経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

1月27日 「神の選び」

2019-01-28 21:52:23 | 礼拝
Ⅰサムエル16:1~13 「神の選び」


Ⅰ:いつまで悲しんでいるのか(1~3)

(1)「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。」

(1)「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」
 主はサムエルに、あなたはいつまでサウルのことで悲しんでいるのか。悲しんでいてはならない。彼を王から退けている。さあ、ベツレヘム人エッサイのところへ行きなさい。彼の息子の中に新しい王を見つけたと言われます。(2)「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」サムエルはサウルにばれたら恐ろしくてどうしてそのようなことができるのかと答えます。サウルには「主にいけにえをささげに行く」と言いなさい。(3)その時、エッサイを招いて、あなたがなすべきことを私が教えるので、私が示す人に油を注ぐように言われました。

 主はどうしてサウルを退けたのでしょうか?
15章で、サウル王は、「アマレク人を打ち滅ぼし、そのすべての物を滅ぼし尽くせ」という主の命令に対して、サウルはすべての良いものを惜しんで、ただつまらない、値打のないものだけを滅ぼし尽くしました。それは、イスラエルの人々がこの良い物を主に捧げようと主張したからであり、この民の提案を彼は拒むことができなかったからです。しかし、こうした民の思いは主から出たことではなく、彼らの行為は神のことばに背くことになりました。イスラエル人を神の御前に整えるために選ばれたサウルは、その使命を果たせず、神は彼を捨て、イスラエルの王から退けたのです。厳しいさばきですが、神はサウル王を捨て去り、新しく少年ダビデを選んで、イスラエルの王としました。

サムエルは悲しみの中にいました。サウル王はイスラエルの民が望んだ最初の王でした。そしてサムエル自身がサウル王に油を注ぎ王に任命しました。そういう意味で、サムエルのサウルへの思いはひとしおだったはずです。しかし主は早々にサウルに見切りをつけ、次の王を立てていました。サムエルは油注いだ者として責任を感じていました。サムエルは気持ちがついて行けず、サウルへの思いを断ち切ることができずにいたのです。
一方、神の側はこのことをどのように見ていたのでしょうか。主の思いをすべて測り知ることはできませんが、次のように書いてあります。
(15:35)「サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」
主ご自身もサウルを王としたことを残念に思い悲しんでおられたのです。1~3節を読みますと、あまりにも淡々と書かれていますが、神も悲しみ悔やんでおられたのです。サウルがだめなら、次の王ダビデを立てようと事務的に執り行っていたのではないのです。主もサムエルと一緒にサウルのことを悲しんでおられたのです。
私たちもサムエルのように、失敗したり、うまくいかなかったことについて、悲しみ、残念に思い、何日もくよくよしてしまうことがあるかもしれません。あの時、ああしておけばよかった、こうしておけばよかったと後になって悔やむことがあります。しかし、神も私たちと一緒に悔やみ残念に思っているのです。共に悲しんでいてくださるのです。いつまで悲しんでいるのか、いつまでもくよくよしないで行きなさい、前に進んで行きなさいと言われているのです。


Ⅱ:主は心を見る(4~13)

(7)「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

(4)サムエルは主に言われたとおりにベツレヘムへ行きました。すると町の長老たちは、「平和なことでおいでになったのですか。」と恐れながら彼を迎え入れました。普段サムエルは民のためにいけにえを捧げるために町々を巡回していました。しかし、通常いけにえを持ってくる人は、預言者ではなく、礼拝者であったので、今回はサムエル自身が子牛のいけにえを持ってきたので、長老たちは何か特別な理由があって来たのではないかと恐れたようです。エッサイの家に何か特別なことが起こると受け止めたのでしょう。(5)サムエルは「平和なことです。主にいけにえをささげるために来ました。」と答えエッサイと彼の子たちを招きました。
 
子供たちが来た時、サムエルはエリアブを見て、(6)「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いました。しかし主はその時サムエルに言われました。
(7)「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」私たちは外見を気にしてしまいます。人からどのように見られるか、どのように思われるかと外見を気にします。そして人のことも外見で判断してしまうことがあります。人はうわべを見ますが、主は人の心をご覧になります。

それでは、「主は心を見る」とは、どういうことでしょうか。これはもちろん、ダビデは罪のない、心のきれいな人であったという意味ではありません。これは主は私たちの「心の状態」を見られるということです。主が喜ばれる私たちの心の状態、内側の性質について、聖書には色々なことが示されています。
①貧しい心。マタイ5:3「心の貧しいものは幸いです。」
②悔いた心。詩篇51 :17「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」
③聞き従う心。Ⅰサムエル15:22「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
④お頼りする心。詩篇23:1「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」

 エッサイは次にアビナダブを呼んで、サムエルの前に進ませますが、サムエルは(8)「この者もまた、主は選んでおられない」と言いました。続いてエッサイはシャマを進ませたが、サムエルは(9)「この者もまた、主は選んでおられない」と言いました。こうしてエッサイは7人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルは(10)「主はこの者たちを選んではおられない。」と言いました。
 サムエルはエッサイに(11)「子どもたちはこれで全部ですか。」と尋ねると、エッサイは「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」と答えます。末の子はまだ祭儀資格の年齢に達しない少年なのでその場に連れて来ませんでした。エッサイは末の子を連れてこさせます。(12)「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」と主は仰せられました。サムエルは油を取り、兄弟たちの真ん中で末の子ダビデの上に油をそそぎました。その日以来、主の霊がダビデの上に激しく下りました。

 主は何人もいる息子の中からダビデを選ばれました。ダビデはサムエルとの会合にも呼ばれず、家族から何ら注意を払われず、羊の番をさせられていました。誰もダビデを認めず、軽視していましたが、主は彼の心を見ておられたのです。私たちもこの世の中では誰かの評価によって生きています。学校であったり、職場であったり、誰かから評価されています。私たちもダビデのように周りの人たちから良く評価されないことがあるかもしれません。日々の生活の中で、人々から低く評価され、軽くあしらわれることがあるかもしれません。しかし主はしっかりと私たちの心を見ておられます。主の前にへりくだり、主に信頼する心を見ておられるのです。人は評価しないかもしれませんが、主はそのような心のあり方を見ておられるのです。主はあなたの心に何を見ているでしょうか。人の目はどうでもよいとは言いませんが、第一に、心を見られる主に喜ばれる歩みを心掛けて行きたいものです。


Ⅲ:行って実を結ぶため(ヨハネ15:16)

(ヨハネ15:16)「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

 イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と言われました。このみことばは何度か教会の指標聖句になったものですが、私たちはこのみことばを読むたびに、本当にその通りだなと神様の恵みを覚えるのではないでしょうか。
 しかし、主のおことばはそれで終わってはいません。「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり」と言われています。サウルが王として選ばれたのに目的があったように、私たちの選びにも目的があります。それは「行って実を結ぶ」ということです。このために私たちは選ばれました。大きな神様の期待が掛けられています。この一年宣教の実が結ばれるように、神様の期待にお答えしていきたいと思います。私たちは行って実を結ぶために選ばれました。そのことをもう一度心に留めてまいりましょう。
 またもう一つの選ばれた目的は何でしょうか。
「また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」他の聖書の訳ですと、「また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と訳されています。
 私たちが主の名によって祈り求めるものを父なる神様は与えてくださいます。私たちが選ばれ任命されたのは、私たちが神に求めて与えられるためです。祈ることは力です。私たちが自分の力で実を結ばせるのではありません。神様によって実が結ばれるのです。イエス様は言われました。(ヨハネ15:5)「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」枝が幹から離れて実を結ぶことができないように、私たちもイエス様を離れては実を結ぶことができません。神は与えることを、実が結ばれることを望んでおられるのです。主にお頼りし祈り求めていきましょう。豊かな実を結ばせください。
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1月20日 「神に従う」

2019-01-21 13:59:23 | 礼拝
Ⅰサムエル13:5~12、15:17~25 「神に従う」

中心聖句(15:22)「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
 サウル王は失敗を重ねます。王として立てられますが、主の御声に聞き従うことをしませんでした。“神に従う”ことについて、サウル王の失敗を通して考えます。


Ⅰ:サウル王は自分の思いを優先させた(13:5~12)

(11)「あなたは、なんということをしたのか。」

 当時サウルとイスラエル人の主な敵はペリシテ人でした。サウルの子ヨナタンがペリシテ人の守備隊長を破ったことによって、ペリシテ人はイスラエルを憎むようになり、戦いを挑んできました。ペリシテ人は、戦車3万、騎兵6千、民は海辺の砂のように多くいました。一方サウルの兵は3千人、しかも手にしているのは、鋤やくわ、斧、鎌などの農具でした。イスラエル人はひどく追い込まれ、ほら穴や岩、ため池などに身を隠します。ある者はヨルダンを渡ってガドやギレアデへと逃れて行きました。残ってサウルと共にいる者たちもみな震えおののいていました。
イスラエルはペリシテ人と戦う前に、まずサムエルが戦地に来て犠牲を捧げ、礼拝を捧げることになっていました。サウルは7日間待ちますが、約束の日が来てもサムエルの姿は見えず、民たちは離れて去って行こうとしました。このような切羽詰まった状況の中で、サウルはじっとしておれず、「全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい」(9)と言って、自分で全焼のいけにえを捧げてしまいのです。しかしサウルが全焼のいけにえを捧げ終わったちょうどその時、サムエルが姿を現します。サムエルはサウルに怒って言います。(11)「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えて、(11~12)「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」サウルは弁解して答えました。ところがサムエルは(13)「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。」と言って神の怒りを告げました。

 サウルの行動のどこが愚かだったのでしょうか?
① 越権行為。彼は王として召されていたが、祭司としては召されていませんでした。それにもかかわらず、彼は祭司の働きを執り行ってしまいました。それは祭司にしか許されていないことでした。
② 神に信頼しなかったこと。危機的な状況の中にも神がすべてを治めておられるということを見失っていました。もし彼が本当に神を信頼していれば、最後までサムエルの到着を待つべきでした。
私たちもサウルのように、いざという時、神様に信頼するよりも、自分の思いや判断を優先させてしまうことがないでしょうか。
(箴言3:5~6)「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
(新共同訳)(6)「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」
どのような時でも自分の判断に頼らず、神様に信頼しいつも主を認めるなら、主は行く道筋をまっすぐにされるのです。いつでもイエス様を意識することです。
以前、What would Jesus do? 「イエス様だったらどうする?」というブレスレットが流行りましたが、どうしたらよいか分からず判断を仰ぐとき、自分の思いではなく、イエス様だったらどうするだろうと、イエス様の思いを求めていきたいものです。


Ⅱ:サウル王は民を恐れて彼らの声に従った(15:17~25)

(24)「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。」

 次に、サウルはアマレク人と戦いました。彼は神から(3)「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを滅ぼし尽くせ」という命令を受けて出て行きました。彼はアマレクに勝利しましたが、(9)「肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打のないものだけを聖絶した。」と聖書は記しています。主の命令に従わず、すべてのものを滅ぼし尽くしませんでした。
それでも、サウルは主のことばを守りましたとサムエルに報告しますが、サムエルは、(14)「では、私の耳にはいるあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」と質問されます。サウルは(15)「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。」と、民が滅ぼすのを惜しんだからと答えます。
再び、サムエルはこのことに対して、(19)「あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」と詰問しますが、サウルは(20~21)「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」と、またイスラエルの民があなたへの捧げものとして取って置いた弁解します。
するとサムエルは(22)「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」とサムエルの考えが違うことを指摘されました。するとサウルは(24)「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。」と自分の罪を告白します。

なぜ、サウルは主の命令に従って、すべてのものを滅ぼさなかったのでしょうか。それはサウルが民を恐れたからです。有力者や戦いで犠牲を払ってくれた人たちが、肥えた牛や羊を惜しんだ時、サウルは拒むことができませんでした。確かに、多くの有力な長老たちの中で若いサウルが指導力を発揮することは難しかったでしょう。しかしそうであったとしても、サウルは主の命令に聞き従わなければならなかったのです。(17)「あなたは、自分では小さい者にすぐないと思っていても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。」サムエルは油注がれた王であることを忘れてはならなかったのです。民を恐れるのではなく、主を恐れて、主のことばに聞き従うべきでした。

私たちもこの世の中でいろいろな圧力やプレッシャーの中に置かれています。人にどう見られるか、人から何と言われるかと気にして恐れてしまいます。人の声であったり、周りの力に押し流されてしまうこともあるかもしれません。しかし、私たちの第一の使命は、神の御声に聞き従うことです。人を恐れていたら真理を曲げることになり神に喜ばれません。人を恐れるのではなく、神を恐れる者とされますように。

 
Ⅲ:キリストの従順に倣う(ピリピ2:1~9)

(ピリピ2:8)「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」

 サウルはこれら二つの過ちを犯し、神に従うことができませんでした。従うことはそれほど容易なことではありません。しかし私たちには神に従う模範を示されたお方がいらっしゃいます。その方は、イエス・キリストです。

(ピリピ2:6~8)「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
イエス様はどのようなお方でしょうか。神の立場を捨てて、人間と同じ姿になられました。そしてご自身を無にしてまで他に仕える者となってくださいました。そして十字架の死にまで従い、尊い犠牲となってくださったのです。私たちはこの方を見つめ続けなければなりません。

(15:22)「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
 神が最も喜ばれることは、私たちが神に従うことです。みことばに聞き従うことです。ご自分を低くし、十字架の死にまでも従われたイエス様の謙遜と服従に倣い、私たちが神を恐れ、神に従う者とされていきますように。
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1月13日新年聖餐礼拝 「心を尽くして主に仕える」

2019-01-15 22:52:13 | 礼拝
Ⅰサムエル8:1~9;12:19~25「心を尽くして主に仕える」

中心聖句(24)「ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。」


Ⅰ:イスラエルはこの世の王を求める(1~5)
 
(5)「どうか今、ほかのすべての国民のように、わたしたちをさばく王を立ててください。」

 イスラエルの民はサムエルに王と立てるように求めました。
 「どうか今、ほかのすべての国民のように、わたしたちをさばく王を立ててください。」他の国々は国を治める王が立てられていました。これまでのイスラエルは、アブラハム、イサク、ヤコブなどの族長たち、モーセ、ヨシュアのような神から賜物を与えられた指導者によって治められてきましたが、他の国のように私たちにも王を立ててくださいと懇願します。この時、イスラエルの民は神による支配よりも、人による支配を求めたのです。

なぜイスラエルは王を求めたのでしょうか?
①サムエルは年を重ね、二人の息子はさばきつかさとしてふさわしくなかったから。
(1~3)「サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとした。長男の名はヨエル、次男の名はアビヤである。彼らはベエル・シェバでさばきつかさであった。この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。」
②他の国は王政だったので、自分の国もそうしたかったから。
③国を守る指導者が必要だったから。
 イスラエルの民は、遊牧の生活からカナンに定着し、一つの国家として立っていこうとした時に、彼らを治める王の必要を感じ始めました。国家を形成していこうとする時、軍事、外交、政治など、周りの国々との関わりにおいてどうしても国の意思を代表する王が必要となってきていました。

 イスラエル人にとって一つの国家を形成することは喜ばしいことだったに違いありません。牧草地をさまよい、自然の脅威にさらされながら長い間、遊牧生活を続けてきた彼らにとって、定住の地を得て、家を建て、土地を耕し、収穫を得て生活するということは夢のようなものであったに違いありません。しかし、彼らは生活が安定し始めると、この地への関心が高まり、神への思いが薄くなっていき、神の支配よりも人の支配を求めるようになっていきました。神を恐れる思いが希薄になっていきました。神はイスラエルの民の要求の背後に、彼らが神を軽んじる思いがあることを見過ごしませんでした。
何か問題や困難がある時には神を熱心に求めても、生活が安定し、この世の多くのことに責任を負わされるようになると、だんだんと神を恐れる思いが希薄になってきてしまうことがあります。私たちも同じ轍を踏まないように気をつけなければなりません。


Ⅱ:主は民の声を聞き入れる(6~9)

(6)「彼らが、『私たちをさばく王を与えてください。』と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。」
 民の求めはサムエルにとって気に入らない事でした。他の聖書の訳ですと「そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。」と訳されています。サムエルの目には悪いことでした。イスラエルを治める王は、主なる神ご自身でしたから、そう思うのも当然のことだったでしょう。サムエルは戸惑いながら主に祈ります。すると次のような答えが返ってきました。

(7~9)「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」
①「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。」主からの答えは意外なものでした。聞き入れなさい。サムエルはそのような答えが返ってくるとは思っていなかったはずです。
②「それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」
主はサムエルを気遣います。彼らはエジプトを脱出してから同じことを繰り返しているのです。彼らはサムエルあなたではなく、主であるこの私を退けたのです。
③「彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ」王が立てられるなら、民にふりかかり重荷となる事柄をはっきり伝えなさい(11~18)。戦いのために徴兵されたり、収穫物を捧げたり、くびきを負わされるが、その時助けを求めても主は答えてはくれないと。
それでもイスラエルの民は、サムエルの忠告に耳をかそうとせず、自分たちをさばき戦ってくれる王を立ててほしいと願いました。それで主は民の要求を聞き入れました。

どうして神は民の要求を聞き入れたのでしょうか?なぜ神はそれが罪だとわかっても許されたのでしょうか?それは、失敗して後悔しないと、人間はわからない者だと神は知っていたからです。(8)「わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。」と言われるように、正しい道を示しても、言うことを聞かず、幾度も同じ過ちを繰り返すことを知っていたからです。イスラエルの歴史は神への不信の歴史といっても過言ではありません。人間は本質的には神に従って生きていくことより、自分勝手に好きなように生きていきたいのです。神は人の本質をよくご存じです。
ですから、神のみこころに従って生きる生き方は、やろうと思ってできるようになるものではなく、どうしたらよいかを知っていても、実際にできないのが私たち人間です。自分の意思でみこころに従っていく生き方を体得するには、時には、失敗することで学ぶしかない場合もあります。実際に失敗しないとわからない、失敗を経験して苦しんで初めて分かるのだと言えます。そして悔い改めへと導かれます。
(詩篇119:67)「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(119:71)「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
 私自身も頭でわかっていてもなかなかできないことがあります。実際に失敗したり苦しんでやっとわかり「こうしたほうがいいんだな」「これはやってはいけないんだな。」と分かってくるものだと感じます。


Ⅲ:主がどれほど偉大なことをされたか(12:20~25)
 
イスラエルの民の要求は悪でしたが、しかし神はその要求を聞き入れ、神は彼らの神であり続けました。神はイスラエルの民を見捨てることはありませんでした。
 サムエルはこの時もう年老いていました。罪を告白する民に、サムエルは20節から告別説教をしています。これまで民の罪を指摘してきたサムエルは、ここでは民への祝福を語っています。
(20)「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行なった。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。」
 悪を働いたが恐れてはならない。わきにそれず主に心を尽くして仕えなさいと言われます。
(22)「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。」
 主はご自分の民を見捨てることはありません。「あえて」とありますように、みこころを損なうことをしたとしても、引き続きご自分の民として下さり、なお用いようとされるのです。
 復活された主イエスは、裏切った弟子たちにご自身をあえて現されました。本来なら去って行った者を追わないで、放っておいてもいいのですが、イエス様はそのようにはしませんでした。ふさわしくない者にもかかわらず、あえて用いようとされるのです。主は私たちにもそのように臨んでいてくださり、決して見捨てることなく、あえてご自身の民としてくださいます。
(24)「ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。」
主がどれほどの大いなることをあなたがたにされたのかを、考えるように勧めています。主はどれだけ私たちのことを愛しているでしょうか。

使徒パウロは、クリスチャンであれば男でも女でも見つけ次第縛り上げて、牢に入れ死に至らせました。しかしある時、彼はダマスコ途上で神と出会う体験をしました。突然天から光が照らされ、「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか。」という声を聞きます。「主よ。あなたはどなたですか。」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」パウロは自分が迫害しているイエスに出会い、どんなに大きな愛と赦しが自分に注がれていたかを彼はここで知るのです。その後のパウロの生涯はいつもこの神の恵みに立ち、神の愛に迫られていました。

 パウロにご自身を現されたように、神は私たちにどのような大きなことをしてくださったでしょうか。神は私たち一人ひとりを愛し、ひとり子を世にお与えになりました。それは御子を信じる者が滅びることなく、罪赦され永遠のいのちを持つためです。それほどの大きな神の愛はありません。そして、神は人の過ちを赦してくださるのです。わきへそれてしまうようなことがあっても、決して捨て去ることなく、あえてご自分の民としてくださるのです。この神の愛と赦しを知る時に私たちは変えられていくのです。主が私たちになされた大いなることを覚え、ただ主を恐れ、心を尽くし主に仕えていく者とされますように。
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1月6日新年礼拝 「主よ。お話しください」

2019-01-08 11:24:02 | 礼拝
聖書:Ⅰサムエル3:1~10 「主よ。お話しください」

序:「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」
 少年サムエルが祭司エリに教えられて祈った祈りです。それまで士師の時代にはほとんど神のことばが語られていませんでした。主はサムエルに声を掛けられます。そしてイスラエル王国誕生という新しい時代が幕開けします。主は私たち一人ひとりに語りかけてくださいます。この一年もみことばによって力づけられ励ましをいただいて歩んでまいります。
王国を誕生させる役目を果たす預言者サムエル(祭司であり、最後の士師でもある)とは、どのような人物だったのでしょうか。サムエルの人物像を通して、私たちの信仰姿勢をもう一度振り返ります。

 
Ⅰ:捧げられた人(1章)

サムエルは、エフライムの山地に住むエルカナの子として産まれました。エルカナには二人の妻があって、一人はハンナ、もう一人はペニンナでした。ペニンナには子どもがいましたが、ハンナには子どもがいませんでした。ハンナはなかなか子供が授からず、ペニンナからは嫌がらせを受けとてもつらい思いをしていました。
 ハンナと夫は毎年、シロの町に出かけて神様を礼拝する主の宮で捧げものをしていました。ある時、ハンナはこの主の宮で、泣きながら神様に祈っていました。
(10~11)「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。そして誓願を立てて言った。『万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。』」
 主はハンナの祈りに応え、翌年ハンナは男の子を授かります。ハンナはその子をサムエルと名付けました。ハンナの熱心な祈りによってサムエルは生まれ、母ハンナの信仰を受け継いでいきました。幼子が乳離れすると、ハンナはサムエルを主の宮に連れて行き、「神様に約束した通り、この子を神様におささげします」と言って、祭司のエリに預けました。(28)「それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。」サムエルはエリから神さまの教えを学んだり、手伝いをしたりして、神様に仕え、主にも人にも愛され、ますます成長していきました。

 私たちも神様によって贖われ、生かされて、主に捧げられた者です。自分の人生のように思いますが、神様によって与えられた人生であり、私たちの生涯も主に渡されたものです。好き勝手に生きていくのではなく、神様の計画の中にあります。
(エレミヤ29:11)「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
 主はこの年私たちに立てている計画をよく知っています。それは平安を与える計画であり、将来と希望を与える計画です。主のご計画の中を歩ませていただきましょう。


Ⅱ:神に聞く人(3:1~9)

 サムエルと言うと、私は「祈る少年サムエル」の絵を思い出します。私の家にもその絵が飾ってあります。物心つくころから、この絵は何の絵だろうと思いながら見ていました。サムエルは母の信仰を受け継ぐ祈りの人でした。
この頃、少年サムエルは14、5歳になっていたと思われますが、祭司エリの前で主に仕えていました。「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」とありますように、サムエルが誕生したのは、指導者のいない暗黒の時代でした。そのような時代にサムエルは神から呼びかけられます。彼は生れて初めて神の声を聞きます。

(4~5)「そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、『はい。ここにおります。』と言って、エリのところに走って行き、『はい。ここにおります。私をお呼びになったので。』と言った。エリは、『私は呼ばない。帰って、おやすみ。』と言った。それでサムエルは戻って、寝た。」
 サムエルは寝ている時に、自分の名を呼ぶ声を聞きました。そうすると、「はい、ここにおります」と答え、祭司エリが呼んだのだと思い、エリの所に急いで走って行きました。すると、エリは「私は呼ばない。帰ってお休み」とサムエルを帰します。
 サムエルはもう一度、自分の名を呼ぶ声を聞きました。またエリが呼んだと思って行きます。サムエルはエリのもとで主に仕えていましたが、実際に主のことばをそれまで聞いたことがなかったので、主からの呼びかけだとわかりませんでした。
(8~9)「主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、『はい。ここにおります。私をお呼びになったので。』と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。『行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。』サムエルは行って、自分のところで寝た。」
 これで主がサムエルを呼ぶのは三度目です。サムエルはまたエリの所に行きます。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを初めて理解します。そして今度呼ばれたら、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」と伝えました。

祈りには二つの祈りがあります。一つは「主よ、お聞きください。しもべは話します。」という祈りです。もう一つはエリが教えたように、「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」という祈りです。
 神社やお寺に行くとお百度参りというのがあります。境内の一定の距離を百度往復して、その度に病気が治るようにとか願い事がかなうようにと祈願します。これはまさに「主よ。お聞きください。しもべは話します。」の祈りです。
 祈りについて、主イエスは山上の垂訓の中で次のように述べています。
(マタイ6:7~8)「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」
 父なる神は、私たちがお願いする前から私たちの必要を知っておられます。一生懸命祈らなければ聞いてくれないのではなく、神は私たちの必要をすでに知っていて願いは聞き入れられています。
本来祈りというのは、サムエルの態度「どうぞお話しください。僕は聞いております。」とあるように、神の呼びかけをまず聴くことから始まります。ここに祈りの本質があります。聴くことなしに応答としての祈りはありません。

ある牧師が祈りについて言われました。
「泣きじゃくる子供が母の子守唄によって心が静まっていくように、さまざまな矛盾や、不合理の中で、私たちは悩み、苦しみ、もだえながら、そこで神の語りかけを聞き、望みと力を与えられて生きていくのである。祈りとはまさにこうした激しい世の中で神の使者として生きようと願う者が、耳を傾けて神の語りかけを聞く時である。」
 この一年も、日々、神様の前に静まり、神の御声に耳を傾けます。サムエルに呼びかけたように、私たちにも主は呼びかけてくださいます。日々の生活の中で、主の御声を聞いて、力と望みをいただいて歩んでまいりましょう。
 

Ⅲ:使命を託された人(3:10~21)

(10)「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、『サムエル。サムエル。』と呼ばれた。サムエルは、『お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げた。」
 そうしますと、主はサムエルに仰せられました。(11~14節)サムエルにとってはかなり重たいことを告げられました。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物の捧げものによっても、永遠に償うことができないと。ではエリの罪とは何なのか?自分の息子たちが、自らのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪です。
主を知らず、主のことばもまだ示されていなかったサムエルには、突然の主の語りかけは衝撃でした。しかも初めて聞いた主のことばは、師であり養い親であるエリへの裁きだったのです。
(15)「サムエルは朝まで眠り、それから主の宮のとびらをあけた。サムエルは、この黙示についてエリに語るのを恐れた。」
 翌日、エリはサムエルを呼び、「神様は何をお話になったのか。」と聞きます。「隠さないで教えてくれ」と願うエリに、サムエルは神様のさばきのことばを勇気を持ってしっかりと伝えました。
(18)「それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。『その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。』」
 エリの家に対するさばきのことばは厳しいものでありましたが、サムエルは神のことばを告げ、エリはそれを素直に受け止めました。この経験を通してサムエルは、預言者としての一歩を踏み出すのです。これがサムエルの預言者への召命です。
 私たちもそれぞれ神様に召された者であり、それぞれ自分の使命が与えられています。私たちにもどんなに小さな働きだとしても、その人に与えられた使命があるということです。「地の塩・世の光」としてこの世に遣わされています。
 
ミヒャエル・エンデ作「モモ」より
モモにはたくさんの友だちがいました。そして、友だちの中に、特別な人がいました。その一人は年よりのおじいさんで、道路掃除夫の“ベッポ”といいました。
ベッポは毎日、夜が明けないうちに、キーキー鳴る自転車で、仕事に出かけた。仲間と共に、ほうきと手押し車をもらい、どこの道路を掃除するか、指示を受けます。ベッポは、町がまだ眠っている、夜明け前のこの時間が、好きでした。それに、自分の仕事を気に入っていました。だから、仕事はていねいにやりました。とても大事な仕事だと自覚していたのです。じっくり考えるベッポは、道路掃除もまた、ゆっくりと時間をかけて着実にやりました。ひとあし進んではひと息。ひとあし進んではひと息。
ある日、ベッポは、自分の仕事について、モモに話したことがあります。とても長い道路を受け持つと、これではとてもやりきれないと思ってしまう。だから、せかせかと、スピードを上げてやろうとする。時々目を上げると、まだまだ残っている。ちっとも減ってない。だから、もっとすごい勢いで働こうとする。心配でたまらないから。でも、そうすると、しまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやり方は、いけない。一度に全部のことを考えてはいけない。次の一歩のことだけ、次のひと息のことだけ考える。いつもただ、次のことだけを考える。すると楽しくなってくる。楽しければ、仕事はうまく はかどる。ひょっと気づいた時には、一歩一歩進んできた道路が全部終わっている。どうやってやり遂げたかは、自分でも分からない。ベッポはそんなことを、モモを相手に考え込みながら、時には長い休みを取りながら話した。

 この年の初め、私自身、次のみことばに励まされました。
(マタイ6:34)「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
 みことばがなかなか与えられない時もありますが、今年はすっとこのみことばが心に入ってきました。先のことを考えると、心配が尽きません。明日は明日が心配します。労苦はその日その日に十分あるのですから、その日その日のことを考えて精一杯生きていくのがよいのでしょう。全部のことを考えてしまうと心配ではかどらなくなります。次のこと、次の一歩のことを考えていくように言われているのだと思います。
 神のことばは聞く人に力と勇気を与えてくださいます。サムエルが祈ったように、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」と、この年も、日々主のみことばに聞き、主にある力と望みをいただいて歩んでまいりましょう。先のことに悩まず、その日その日を喜んで仕えていくことができますように。
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