経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

2月21日礼拝

2021-02-22 15:06:02 | 礼拝
ヨハネの福音書5章1~9節「床を担いで歩きなさい」

 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られました。「ユダヤ人の祭り」とは、三大祭りの一つ、「仮庵の祭り」と思われます。イエスも祭りのためにエルサレムに上ったかに思えましたが、実際赴かれたのは、都の北東にある「羊の門」近くの、「ベテスダ」の池でした。(2)「ベテスダ」とは、「あわれみの家」という意味で、この池はヘロデ大王が巡礼者のために用意した男女別の沐浴用プールと言われています。その池には、池をぐるりと取り囲む屋根のついた廊下が5つあり、そこには、(3)「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていました。」また、この池は間欠泉と言われていますが、池の水が動き始めた時に最初に水に入った者が癒されると信じられていました。みなその池の水の動くのを今か今かと待っていたのです。
 
 そこに、38年もの間、病気に苦しんでいる人がいました。その時、イエス様は彼が横になっているのを見て、すでに長いことそうしていることを知ると、彼に近づき、(6)「良くなりたいか」と声をかけました。長い間、病に苦しんでいる人に対しては、非情にも聞こえる質問です。イエス様はどうして、このような質問をされたのでしょうか?この男性はベテスダの池に来た時には、きっと治るという期待や希望があったことでしょう。しかし、38年という長い歳月が過ぎて、「もう無理かもしれない」というあきらめ、絶望に近い気持ちになっていたのかもしれません。そこでイエス様は本人の「良くなりたい」という本当の気持ちに気づかせようとされたのでしょう。その望みがどんなに小さくても、またたとい心の片隅に押しやられていたとしても、なおこの病人の心の内に「良くなりたい」という望みがあることを知っていたのです。でも、この男性は(7)「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、他の人が先に下りて行きます。」と、すなおに「良くなりたい」とは答えませんでした。これまで彼が味わってきた現実を切々と訴え始めたのです。

 主はその男に優しく(8)「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と言われました。(9)「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出し」ました。イエス様のことばによって一方的に癒されました。イエスは権威ある言葉で病を癒し、男性が新たな人生を歩みだせるようにしてくださったのです。「良くなりたいか」、このことばを直訳すると「完全になりたいか」という意味です。完全になるというのは、病気が治って動くことができるということだけではなく、本来の存在、神が良しとされた「神のかたち」に回復されることです。御霊をいただいて、神様の栄光を現わす姿へと変えられることを言っています。そして「床を取り上げ、歩きなさい。」は、別訳では「床を担いで歩きなさい。」と訳されています。この男性は、もう必要なくなった床をそこに置いておくのではなく、その床を担いだまま歩き出しました。本来ならば、自分が38年も苦しんできた象徴である床を捨ててしまいたかったに違いありません。しかし、その床を持ち運んで歩き出したのです。それは、今まで自分を縛ってきたものから解放された喜びを公にして歩くことを意味しています。神が自分にしてくださったことを明らかにして生きることを表しています。主は私たちに「良くなりたいか」「良くしてあげよう」、神のかたちとして主の栄光を現わす者としてあげようと招いています。すなおに「良くなりたいです」と答えたいものです。そして、自分がどこから救われ、癒されたかを忘れず、主の恵みを表しながら歩む者とさせてください。
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2月14日礼拝

2021-02-15 11:03:16 | 礼拝
ヨハネの福音書4章7~18節 「生ける水」

 主イエスはユダヤからサマリアを通ってガリラヤへ向かいました。スカルというサマリヤの町に入ると、そこにはヤコブの井戸があり、旅の疲れで井戸の傍らに腰をおろしていました。時は正午頃でした。すると、その時一人のサマリヤの女が水を汲みにやって来ました。水汲みは普通、暑さを避けて日中は行わないのですが、この女性は正午に、それも一人で来ていました。人目を避けるように、他の人が来ない時間に水を汲みに来ていたのです。イエス様は彼女に、「わたしに水を飲ませてください。」と頼みました。イエス様は強い渇きを覚えていました。昼の12時にスカルに着くためには、深夜か夜明けに出発して、休む間もなく歩き続けなければならず、その疲れは相当だったに違いありません。イエス様は井戸の水をくむ物を持っていなかったので、この女性に水を求めたのです。この女性は驚いて言いました。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」なぜなら、ユダヤ人はサマリヤ人と関わりを持たなかったからです。

 イエスは答えられました。(10)「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」しかし女性は、イエス様が汲むためのロープも桶も持っていないのに、どのようにして、深い井戸から水を手に入れるのかと聞き返します。そこでイエスはヤコブの井戸と生ける水を区別するために次のように言われました。 (13~14)「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」主の十字架と復活を信じるとき、「その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水」が湧き出るのです。イエスは話題を変えて、(16)「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われました。それは、彼女が信じるためには、人生の最も暗い部分に光が差し込まなければならなかったからです。女性は礼拝する場所の話を持ち出して、話をそらそうとしますが、イエスは真の礼拝について(24)「神は霊ですから、父を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」と言われます。それは、神は霊ですから形式的な礼拝ではなく、ありのままの自分をさらけ出し、私たちのうちに働く霊と真実をもって神を礼拝することです。彼女の目が開かれた時に、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と、ご自分がキリストであることを明らかにされました。
 
 すると彼女は「水がめを置いたまま」町へ引き返し、(29)「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と主のことを伝えました。人々との接触を避けていた彼女が、積極的に人々の中に入っていきました。このような行動をとったことは、いかに大きな感動に満たされていたかがうかがえます。彼女の心に、永遠のいのちへの水があふれ始めたのです。女性の証言を聞き、変えられた女性の姿を見て、多くのサマリヤ人がイエス様のもとにやって来て、救い主として信じました。一人のサマリヤの女性の上になされた神の御業は、サマリヤ全体へと広がっていきました。一度「いのちの水」を見出だしたなら、本人の力量を超えて、そのいのちの水は、多くの人々を潤す水となっていくのです。私たちもこの生ける水に活かされ、内からあふれ出る水が多くの人々を潤す水となっていきますように。
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2月7日礼拝

2021-02-07 20:02:54 | 礼拝
ルカの福音書5章1~11節「でも、おことばですので」

 イエス様は湖の岸辺に立って、神のことばを群衆に語っていました。群衆は熱心に神のことばを求めてイエス様に押し迫って来ました。そのため、そばで夜を徹して漁をして帰ってきた漁師たちが網を洗っているのを見て、二艘ある小舟のうち一つはペテロの舟でしたが、イエス様はペテロにお願いして、陸から少し漕ぎ出すように頼みました。そして、腰を下ろして、舟から群衆を教え始めました。
 イエス様は話を終えると、シモンに(4)「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と言われました。ペテロたちは夜通し釣りをしましたが、何一つ釣れませんでした。ペテロは(5)「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」と答えました。夜通し精一杯苦労しましたが、網には何もかかりませんでした。彼は長年この湖で漁をしてきた地元の漁師です。この湖の漁については何でも知っていました。私たち漁のプロが一晩中一生懸命やっても何も捕れなかったのに、沖へ出てまた網を下ろすように指図するのですか?と言わんばかりです。プロの漁師としてのプライドがありました。しかしペテロは(5)「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」と言いました。でも先生がそう言うならば、もう一度網を下ろしましょうと言ったのです。(6)「そして、そのとおりにすると」おびただしい数の魚が入り、網は破れそうになりました。その時、ペテロはイエス様の足もとにひれ伏して、(8)「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言います。ペテロには到底考えられない、信じられないことでした。神の臨在に触れて、自分がいかに罪深い者であるかが示されます。この時ペテロは自分のすべての誇りは打ち砕かれ、ただイエス様を仰ぎ見るより他にない心境でした。ペテロはイエス様の中に神の姿を見、同時に自分が罪人であることを発見し、イエスの前に立つことができない者であることを感じて、「私から離れてください。」と叫びました。そして「私は罪深い人間ですから」と悔い改めたのです。

 そこでイエス様は、恐れおののくシモンに対して、(10)「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」と言われました。これまで漁師として魚を捕ってきたが、これからは、人間を捕る漁師になると言われたのです。自分の罪を認め、悔い改めて、イエス様を主と信じたペテロに、新たな使命を授けました。イエスはこの奇跡を通して、ペテロが福音を宣べ伝えて人をすなどる者となることを教えられました。そして、その方法は自分の経験や能力を頼りとせず、たとえ不可解でも主イエスのみことばに単純に信頼して従うこと、イエスを主と仰ぎ自らの罪を告白して悔改めること、そうするならば、その伝道が豊かな実を結ぶことを示されたのです。(11)「彼らは舟を陸につけると、すべてを捨ててイエスに従った。」この時から、シモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、舟を陸につけるとすぐにすべてをすててイエス様に従っていきました。しかし、この後も弟子たちは生活のために漁に出ています。ですから全く漁師を止めてしまったということではないようです。「すべてを捨てて」とは、「神を第一として」「神のみこころに従って」歩むことと言えます。自分には到底、人間を捕るなどできないと思うかもしれません。しかし、イエス様は私たちをそのような者に整えてくださるのです。どのようにしてでしょうか?「でも、おことばですので」と、みことばを単純に信じ従う時にそのようにしてくださるのです。主は私たち一人一人を招いています。みことばを信じ、罪を悔い改め、主にお従いしていく者とさせていただきましょう。
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1月31日礼拝メッセージ要約

2021-02-01 12:04:48 | 礼拝
ヨハネの福音書2章1~11節「水をぶどう酒に変える」

イエス様が弟子たちを招いた三日目の出来事です。ガリラヤのカナで結婚式が行われました。母マリアがいたことから、親類の結婚式と思われます。そこにイエス様と弟子たちも招待されていました。当時のユダヤの結婚披露宴は、友人や親戚、近所の人たちを招いて、花婿の家で一週間ほどかけて行うのが普通でした。ところが、ぶどう酒がなくなるというハプニングが起こりました。おそらく夜中にぶどう酒がなくなったことに気づき、どうすることもできなかったのでしょう。そこで、マリアはイエスに(3)「ぶどう酒がありません。」と声をかけます。わが子をよく知る母として、きっと何とか解決してくれるだろうと期待したのかもしれません。しかし、主から思わぬ答えが返ってきました。(4)「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」一見母を突き放す冷たいことば、人間的なつながりとは一線を画することばのように聞こえます。「わたしの時」とは、「この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時」ということです。イエス様がいつどんな方法で神の子としての力を示すかは、神のご計画の中で定まった時があり、ご自身がお決めになることを示しています。マリアは給仕の人たちに、「あの方が言われることは、何でもしてください。」と、イエスの言うとおりにするよう伝えました。
 
その頃のユダヤ人の家には、手や足を清めるための水を入れるかめが置いてありました。彼らは手足や食器を清める習慣がありました。厳格なユダヤ人は食前に手を洗い、食事中も出されるものが変わるごとに手を洗いました。洗い方にも決まりがありました。イエス様は給仕たちに(7)「水がめに水でいっぱいにしなさい。」と命じました。給仕の人たちは何度も水を運んで、六つの水がめの縁まで水を注ぎました。すると次に、(8)「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」とイエス様はおっしゃいました。給仕の人たちは、「さあ」「今」との促しでくみ上げ、宴会の世話役に持って行きました。イエス様の指示は、かめを水でいっぱいにしたら、それをくんで持って行くという、常識では何の解決にもならないと思われることでした。しかし、その時、奇跡が起こったのです。水が良質のぶどう酒に変わりました。イエス様が言われるとおりに行った時に、水がぶどう酒に変わったのです。

世話役は味見をしました。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのか知っていましたが、世話役は知りませんでしたので、一口飲むと驚いて花婿を呼んで言いました。(10)「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」と花婿をほめました。このぶどう酒は、最初に用意されていたものより、ずっとおいしいものだったのです。この出来事は、イエス様がなさった最初のしるしでした。そして、しるしを目撃した弟子たちは、確かにこの方は神から遣わされた救い主だと信じました。また、水をぶどう酒に変えるしるしには象徴的な意味が含まれています。ぶどう酒は人を喜ばすものです。きよめのしきたりのための水がめの水がぶどう酒に変わったことから、ユダヤ教の律法主義的、儀式的きよめにとって代わる、さらにすぐれた新しいいのちがイエスを通して与えられることが明らかにされました。自分の能力にではなく、主のみことばを信じる時にこの喜びは与えられるのです。「ぶどう酒がありません。」私たちの切なる願いに耳を傾けてください。主のみことばにお従いします。主は十字架にかかりよみがえり、私たちにいのちを与えてくださいました。このイエス様のいのちにこの週も生かされていきますように。
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