断りにくかったけれどもなんとか、キャンセルしました。早めに分かってよかったです」という返事が来た。検査風景をちょっとイメージしてみたけれど、やっぱりやめられてよかったと思った。
20年位前には「今トレッキングから戻ってきました」という手紙が来た事もあった。海外か日本か思い出せないけれど、それも足腰の鍛錬のためにされていたのだと思う。御殿場の2000坪の別荘では、毎朝散歩をされていた。そして心的リラックスのためには、別荘の部屋の窓から見える富士山の眺めを楽しんでおられた。
ボイス・トレーニングはずっと続けておられた。そしていろんな自分に合う独自の体操も毎日されていた。もっと昔はジムにも通っておられた。忘れてはならないのは水泳。1987年、65歳の時にはマスターズ水泳台湾大会、平泳ぎ50メートルの部で優勝されている。
体調に関して命に関わる不安要素はなにもなかったが、十年前頃だったろうか、実は私は30代の頃からずっと不眠症で、毎晩睡眠薬を欠かしたことが無いとおっしゃった。睡眠薬が常習化しているので、年とったら、ボケるかもしれない、と不安を漏らされた。しかし計算するとすでに75歳を過ぎておられたので「今大丈夫だから、睡眠薬は常習化しても大丈夫だ」とかえって確信をもった。その頃「歌詞を覚えるのに、一苦労するようになって、愕然としている」というお手紙をいただいたが、それは睡眠薬に関係なく大体60歳を過ぎると、どんなに頭のいい人でも、記憶力は過激に低下するものだ。新しい事を覚えられないという話はよく聞く。
腰痛というウィークポイントがあるとおっしゃったのは、4,5年前だったように思う。どの程度なのか、全く分からなかった。そしてあれは手術をされる10ヶ月くらい前だったと思う。「あまり歩くと腰に悪いのだけれど、北海道の旭山動物園に行って、たくさんたくさん歩いて、とても楽しかった」というお手紙をいただいた。旭山動物園のパンフレットまで入っていた。見ると本当に楽しそうな動物園だった。
手術のために、今日入院しました、という手紙が来た時にはだから驚いた。そこまで悪いとは想像だにしていなかった。こちらから出す手紙には「一体どのようにどの程度悪いのですか」「回復が思わしくないのはどの程度思わしくないのですか」等と馬鹿げた質問を繰り返した。今年の1月から3月にかけて私自身が酷い腰痛に襲われ「イテテイテテ」の日々をおくったときは、お見舞いにも行かない罰があたったのだと思った。入院初日病院からの手紙「何か古い作家のパリの小説みたいなの、入院中に読みたいなと思っています。教えてくださいね。」と書いてあったのに、あれから1年数ヶ月も経っているのに、その約束の本も送っていなかった。慌てて本を送る事にした。約束の、古い作家のパリの小説、ではなく、石井先生のご主人が元特攻隊員で、たくさんの戦友の死を目撃しまたその苦しみを心に深く抱えていらっしゃった方だということを思い出して、手元にあった「永遠のゼロ」を送った。しかしその頃は既に、本を読むような状態ではなかったのではないかと、今になって思う。

腰の手術のための入院初日に下さった手紙に
「では元気になりましたら、又すぐあなたにお手紙出します。3週間くらいだめみたいですが心配しないで下さい。」と書いてあった。この前Planete Barbaraのメイルボックスを整理していたら、2008年10月8日に石井好子音楽事務所からのメイルが入っていた。
・・・・・・
Bruxelles(ここには私の本名)さま
石井より電話があり、お伝えするようにとのことです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

長い事御無沙汰してすみません。
私は9月8日腰の手術をいたしました。
少し無理をしましたため
少し手遅れとなり
本当は今日あたり退院しているところなのですが
あと1ヶ月くらい入院とのことのようです。
今はリハビリに努めている状態なのでご安心下さい。
この際、しっかりと休養したいと思っております。
おかしな事に今レイ・チャールズそして
ポピュラーなシャンソンをを聞いています。
又連絡いたしますが、ご心配かけてすみませんでした。
あなたもお大切に
石井好子
・・・・・・
伝言という形をとってまで、手術後の状況を知らせてくださっていたのだ。よく読むと大変な事態なのに、当時は「退院が少し遅れた」という認識だけでこのメイルを見たのだと思う。ついこの前まで、手術後の第一報が、E-mailによる事務所からの伝言だった事まですっかり忘れていた。
観念的交流の限界かもしれない。何故ならそして多分それゆえにこそ、石井先生の死が、私にはいつまでたっても全く現実味を帯びない。

追記:2010年11月9日
送信済みメイルボックスに上記のメイルに対する返事が残っていた。日付は2008年10月8日、すぐに返事を出したようだ。
(略)あと一ヶ月は長いけれど
これから日一日と良くなることを思えば
未来は明るいと言うことですよね。(略)
等とのん気な事を書いている。
同じメイルボックスに2008年8月1日付けで、石井好子音楽事務所に宛てたメイルも見つかった。
---さっき郵便ポストに「パリ祭」のビデオ
を発見大変有難う御座いました。
嬉しいです。いまから早速拝見します。
キム・ヨンジャさんが「黒い鷲」を歌った
という情報は、
九州のBarbaraファンから届いています。
それも含めて早速拝見させていただきます。
石井先生に、どうぞ宜しく。---
そう言えば、翌年2009年のParis祭の後
石井先生からお手紙をいただいた。
---出演はしたけれど、歌は歌わなかった。
本当のことを言うと
ステイジの中央まで出て行くだけで
死ぬような思いをした。---
それに対して、こんな返事を書いたのを覚えている。
---インターネットでパリ祭を見れば、石井好子華やかに完全復活、というコメントばかりでした。もう一人で歩けるということは、いずれにせよ回復の証明です。来年こそ、完全復活ですね。
のん気なものである。私の記憶では2009年はこのParis祭以外ステイジには立たれていない。そして又結果としてこのParis祭が石井先生最後のステイジとなった。
入院は一ヶ月の延長ではなく結局数ヶ月の延長となった。今から思うと、思わしくない体調は、2008年の9月から、2010年の7月まで延々と石井先生を苦しめたのだった。決して愚痴を言わない方だったので、何がどのように思わしくないのか、決しておっしゃらなかった。否、むしろご自分でも「風邪が治りにくくなった」くらいに考えておられたのではないかと思う。
2010年の年賀状にはこう書いてあった。
今年こそは、シャキッとした一年にしたいです、と。


Il etait une fois Joe Dassin

2010年11月06日 10時32分43秒 | シャンソン界の情報(フランス)

前回のMike Brant、今回のJoe Dassin,共にセクシーなシャンソン歌手である。前者はイスラエル、後者はアメリカ出身、フランスからみれば、両者共に外国人。
Mikeは独身のまま亡くなったがJoeは子供を残した。Julien Dassinという。尾崎豊の歌を歌う尾崎の息子のことを思い出した。
没後30年。まずJoe DassinをYou Tubeで、懐かしんでみたい。
Joe Dassin - A toi
次はJulienとJoe
Et Si Tu N`Existais Pas - Joe Dassin & Julien Dassin
・・・・・・・・・
Il etait une fois   Joe Dassin :  
Home Page:
Il etait une fois   Joe Dassin :
France 3 :
Il etait une fois : Joe Dassin :
France 2 :
Daily Motion 1 & Daily Motion 2 :
From  :
Spetacle Joe Dassin  Home Page :
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参照 : Toi Le Poete : L'ete Indien :
Barbaraを外して青春の思い出の一曲を
選ぶとしたら、私の場合この曲がNo.1かもしれない。
元歌はイタリア製、歌っているのは作曲者
Toto Cutugno - L'ete indien (Africa) live


第2回国際軍楽隊フェスティヴァル 2010 赤の広場

2010年11月01日 20時51分22秒 | 海外の放送

第2回国際軍楽隊フェスティヴァル 2010は9月4日~9日までモスクワ、赤の広場で開催された。Mireille Mathieuを調べていて見つけたのだが、凄い迫力だ。とりあえず見てみよう。
第2回国際軍楽隊フェスティヴァル 2010 : You Tube
Spasskaya Tower military music festival 2010とも言うらしい。
Mireille Mathieuの出番は最終日の9月9日:You Tube
(どうしたMireille Mathieu声と音程が少しイカレテいる。聞きづらい)
勲章を貰っているMireille Mathieu & 仏newsのMireille Mathieu :
Military music festival をもっと見る。
Military music festival をもっと見る。
Slide show 1 & Slide show 2 & Slide show 3 :