経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

9月11日 聖日礼拝

2016-09-11 20:57:25 | 礼拝
聖書:ルカ15:11~24
メッセージ:“赦しにある希望” (ふちのべコミュニティ-チャーチ 阿部知幸師)
特別音楽:ヘンデル“オルガン協奏曲変ロ長調より一楽章”


1.率先して赦しに関わること

 この今日の聖書箇所では、神様が私たちをどのように赦して下さるかが父親の姿を通して描かれています。父親は、失礼極まりない弟息子にも、信じられないほどに寛大な赦しの愛をもって接しています。父親が亡くなる前に相続財産を求めた弟息子は旅立ち、財産をすっかり使いきり、無一文になった惨めな状態で父のもとへ帰ってきます。その弟息子を、父親は真っ先に見つけて走り寄り、抱きしめ、口づけして迎えました。「かわいそうに思って」とあるように、愛情と同情の思いから、いてもたってもいられず、なりふりかまわず迎えに行きました。
 この父親は赦しのイニチアチブをとりました。イニチアチブとは率先して物事に取り組むといった意味です。イエス様は十字架にかかった時に、自分を無実の罪で傷つけ、十字架にかけ、まったく悪びれる様子もない人たちを前にして、「父よ。彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか分からないのです」と赦しを求めて祈られました。イエス様は、予め、赦しを準備して下さっているのです。またコロサイ人への手紙には、「私たちは赦します。なぜなら、神が私たちを赦して下さったからです。」(コロサイ3:13)とあります。率先して赦して下さった神様に倣い、私たちも率先して赦す者となるようにと聖書は教えています。


2.赦しには犠牲が伴うことを覚えておく

 そして、イエス様からの赦しをいただいている者として、忘れてはならないことがあります。それは、その赦しには多大な犠牲が払われているということです。真の赦しには犠牲が伴います。赦しは決して安っぽいものではなく、非常に大きな犠牲の上に成り立つものです。この父親は、弟息子によって、経済的、社会的ダメージを受け、損害賠償を請求しても良い立場にありましたし、弟息子も父親の下に帰る前に、召使いとして働くという計画を立てていました。しかし、父親は弟息子が帰って来た時に、それらを弟息子には負わせないという選択をしました。損害は父親、そして兄息子が代わりに負うことになったのです。このようにして弟息子が赦されるためには多大な犠牲が払われました。これこそイエス様が私たちのためにしてくださったことです。罪のないイエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかると言う大きな犠牲を払って下さったのです。


3.神の下に帰り、神との関係を楽しむ

 この話は放蕩息子と呼ばれているので、放蕩をした弟息子が注目されやすいのですが、実はこの兄息子の中にもイエス様は色んなメッセージを込めておられました。この話の中で父の下からいなくなっていたのは弟息子だけでなく、兄息子も含まれています。弟息子は物理的にお父さんの下を離れて行きましたが、兄息子も体はそこにあっても、心はお父さんから離れているような状態でした。お父さんと一緒にいることを楽しむことなく、喜ぶことなく、ただ義務感から一緒にいて家の仕事を手伝っていました。ですから、兄もお父さんを悲しませていたことになります。そして、兄の問題は自分で自分を正しいとしていたことです。これは私たちも気をつけたいことです。イエス様の大きな犠牲によってのみ救われ義とされている私たちなのですが、いつの間にか自分の正しい行ないによって自分は正しいと思ってしまう誘惑があるのです。救われた時の喜び、イエス様への感謝や喜びも、時間が経つと薄らいでしまって、神様との関係が形式的なものになり、更には義務的なものになりかねないのです。神様との関係を楽しむという本来のあり方から外れ、神様の下からいなくなっている状態です。だからこそ、福音に立ち返る必要があるのです。自分が赦されるためにイエス様がどれだけの犠牲を払って下さったかを覚え、そのイエス様に赦しの力を求めて祈り続けるならば、自分では出来ないこともイエス様が可能として下さいます。神の赦しに生き、赦しを行ない、赦しにある希望をこの世で輝かせる私たちでありたいと思います。

(参考図書:「放蕩する神」)
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