経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

11月18日 「あなたの神は私の神」

2018-11-20 10:58:19 | 礼拝
聖書:ルツ記1章

中心聖句(16)「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」
このことばはルツの信仰告白です。嫁のルツは自分の家に戻ることなく、イスラエルの神を信じ、姑のナオミが帰るベツレヘムについて行きました。そして彼女は異邦人でしたが、後に救い主イエス・キリストの系図に加えられる栄誉に預かります。


Ⅰ:ナオミの苦しみ(1~5)

(5)「こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。」

(1)「さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。」
 ユダのベツレヘムの人の名はエリメレク、その妻はナオミ。二人の息子の名はマフロンとキルヨン、一家4人は、この地に飢饉があり、家族でヨルダン川の東、モアブに行きそこに滞在しました。
食糧のためにベツレヘムを離れ異教の地モアブに移り住みます。モアブ人は、ヨルダン川の東側に住み、アブラハムの甥のロト姉娘が父親によって身ごもった子モアブの子孫です。イスラエルとも親戚関係に当たります。生活のためとはいえ、モアブの地でしばらくの間住み着くのは決して楽なことではありませんでした。ベツレヘムで親しかった親戚や友人と別れ、環境の全く異なった外国の地で新しい人間関係を作らなければなりませんでした。
 今日日本では、仕事を求めて多くの国から来るようになりましたが、言葉の問題や慣れない環境での生活にはさまざまな苦労があることが想像できます。

 さらにナオミの身に思わぬことが降りかかります。
(3~5)「ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミは二人の子どもと夫に先立たれてしまった。」
モアブに住みしばらくして、ナオミの夫エリメレクは亡くなります。二人の息子はモアブの人と結婚し、約10年一緒に生活しますが、幸せは長くは続かず、その後二人の息子も亡くなってしまいます。ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、モアブの二人の嫁と残されることになりました。

(マタイ6:33)「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
エリメレクは生活が大変だったのでベツレヘムを離れ、食糧を求めて家族を連れてモアブの地に移り住みました。そこは異教の地であり、偶像が崇拝され、まことの神のいないところでした。ベツレヘムは飢饉があり生活は大変でしたが、神が共にいる所でした。何を第一とするか、何を一番大切にするかが問われています。

 
Ⅱ:ルツの堅い決心(6~18)

(16)「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」

(6)「そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。」
 途方に暮れていたナオミでしたが、エルサレムで飢饉が終わったことを聞き、ナオミは二人の嫁を連れてモアブからエルサレムに帰る決心をします。
ナオミは道の途中で思い立ったように二人の嫁に話しかけます。
(8~9)「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたがたに恵みを賜り、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。」
 何を思ったか、ナオミは二人に自分の家に帰るように勧めます。二人がナオミや夫にしてくれたように、神様が祝福してくださり、新たな幸せな家庭を築くようにと。二人はまだ若いし、再婚して新たな家庭で幸せを見つけてほしかったのです。ナオミの勧めに嫁たちは声を上げて泣き、(10)「いいえ。私たちは、あなたの民のところへあなたといっしょに帰ります。」と言いました。二人の嫁は家に帰ろうとせず、ナオミについて行こうとしました。二人がついて行こうとした背景には、当時の律法で、残された妻は、亡くなった者の兄弟がその妻をめとり、夫の家族以外のところにとついではならないという決まりがあったからです。
 ナオミは二人を説得します。(11)「帰りなさい。娘たち。」あなたたちが自分と一緒に帰ったとしても、自分のお腹の中に、嫁たちの夫になるような息子たちがいるわけでもありません。たとい今晩でも夫を持ち、息子たちを産んだとしても、息子たちが成人するまで待つことはできません。二人が再婚できる可能性はほとんどないので、ナオミは二人の幸せを第一に考えて帰るように勧めました。
 
彼女たちはまた声を上げて泣き、オルパはしゅうとめに別れの口づけをして、自分の実家に帰って行きました。しかし、ルツはナオミの再度の勧めにも応じず、別れようとはしませんでした。ルツはきっぱりと次のように言います。
(16~17)「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」
ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上何も言いませんでした。なぜルツはそのように言えたのでしょう。姑についていくことは苦労が予想されました。どうして住み慣れた故郷を捨ててまでしてナオミの行く所についていこうとしたのでしょうか?

夫や姑との生活が彼女の心に消しがたい印象を与えていました。彼らは何かが違う、モアブ人にはない何かがあると感覚的に感じていました。またイスラエルの神とモアブの偶像神との違いを感じていました。モアブにはバアル・ペオルという神々がいましたが、ルツはイスラエルの聖なるきよい神に心惹かれていきました。モアブで共に過ごす間、ルツはナオミの純粋な信仰を受け継いだのでしょう。それゆえ、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」と告白することができたのだと思います。

 弟嫁のオルパはモアブの実家に帰って行きました。しかし兄嫁のルツはナオミと一緒にベツレヘムに行きました。帰るかついて行くかの二者択一。異邦人のルツにとってイスラエルに姑と一緒に行くことは、苦労することが目に見えていました。しかしルツは信仰によってそれを選び取ります。私たちも道を選択する岐路に立たされる時があります。
(マタイ7:13~14)「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
 狭い門から入るとは、この世の価値観に生きるのではなくて、福音を聞いてイエスを救い主として信じることを指しています。ルツはモアブには戻らす、イスラエルの人たちと共に、イスラエルの神を信じていくことを決意しました。目に見える所ではなく、神を信じる道を選択しました。私たちは何を第一として、何を選択するかが問われています。

 
Ⅲ:ルツはナオミと一緒にベツレヘムへ(19~22)

(20)「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。」

 それから、二人は旅をしてベツレヘムに到着します。すると町中が騒ぎ出し、驚いて彼女を迎えました。人々は(19)「まあ。ナオミではありませんか。」と声をかけます。
(20~21)ナオミは彼女たちに「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」
 「ナオミ」とは「楽しみ」、「マラ」とは「苦しみ」という意味。私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。満ち足りて出て行った自分を、主は何も持たせずに素手で帰し、つらい目に会わせたのですから。
 「全能者が私をひどい苦しみに会わせた」「主は私を素手で帰されました」と繰り返すナオミは、ただ神への不満を言っているようにも聞こえますが、全能の主の大きな力がすべてを動かしていて、そのお方の前に自分は何もすることができないという思いがあったのだと思います。

1章は(21)「全能者が私をつらい目に会わせられた」という、希望がないナオミのことばで終わっているように読めます。しかし、ナオミとルツに対する神の御業はここから始まっていきます。大麦の刈り入れが始まったその頃、神の御手もまた動き始めていきます。
 マタイの福音書の初めに救い主の系図が記されています。
(マタイ1:5~6)「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。」
 ボアズもルツも救い主の先祖の一人に数えられています。絶望の中うつろな姿でモアブから帰って来て、私をナオミ(楽しみ)ではなく、マラ(苦しみ)と呼んでくださいと願ったナオミ、また日ごとに他人の畑に行き、落穂を拾い集めて糧としなければならなかったルツ、このような人たちがやがて救い主イエス・キリストの先祖の一人に数えられ、その名を永遠に残すことになります。すべての主権を持っておられる全能の神が、その大きな力をもって、ナオミとルツの人生を動かしていきました。私たちの上にも、全能の神はその大いなる力をもって臨んでいてくださるのです。主は私たちの人生を希望に満ちたものにしようと働いておられます。

 ルツにとってナオミに従い、ベツレヘムで生活することは決して楽なことではありませんでした。それでもルツは自分の十字架を負い従って行き、時代は進みますが、救い主の系図に入れられるという祝福に預かりました。

(マタイ16:24~25)「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
 一人ひとり負うべき十字架があります。重荷が重すぎて耐えられない、すべてを放り投げだしたいと思い、この世の中に解決を求めたいと思うかもしれません。しかし十字架を背負い切れず世の中に出て行くのではなく、最後まで神様に従って行くのが祝福の道であることをルツの生涯から教えられるのです。

 ルツが「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」と告白してナオミに従って行くことを選んだように、私たちも自分の十字架を負い、まことの神に最後まで従ってまいりたいと思います。
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11月4日 「力ある勇士よ」

2018-11-09 11:52:53 | 礼拝
聖書:士師記6:11~24 「力ある勇士よ」

中心聖句(13)「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」
主はギデオンをイスラエルを救う指導者として選びました。ギデオンには大きな重荷となり、最初受け止められませんでしたが、主が共におられることを確信し、勇士として立ち上がっていきます。


Ⅰ:イスラエルの苦難

(1~2)「イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押さえたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。」
カナン征服後、新しい世代に移っていくと、次第に彼らの生活にはカナンの偶像が入り込むようになりました。神から離れ、主の目の前に悪を行い、そのため、7年の間、ミデヤン人に攻め込まれ苦しめられることになります。イスラエル人はミデヤン人を避けて山の洞窟や洞穴に身を隠しました。
(3~4)「イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。そしてイスラエル人に対して陣を敷き、その地の産物を荒らして、ガザに至るまで、イスラエルに羊や牛やろばのためのえささえも残さなかった。」
ミデヤン人は典型的な遊牧民であり、数えきれないほどのらくだに乗り、自分たちの家畜と天幕を持って移動しました。彼らはイスラエル人たちを滅ぼすためにやってくるのではありません。彼らは収穫の時期を見計らって襲い、その地の産物や家畜を奪って行きました。
(6)「それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていた。すると、イスラエル人は主に叫び求めた。」
 彼らは悔い改めて主に叫び求めます。そして主はイスラエルを敵から救う指導者ギデオンを起こされました。
士師記のパターン: 背信と堕落 → 主のさばき(異教の民による圧迫) → 悩みと回心 → 主への叫び →士師(救助者)  この繰り返し


Ⅱ:臆病なギデオン

イスラエルを救う指導者としてギデオンが立てられました。ギデオンはどのような人物でしょうか。(11)「さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。」
 「ミデヤン人からのがれて」ミデヤン人はイスラエル人が種をまき、手入れをし、収穫時になってこれを収穫しようとする時に襲ってきました。それが7年間も続いていて、イスラエル人はすっかり弱り果てていました。ギデオンは彼らの攻撃を避けて、酒ぶね(さかぶね)の中でこっそり麦を打つ臆病な者でしかありませんでした。「酒ぶね」は普通、2平方メートル、深さ60センチほどの自然の岩に掘られた穴で、そのような狭い場所でこっそりと身をひそめていました。ですから、決して勇士と呼ばれるような人物ではなかったのです。

主の使いはギデオンに声をかけられました。
(12)「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」
最も新しい訳の「新改訳2017」では、「力ある勇士よ」と訳されています。勇ましい勇気ある強い人のことです。敵の襲撃を恐れて一人酒ぶねの中に隠れているような臆病なギデオンに、主の使いは「勇士よ」と声を掛けられたのです。これは本人も全く予想だにしていないことでした。勇士とは全く逆のような自分のことを「勇士」というのですから驚きです。
また、「主があなたといっしょにおられる。」と言われました。
ギデオンはすかさず疑問を持って訴えかけます。
(13)「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」
 ギデオンは、主がもし私たちといっしょにいるなら、どうして今こんなみじめな状況なのか、先祖たちがエジプトから救い出されたあの驚くべき御業はどこにあるのか、今私たちは主に見捨てられてしまっているのではないかと訴えています。イスラエルの現実からは、とうてい信じられないことばでした。
 私たちにもそのようなことがあると思います。今、自分が置かれている状況を見る時に、とうてい、主が共におられるとは思えないと思うかもしれません。しかし、主はそのような中にあっても、「勇士よ。主がいっしょにおられる」と言われるのです。

(14)「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
(15)「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存知のように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」
 
 主は「あなたのその力で行け」と言われます。しかしギデオンは「どの力」でと聞き返します。どこにそんな力があるのですか。私の氏族はマナセの中で最も弱く、私は父の家で一番若いのです。誰も私の命令に従ってくる人はいないでしょう。しかし、あなたのその力のままで大丈夫と言われるのです。もっと力をつけないといけないというのではありません。今あるその力で行って、イスラエルをミデヤン人から救えと言われるのです。

パウロは次のように言われます。
(Ⅱコリント12:9~10)「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
 パウロの場合は肉体的な弱さがありました。また様々な困難を通り弱くされました。しかし彼は神の力が自分の弱さのうちに完全に現れるから、弱いときこそ強いと言われたのです。
 
主はギデオンに、「あなたのその力」で行きなさいと言われました。自分には力がありません。弱い者です。しかし、その力で行きなさいと言われるのです。私があなたを遣わすのであり、弱さのうちに私の力が現されるからです。


Ⅲ:しるしを求めるギデオン

(16)「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」
 主はあなたといっしょにいると。だから、あなたはその力でミデヤン人を打つことができると言われたのです。ギデオンは臆病な者でしたので、本当に主が一緒にいるかどうかを確かめるためにしるしを求めました。

(17~18)「お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。どうか、私が贈り物を持って来て、あなたのところに戻り、御前にそれを供えるまで、ここを離れないでください。」
 主はこの願いを快く受け入れてくださいました。ギデオンは家に入り、山羊の子を料理し、種を入れないパンを焼き、それを持っていきました。彼は神の使いが命じるままに、肉と種なしパンを岩の上に置き、その上に肉汁を注ぎました。主の使いが持っていた杖を伸ばしてその供え物に触れると、たちまち、火が岩から燃え上がって、それらのものを焼き尽くしてしまいました。すると主の使いは去って見えなくなりました。それで、この方が主の使いであることが分かりました。
(21~22)「主の使いは去って見えなくなった。これで、この方が主の使いであったことがわかった。」
 
 この後、ギデオンは自分の家から偶像を取り除き、戦いに備えました。しかしギデオンはもう一度、本当にあなたであるかとしるしを求めたのです
(36~40節)、「もしあなたが仰せられたように、私の手でイスラエルを救おうとされるなら、今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が下りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります。」
 するとそのようになりました。羊の毛の上だけに露がおり、土には降りていませんでした。またギデオンはもう一度試み、今度は、羊の毛だけがかわいていて、土全体に露が下りるように願うと、神はそのようにされました。
ギデオンはこの2回のしるしで、主が私と共にいてくださり、自分の手でイスラエルを救おうとされることを確信しました。ギデオンは臆病な者だったので、本当に自分がイスラエルを敵の手から救い出すことができるのか、ミデヤン人を打ち負かすことができるのか信じられませんでした。そのため、2度もしるしを求めたのです。しかし彼は、神様が自分といっしょにいると確信することができて、イスラエルを救う士師とて立ち上がっていくことができたのです。

 私たちも時に、あまりにも大きな問題や重荷を担う時に、「わたしにはできない」「自分には無理」とおじけづいてしまうことがあります。主はギデオンに呼びかけたように、私たちに「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」と呼びかけておられるのです。主がいっしょにいてくださるのでできるのです。勇気を持ってお応えしていきましょう。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」
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