聖書:マタイの福音書6章24~34節
メッセージ:「神の国とその義を求める」
(33)「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
私たちの周りには心配し思いわずらうことが多くありますが、イエス様は心配しないで「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と言われました。それは私たちがどのような生き方をすることでしょうか。
Ⅰ:天に宝を蓄える(19~24)
(19~20)「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」
自分の幸せのために、将来のために、財産を蓄えますが、それらはいつかはなくなってしまうものです。ですから、天に宝を蓄えなさいとイエス様は言われます。
「天に宝を蓄える」とはどういうことでしょうか?それは、自分の持てる物を用いて困っている人や貧しい人のために施すことです。他人の幸せや喜びのために自分のできることをしていくことです。それは、神様からの霊的祝福を天に蓄えることになります。
(21)「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」この世に宝を蓄える者はこの世に執着し、天に宝を蓄える者は神に心を向けます。
(22~23)「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」
目が純粋で神に向いているなら全身は明るいが、目が地上の富に向いているなら全身は暗いです。目が神にむいているか、それとも富にむいているかが問題です。
(24)「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
神と富の両方いっぺんに仕えることはできません。神に仕えるか、富に仕えるかのどちらかです。
がん哲学外来の樋野興夫先生は、言葉の処方箋として、患者さんに「人生の目的は、品性を完成すること」ということばを贈ることがあります。このことばは、内村鑑三先生の「人生の目的は金銭を得るに非ず、品性を完成するにあり」からきてきます。
聖書には、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と書かれています。
がんが再発して厳しい闘いをしていた50代の患者さんが、樋野先生のところに来られて、「これから治療や薬の副作用は厳しくつらくなるかもしれないけれど、人のためになることがしたい」と強い決意を口にされました。その患者さんは残された時間を自分らしく生きるにはどうすればいいのか思い悩んだ末、大の演劇ファンだったので、同じ病に苦しむ人たちに安らぎを与えたいと、芝居を上演するイベントを計画しました。そのイベントは大成功に終わりました。
樋野先生は、「品性とは、人格であり、人としての品位です。人生の目的は、仕事の成功や世間の賞賛、ましてや、お金持ちになることではありません。今、自分の目の前にあることに一生懸命取り組み、自分の行いによって人が喜んでくれることによって、初めて品性は磨かれていくものです。」と語られます。
Ⅱ:神を第一とする(25~30)
(25)「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではなりませんか。」
食べること・飲むこと・着ることで心配してはなりません。「いのち」は食べ物より大切であり、「からだ」は着物より大切だからです。「いのち」と「からだ」を与えてくださった神様はそれを維持するために必要な「食物」「着物」を必ず備えてくださいます。
(26)「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」
鳥の生活には思いわずらいがなく、将来のために物を蓄えようともしません。鳥より優れた人を養ってくださるのは当然です。
(28-30)「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
野のゆりとは「赤いけし」や「アネモネ」という、とてもあでやかな・カラフルな花と言われます。パレスチナの平原の至る所に咲き、一日だけしか咲かず、枯れるとたきつけにされます。しかしイエス様はこの花の方がソロモンの栄華よりも美しいと言われます。はかない小さな花でさえ、こんなにも美しく咲かせてくださる神様が、まして創造の冠である人間に着る物を与えてくださらないわけがありません。
(31~32)「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っています。」
(33)「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
神は私たちの必要を全て知っているだから、心配しないで、神に信頼しなさいと言われます。
神を第一とし、神に信頼することです。「神の国」の「国」(basileia)とは「支配」という意味です。神が支配するところ、みこころが行われる所です。「神の義」とは、自分勝手に思う正しさではなく、聖書を基準とした神の「正しさ」です。
「まず第一に」とあります。私たちはやることが多い時、優先順位をつけます。何をまず最初にやらなければならないのか大切なことから行っていきます。そうすることによって、私たちの生活はスムーズに動いていきます。クリスチャンにとっての優先順位とは、まず神様を第一とすることです。神様のみこころを第一に求めて行くことです。自分の願いどおりになることや、自分の正しさを求めることではありません。「神の国とその義とを第一に求める」とは神様の思い、みこころを優先していくことです。そうすれば、神は私たちに必要なものを備えてくださいます。
三浦綾子さんは小説家になる前、雑貨店を経営していました。しかし、近くに他の雑貨店ができました。その店が開店の頃から、御主人の光世さんは、仕入れを控えるように言いました。相手は子どもも多くいるし、成功させなければいけない、こっちの店は綾子だけで、私の月給で食べていけるから、客を相手に譲るように、ということでした。綾子さんはこの問題をどうしたらよいか、わからなくなっていました。
そのような時、綾子さんの兄弟たちは綾子さんに酒を売るように勧めてきました。雑貨屋をやって行く以上、酒を置かなければ大きく伸びることができないと。彼女はまた経済的な問題も考えていました。家族のことを思うとお金が必要でした。綾子さんはいろいろな人の意見を聞き、半年以上ずるずると過ぎていましたが、ある晩、光世さんに許可を取ろうと改めて尋ねますが、きっぱりと反対されました。
「いや、売る必要はない。もちろん聖書にも、絶対に酒を飲むなと書いてあるわけではないし、~しかし、綾子が酒を売ることはないんだ」光世さんはさらに続けて言います。「もし綾子が酒を売らないなら、すべてはいいことになるよ」と。綾子さんは「そう、じゃ、小説家になれる?」と尋ねると、光世さんは「なれるとも」と確信をもって答えました。
綾子さんは光世さんの言葉に従い、酒を売ることを断念しました。当時の光世さんの日記には次のような言葉がありました。「綾子、何も売れなくてもよい。神をのみ第一義とせよ」それから、光世さんが言うように、向こうの店に客が行くことも考えるようになりました。信仰の道は、自分の思いのままに生きることではない、神の意思のままに生きることなのだ。自分だけが得をしようと思ってはいけない、そんなことも少しは考えるようになったと振り返っています。
その後、旭川六条教会の月報に小説を書いてほしいと言われたことがきっかけで、綾子さんは小説を書き始めました。そして、昭和三十九年、『氷点』が懸賞小説に入選、クリスチャン小説家の道が開けたのでした。彼女は神の国と神の義を第一にしていきました。
三浦綾子さんの最初の秘書を務めた宮嶋さんは、綾子さんの信仰について次のように言っています。綾子さんは、氷点を書くときに、「神様、あなたの愛を伝える作品を書かせてください。この作品が御心にかなわないなら、入選させないでください」と祈り続け、そして入選後は「入選したからには神様が責任を持って下さる」と信じ続けました。
Ⅲ:日々の役割・使命に生きる
(34)「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
明日の心配はしないようにとイエス様は言われます。明日の心配は明日に任せます。心配はその日その日に十分あるのですから。今日の箇所には、「心配」ということばが7回も使われています。心配とは、心があっちこっちにばらばらになることを意味しています。特に明日のことを思いわずらいます。先のことについてどうしようと心配しがちです。心配は心をすり減らし、生きる力を奪い取ります。心配しなければどんなに楽かと思いますが、イエス様は私たちが心配することをよく承知の上で、心配しないようにと言われます。
「もし明日世界が終わるとしても、私は今日もりんごの木を植えるでしょう。」とマルティン・ルターが言ったといわれます。
明日で世界がなくなってしまうのですから、何をしても仕方ないように思われますが、ルターは「今日もリンゴの木を植える」と言いました。それは、自分の役割、使命に生きるということです。
私たちはどうするでしょうか。明日で終わりだから、好き勝手にやりたいことをやりますか。または部屋に閉じこもって世の終わりを嘆き悲しみますか。
誰も明日で世界が終わるとは思っていないでしょう。誰も自分の人生が急に明日で終わるとは思わないと思います。その日その日にやるべきことがあるのですから、明日のことは心配しないで、今日すべきことをしていくように言われます。自分が今置かれた場所で、今日すべきこと、任されていることをしていけば、明日の心配は頭から離れていくのではないでしょうか。
メッセージ:「神の国とその義を求める」
(33)「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
私たちの周りには心配し思いわずらうことが多くありますが、イエス様は心配しないで「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と言われました。それは私たちがどのような生き方をすることでしょうか。
Ⅰ:天に宝を蓄える(19~24)
(19~20)「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」
自分の幸せのために、将来のために、財産を蓄えますが、それらはいつかはなくなってしまうものです。ですから、天に宝を蓄えなさいとイエス様は言われます。
「天に宝を蓄える」とはどういうことでしょうか?それは、自分の持てる物を用いて困っている人や貧しい人のために施すことです。他人の幸せや喜びのために自分のできることをしていくことです。それは、神様からの霊的祝福を天に蓄えることになります。
(21)「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」この世に宝を蓄える者はこの世に執着し、天に宝を蓄える者は神に心を向けます。
(22~23)「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」
目が純粋で神に向いているなら全身は明るいが、目が地上の富に向いているなら全身は暗いです。目が神にむいているか、それとも富にむいているかが問題です。
(24)「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
神と富の両方いっぺんに仕えることはできません。神に仕えるか、富に仕えるかのどちらかです。
がん哲学外来の樋野興夫先生は、言葉の処方箋として、患者さんに「人生の目的は、品性を完成すること」ということばを贈ることがあります。このことばは、内村鑑三先生の「人生の目的は金銭を得るに非ず、品性を完成するにあり」からきてきます。
聖書には、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と書かれています。
がんが再発して厳しい闘いをしていた50代の患者さんが、樋野先生のところに来られて、「これから治療や薬の副作用は厳しくつらくなるかもしれないけれど、人のためになることがしたい」と強い決意を口にされました。その患者さんは残された時間を自分らしく生きるにはどうすればいいのか思い悩んだ末、大の演劇ファンだったので、同じ病に苦しむ人たちに安らぎを与えたいと、芝居を上演するイベントを計画しました。そのイベントは大成功に終わりました。
樋野先生は、「品性とは、人格であり、人としての品位です。人生の目的は、仕事の成功や世間の賞賛、ましてや、お金持ちになることではありません。今、自分の目の前にあることに一生懸命取り組み、自分の行いによって人が喜んでくれることによって、初めて品性は磨かれていくものです。」と語られます。
Ⅱ:神を第一とする(25~30)
(25)「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではなりませんか。」
食べること・飲むこと・着ることで心配してはなりません。「いのち」は食べ物より大切であり、「からだ」は着物より大切だからです。「いのち」と「からだ」を与えてくださった神様はそれを維持するために必要な「食物」「着物」を必ず備えてくださいます。
(26)「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」
鳥の生活には思いわずらいがなく、将来のために物を蓄えようともしません。鳥より優れた人を養ってくださるのは当然です。
(28-30)「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
野のゆりとは「赤いけし」や「アネモネ」という、とてもあでやかな・カラフルな花と言われます。パレスチナの平原の至る所に咲き、一日だけしか咲かず、枯れるとたきつけにされます。しかしイエス様はこの花の方がソロモンの栄華よりも美しいと言われます。はかない小さな花でさえ、こんなにも美しく咲かせてくださる神様が、まして創造の冠である人間に着る物を与えてくださらないわけがありません。
(31~32)「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っています。」
(33)「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
神は私たちの必要を全て知っているだから、心配しないで、神に信頼しなさいと言われます。
神を第一とし、神に信頼することです。「神の国」の「国」(basileia)とは「支配」という意味です。神が支配するところ、みこころが行われる所です。「神の義」とは、自分勝手に思う正しさではなく、聖書を基準とした神の「正しさ」です。
「まず第一に」とあります。私たちはやることが多い時、優先順位をつけます。何をまず最初にやらなければならないのか大切なことから行っていきます。そうすることによって、私たちの生活はスムーズに動いていきます。クリスチャンにとっての優先順位とは、まず神様を第一とすることです。神様のみこころを第一に求めて行くことです。自分の願いどおりになることや、自分の正しさを求めることではありません。「神の国とその義とを第一に求める」とは神様の思い、みこころを優先していくことです。そうすれば、神は私たちに必要なものを備えてくださいます。
三浦綾子さんは小説家になる前、雑貨店を経営していました。しかし、近くに他の雑貨店ができました。その店が開店の頃から、御主人の光世さんは、仕入れを控えるように言いました。相手は子どもも多くいるし、成功させなければいけない、こっちの店は綾子だけで、私の月給で食べていけるから、客を相手に譲るように、ということでした。綾子さんはこの問題をどうしたらよいか、わからなくなっていました。
そのような時、綾子さんの兄弟たちは綾子さんに酒を売るように勧めてきました。雑貨屋をやって行く以上、酒を置かなければ大きく伸びることができないと。彼女はまた経済的な問題も考えていました。家族のことを思うとお金が必要でした。綾子さんはいろいろな人の意見を聞き、半年以上ずるずると過ぎていましたが、ある晩、光世さんに許可を取ろうと改めて尋ねますが、きっぱりと反対されました。
「いや、売る必要はない。もちろん聖書にも、絶対に酒を飲むなと書いてあるわけではないし、~しかし、綾子が酒を売ることはないんだ」光世さんはさらに続けて言います。「もし綾子が酒を売らないなら、すべてはいいことになるよ」と。綾子さんは「そう、じゃ、小説家になれる?」と尋ねると、光世さんは「なれるとも」と確信をもって答えました。
綾子さんは光世さんの言葉に従い、酒を売ることを断念しました。当時の光世さんの日記には次のような言葉がありました。「綾子、何も売れなくてもよい。神をのみ第一義とせよ」それから、光世さんが言うように、向こうの店に客が行くことも考えるようになりました。信仰の道は、自分の思いのままに生きることではない、神の意思のままに生きることなのだ。自分だけが得をしようと思ってはいけない、そんなことも少しは考えるようになったと振り返っています。
その後、旭川六条教会の月報に小説を書いてほしいと言われたことがきっかけで、綾子さんは小説を書き始めました。そして、昭和三十九年、『氷点』が懸賞小説に入選、クリスチャン小説家の道が開けたのでした。彼女は神の国と神の義を第一にしていきました。
三浦綾子さんの最初の秘書を務めた宮嶋さんは、綾子さんの信仰について次のように言っています。綾子さんは、氷点を書くときに、「神様、あなたの愛を伝える作品を書かせてください。この作品が御心にかなわないなら、入選させないでください」と祈り続け、そして入選後は「入選したからには神様が責任を持って下さる」と信じ続けました。
Ⅲ:日々の役割・使命に生きる
(34)「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
明日の心配はしないようにとイエス様は言われます。明日の心配は明日に任せます。心配はその日その日に十分あるのですから。今日の箇所には、「心配」ということばが7回も使われています。心配とは、心があっちこっちにばらばらになることを意味しています。特に明日のことを思いわずらいます。先のことについてどうしようと心配しがちです。心配は心をすり減らし、生きる力を奪い取ります。心配しなければどんなに楽かと思いますが、イエス様は私たちが心配することをよく承知の上で、心配しないようにと言われます。
「もし明日世界が終わるとしても、私は今日もりんごの木を植えるでしょう。」とマルティン・ルターが言ったといわれます。
明日で世界がなくなってしまうのですから、何をしても仕方ないように思われますが、ルターは「今日もリンゴの木を植える」と言いました。それは、自分の役割、使命に生きるということです。
私たちはどうするでしょうか。明日で終わりだから、好き勝手にやりたいことをやりますか。または部屋に閉じこもって世の終わりを嘆き悲しみますか。
誰も明日で世界が終わるとは思っていないでしょう。誰も自分の人生が急に明日で終わるとは思わないと思います。その日その日にやるべきことがあるのですから、明日のことは心配しないで、今日すべきことをしていくように言われます。自分が今置かれた場所で、今日すべきこと、任されていることをしていけば、明日の心配は頭から離れていくのではないでしょうか。