経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

3月28日礼拝

2021-03-29 12:32:04 | 礼拝
ルカの福音書23章32~46節 「イエスの十字架」

 イエス様の他に2人の犯罪人がいっしょに、何度もむちを打たれた後で、「どくろ」と呼ばれる場所へ連れて行かれました。そこにくると、彼らはイエスを十字架に付けました。また犯罪人たちも、一人はイエス様の右側に、一人は左側に十字架に付けました。十字架刑は重い罪を犯した者に対する最も重たい刑罰です。主イエスは十字架上から少なくとも七つのことばを語られました。その最初のことばが34節のことばです。(34)「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」イエス様が十字架にかかり、その苦痛の中で、最初になさったことは祈りでした。「父よ、彼らをお赦しください」と、自分を十字架に付けた人たちへのとりなしの祈りをしました。「彼ら」とは、ローマの兵士だけではなく、民衆やユダヤの指導者たちなど、十字架にかかわったすべての人を指していると言われます。そして、その中に、私自身も含まれているということです。私自身も赦されなければならない者であり、とりなしの祈りを必要としている者です。主は私たちが罪を悔い改め、神に立ち返るようにとりなしていてくださいます。

 十字架にかけられていた犯罪人の一人もイエスを罵りました。「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」すると、もう一人が彼をたしなめて言いました。(40~41)「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」彼も初めは一緒になってイエスをののしっていました。しかし、彼は一番近いところでイエスさまを見、自分を殺そうとしている人たちへの祈りのことばを聞いて、この方には罪がないことに気づきました。そして彼は続けて言いました。(42)「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」自分の罪を自覚してへりくだり、死んで神の国に入るときにはせめてこのような罪人がいたことを思い出してくださいと、あわれみを求めました。すると主は言われました。(43)「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」パラダイスとは「楽園」「天国」と訳すことができます。主イエスを信じる者は、まさに信じたその日から主イエスとともにパラダイスにいることが約束されています。そして、人が悔い改めるならば、たとえ死の直前であっても、パラダイスに入ることができるということです。

 さて、時はすでに昼の十二時ごろでした。昼間にもかかわらず太陽が光を失い、辺り一面が暗くなりました。その暗闇は主が息を引き取る三時まで続きました。すると神殿の幕が真ん中から裂けました。幕が裂けたということは、神と人との間に隔てるものがなくなったことを表しています。その時、イエス様は大声で叫ばれました。「父よ。わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られました。(Ⅰペテロ2:24)「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。」主が十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪から離れて主に従って生きるためです。アリマタヤのヨセフは、議員の一人でしたが、仲間のユダヤ人を恐れて主の弟子であることを隠していましたが、今回、恐れずに主の体の引き渡しを総督ピラトに願い出ました。彼は主の十字架を前に心に感動が与えられ行動が変えられました。私の罪を赦しきよめてください。十字架を仰ぎ、主の愛にお応えしていきます。
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3月21日礼拝

2021-03-22 13:16:03 | 礼拝
マタイの福音書26章57~66節,27章15~26節 「不正な裁判」

 主を十字架刑にするためにユダヤ側とローマ側とで合わせて6回の裁判が行われました。しかしそれらの裁判は非常にいい加減なものでした。捕らえられたイエスは、大祭司カヤパの邸宅に連れていかれ、真夜中にもかかわらず、早速、裁判が始まりました。この裁判は最初から死刑にすることを目的とした不正なものでした。祭司長たちと議会はイエスを死刑にするために、不利な偽りの証言を得ようとしました。多くの偽りの証人が出てきましたが、結局、決定的な証拠はつかめませんでした。最後に二人の者が、イエスが「わたしは神の神殿を壊して、それを三日で立て直すことができる」と言ったと証言しました。大祭司は自らこの訴えを取り上げて尋問します。しかし、イエスは何も答えませんでした。主の沈黙に業を煮やしたのか、大祭司はイエスに、生ける神を盾に、「おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」と尋問します。主は沈黙を破って口を開かれました。ご自分がメシアであることを肯定しただけでなく、やがて彼が神の右に座し、栄光の雲に乗って審判者として来ると言われたのです。大祭司は衣を引き裂き、これ以上の神への冒涜はないと怒り叫び議員たちを扇動しました。議員たちは、「彼は死に値する」と言って、その顔に唾を吐きかけたり、こぶしや平手でイエスを打ったりして辱しめました。

 さて、夜が明けると、ユダヤ人の指導者たちは正式に議会を開いて、イエスを死刑にするために協議しました。そして、イエス様を縛ってローマ総督ピラトのもとに連れていきました。当時ユダヤ地方はローマ帝国に支配されていましたので、死刑を執行する権限はローマの地方総督が握っていました。そのため、ユダヤ人の指導者たちは、議会においてイエスの死刑を正式に決議し、それに基づいてピラトに告訴したのです。イエスは総督ピラトの前に立たれました。ピラトは「あなたはユダヤ人の王なのか。」と尋ねると、イエス様は「あなたがそう言っています。」とお答えになりました。しかし、ユダヤの指導者たちが訴えている間は、どんな質問に対しても、イエスは沈黙を守って一切答えようとしませんでした。ピラトは、そんな毅然たる態度に非常に驚き、イエスの無罪を直感したようです。彼には政治的な罪はなく、祭司長たちが妬んで、死刑にしたがっていることに気づいていました。そこで、ピラトは一つの提案をします。過越しの祭りの時は、ユダヤ人が望む囚人を一人釈放する習慣があったので、(17)「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」と問いかけました。バラバは、当時名の知れた暴動と殺人を犯した凶悪犯であったので、まさかバラバを選ぶことはないだろう、イエスの釈放を求めるだろうとピラトは考えていたのです。ところが指導者たちにそそのかされた群衆は、興奮状態で「バラバだ」と叫びました。耳を疑ったピラトは、(22)「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」と聞くと、ユダヤ人たちはみな「十字架につけろ。」と叫びだしました。(23)「あの人がどんな悪いことをしたのか。」と説得しようとしても、人々は聞く耳を持たず、ますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けました。ピラトは自分の立場や地位が危険に及ぶと感じて、彼らの要求に応じてしまったのです。ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから十字架につけるために引き渡しました。ピラトは自分の地位の安全を図るために、イエスが無罪であると知りながら、無罪の判決を下さすことができなかったのです。ここに私たち人間の弱さが如実に表されています。処刑されるはずだった囚人バラバが釈放されて、無罪のイエスが処刑されることになりました。イエス様は、罪がないお方でしたが、罪ある者となられ、罪人である私たちの身代わりとなって十字架にかかり死んでくださいました。私たちは誰のために生きるでしょうか。身代わりとなった主のために生きる者とさせてください。(ガラテヤ2:19~20)
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3月14日礼拝

2021-03-15 11:28:17 | 礼拝
マタイの福音書26章36~46節「祈りによる勝利」

 イエス様は弟子たちとオリーブ山のふもとにあるゲッセマネという所に来て、弟子たちに(1)「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい。」と言われました。弟子たちをそこに残し、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れてさらに奥に進んで行かれました。そのとき、イエス様は悲しみ悶えはじめて言われました。(38)「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」いよいよ十字架を目前にして悩み苦しみました。主はさらに一人で進んでいき、地面にひれ伏して祈り始めました。(39)「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」「杯」とは、罪に対する神の怒りであり、イエス様が受ける苦しみ、つまり十字架を表しています。イエス様は、ご自身がすべての人の罪のために身代わりとなり、十字架にかかって罰を受けることが、神様のみこころであることを知っていました。しかし、できることなら、このような罪の刑罰を受けなくてもよいようにしてほしいと願ったのです。また一方で、イエス様はすぐに、「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」とも祈りました。自分が望むようではなく、神が望むままになされていくことを願いました。
 その後、イエス様がペテロたちのところに戻ると、三人とも眠っているのを見て言われました。(40~41)「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」イエス様は必死に祈っていたのですが、弟子たちは眠りこけていました。一時間も祈っていることができなかったのです。何のために祈るように言われたのでしょうか。霊は燃えていても肉体は弱いのだから、誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っているようにと言われたのです。自分の力で誘惑を克服することはできません。祈りは肉体の弱さや誘惑から守ってくださいます。弱さを補うことができるのは頑張りではなく、祈りです。
 
 イエスは再び弟子たちから離れていき、二度目の祈りを捧げました。(42)「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られました。ここにはもはや自己主張による願いはありません。祈りで大切なことは、父なる神のみこころが何であるかを知ろうとする心です。神のみこころが何であるかを探り、それに従うことができるように、自分の心を神に明け渡していくことです。その後、主は再びペテロたちのもとに戻ってくると、やはり三人は眠っていました。イエス様は三人をそのまま置いておき、三度目の祈りをなさいました。一度目、二度目と同じように、同じことばを使って、神様のみこころを祈り求めたのです。それからイエス様は弟子たちのところに戻って来て、何か吹っ切れたように言われました。(45~46)「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」イエス様は三度目の祈りを終えて、自分の心が決まったようです。神のみこころを知り、ご自身明け渡し、それに従っていこうと決心されました。イエス様は祈りの格闘を通して、主のみこころを確信し、十字架の道を従順に従っていきました。祈りによって勝利されました。神の御子であるイエスが、祈る姿を見せてくださいました。私たちも自分を明け渡し、主のみこころに従っていけますように助けてください。誘惑多く、弱く、苦悩する私たちですが、祈りによって勝利させてください。
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3月7日礼拝

2021-03-08 11:42:09 | 礼拝
ルカの福音書22章1~20節 「最後の晩餐」

 「過越しの祭り」と言われる種なしパンの祭りが近づいていました。過越しの祭りは、かつて千数百年前にエジプトで奴隷だった先祖を神が救い出してくださったことを記念して祝うもので、イスラエルにおける最も重要なお祭りです。その頃、祭司長や律法学者たちは、民衆の暴動を避けてイエスを殺す良い方法はないかと探していました。そして、ちょうど、イエスの十二弟子の一人、イスカリオテのユダが彼らのもとにやってきました。ユダは民衆の騒ぎを起こさずに、イエスを引き渡す方法を相談しに来ました。祭司長たちは大いに喜び、ユダに銀貨を与える約束をしました。ユダはどうしてイエスを裏切ろうとしたのでしょうか?それは定かではありませんが、ここでは、彼に(3)「サタンが入った」とだけ記されています。ユダの姿は神に逆らう罪を象徴しています。ユダは群衆がいない時にイエスを引き渡そうと機会を狙っていました。このようにして、ユダヤ人による暗殺計画とユダの裏切りにより、イエス様は十字架に引き寄せられていきます。

 過越しの子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来ました。過越しの祭りの食事は、子羊の肉を苦菜と種なしパンと一緒に食べました。ぶどう酒はイスラエル社会で日常的に飲まれる飲み物でした。主イエスは(8)「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と、ペテロとヨハネに命じました。彼らがイエスに(9)「どこに用意しましょうか」と訊ねます。イエスは(10~12)「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意しなさい。」と指示しました。二人は行ってみると、イエスが言われた通り確かに部屋が用意されていました。それで、彼らは過越の食事の用意をしました。

 食事の時間になり、イエス様は席につかれ、おっしゃいました。(15~16)「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」イエスはご自分の死が間近に迫っていることを感じていたので、最後の過越を弟子たちと共にすることを切に望んでいたのです。そして「神の国において過越が成就するまで」はもはや一緒に過越の食事をすることはないだろうと、死が間近に迫っていることを語られました。食事の後半、イエスはエジプトからの救出を記念する過越の食事を用いて、これからなそうとしている十字架の意味を明らかにされました。イエスはパンと取って (19)「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」またぶどう酒をとって(20)「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」イエス様はこれから向かう十字架でご自分の体が裂かれ、血が流されることによって、人々の罪を贖う完全ないけにえとなることを言われました。これまでは、罪が赦されるために動物の血を流さなければなりませんでした。イエスの十字架は、それに代わる、完全な赦しを与える「新しい契約」です。この血による「新しい契約」は、罪が拭われ、義と認められ、神の子としていただく救いを意味します。イエスはこの事実を、弟子たちが、そして私たちが忘れないために、「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と命じられました。これが今もキリスト教会で礼典として行われている聖餐式の原型です。私たちはいつも主の十字架を心に留めてまいりましょう。
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2月28日礼拝

2021-03-01 14:07:44 | 礼拝
マタイの福音書12章1~14節 「安息日の主」

 そのころ、イエスとお弟子たちは、安息日に麦畑を通られました。「弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めました。」イスラエルでは、他人の畑で穂を摘むことは認められていました。ここで問題となったのは、安息日でした。当時は、日曜ではなく、土曜日でした。この日はすべての仕事を休んで神を礼拝する日と定められていたからです。パリサイ人たちは弟子たちが穂を摘んで食べているのを見て、(2)「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」とイエスに言いました。弟子たちが麦の穂を摘み、もみ殻を取り除いたことが、安息日にはしてはいけない仕事にあたると指摘したのです。本来安息日は、労働をやめて神を感謝して礼拝する日でありましたが、ユダヤ人は先祖からの言い伝えなど細かい禁則を加え、本来の安息日の精神とはかけ離れていました。3節から、イエス様はパリサイ人からの批判に対して、いくつかのことをあげて反論します。第一に、ダビデたちが空腹の時に神殿に供えられている、本来許されていないパンを食べたことを指摘し、緊急を要する時には、安息日を儀式的に守ることよりも、人間の緊急の必要を満たすことが優先すると主張しました。第二に、安息日に宮で奉仕している祭司の例を挙げ、安息日の本来の目的は、労働を禁止することではなく、神を礼拝することであり、(6)「ここに宮よりも大いなるものがあります。」とご自身を指して言われ、弟子たちはその宮よりも偉大な主イエスに仕える者であって違反にはならないと主張したのです。第三に、(7)イエスは「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」という旧約聖書のことばを引用し、神が求めておられるのは、儀式のような形式ではなく、あわれみの心、他人に対するあわれみの心を持つことだを主張しました。(8)「人の子は安息日の主です。」とは、イエス様こそ、安息の本当の意味をご存知で、私たちに本当の安息を与えてくださるお方だということです。

 イエスが安息日礼拝のために会堂に入られると、片手が不自由な人がいました。そこでパリサイ人たちはイエスに(10)「安息日に癒すのは律法にかなっていますか」と質問しました。それは明白な証拠をつかんでイエスを訴えるためでした。彼らは、命にかかわらない病気を癒すのは律法違反だと考えていたのです。主はここでも、律法の精神に基づいて答えます。(11~12)「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」それからイエスはその人に、(13)「手を伸ばしなさい。」と言われました。彼が手を伸ばすと、手は元通りになり、もう一方の手のように良くなりました。主はその人をあわれみ、手を癒されたのです。私たちは安息日をどのように過ごしているでしょうか?神様の恵み・あわれみに心から感謝し、主の安息・安らぎの中に守られていることを味わいながら過ごしたいものです。コロナ禍にあって先が見えず、重荷を抱えつぶれてしまいそうな時があります。しかし主は私たちをご自身のみことばによって強め支えてくださるのです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)と主は語られます。またイエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と招いておられます。真の平安はイエス様のもとにあります。私たちは神様のもとで、あわれみを受け、憩うことができるのです。真の安らぎを与えてくださる主なるイエス様に身も魂もお委ねいたしましょう。
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