CORRESPONDANCES

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石井好子 (17) 謎の電報

2011年01月11日 15時16分44秒 | 追悼:石井好子

「今頃、どこで何をしていらっしゃるのだろう」と最近よく思う。その度にもう旅立ってしまわれたのだと、無理に認識する。
いつだったか、突然電報が届いた事があった。差出人は石井好子とあった。事務所ではない。吃驚して開けて見ると「今夜○○劇場に出演します」とあった。「歌を聴きに来てください」と言うことなのか「今回は一度お会いしませんか」と言うことなのか「話したい事があります」なのか、意味がわからなかった。時間の都合がついたら、劇場に足を運んでください、というのが一番妥当な解釈だと思ったが、今までも当日にそのような電報が来た事は無い。3つのどれかとは思うが、本来そういう要求を突然される方ではない。だから「出演します」で止められたのだと思う。(今から思えばお互いにdiscretionを持ちすぎていた。)後はこちらが判断しなければならない。迷ったが複雑な用件があって、誰かが家に来る事になっていた。行けない。事務所からの連絡なら、メイルを返せる。ご本人は大阪だ。どうしようかと迷ったが事務所に行けませんとメイルを出す事にした。60周年の時に連絡係りになってくださった矢野さん宛てに。今送信済みメイルを調べたら2008年5月11日(日)とある。腰の手術のおよそ4ヶ月前である。
入院初日の9月のお手紙から判断すると、大阪での引退前の最後のステージ、それをとりあえず知らせようと電報を打たれたのかもしれない。
もう一つ考えられる事がある。昔のシャンソン歌手の動画がたくさん見れるので、石井先生もインターネットをされたらいかがですか、と何度もお勧めした。その時、今思い返せばだけれども「大阪にお見えになったら、一緒にネットカフェに行きましょう。何も覚えなくてもクリックするだけで、たくさんのシャンソンが楽しめるので、実際にお見せしたい」と言っていた。その言葉を思い出されての、電報かもしれない。
それとも、もし私がその時ひょっとして楽屋まで行けば、目の前の引退に関するお気持ちを伝えようとされたのかも知れない。腰の手術もその時既に思案されていたのかもしれない。
気になる電報である。会場に行き、楽屋にも行き、ネットカフェにも一緒に行くべきだったと、くり返し後悔している。このときにお目にかかっていれば、お見舞いにも気楽に行けたかも知れない。
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石井先生が90歳になられたら、一緒にSantiago de Compostelaに行きませんか、と、いい加減なお誘いをしたこともある。Barbaraの葬儀でBarbaraのFanだと知ったMuriel Robinが「
サンジャックへの道」と言う映画に出ていたので、その影響で思いついたのだった。とてもお元気そうだったので90歳のSantiago de Compostelaも決して夢ではないと思っていた。むしろそれまで私の寿命がもつかどうかの方が不確かだった。
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10年程前からの数年間、せっせとシャンソンのDJ風テイプを作っては石井先生のもとに届けていた。日記風に纏めた文章もつけて。プロのピアニストの前でピアノを弾いて聞かせる間抜けの素人のようなものだ。ほとんど忘れてしまったが、石井先生のお気に入りの中では
Joe Dassinの「L'ete Indien」(勿論フランス語版で)そしてPierre Bacheletの「Les Corons」の2曲だけは覚えている。「Les Corons」は峰大介さんに歌うように勧めていると書いてあった。
またある曲をそのDJ風テイプに入れた時「この曲は私も歌っています」というお返事と共に
CDが送られてきた事もあった。そのCDは既に聞いていたのだが、「終戦の後の進駐軍の上陸と共に...」という石井先生の歌手生活をふり返った長いセリフが入っていて、メロディーは単なるback musicだと思っていた。
その曲とは
Voila Pourquoi Je Chante de Dalida 和訳 by Bruxelles:
石井先生のタイトルは「だから私は歌う」。CD用のオリジナルメロディーと思えるほど、石井先生のセリフがピッタリ嵌まっていて、昔に聞いた時元歌があるとは考えもしなかった。CD以外ではめったに歌われなかったのではないだろうか。石井先生の選曲はいつも素晴らしいが、この曲など、どう考えても石井先生のCDのlast曲として書き下ろされたものとしか考えられないくらいだ。
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これを書くとこのペイジはとりとめが無くなってしまうが、石井先生は紅白の
第9回から第12回まで連続4回出場しておられる。曲目は「ゴンドリエ」「小さな花」「黒いオルフェ」「鐘よ鳴れ」。こう見ると選曲はNHKの指定・強制だった感じがする。それとも石井好子がシャンソン歌手としての王道を歩み始めるのは第一回パリ祭
(1963年)あたりからと言えるかもしれない。やはり私生活が忙しかったこともあるだろうし、日本の芸能界に根をはるには海外になじんだ方だけに多少の時間を要したのかもしれない。石井先生のDVDタイトルではないが「ローバは一日にしてならず」である。

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・・・・追記:2011年1月9日・・・・・
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石井先生のCDを探していたら「謎の電報」の続編のお手紙が見つかった。結構長い。まず「急に大阪の事、Faxしてごめんなさい」と書いてある。と言う事は、誰かに指示されたのだ。こちらにはFaxがないから、秘書の方が困り果てて電報にされたのだろう。しかし何のための電報だったのかは書いていない。スポニチ文化藝術大賞の受賞や朝吹登水子さんのお孫さんの結婚式の事、それからPLANETE BARBARAに協力してくれたJacquesの死に対するお悔やみ等が書かれている。
ー石井好子「ダミアからDamiaまで」-「悲劇の歌手」の魂に迫るーという日経の文化欄の切抜きが同封されていた。

そしてそのCDも。「あなたには送ったつもりですが、ぼーっとしている私はもしかして,とも思うので」と。CDの出来に関しては「何回も取り直しもっと取り直したかったのですが、もうこれ以上やってもダメかなと、諦めて出します。必死みたいなところだけが取り柄かもしれません」調子が悪くてよい出来ではないとある。
バルバラとの写真お見せしたことがあったでせうか。それもはっきりしませんのでお送りします」とある。(これは今Les Amis de Barbaraの手に渡って、フランス各地の展示会に必ず登場している筈だ)
何故かくもぼーっとしているかと言えば、一位二位に大好きだった木原ミミさんと、由紀ちゃん(朝吹登水子さんのお嬢さん)が亡くなって、辛い事に襲われたためと言うか、何がなんだか唖然と言うか、自分でもわからなくてぼーっとしている、と書いてあった。(こういう風に悲しみをダイレクトに表現されたことは今までにはなかった。体重が激減するほどの激しいショックだのだと、改めて思う。)


そして見落としていたのだが
「私は大阪2日間歌って,歌った後すぐ新幹線で帰ったのが無理だったのか、持病のヘルニアがこのところ痛くて、昨日昼夜三越劇場で歌うのきつかったです」とある。


精神肉体両面で疲労が積み重なったところへ、ヘルニアがここぞと暴れだした、それがこの時期だということがこの文章から特定できる。
(NITTSUメール便の受諾日は2008年5月19日とある。)
大阪でもう一泊して翌日飛行機で帰京されればよかったのだろうか。電報にお応えしてお目にかかっていれば、公演の後一泊されたかもしれない。何かトラブルの最中だったことをうっすらと覚えているが、一体何の用で誰が何しに来る事になっていたのか、全く思い出せない。

///////追記2011年1月10日///////
電報までは思い出したのに、何故この続編の手紙を失念していたのか考えてみた。これを読んだ時私も悲しみに共振したのだが、いただいたBarbaraの33年前の来日写真に舞い上がってしまい、他のすべてが頭から消えてしまったのだ。何をしたかといえば、あるBarbaraファンの方に、その写真を送りfile作りを依頼し、1週間後に写真が戻ってくると、早速Les amis de BARBARAの会長Fabienneにfileと
写真を送った。じっとしている事が出来ずに「Du Soleil Levant」に「ここに入れるのはちょっと勇み足?」というわけの分からないタイトルをつけてその日のうちにBlogに写真を掲載した。同日Fabienneには嬉しさに溢れたこんなメイルを出している。
Chere Fabienne
Je suis tres heureuse de vous envoyer une photo de Barbara au Japon 1975.
Barbara etait venue au Japon pour chanter.
L'autre femme sur la photo est Madame Yoshiko Ishii....
C'etait elle qui avait invite Barbara, et aussi c'est elle qui m'a donne cette photo.
Madame Ishii chantait a Paris autrefois. Elle avait beaucoup d'amis francais comme Damia, Yves Montand, Marcel Amond, Josephine Baker, Lucienne Boyer,etc...
Fabienneからはすぐに返事がきた。
Bonjour Bruxelles,
Un GRAND MERCI pour la photo. Bien entendu, nous allons l'utiliser pour les prochaines expositions.
Si vous en etes d'accord nous pouvons l'utiliser egalement dans la Lettre des Amis de Barbara, peut-etre souhaitez-vous ecrire quelques lignes pour expliquer la photo ?
Serait-il aussi possible de contacter (par mail) Madame Ishii qui pourrait nous raconter ses souvenirs avec Barbara, pensez-vous que cela puisse se faire ?
Amicalement.Fabienne   それに対して
...Et puis elle est ecrivain aussi, alors je ne crois  pas que ca  marche  bien de lui demander ecrire ses souvenirs de Barbara pour rien...
...Si vous etiez en faveur aupres d'elle, il y aurait de la chance pour vous de ganger plus de photos ou bien quelques documents interessants de Barbara...
...Bon courage, Fabienne, personne sauf vous pourrait y reussir...
Les amis de Barbaraが頼めば,もっと資料が貰えるかもしれないから、頼んでみたらどうですか、とFabienneにアドヴァイスして、自分自身も石井先生に厚かましくも、他には資料はもうありませんか、などと書いたことまで思い出した。あさましい。あきれて物も言えないとはこのことだ。
2008年5月11日夜から9月の入院まで石井先生の腰痛は悪化の一途をたどったのだろう。7月29日立川パリ祭で腰痛の中でも歌いきれた、最後の力ふりしぼって29日まで歌えたことを神様に感謝したい、と入院初日の手紙に書いてあったではないか。2008年はParis祭から、入院を急遽決意されるまでの間、苦渋にみちた、しかしぎりぎりまで力を振り絞ってのステイジだったのだろう。

BARBARAの来日写真が目の前でちらつくだけで、思考がショートし、discretionが吹き飛んでしまうとは、なんたることか!別にBARBARAに恋しているわけでもないのに。
あの電報は賭けだったのかもしれない。もし来れば
生涯最後のCDを手渡そうと思っておられたような気もする。そしてあのツーショット写真は、Site (PLANETE BARBARA 2 )
のpartner、Jacquesの死に落ち込んでいる私を励ますために、ひょっとしたらあの日、大阪に持参されていたのではないだろうか。

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・・・・・追記:2011年1月11日・・・・・
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Automne 2009 No.39 : La lettre des Amis de Barbara


1975: Aeroport Haneda (Tokyo)
Barbara avec Mme Yoshiko Ishii

HISTOIRE D'UNE PHOTO:
BARBARA AU JAPON par Fabienne David

Madame Yoshiko Ishii, des 1952, se passionne pour la chanson francaise et devient chanteuse. Elle donne un concert a Paris 1963 et est la premiere artiste japonaise a faire un recital a L'Olympia en 1990.
Fill d'un grand politicien, petite-fille d'un grand homme d'affaires, elle cotoie Sartre et Beauvoir. Grande amie de Damia, elle s'occupe de la venue au Japon de Charles Trenet, Enrico Macias, Jean Sablon, Charles Dumont.
Elle est presidente de l'Association de la Chanson Francaise au Japon, enregistre plusieurs disques de reprises de chansons francaises.
C'est donc tout naturellement qu'elle invita Barbara a venir chanter au Japon en 1975.

Un grand merci a notre amie adherente Bruxelles pour la photo, vous pourrez decouvrir son site Internet dedie a Barbara
http://www.geocities.jp/planetebarbara/



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3 Comments

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知られざる顔… (函館のシト)
2010-12-29 08:44:20
はじめまして。
函館のシトと申します。

石井好子さんについて検索していたら、こちらへ辿り着きました。

…今更ながら石井好子という人の偉大さが実感させられます。
どうして生前、素晴らしさを認識出来なかったのか…臍を噛んでいます。
先日、NHKの10分番組で石井好子特集があり、その中で流れたオランピア劇場での歌を聴き、ショックを受けました。
何と素晴らしいのかと。
もっとオランピア劇場での歌は聴く(観る)ことは出来ないのでしょうか…。

そして、ここでまた、石井好子という人の素晴らしさを知ることが出来て、ますます惹かれています。ありがとうございます。
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Unknown (Bruxelles)
2010-12-29 12:38:50
函館のシト様
こういうコメントを書いてくださるあなたのような方に出会えてとても嬉しいです。
亡くなられてから、いわゆる履歴書的経歴は大いに紹介されましたが、人間的魅力の紹介は、遥か彼方に置き去りにされてしまっているように感じました。スロー・ペースですが、使命感を持ってこれからも、もう少し書き込んでいくつもりです。
コメント有難う御座いました。
返信する
La lettre des Amis de Barbara (Bruxelles)
2011-01-13 12:58:44
その後石井音楽事務所とLes amis de BARBARAの間でどんなやり取りがあったのか、なかったのか、私は知らない。一年以上遅れて、2009年の秋号に掲載された。
他のところは明らかに私が書き送った紹介文通りだが、「Elle donne un concert a Paris 1963」の誤報は、どこから紛れ込んだのか全く分からない。
これをコピーして石井先生に送った事も思い出した。写真は二人であるが、記事はほとんどMme.Yoshiko Ishiiの紹介についやされている。私の本心はBARBARAを日本に招聘した石井好子その人を仲間たちに紹介したかったのだ。また今になって思い出すのだが、そうしてフランスの会報に石井先生を紹介する事によって、石井先生を励ましたいと思ったのだ。
「組織は文化NPOのようなもので政府の認可を受けています。これはフランス中の図書館にも配布される筈ですから、半世紀以上前の石井先生のParis時代の身近なお友達が、どこかでこれを懐かしく見るかもしれません」むしろ誇らしくそういう一文を付記して送った。
私があの時俄然張り切ったのは、こうなれば、石井先生にも喜んでいただけると勝手に解釈したからだ。一年以上遅れた掲載のタイミングは最悪で、石井先生から、この写真に関してさしたる返事はなかった。資料がないので正確には思い出せないがその頃の手紙には「家でごろごろしています」または「あなたは吃驚するかも知れませんが、私はまだ入院しています」かのどちらかが、書かれていたと思う。
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本欄の文字数オーヴァーのため、いくつかのリンクを外し、追記をコメント欄に記入しました。
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