経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

4月26日 礼拝

2020-04-26 10:18:16 | 礼拝
マタイの福音書6章5~8節 『静まる力』

 イエス様はマタイ6章の中で祈りについて教えられました。祈るときに、偽善者たちのようであってはいけないと言われます。「偽善者」とは、うわべをいかにも正しい人、立派な人らしく見せかける人のことです。彼らは一日に三回祈りました。午前9時と正午、午後三時に。その時間になりますと仕事をしている人は仕事を止めて、祈りを捧げることになっていました。ところが、彼らの中には、その時間になると、わざわざ人が集まる「会堂や大通りの角」に立って祈る人たちがいたというのです。会堂や大通りの角は、人通りの多い所ですので誰の目にも留まります。両手を天にあげて熱心に祈る姿はいかにも神を信じる立派な人に見えたことでしょう。イエス様はわざわざそのような所へ行って人に見せるような祈りをしてはいけないと言われたのです。なぜなら、彼らはすでに人々の称賛という報いを受けてしまっているからです。イエス様は一人家の奥の部屋に入って、戸を閉めて、誰にも見られていないところで祈るように言われました。心を神様だけに向けて祈ることを勧めました。そうするならば、「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」人々の称賛という報いはありませんが、父なる神様が報いてくださるのです。私たちが本当に必要にしていることは神様からの祈りの応答であり、神様からの報いです。 

 イエス様はまた祈る時、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけないと言われました。「異邦人」とは、ここでは「異教徒」という意味です。ユダヤ人から見てローマ人のような外国人は多神教でしたので、彼らは自ら信じる神々に祈っていました。彼らの祈りは機械的に同じ言葉を繰り返す祈りでした。言葉数が多いほど、祈りの時間が長いほど、その祈りは聞かれ答えられると考えていたからです。イエス様は異邦人のように同じことばを繰り返してはならない、また彼らの真似をしてはならないと言われました。なぜなら、神様は、私たちが願い事をする前から、私たちに必要なものをご存知だからです。イエス様は神様のことを「あなたの父」「あなたがたの父」とおっしゃっています。祈る時に、「天の父なる神様」と祈りますが、神様は私たちの父親のような存在です。私たちに命を与え、私たち一人一人を愛し、よくご存じで、私たちに本当に必要な良いものを与えてくださるお方です。このような愛にあふれたお方を信頼して祈るようにと言われるのです。

 子供はお父さんに、何の遠慮もなく、無邪気に、「お父さん、これして」「お父さん、これ買って」とお願いします。そうされるとお父さんはうれしいものです。しかし、子どもがお父さんに何も言わなかったり願わなかったら、お父さんは逆に悲しくなります。神様は私たちが神様に何でも話すことを願っているのです。ですから、遠慮なく願い事を伝えたり、悩み事を打ち明けたり、嬉しかったことを伝えたり、どんなことでも神様は喜んで聞いてくださいます。私たちを自分の子供として大切に思い、良いものを与えようとしてくださる父なる神様に祈ることができるのは、なんと幸いなことでしょうか。私たちも神様に信頼して「天のお父さん」と子供のように、自分の正直な思いを語りかけていきたいものです。イザヤ書30章15節に次のようなみことばがあります。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」とあります。神の前に静まるならば力を得ます。今私たちは“stay home”ということで、家で過ごす長い時間が与えられています。神様は私たちと同じ時間を過ごすことを望んでおられます。私たちが神様に何でも願い求めることを望んでおられるのです。「天のお父さん」と子供のように信頼して祈りましょう。日々静まる中で神様から力が与えられますように。
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4月19日「平安があるように」

2020-04-19 10:11:55 | 礼拝
聖書:ヨハネの福音書20章19節~29節 

 その日の夕方、弟子たちはエルサレムのある家に集まっていました。家の戸には誰も中に入れないようにしっかり鍵をかけてありました。先生である師が捕えられ、今度は自分たちの番かもしれないと恐れていたのです。その時、復活の主は弟子たちが集まっているその真ん中に立たれました。弟子たちはどれほど驚いたことでしょう。戸を開けて入ってきたわけではありません。鍵がかけられた家の部屋の中に突然立たれたのです。そして「平安があなたがたにあるように。」と言われました。「平安」とは、「シャローム」ということばですが、普段ユダヤの人たちが日常の挨拶を交わす時に使うことばです。弟子たちに裏切られたイエス様は弟子たちを責めることはしませんでした。そして主は傷跡が残っているご自分の手と脇腹を彼らにお見せになりました。弟子たちはその傷跡を見て確かに主であることを知り、「主を見て喜んだ」と記されています。

 しかしその場には十二弟子の一人であるデドモと呼ばれるトマスだけがいませんでした。彼一人だけ家の中にはいないで別行動をとっていたようです。そこにトマスが戻って来ると、興奮した仲間たちは彼に「私たちは主を見た」と口々に伝えました。しかし、トマスは信じることができず、仲間たちにきっぱりと言います。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」彼は自分の気持ちに正直で、周りの意見に流されることがない人物であったようです。他の弟子が皆「主を見た」と言っても、自分で見て確信を得なければ信じることができませんでした。信じたくても信じることができなかったのです。

 八日後に、主イエスは再びご自分を弟子たちに現わされました。今度はトマスも一緒でした。弟子たちは変わらず戸に鍵をかけ家の中に閉じこもっていました。すると再び、復活の主が弟子たちの真ん中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われました。そして今回は、トマス一人に向かって言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」主はトマスが以前言ったことを覚えていたのでしょう。トマスはもう自分で主の手と体に触って確かめる必要はありませんでした。トマスは「私の主、私の神よ。」とイエス様に告白します。彼は自分のためだけにご自身を現わし、十字架の傷痕を見せてくださった主の愛に触れて「私の主、私の神よ」と告白することができたのです。主のあわれみによります。短い信仰告白ですが、この告白が次の有名な主の言葉を引き出すことになります。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」今、私たちは復活の主を肉眼で見ることはできませんが、神のことばである聖書を通して私たちのために主がよみがえられたことを信じることができます。復活の主は「平安があなたがたにあるように」と声をかけていてくださいます。恐れと不安の中で身動きができない私たちの真ん中に立たれ、「シャローム」と挨拶されるのです。この時、復活の主の平安が私の心をお守りください。
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4月12日イースター礼拝

2020-04-11 22:34:19 | 礼拝
聖書:ヨハネの福音書20章1節~18節 『復活の希望』

 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアと仲間の女性たちはイエス様が納められた墓にやってきました。このマリアは、ガリラヤ湖西岸の町マグダラの出身で、イエス様に七つの悪霊を追い出してもらった女性です。それ以来、彼女はいつもイエス様に付き従ってきました。この時も香油を塗るために安息日が終わった翌朝早くにやってきました。すると、その墓の入り口をふさいでいた大きな石が取り除けられていました。マリアは誰かが遺体を奪って行ったと思い、急いでエルサレムにいる弟子たちに伝えに行きました。ペテロとヨハネは急いで外へ出て墓へ向かいました。先に着いたヨハネが墓の中を覗くと、体を包んでいた亜麻布だけが見えました。遅れてやってきたペテロは墓の中に入り、体を包んでいた亜麻布とイエス様の頭を包んでいた布が丸まって置かれているのを見ました。ペテロに続いてヨハネも墓の中に入りその状況を見て、主がよみがえられたことを信じます。しかしこの時まだ弟子たちは復活についての聖書の預言を理解してはいなかったのです。

 マグダラのマリアは再び墓に来て、二人の弟子たちが帰った後も、墓の外で立ち尽くして泣いていました。彼女はそこから離れることができませんでした。マリアにとってイエス様は特別な存在でした。泣きながら墓の中をのぞき込むと、白い衣を着た二人の御使いが見えました。御使いがなぜ泣くのかと尋ねると、マリアはイエスの遺体がなくなっていることを告げます。そう言って後ろを振り向くと、そこにイエス様が立っておられました。しかし、マリアはその方は墓の管理人だと思っていました。イエス様はマリアに尋ねます。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」マリアはイエスの体の行方を尋ね、自分が引き取りたいと申し出ます。その時、主は「マリア」と彼女の名前を呼びます。すると彼女は聞きなれた声にはっとして振り向き、ヘブル語で「ラボニ」(先生)と答えました。マリアは声をかけられイエス様だと分かりどんなに嬉しかったことでしょう。マリアの目には喜びの涙が溢れました。

 主は彼女に言われました。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。」主はご自身がよみがえり、そしてこれから父のみもとに上ることを、他の弟子たちに伝えるように命じました。マリアはどのような思いだったでしょうか。本当はイエス様から離れずにずっとおそばにいたかったのではないでしょうか。このうれしい気持ちをずっと味わっていたかったのだと思います。しかし主はマリアにこの喜びの知らせを他の者たちにも告げなさいと言われたのです。マリアは命じられた通りに弟子たちの所に行き、「私は主を見ました」と、主にお会いしたこと、主が私に話されたことを弟子たちに伝えました。その後も人々にイエス様のことをお伝えしたことでしょう。復活の主は私たちに新たな生きがいと希望を与えてくださいます。今日は、主の復活を記念するイースターです。主は十字架にかかり葬られましたが、死で終わりではなく復活されました。主は生きておられます。イエス様がいつも共に歩んでくださいますように。
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4月5日 「十字架の力」

2020-04-05 13:51:16 | 礼拝
聖書:ヨハネの福音書19章:23節~30節、38節~42節 

 主イエスはユダヤ人指導者捕えられ、総督ピラトのもとへ連れて行かれて裁判にかけられます。ピラトはイエスを釈放しようとしますが、群衆の「十字架につけろ!」という叫びに屈してイエスを十字架刑に引き渡してしまいます。イエスは自分で重い十字架を背負い「どくろの場所」と呼ばれる場所で十字架につけられました。十字架のもとには、母のマリアも含め4人の女性たちがいました。この時、ヨハネ以外の男の弟子たちは逃げてしまいそこにはいませんでした。彼女らは主を愛する心から、悲しみながらも恐れることなく、イエス様のおそばに寄り添っていました。その時、主は十字架の上から母マリアと愛する弟子のヨハネを見て、母マリアに「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。」また、その愛する弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われ、母マリアを弟子に託しました。ご自身が苦しみにあっているにもかかわらず、ご自分が亡くなった後の母マリアのことを気遣い心配されました。

 それから主イエスはすべてが完了したことを知ると、「わたしは渇く」と言われました。兵士たちは酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけてイエスの口元に差し出しました。するとイエスはそのぶどう酒を口につけると、「完了した」と言われ、頭を垂れて霊をお渡しになりました。「完了した」とは、すべて終わったことですが、それは救いの御業が完了したということです。神の救いのご計画が成し遂げられたことを表しています。私たちが犯してきた罪は払いきれない負債のようなものです。良い行いをしたからといって罪がなくなるわけではありません。少しぐらい犠牲を払ったから罪が帳消しにされるわけでもありません。「完了した」ということばは、もともと商業用語で「支払い完了」という意味があります。主イエス様は十字架の上でご自分のいのちを差し出し、私たちの罪の負債を完全に支払い済みにしてくださいました。自ら進んで、全人類の罪をご自分の身に負われ、十字架にかかり死んでくださいました。私たちの側で何かしたのではなく、神の側ですべてを成し遂げてくださったのです。

 主は十字架上で息を引き取り、その後、ユダヤ人の指導者であるアリマタヤのヨセフとニコデモがイエスの遺体を引き取りました。アリマタヤのヨセフはここにしか登場しない人物です。有力な議員でした。ヨセフはこれまでユダヤ人を恐れてイエスの弟子であることを隠していました。しかしこの時は、人目をはばからず、イエスの体を埋葬することをピラトに申し出ました。いったい彼のうちに何が起こったのでしょうか?十字架を目の前にしたときに彼の心に迫るものがあったのでしょう。私のような罪深い者のために死んでくだり、赦してくださる主の愛に触れた時に、彼はピラトの前に出ることができたのだと思います。生きた神の臨在、十字架のキリストの愛に触れる時に、私たちの内に変革が起こってきます。十字架には力があります。私たちを変える力があります。日々、主の十字架を仰ぎつつ、主と共に歩んでまいりましょう。
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