経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

5月31日ペンテコステ礼拝

2020-05-31 09:24:44 | 礼拝
使徒の働き1章3~8節、2章36~47節 『今も働く聖霊』

 十字架の死から復活したイエス様は、40日の間何度も弟子たちの前に姿を現し、ご自分が生きていることを示され、神の国のことを語られました。主は天にお帰りになる前、使徒たちと一緒にいる時に、神がわたしの代わりに送ってくださる聖霊を待ち望むようにと命じられました。そして(8)「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と言われたのです。「証人」とは、英語ですと“witness”目撃者という意味もあります。見たこと聞いたことを事実として明らかにすること、証明することです。弟子たちは聖霊に力をいただいて、復活したイエス様が救い主であることを世界中に伝えるようになるというのです。そう言い残した後、イエス様は弟子たちが見ている前で天に昇っていかれました。弟子たちはイエス様のご命令に従ってエルサレムに戻り、他の弟子たちと共にいつも心を一つにして祈っていました。

 イエス様が天にお帰りになって10日後、その日は五旬節と呼ばれ、ユダヤ人の祭りの日でした。その日も弟子たちが同じ場所でみな一緒に祈っていると、突然天から激しい風が吹くような音が起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡りました。燃える炎のようなものが一人一人の上にとどまりました。(2:4)「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めました。」イエス様が約束された聖霊が弟子たちに注がれたのです。この時エルサレムには祭りを祝うために、外国に住むユダヤ人も大勢巡礼に来ていました。天から大きな物音を聞いて大勢の人たちが集まり、彼らは、弟子たちが自分たちの住む国のことばで話すのを聞いて驚きました。中には「彼らはお酒に酔っているのだ」とあざ笑う人たちもいました。

 その時、弟子のペテロは人々の前に立って声を張り上げて語りだします。「みなさん、今は朝の9時ですから、私たちは酔っているのではありません。聖書で約束されている聖霊が注がれたのです。聖霊の力によって話しているのです。神はイエスを救い主として遣わされ、数々のすばらしい奇蹟を行われましたが、この方は人々に受け入れられず、十字架につけて殺されてしまいました。しかし神はイエスを死の苦しみから解き放ち、死者の中からよみがえらせました。私たちがそのことの証人です。そして父のもとに帰られたイエスに代わって約束された聖霊が私たちに送られたのです。「ですから、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたが十字架につけたのです。」と、ペテロは会衆に迫りました。人々はこれを聞いて心を刺され「私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねますと、ペテロは「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と勧めました。すると、その日、罪を悔い改め、イエス様を信じてバプテスマを受けた人は三千人も起こされました。このように、ペンテコステ(五旬節)に、バプテスマを受けて弟子に加えられた人々によって教会は始まりました。そして、この日から今日にいたるまで、聖霊の働きは前進し続けています。「使徒の働き」(使徒行伝)は聖霊行伝とも呼ばれます。弟子たちの働きというよりも、その背後で働いている聖霊の働きを記しています。今日も、聖霊は私たちを通して主を証し続けています。使徒をはじめとする弟子たちは、かつては恐れ隠れる弱い者だったのに、聖霊の力に満たされて、イエスの復活を力強く証しする者に変えられました。その聖霊の力が私たちにも注がれています。今の時代におきましても、私たちを通して聖霊なる神様が力強く働いてくださいますように。
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5月24日礼拝

2020-05-24 09:40:18 | 礼拝
コリント人への手紙第二12章7~9節  「主の恵みは十分」

 パウロは、自分に与えられている使徒の権威を疑い否定する人たちに対して、あえて自分が経験したすばらしいことを持ち出し、自分が使徒として立てられていることを弁明しています。そのため、パウロは自分が体験したすばらしい神秘的な体験を記します。しかしその啓示があまりにもすばらしく、他の人たちが私を過大評価するといけないので、誇ることは控えるようにすると言っています。そしてまた、次のように述べています。(7)「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。」「肉体のとげ」とは、パウロ自身が何も言っていませんのではっきりとは分かりませんが、目の病気とか、発作性の病気、マラリヤの後遺症など諸説あります。また多くの反対者や迫害のことだと言われることもあります。いずれにせよ、この肉体のトゲはパウロを長年苦しめますが、神様からの特別な祝福を経験して、高慢にならないために与えられたものだと告白しています。

 (8)「この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。」パウロはこの肉体のとげを取り去ってくださるようにと時間をかけて、必死で祈る時を三度持ちました。この「とげ」がもたらす痛みと苦痛が彼をどんなに悩ませたかがうかがわれます。そして、この「とげ」さえなければ、もっと力を発揮して福音宣教のために働くことができたと考えていたのでしょう。(9)「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」祈りに対する主の答えは意外なものでした。わたしの恵みはすでにあなたに十分注がれている、そしてキリストの力は弱さのうちにこそ働かれると言われたのです。パウロは、はっとしたことでしょう。この時、パウロは「弱さを抱えているからこそ、イエス様の大きな力が私を通して現わされていたのだ」と気づいたのです。それからは「キリストの力がおおうために」むしろ「自分の弱さを誇ろう」と言います。「おおう」ということばは、「宿る」という意味です。パウロは、キリストの力が私に宿るために、大いに喜んで自分の弱さを誇るのです。

 私たちにも、さまざまなとげのようなものや、弱さがあります。私たちもパウロのように、このとげを取り去ってください、この弱さを克服させてくださいと祈ります。しかしどんなに祈ってもそのとげが取り去られず、弱さが克服できない場合があるかもしれません。その時、私たちは「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」という声を聞きます。真珠貝から美しい真珠ができるのは、貝が傷を受けた時だそうです。砂やガラスの破片が柔らかい貝を傷つけることから始まります。貝はその痛みである砂やガラスの破片を分泌液を出して包んでいきます。それがやがて美しい真珠として結晶します。同じように、私たちが受けた傷、弱さをとおして、キリストの力が覆ってくださるのです。私自身のこれまでの歩みを振り返りましても、不思議な力によって守られ支えらたことを覚えます。キリストの力は、私たちの弱さのうちに完全に現れるのです。主の恵みに感謝します。これからもそれぞれの歩みが豊かに用いられていきますように。
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5月17日 礼拝

2020-05-17 09:17:16 | 礼拝
ルカの福音書17章11~19節 「主の恵みを数えて」

 主イエスはエルサレムに向かう途中、ガリラヤとサマリアの境を通り、ある村に入りますと、そこで10人のツァラアトにかかった人たちが遠くからイエス様を迎えしました。ツァラアトとは、重い皮膚病のことであり、彼らは律法の規定により、治る望みもなく、人里離れたところに隔離されていました。この病気にかかると、家族から引き離され、社会からも排除されました。体を布で巻き、顔も布で隠していました。10人の中にはユダヤ人もサマリア人もいました。ユダヤ人とサマリア人は歴史的な理由から犬猿の仲でしたが、彼らは民族に関係なく、同じ悩みを抱えている者同士で一緒に支え合って生活していたのでしょう。彼らはイエス様のお姿を見ると、遠くから大声で叫びました。「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と、神のあわれみを願ったのです。イエス様は彼らを見て、彼らがどんな病気なのかすぐにわかりました。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」と言われました。ツァラアトが治った人は、神殿に行って祭司に体を見せ、「確かにあなたは治った」と認めてもらう決まりがありました。そうしなければ元の生活に戻ることができなかったのです。十人の病人は、主のおことばを信じて、神殿に向かいました。すると、神殿に行く途中で全員、病気が治っていることに気づきます。彼らはそのまま大急ぎで神殿に向かい、祭司に見せに行きました。

 ところが、10人のうち1人だけは神殿には向かわず、イエス様のもとに戻って来た人がいました。(15~16)「そのうちの一人は、自分が癒されたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。」このサマリア人一人だけが大声で「ハレルヤ、感謝します」と神をほめたたえながら、走って引き返し主の足元にひれ伏して感謝しました。このサマリア人は不治の病が癒された喜びと感謝で満ち溢れていました。主はそのサマリア人に言われました。(17~18)「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人の他に、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」彼らは必死にあわれみを乞い求め、神の癒しの奇跡を体験しますが、いったん癒されると、まるでイエスなどいなかったかのように振舞いました。祭司の所に行く前に、戻ってお礼を述べる程度の時間はあったでしょう。この時、彼らの心を占めていたのは、早く祭司から治ったことを認めてもらい、離れていた家族に会いたい、社会復帰したいという思いだけだったのです。イエス様は主の前にひれ伏しているサマリア人に「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。

 私たちが普段生活している中で本当はたくさんの恩恵があるにもかかわらず、時に、それが見えなくなったり、気づかなくなってしまうことがあります。普段、当たり前と思っていることが、実は当たり前ではないことに気づかされる時があります。健康もその一つでしょう。健康を損ねて初めてその健康のありがたさに気づきますし、失って初めてその大切さがわかったりするのではないでしょうか。聖書の中でダビデ王という人物が出てきますが、彼は詩篇の中で「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と言っています。主の恵みを忘れず、思い巡らして、一つ一つ数えて感謝することです。また、聖歌に「望みも消え行くまでに」という歌があります。一番の歌詞は「望みも消え行くまでに、世の嵐に悩むとき、数えてみよ 主の恵み 汝がこころは安きを得ん」です。望みが消え去ろうと悩みが大きい時でも、主が良くしてくださったことを思い巡らし一つ一つ数えるならば、主の安らぎ・平安があなたの心を守ってくださいます。主が良くしてくださったことを数え、主をほめたたえます。
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5月10日「涙の祈り」

2020-05-11 10:01:39 | 礼拝
サムエル記第一1章9~20節  

 士師の時代の終わりに、エフライムの山地ラマタイム出身のエルカナという人がいました。彼には二人の妻がいて、一人の名はハンナといい、もう一人の名はペニンナと言いました。正妻のハンナとの間に子どもが生まれなかったので、家系を絶やさないようにとペニンナを二人目の妻として迎えたものと思われます。しかしその行為は決して聖書的ではなく、かえって家庭の中は複雑になっていきました。ペニンナはハンナを見下し、事あるごとにハンナの不妊のことを責め、執拗に攻撃しました。ハンナはペニンナを迎えて一層苦しみが増しました。そして毎年、エルカナとその家族は神殿を訪れ、いけにえを携え主に礼拝を捧げていますが、礼拝の後、ハンナは泣いて食事をしようともしませんでした。「そのようなことが毎年行われ」と記されているように、ハンナの涙の日々が長く続いたことを伝えています。たとえ苦しいことがあっても期限があれば耐えることができますが、いつまでたっても自分を取り巻く環境が一向に変わろうとしない時、その苦しみを幾倍にも感じるようになるでしょう。どうして神は私をこのような苦しみにあわせるのだろうか。なぜ全能の神がこの暗闇から救ってくださらないのだろうかと悩みます。
 
 ところがハンナは、食事の時間が終わると急に立ち上がり、神殿へと向かいます。神殿の門の柱のそばには祭司エリが椅子に座っていました。(10)「ハンナの心は痛んでいました。彼女は激しく泣いて、主に祈りました。」彼女の心は痛み、子どもが与えられてこの苦しみから助け出してくださるように、ペニンナを見返すことができるようにという祈りであったかもしれません。しかし次第に、彼女の思いは祈りの中で変わっていきました。彼女は次のように祈ります。(11)「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」子を下さるならその子をお捧げすると誓います。お母さんならば、普通は愛する子どもを自分のそばに置いておきたいものです。けれどもハンナは、神様が授けてくださる子どもを自分のもとから手放し、喜んで神様のために捧げることを誓いました。ハンナは最初、自分の願いを祈っていましたが、祈りの中で神様のみこころが示され、その子の全生涯を神様にお委ねする思いへと変えられていきました。

 そんなハンナの泣いて祈る様子を見ていた祭司エリは、酒に酔っているかと思い、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」と声を掛けます。それに対してハンナは「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎ出していたのです。」とお答えします。すると祭司エリはハンナに、「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」と話しかけると、彼女は夫のもとに戻り食事をしました。すると驚いたことに、ハンナの顔はもはや以前のようではなく、すっかり変わっていました。問題は依然そのままですが、もう悲しみはなく、安心した穏やかな表情になっていました。ハンナは祈りの中で慰められました。神様が最善をなしてくださると信じ、その子の一生涯を主にお委ねしました。翌年、神様はハンナの祈りに答えて、念願の男の子が授けられます。その子を「サムエル」と名付けます。後に偉大な預言者へと成長していきます。実に、ハンナの涙なしに、あの偉大な預言者サムエルは生まれなかったでしょう。ハンナの悲しみは何年も続きましたが、悲しみの谷を通って祈りは聞かれたのです。私たちも様々な苦しみにあいますが、神様が慰めてくださいますように。
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5月3日 「御国が来ますように」

2020-05-03 08:24:20 | 礼拝
マタイの福音書6章:9節~15節
 
 イエス様が弟子たちに「こう祈りなさい」と教えられた「主の祈り」と呼ばれる祈りについて見てまいります。イエス様は弟子たちに祈りの模範を示されました。先ず、「天にいます私たちの父よ。」という呼びかけから始まります。最初の三つの祈りは神様についての祈りです。「御名が聖なるものとされますように。」とは、父なる神様だけが神としてあがめられるようにという意味です。全ての人たちが神様を知り、神ご自身がほめたたえられ、あがめられるようにと言うことです。しかし、現実はどうでしょうか。まことの神を知らず、神様以外のものが神としてあがめられています。被造物である人や物が神となっています。創造主である唯一の神様だけがまことの神としてあがめられますように。「御国が来ますように。」とは、神のご支配がこの地上に実現するようにということです。そして神の国は目に見える形ではなく、神を信じる人々の心の中にすでに来ているのです。人々が神を信じ、互いに愛し合う中に、御国がすでに来ています。そのように、神の救いがすべての人々に及び、御国が広がっていくようにということです。イエス様が宣教を開始された時に、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。その時から神の国は始まりました。そして将来において完全な神の国の実現が約束されています。人々がイエス様を信じて、神様のご支配の中に入れられますように。そして御国が広がっていきますように。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」これは二つ目の祈りと同じ内容を言い換えたものととることができます。「みこころ」とは、神様のお考えやご計画のことです。自分の思いや計画ではなく、神様のご意思や計画がこの地においてもなされていくようにという願いです。この地上ではサタンの力や人間の罪が神様のみこころを邪魔していますが、イエス様は「みこころが地でも行われるように」と祈ることを教えられました。

 主の祈りの後半は、自分たちのための祈りです。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」とは、その日一日分の生活する上で必要なもの、食べるものや着るもの、住むところなど、そのような物質的な必要が今日も与えられるようにということです。そして「私たちの」と複数で言われているように、自分一人のためではなく、家族や友人、知り合い、また困っている人たちも含まれています。また「日ごとの糧」とは、目に見えるものだけではなく、愛ややさしさなど目に見えないもの、霊的なものをも指しています。私たちの心とたましいを支え生かすのは、神のみことばです。私たちは毎日食事をするように、霊的な糧をも必要としています。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。今、足りなくて困っている人たちにも与えてください。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」「負い目」とは、罪のことです。私たちはイエス様を信じて罪赦されますが、それでもなお罪の性質があるので、日々犯した罪を赦してくださいと祈る必要があります。そして「私の罪が赦されているように、私自身も人の罪を赦します。赦せるように助けてください。」と祈らされます。「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」サタンは、私たちを神様から引き離そうと悪いことに誘ったり、神様の愛を疑わせるような試練を与えたりします。誘惑や試練に負けて悪を行わないよう、神様が守ってくださることを祈ります。主は必ず試みに勝つ力を与えてくださいます。私たちを試みにあわせず悪から守ってくださいますように。そして最後に、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」という頌栄で締めくくられています。イエス様は「御国が来ますように」と弟子たちに教えられました。神の国はまだ実現していませんが、将来必ず実現することを待ち望みつつ、弟子たちにこのように祈ることを教えられたのです。今の時代もまだ御国は完成していませんが、世界中の教会と心を合わせて主の祈りを祈っていけば、神様の国が地上に広がっていくことでしょう。私たちもそのことを信じて、「主の祈り」を祈り続けていきましょう。
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