経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

7月29日 「神に国とその義を求める」

2018-07-30 12:13:44 | 礼拝
聖書:マタイの福音書6章24~34節
メッセージ:「神の国とその義を求める」

(33)「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
 私たちの周りには心配し思いわずらうことが多くありますが、イエス様は心配しないで「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と言われました。それは私たちがどのような生き方をすることでしょうか。

Ⅰ:天に宝を蓄える(19~24)

(19~20)「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」
 自分の幸せのために、将来のために、財産を蓄えますが、それらはいつかはなくなってしまうものです。ですから、天に宝を蓄えなさいとイエス様は言われます。
 「天に宝を蓄える」とはどういうことでしょうか?それは、自分の持てる物を用いて困っている人や貧しい人のために施すことです。他人の幸せや喜びのために自分のできることをしていくことです。それは、神様からの霊的祝福を天に蓄えることになります。
(21)「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」この世に宝を蓄える者はこの世に執着し、天に宝を蓄える者は神に心を向けます。
(22~23)「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」
 目が純粋で神に向いているなら全身は明るいが、目が地上の富に向いているなら全身は暗いです。目が神にむいているか、それとも富にむいているかが問題です。
(24)「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
 神と富の両方いっぺんに仕えることはできません。神に仕えるか、富に仕えるかのどちらかです。

がん哲学外来の樋野興夫先生は、言葉の処方箋として、患者さんに「人生の目的は、品性を完成すること」ということばを贈ることがあります。このことばは、内村鑑三先生の「人生の目的は金銭を得るに非ず、品性を完成するにあり」からきてきます。
 聖書には、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と書かれています。
 がんが再発して厳しい闘いをしていた50代の患者さんが、樋野先生のところに来られて、「これから治療や薬の副作用は厳しくつらくなるかもしれないけれど、人のためになることがしたい」と強い決意を口にされました。その患者さんは残された時間を自分らしく生きるにはどうすればいいのか思い悩んだ末、大の演劇ファンだったので、同じ病に苦しむ人たちに安らぎを与えたいと、芝居を上演するイベントを計画しました。そのイベントは大成功に終わりました。
 樋野先生は、「品性とは、人格であり、人としての品位です。人生の目的は、仕事の成功や世間の賞賛、ましてや、お金持ちになることではありません。今、自分の目の前にあることに一生懸命取り組み、自分の行いによって人が喜んでくれることによって、初めて品性は磨かれていくものです。」と語られます。
 
Ⅱ:神を第一とする(25~30)

 (25)「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではなりませんか。」
食べること・飲むこと・着ることで心配してはなりません。「いのち」は食べ物より大切であり、「からだ」は着物より大切だからです。「いのち」と「からだ」を与えてくださった神様はそれを維持するために必要な「食物」「着物」を必ず備えてくださいます。
 (26)「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」
鳥の生活には思いわずらいがなく、将来のために物を蓄えようともしません。鳥より優れた人を養ってくださるのは当然です。
(28-30)「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
野のゆりとは「赤いけし」や「アネモネ」という、とてもあでやかな・カラフルな花と言われます。パレスチナの平原の至る所に咲き、一日だけしか咲かず、枯れるとたきつけにされます。しかしイエス様はこの花の方がソロモンの栄華よりも美しいと言われます。はかない小さな花でさえ、こんなにも美しく咲かせてくださる神様が、まして創造の冠である人間に着る物を与えてくださらないわけがありません。

(31~32)「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っています。」
(33)「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
神は私たちの必要を全て知っているだから、心配しないで、神に信頼しなさいと言われます。
 神を第一とし、神に信頼することです。「神の国」の「国」(basileia)とは「支配」という意味です。神が支配するところ、みこころが行われる所です。「神の義」とは、自分勝手に思う正しさではなく、聖書を基準とした神の「正しさ」です。
 「まず第一に」とあります。私たちはやることが多い時、優先順位をつけます。何をまず最初にやらなければならないのか大切なことから行っていきます。そうすることによって、私たちの生活はスムーズに動いていきます。クリスチャンにとっての優先順位とは、まず神様を第一とすることです。神様のみこころを第一に求めて行くことです。自分の願いどおりになることや、自分の正しさを求めることではありません。「神の国とその義とを第一に求める」とは神様の思い、みこころを優先していくことです。そうすれば、神は私たちに必要なものを備えてくださいます。

三浦綾子さんは小説家になる前、雑貨店を経営していました。しかし、近くに他の雑貨店ができました。その店が開店の頃から、御主人の光世さんは、仕入れを控えるように言いました。相手は子どもも多くいるし、成功させなければいけない、こっちの店は綾子だけで、私の月給で食べていけるから、客を相手に譲るように、ということでした。綾子さんはこの問題をどうしたらよいか、わからなくなっていました。
そのような時、綾子さんの兄弟たちは綾子さんに酒を売るように勧めてきました。雑貨屋をやって行く以上、酒を置かなければ大きく伸びることができないと。彼女はまた経済的な問題も考えていました。家族のことを思うとお金が必要でした。綾子さんはいろいろな人の意見を聞き、半年以上ずるずると過ぎていましたが、ある晩、光世さんに許可を取ろうと改めて尋ねますが、きっぱりと反対されました。
「いや、売る必要はない。もちろん聖書にも、絶対に酒を飲むなと書いてあるわけではないし、~しかし、綾子が酒を売ることはないんだ」光世さんはさらに続けて言います。「もし綾子が酒を売らないなら、すべてはいいことになるよ」と。綾子さんは「そう、じゃ、小説家になれる?」と尋ねると、光世さんは「なれるとも」と確信をもって答えました。
綾子さんは光世さんの言葉に従い、酒を売ることを断念しました。当時の光世さんの日記には次のような言葉がありました。「綾子、何も売れなくてもよい。神をのみ第一義とせよ」それから、光世さんが言うように、向こうの店に客が行くことも考えるようになりました。信仰の道は、自分の思いのままに生きることではない、神の意思のままに生きることなのだ。自分だけが得をしようと思ってはいけない、そんなことも少しは考えるようになったと振り返っています。
その後、旭川六条教会の月報に小説を書いてほしいと言われたことがきっかけで、綾子さんは小説を書き始めました。そして、昭和三十九年、『氷点』が懸賞小説に入選、クリスチャン小説家の道が開けたのでした。彼女は神の国と神の義を第一にしていきました。

三浦綾子さんの最初の秘書を務めた宮嶋さんは、綾子さんの信仰について次のように言っています。綾子さんは、氷点を書くときに、「神様、あなたの愛を伝える作品を書かせてください。この作品が御心にかなわないなら、入選させないでください」と祈り続け、そして入選後は「入選したからには神様が責任を持って下さる」と信じ続けました。

Ⅲ:日々の役割・使命に生きる

(34)「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
 明日の心配はしないようにとイエス様は言われます。明日の心配は明日に任せます。心配はその日その日に十分あるのですから。今日の箇所には、「心配」ということばが7回も使われています。心配とは、心があっちこっちにばらばらになることを意味しています。特に明日のことを思いわずらいます。先のことについてどうしようと心配しがちです。心配は心をすり減らし、生きる力を奪い取ります。心配しなければどんなに楽かと思いますが、イエス様は私たちが心配することをよく承知の上で、心配しないようにと言われます。

「もし明日世界が終わるとしても、私は今日もりんごの木を植えるでしょう。」とマルティン・ルターが言ったといわれます。
 明日で世界がなくなってしまうのですから、何をしても仕方ないように思われますが、ルターは「今日もリンゴの木を植える」と言いました。それは、自分の役割、使命に生きるということです。
 私たちはどうするでしょうか。明日で終わりだから、好き勝手にやりたいことをやりますか。または部屋に閉じこもって世の終わりを嘆き悲しみますか。
 誰も明日で世界が終わるとは思っていないでしょう。誰も自分の人生が急に明日で終わるとは思わないと思います。その日その日にやるべきことがあるのですから、明日のことは心配しないで、今日すべきことをしていくように言われます。自分が今置かれた場所で、今日すべきこと、任されていることをしていけば、明日の心配は頭から離れていくのではないでしょうか。
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7月15日 聖日礼拝

2018-07-15 17:51:39 | 礼拝
聖書:マタイの福音書5章43~48節
メッセージ:"敵を愛する"
特別賛美:恵泉女学園中学ハンドベル

(44~45)「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」
 イエス様は難しいことを言われます。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさいと。今日はこのみことばを中心に、愛するとは、どういうことかを見てまいりましょう。


Ⅰ:愛するとは相手を大事にすること

(43)「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」
(44)「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
 当時、ユダヤの教師たちは『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と教えていました。彼らにとって隣人とは、同じユダヤ人の同胞だけを指していました。それ以外の異邦人や律法を守れない収税人や遊女は彼らの隣人とはみなされていませんでした。ですから、自分たちの同胞以外の人たちは愛する対象としていませんでした。しかしイエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。
 私たちだったらどうするでしょう?「無理。そんなの絶対に無理」となりますか。自分の友達や仲間、気の合う人たちを愛するのはできますが、イエス様が言われる、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るということは簡単にできることではありません。

新約聖書はギリシャ語で書かれています。ギリシャ語には愛を表すことばがいくつかあります。
①「エロース」男女の愛を示し、情熱的な性の愛です。このことばは聖書には使われていません。
②「フィリア」友との美しい友情、真実な愛を表します。人と人との親密な情愛や、友情などを意味します。
③「アガペー」無償の愛、見返りを求めない愛。どんなことをされても、善意をもって、その人のために最善を尽くそうとすること。この箇所で使われている言葉です。
ここで使われている「愛」とは、家族や恋人や好きな友人を愛するとは違った種類の愛です。家族や恋人、友人に対する愛は、本能的に自然に起こってくるものです。心の中にある情から生まれてくるものです。しかし、敵を愛する場合は、意思が必要となってきます。愛さないではいられないから愛するのではなく、愛そうという意思をもって愛することです。

「愛する」ということばを聞いてどういうイメージを持つでしょうか。もしかしたら男女間の恋愛のことが思い浮かぶかもしれません。日本語の聖書にはいろいろな訳があります。中には珍しいものとして、宮城県の気仙沼の方言で訳された聖書があります。ケセン語訳聖書です。復興へ立ち上がろうとする人たちの思いに重ねて訳されました。方言でつづられた言葉はストレートに読む人の心に訴えかけています。そのケセン語訳聖書には、「愛する」は何と訳されているかと言いますと、「でーじにする」「大事にする」と訳されています。大切にするということです。「愛する」とは、相手のことを「大事にする」「大切にする」ということなら、わかりやすいと思います。感情的な好き嫌いではなく、意思を働かせて相手を大事にすることです。
イエス様はそのような意味で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。


Ⅱ:愛するとは神さまの大きな愛に倣うこと

(45)「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」
 天の父なる神様は、良い人にもそうでない人にも太陽の陽を注ぎ、正しい人にもそうでない人にも雨の恵みを注がれます。誰もが空気や水、自然の恵みに生かされています。なぜ神様は、ご自身に逆らうような人にも恵みを注がれるのでしょうか。それは、その人もまた神が造り、愛しておられるからです。
(イザヤ書43章4節)「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と聖書には書かれています。神様の目から見て、すべての人が高価で尊い存在なのです。

先ほど賛美しました「君は愛されるため生まれた」という歌は、韓国人のイ・ミンソプ牧師が神学生の時に作詞作曲したワーシップソングで韓国内で大ヒットしました。韓国では誕生日の時に歌われることが多く、クリスチャン以外の人たちにも良く知られた歌です。歌詞を紹介します。「君は愛されるため生まれた。君の生涯は愛で満ちている。永遠の神の愛は我らの出会いの中で実を結ぶ。君の存在が私にはどれほど大きな喜びでしょう。君は愛されるために生まれた。今もその愛 受けている。」
 自分は愛されていると感じるでしょうか。家族や友人仲間に愛されるように、神様に愛されています。私たちはみな神様に愛されている存在です。神様の愛を受けていない人は誰もいません。そのことを歌った歌です。
 人は愛されて初めて人を愛することができます。すべての人が神様の大きな愛に包まれています。
イエスは、ご自分が軽んじられても、疎まれても、嫌われても、その人々を愛して、その人のために十字架にかかられました。これが、神が私たちを愛してくださっている愛の大きさです。イエスは、その神の愛の大きさに倣って、私たちにもまた、愛してくれる人を愛するという当たり前のことをするだけでなく、愛してくれない人も愛するという生き方を命じておられます。


Ⅲ:愛するとは自分ができる小さなことから始めること

(46~47)「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。収税人でも、同じことをしているではありませんか。また自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」
(48)「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
 自分に好意を持ってくれる人を愛することはたやすいことです。また自分の親しい仲間だけにあいさつすることは努力しなくてもできることです。そのようなことは、誰でもやっていることです。
 ですから、自分に好意を持たない人を愛したり、自分の気の合わない人にもあいさつしたりして、天の父のように完全でありなさいと言われました。
 
ここでイエス様はどのように教えているでしょうか。先ず一つは、その人のために祈るということです。イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。
自分の力では、敵対する人を愛することはできません。しかし好きとか嫌いとかの感情に関係なく、その人のために祈ることは可能です。祈るとは、神様にお頼りすることです。どうしても愛せないなら、愛せないその正直な感情も神様に打ち明けて、その人を愛する愛を与えてくださいと祈ることも助けになると思います。神様は、私たちのありのままの思いを受け止めて、慰め、癒し、大きな愛を私たちに注いでくださいます。その人のために神様にお祈りいたしましょう。

またイエス様はこのように言っています。
(48)「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」この「完全」とは、間違いがなく完璧なことを言っているのではありません。神様はひとり子イエス様を十字架につけられ、救いのみ業を成し遂げられました。それゆえ、私たちもそれぞれ置かれた場所で成すべきことを成していく時に完全とされるのです。限られた存在ですので神様のように完璧にすることはできません。限られた力の中で、出来ることをしていきます。小さなことでもよいので自分にできることから始めていくことだと思います。

 カトリックのシスターである渡辺和子さんは、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書かれました。渡辺さんは36歳という若さで、岡山のノートルダム清心女子大学の学長に任命されました。渡辺さんにとって、初めての土地、思いがけない役職、未経験の事柄の連続で、彼女はいつの間にか「くれない族」になっていました。「あいさつしてくれない」こんなに苦労しているのに「ねぎらってくれない」「わかってくれない」教職員や学生から、挨拶されるのが当たり前と考え、そうしない相手に、いきどおりを感じる傲慢な人間だったと振り返っています。自信を喪失し思い詰めていた彼女に、一人の宣教師が一つの短い英語の詩を渡してくれました。その詩の冒頭の一行が「置かれたところで咲きなさい」という言葉でした。
 それから、彼女は変わりました。置かれた場で不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸になったりしては、私は環境の奴隷でしかない。人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせようと、決心することができました。それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした。
いただいた詩は、「置かれたところで咲きなさい」の後に続けてこう書かれていました。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」
 彼女は、かくて「くれない族」の自分と決別しました。私から先に学生に挨拶し、ほほえみかけ、お礼を言う人になったのです。そうしたら不思議なことに、教職員も学生もみな明るくなり優しくなりました。

 不思議なことですが、自分ができる小さなことから始めて、自分が変わることによって、置かれた状況や環境が変わることがあります。敵を愛するということは難しいことですが、渡辺和子さんが自分から他の人に声を掛けることによって状況が変えられていきましたように、私たちも無理せず自分ができる小さなことから始めてみてはいかがでしょうか。
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