経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

5月30日礼拝

2021-05-31 11:51:48 | 礼拝
出エジプト記19章1~6節,20章1~17節 「十戒」 

 イスラエルの民はさらに旅を続け、シナイの荒野に入り、シナイ山の前で宿営します。以前モーセが神によって召された場所でした。民は山の麓でテントを張り、モーセはもう一度一人でこの山に登って行きます。神は再びこの場所でとても重要な言葉をモーセに告げます。神はこの山でイスラエルの民と契約を結び、また律法を与えられるのです。モーセが一人山に登っていくと、主は山から彼を呼んで、次のように言われました。(4~6)「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」イスラエル人が世界の中で神様の宝の民として歩むために、神様は十戒を与えられました。

 第一から第四の戒めは、神との関係に関する戒めです。 (2)「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」第一の戒めは、(3)「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」です。このまことの父なる神様だけを信じて礼拝することが一番目の戒めです。第二の戒めは、(4~6)「偶像を造ってはならない」です。たとえ真の神でも、偶像として造ることを禁じています。なぜなら神は霊であるので、形のない目で見ることができないお方だからです。第三の戒めは、(7)「あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」です。神の名は聖なるものなので、いい加減な思いで口にしてはならないということです。第四の戒めは、 (8)「安息日を聖なる日として守りなさい」です。安息日には仕事を休み、一週間守ってくださった神様を礼拝することです。
 
 第五戒から十戒までは、人との関係に関する戒めです。第五の戒めは、(12)「あなたの父と母を敬え。」です。両親を敬う者には、長生きするという神からの祝福が伴います。第六の戒めは、(13)「殺してはならない。」です。それは人間が神のかたちに造られており、人間のいのちは尊いものだからです。第七の戒めは、(14)「姦淫してはならない。」です。私たちは自らの性的なきよさを大切にしなければなりません。そこには必ず祝福があります。誘惑を退け、自分自身をきよく保つなら、神によって用いられる器とされていくのです。第八の戒めは、(15)「盗んではならない。」です。神様がそれぞれにお与えになったものを、勝手に取り上げてはならないということです。私たちは他人の物を盗む生き方ではなく、むしろ積極的に与えていく生き方が求められています。第九の戒めは、(16)「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」です。うその動機は、自己保身や、人をおとしめたいという心にあります。たとえ回りの世界が偽りだらけでも、真実を語りたいものです。第十の戒めは、(17)「隣人のものを欲してはならない。」です。他人の家をはじめそれに属するものを欲しがってはなりません。イエス様はこの十戒を、(マタイ22:37~39)「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。」と要約しました。十戒は、すべて「ならない」という禁止のことばが使われていますが、イエス様はむしろ積極的に「愛しなさい」と言われました。(黙示録2:4~5)「あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」私たちは主に愛され、罪から贖い出された者です。初めの愛に立ち帰り、神と人を愛する者とならせてください。
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5月23日ペンテコステ礼拝

2021-05-24 12:16:39 | 礼拝
出エジプト16:11~21,17:1~7「岩なるイエス」

 イスラエルの民は荒野での旅を続け、ちょうど一か月が経ち、シンの荒野に入りました。しかしその時、新たな問題が起きました。それは、食物が彼らが望んでいたほど十分ではなかったことです。旅の疲れが出始め、持って来た食料もいよいよなくなってきました。イスラエルの民はモーセとアロンに不平をもらしました。(3)「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」彼らは奴隷の身分だったので、実際にはエジプトで肉なべを食べ、パンに満ち足りていたわけではなかったでしょう。むしろむちで打たれながら苦役を課せられていたのです。しかし彼らはそこから救い出されたことを忘れてしまい、早くも不平不満を言うようになっていました。
 
しかし主は言われました。(4,5)「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」神は彼らをさばくことなく、むしろ恵み深く、これから毎日天からパンを降らせるので、その日の分を集めるように、そして、六日目は二日分集めるようにと言われたのです。不平を言うなら、拒まれても仕方ないことですが、主はその不平を聞いてくださったのです。またこのことは、民が主の教えに従順に従って歩むかどうかを試すためでもありました。朝になると、宿営の周り一面に露(つゆ)が降りて、その露が上がった後に、地面には、白い霜のような細かい物、うろこのような物がありました。彼らはこれをマナと名づけました。味は、蜜を入れた薄焼きのパンのようでした。毎日決まった分を集めて食べるように命じました。このマナは、安息日を除けば、荒野をさまよう40年間、一日たりとも決して止むことはありませんでした。

 イスラエルの全会衆は旅を続けて、シンの荒野を旅立ち、次にレフィディムというところに宿営しました。彼らはおそらくそこには水があるのではないかと期待していたのでしょう。しかしそこには水がありませんでした。彼らの心の中の不満は爆発し、「われわれに飲む水を与えよ」とモーセと争い、「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」と不満をぶつけます。主に叫ぶモーセに主は言われました。(5~6)「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」そしてその通りにすると、奇蹟が起こり、その岩から水がほとばしり出たのです。あわれみ深い神は、この時にも一方的な恵みによって、不信仰なイスラエル人の必要を満たしてくださいました。この出来事には、深い霊的な意味が含まれています。この岩はキリストの型であり、岩から流れ出た水は、キリストの昇天後に与えられた聖霊のことを表しています。 (ヨハネ7:38)「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」罪を悔い改め、岩なるイエス・キリストを救い主として信じるなら、私たちのうちに決して尽きることのないいのちの水である聖霊が満ちあふれるのです。御霊に満たされ、主の愛と赦しに生かされ、それぞれの信仰生活がさらに豊かにされていきますように。
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5月16日礼拝

2021-05-17 13:49:50 | 礼拝
出エジプト記13:17~22,14:10~22 「道を開く主」

 エジプトからカナンの地に至るには、いくつかのルートがありました。海岸沿いの道や荒野の道などです。最も近いのは、地中海にそって北上する道で、ペリシテ人の国を通らなければならない道でした。その道を通れば、数週間ほどで目的地まで行くことができましたが、神はこの道を通らせませんでした。なぜなら、この近道を通れば、ペリシテ人との戦いは避けられず、イスラエル人はおじけづいてエジプトに引き返すといけなかったからです。もう一つの道は、紅海に沿って荒野に向かう道です。かなり遠回りになりますが、戦うことはなかったので、神はこの荒野の道へと導かれました。(21~22)「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」この雲の柱、火の柱は、彼らの前を進まれる主の臨在を表しています。主ご自身が彼らの前を進んで導かれたので、どのような危険な荒野の中でも、地図がないにもかかわらず、決して迷うことはありませんでした。

 民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオは考えを変えて、イスラエル人を去らせたことを後悔しました。そこでファラオは(6)早速、戦車を整え、自らその軍隊を率い、えり抜きの戦車六百台を率いてイスラエルを追いかけました。遠くの方から地響きの音が聞こえてきて、(10)イスラエルは目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのすぐ後ろに迫ってきていました。彼らはひどく恐れて主に向かって叫びました。そしてモーセに言いました。(11~12)「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕える方がよかったのだ。」民はモーセに不平不満をぶちまけたのです。後ろはエジプト軍が迫り、目の前は海です。そして彼らの心は動揺していました。まったく八方塞がりとはこの時のことです。

 モーセは民に言いました。(13~14)「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」モーセは、イスラエルはエジプト軍の前には全く無力で歯が立たないことをよく知っていました。しかし主に信頼して、主が戦ってくださるなら、勝利すると信じたのです。(15)「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。」私たちは信仰生活の中で様々な障害に悩まされるものですが、どんなに大きな障害でも足を止めてはならない、「前進しなさい」と言われるのです。(16)「あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。」もし、モーセが神のことばを信じて、持っている杖を海に向かって差し伸べるなら、海が分かれて、イスラエル人が海の真ん中を渡って行くことができると言われました。 (21~22)主の命令通りに、手を海に向けて伸ばすと、神は強い風を起こし、海を二つに分けて、そこに道を作られ、イスラエルの民を助けられました。四方八方が塞がれても、主に祈り求め、みことばを信じて従っていく時に道が開かれていくのです。主はこの荒野の人生の中で、この地上での生涯を終えるまで、見えざる雲の柱と火の柱によって私たちを導いてくださるのです。
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5月9日礼拝

2021-05-10 15:14:16 | 礼拝
出エジプト記12章21~37節 「エジプト脱出」

 神に遣わされてエジプトに戻ったモーセは、兄アロンとファラオを訪ね、「神を礼拝するため、イスラエルをエジプトから去らせてほしい」と願います。しかしファラオは「おまえたちの神など知らない、イスラエルを去らせない」とそれを拒んで、ますますイスラエル人の苦役を重くしました。その後、神はご自身が真の神であることを示すために、エジプトに次々に大きな災いを起こします。そして、いよいよ最後に10番目の災いが下されることになります。モーセはエジプト王ファラオに最後の警告を伝えます。(11:4~6)主はこう言われます。「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。そして、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる。このようなことは、かつてなく、また二度とない。」イスラエル人を自由にしなければ、エジプトのすべての初子が打たれると。しかし、主はファラオの心を頑なにしたので、これら最後の警告をも受け入れようとはしませんでした。

 モーセはイスラエルの長老たちを呼びよせて、主から受けた命令を伝えました。(21~23)「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越しのいけにえを屠りなさい。ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことがないようにされる。」家族ごとに羊を用意するということです。そして、その羊をほふり、その血を自分の家の二本の門柱と鴨居に塗らなければならないと命じました。神はその夜に、人と家畜のすべての初子を打たれます。しかし、自分の家の二本の柱とかもいに羊の血を塗っておくなら、神はその血を見て、災いを過ぎ越し、その家は滅ぼされることはありませんでした。神はご自分の民を、子羊の血によってお救いになられたのです。子羊の血は、イエス・キリストの血を表しています。私たちもイエス・キリストの血によって裁きから免れているのです。その血によって赦され救われているのです。

 いよいよ十番目の災いが起きました。それはかつて予告されていた通りに真夜中でした。(29)主はエジプトのすべての長子、王座に着いているファラオの長子から、あらゆる身分の長子に至るまで、また家畜の初子までも打たれました。(30)その夜、初子を失ったすべての家庭で、激しく泣き叫ぶ声が起こりました。ついにファラオはその夜モーセとアロンを呼び寄せて、強制的にイスラエル人に、エジプトから出て行くように命令を下しました。男も女も、子どもも、そして家畜も連れて行くように命じました。そしてファラオは自分のためにも祝福を祈るように願いました。ファラオばかりではなく、エジプトのすべての民がイスラエル人を恐れ、彼らが出て行くように急き立てました。この時から、イスラエル人は奴隷状態から解放され自由が与えられたのです。主はイスラエルをエジプトの地から導き出されたのです。かつてエジプトの国で、入口の二つの柱とかもいに子羊の血の塗られている家だけが、神の怒りから免れたように、主イエス・キリストのしるしをいただいている私たちは、もはや神の怒りから解放され、救いの中に入れられているのです。闇の中から光の中へと移してくださったのです。私たちはもう一度、主によって招き入れられているこの恵みを覚えてまいりましょう。そして主の十字架を見上げ、光の中を歩んでまいりましょう。
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5月2日礼拝

2021-05-03 11:05:06 | 礼拝
出エジプト記3章1~12節 「遣わす神」 

 モーセは不思議な導きによってエジプト王女の息子として育てられますが、一方、彼はイスラエル人(へブル人)だという自覚をしっかり持っていました。モーセはイスラエル人が奴隷として苦しめられていることに心を痛め、40歳の時、自分こそが奴隷のへブル人を救わなければならないと立ち上がろうとしたのです。そして、ある日、一人のエジプト人が自分の同胞であるヘブル人を打ち叩いているのを見ると、あたりを見回して誰もいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めてしまいました。そして翌日、彼は外に出てみると、二人のへブル人が争っていました。モーセは仲裁に入り、「どうして自分の仲間を打つのか」言うと、彼は「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」と殺したことが知られていたのです。モーセはへブル人からは拒絶され、エジプトからも追われる身となり、孤立無援のままミディアンの地に逃れていくことになります。そこでモーセは妻となる人と出会い、荒野において更に40年間、羊飼いとして生活を送ることになります。荒野での生活は羊たちの世話をしながら神と深く交わり、自分自身を顧みる時となり、彼を成長させていきました。

 ある日、モーセは羊の群れを荒野の奥まで連れて行き、神の山ホレブまで来ました。シナイ半島の先端に近いシナイ山の麓です。そこで、不思議な光景を目の当たりにします。芝が確かに燃えているのに燃え尽きませんでした。モーセは寄ってみると、神は芝の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけ、神はご自身のきよさをお示しになるために、ここに近づいてはいけない、ここは聖なる地で、足の靴を脱ぐように命じました。さらに(6)「あなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であることを示されました。まさしく、モーセが幼い時から両親から聞いてきた唯一まことの神であることを知らされて、彼は非常に恐れ顔を隠したのです。神はへりくだるモーセに使命を与えました。(7)「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。私は彼らの痛みを確かに知っている。」(10)「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」しかし、モーセは (11)「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトかい導き出さなければならないとは。」と辞退します。彼の以前の失敗の経験がそう言わせたのかもしれません。神は (12)「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。」と仰せられました。しかしモーセは、私を遣わす方の名を聞かれたら、何と答えればよいかと尋ねます。すると、神は「わたしはある」という者だと答えられました。この世のすべての物が移り変わっても、永遠から永遠に存在されるお方です。それでもモーセは、民は「主はあなたに現れなかった」と言って信じてくれないでしょう、と言うと、神は一つの杖で、ご自分が共におられるしるしを示されました。しかし、モーセは話すのが苦手だと訴え、「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」と言うのでした。するとついに神に怒りが燃えあがり、彼の兄アロンを助け人にすることを提案します。それでやっとモーセは折れて受け入れたのです。神が用いようとしていたのは、若かりし自信満々のモーセではなく、まさにこのような無力なモーセでした。砕かれて自信を失い、他の人を遣わしてくださいというモーセを用いられたのです。それゆえに、もしもあなたが今、神の前に自分が無力だと感じているなら、まさにそのようなあなたを、神様はご自身の働きのために用いようとされているのです。そしてその働きのために必要な助けと力を与えてくださるのです。自信のない者、無力な者に力を与え、主の恵みによって立たせてください。
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