出エジプト記32章1~14節 「唯一の神」
救い主のご降誕を待ち望むアドベントに入りました。主を待ち望みつつクリスマスの喜びをお伝えしていきます。
Ⅰ:他の神々があってはならない(出20:3)
(出20:3)「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
神はモーセを通して十の戒めをイスラエルの民に授けました。私たちに与えられた一番目の戒めは、まことの神以外に、他の神々があってはならないという戒めです。まことの神様以外に礼拝する対象を持ってはならないということです。
神以外の物を神とする時、それは偶像となります。人間には昔から偶像を拝む習慣があります。モーセの時代も多くの偶像を礼拝していました。また日本でも「八百万の神々」と言われるように、太陽や月を神としたり、自然の山や木や石をあがめたり、人間が考え出したものを神の像として造って拝んだりしています。これらはみな偶像崇拝です。
また偶像とは、まことの神以外のものを神とすることですので、私たちの心の中で、あるものが神以上に大切なものとなるなら、それもやはり偶像となります。お金や財産、地位や名誉、快楽など、また自分自身も神となります。
そして、神は十戒を授ける前に、私はこのような者だと前置きしています。
(出20:2)「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」
私はあなたをエジプトから連れ出したあなたの神、主だと述べています。イスラエルにとって、神は、ただ単に人間が抽象的に頭の中で作りだした存在ではありませんでした。正に、生きて働いていて、彼らをエジプトの国、奴隷の状態から救い出した恵み深い神であり、このシナイ山に至るまで導いてくださったあわれみ深い神でありました。
私はあなたを奴隷状態から救い出した神、主であるから、他の神々があってはならないと言われるのです。「あってはならない」と禁止命令形が使われていますが、ここではむしろ「神々がなくてよい」「そんな必要はないじゃないか」というニュアンスです。
神は私たちが罪の奴隷状態から救い出してくださった恵み深いお方です。私がエジプトの国、奴隷の家から救い出したのだから、あなたは私の他に、他の神々があってはならないと言われるのです。
Ⅱ:唯一の神を待ち望む(出32:1~6)
しかし、モーセが山で十戒をいただいている間、民は大きな罪を犯してしまいます。民はモーセが山を下りて来るのを遅いのを見て、アロンのもとに集まって彼に言いました。
(出32:1)「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
民はモーセがなかなか帰ってこないので不安になり、モーセの兄アロンに、目に見える偶像の神を造るように頼みました。本来ならアロンはモーセの助け手として、人々を説得し、モーセが帰って来るのを待たせるべきでした。しかし彼は民の圧力に負けてしまいました。アロンは人々に金の耳輪を持って来るように命じ、金の子牛を造るのです。
(4)「彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にしました。」子牛はエジプトにおいて神でした。民はそれを見て喜び(4)「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と叫びました。これによって、早くも彼らは、与えられたばかりの十戒の、初めの二つを破ってしまったのです。その翌日、民はこの偶像の神にいけにえをささげ、「すわっては、飲み食いし、立っては、戯れた」のです。「戯れた」というのは不道徳な行為を示していると思われます。
どうして、民はモーセの帰りを待てず、金の子牛を作ってしまったのでしょう?それはモーセがなかなか戻らないので、この先どうなるかいてもたってもいられず心配になってしまったからかもしれません。イスラエルの民にとって、モーセなき40日40夜はあまりにも長すぎました。彼らは忍耐して待つことができませんでした。そこで彼らはついに自分たちのために神を造ってくれとアロンに迫ったのです。
(へブル10:36)「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」彼らには忍耐が必要でした。私たちは信仰者として忍耐して待つということが求められています。
今日からアドベント(待降節)に入ります。救い主は預言の成就として、時が満ちてお生まれになりました。イスラエルの人々は長い間、メシヤを待ち望みました。
(マタイ1:20~22)「『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」
イエスとは、「主は救い」という意味になります。神は人々を罪から救うためにひとり子をこの世にお与えになりました。このアドベントの時、私たちは主を待ち望みます。イスラエルの民は待てずして、自分たちで金の子牛を造り、都合のよい神にしてしまいました。唯一の神を信じ待ち望む者でありますように。
Ⅲ:唯一の神に立ち返る(11~14、31~32)
この後、神はイスラエルの民の背信に対して烈火のごとく怒ります。神はこれらの民にさばきを下し、彼らを絶ち滅ぼすと言われましたが、その後のモーセの必死のとりなしの祈りによって、神はイスラエルを滅ぼすことを思いとどまります。とりなしの祈りというのは、本人に代わって、その人のために祈ることです。モーセは懸命に主に嘆願しました。
(11~13)「もしイスラエル人を滅ぼされるなら、エジプト人が、『神は悪意をもってイスラエル人を連れ出したのだ』と言うでしょう。ですから、どうぞ燃える怒りをおさめてください。また先祖に対して、神が祝福すると言われた約束を思い出してください」
山から降りたモーセは民の堕落がはなはだしかったのを見て、神は災いを思い直すと言われたが、本当に大丈夫だろうかと不安を覚え、もう一度山に登り、民の罪のためにとりなしの祈りを捧げました。
(30)「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」
「贖う」とは、捕えられている人を身代金を払うことによって解放することです。ある時は、誰かの命と引き換えにすることによって人の命を救うことです。
モーセは主のところに戻って言いました。
(31~32)「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら―。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
モーセは神が本当に彼らの罪をお赦しになる気持ちがあるのかどうか、その答えを待っていたようです。しかし神からの答えはありませんでした。その後モーセは、「もしも民の罪を赦していただけないなら、私の名をあなたの書物から消してください」と言っています。彼はこの民が救われるためには、自分が滅んでしまってもかまわないとまで思っていたのです。ただ単に肉体が滅びるというだけではなく、神の書物から自分の名前が消されても構わない、すなわち、彼らの身代わりに自分が永遠の地獄に落とされても構わないと言っているのです。こんな不信仰な民のために、モーセはそこまで思っていたのです。はたして自分には、滅びゆく魂のために、モーセのような愛と重荷とをもって、とりなしているだろうかと反省させられます。
モーセは、やがて来るべきキリストの型であり、キリストは私たちのためにとりなしの祈りをし、十字架にかかられ、全人類の罪を代わりに受けてくださいました。主イエスは十字架の上でこう叫ばれました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)ご自分が十字架につけられているにもかかわらず、自分を十字架につけた人々のためにとりなしの祈りをしておられるのです。
聖アウグスティヌスの母モニカのとりなしの祈り。
母モニカには悩みがありました。息子のアウグスティヌスが、まことの神様に従わず、放蕩な生活をしていたからです。彼女は息子のために祈り続けました。しかしアウグスティヌスは19歳で同棲して2人の子供をもうけました。また彼は善悪二元論を唱えるマニ教にのめり込み、ますます神から離れていきます。モニカはついに司祭のアンブロシウスに相談しました。アンブロシウスは彼女にこう言います。「安心して帰りなさい。涙の子は決して滅びることはありません。」そしてついに彼女のとりなしの祈りは聞き届けられました。彼が32歳の時、司祭から洗礼を受けました。モニカが天に召される1年前のことでした。彼が洗礼を受けるとモニカは「私がこの世に少しでも長く生きたいと願った望みは一つだけです。それは死ぬ前に、クリスチャンになったあなたを見ることでした」といって喜んだそうです。
アウグスティヌスは母の献身的な愛と涙の祈りによって生まれ変わり救われました。私たち自身が救われたのも、誰か他の人が私のためにとりなしてくれたからです。今度は、私たちが、人々が唯一の神に立ち返るようとりなしていきます。
アドベントを迎えました。私たちの生活の中には多くの神々や偶像であふれています。そのような中で私たちが唯一の神を信じ、主のご降誕を待ち望みます。そしてこのクリスマス、私たちの周りのいる人たちが唯一まことの神様に立ち返るように、クリスマスの喜びをお伝えしていきましょう。
救い主のご降誕を待ち望むアドベントに入りました。主を待ち望みつつクリスマスの喜びをお伝えしていきます。
Ⅰ:他の神々があってはならない(出20:3)
(出20:3)「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
神はモーセを通して十の戒めをイスラエルの民に授けました。私たちに与えられた一番目の戒めは、まことの神以外に、他の神々があってはならないという戒めです。まことの神様以外に礼拝する対象を持ってはならないということです。
神以外の物を神とする時、それは偶像となります。人間には昔から偶像を拝む習慣があります。モーセの時代も多くの偶像を礼拝していました。また日本でも「八百万の神々」と言われるように、太陽や月を神としたり、自然の山や木や石をあがめたり、人間が考え出したものを神の像として造って拝んだりしています。これらはみな偶像崇拝です。
また偶像とは、まことの神以外のものを神とすることですので、私たちの心の中で、あるものが神以上に大切なものとなるなら、それもやはり偶像となります。お金や財産、地位や名誉、快楽など、また自分自身も神となります。
そして、神は十戒を授ける前に、私はこのような者だと前置きしています。
(出20:2)「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」
私はあなたをエジプトから連れ出したあなたの神、主だと述べています。イスラエルにとって、神は、ただ単に人間が抽象的に頭の中で作りだした存在ではありませんでした。正に、生きて働いていて、彼らをエジプトの国、奴隷の状態から救い出した恵み深い神であり、このシナイ山に至るまで導いてくださったあわれみ深い神でありました。
私はあなたを奴隷状態から救い出した神、主であるから、他の神々があってはならないと言われるのです。「あってはならない」と禁止命令形が使われていますが、ここではむしろ「神々がなくてよい」「そんな必要はないじゃないか」というニュアンスです。
神は私たちが罪の奴隷状態から救い出してくださった恵み深いお方です。私がエジプトの国、奴隷の家から救い出したのだから、あなたは私の他に、他の神々があってはならないと言われるのです。
Ⅱ:唯一の神を待ち望む(出32:1~6)
しかし、モーセが山で十戒をいただいている間、民は大きな罪を犯してしまいます。民はモーセが山を下りて来るのを遅いのを見て、アロンのもとに集まって彼に言いました。
(出32:1)「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
民はモーセがなかなか帰ってこないので不安になり、モーセの兄アロンに、目に見える偶像の神を造るように頼みました。本来ならアロンはモーセの助け手として、人々を説得し、モーセが帰って来るのを待たせるべきでした。しかし彼は民の圧力に負けてしまいました。アロンは人々に金の耳輪を持って来るように命じ、金の子牛を造るのです。
(4)「彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にしました。」子牛はエジプトにおいて神でした。民はそれを見て喜び(4)「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と叫びました。これによって、早くも彼らは、与えられたばかりの十戒の、初めの二つを破ってしまったのです。その翌日、民はこの偶像の神にいけにえをささげ、「すわっては、飲み食いし、立っては、戯れた」のです。「戯れた」というのは不道徳な行為を示していると思われます。
どうして、民はモーセの帰りを待てず、金の子牛を作ってしまったのでしょう?それはモーセがなかなか戻らないので、この先どうなるかいてもたってもいられず心配になってしまったからかもしれません。イスラエルの民にとって、モーセなき40日40夜はあまりにも長すぎました。彼らは忍耐して待つことができませんでした。そこで彼らはついに自分たちのために神を造ってくれとアロンに迫ったのです。
(へブル10:36)「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」彼らには忍耐が必要でした。私たちは信仰者として忍耐して待つということが求められています。
今日からアドベント(待降節)に入ります。救い主は預言の成就として、時が満ちてお生まれになりました。イスラエルの人々は長い間、メシヤを待ち望みました。
(マタイ1:20~22)「『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」
イエスとは、「主は救い」という意味になります。神は人々を罪から救うためにひとり子をこの世にお与えになりました。このアドベントの時、私たちは主を待ち望みます。イスラエルの民は待てずして、自分たちで金の子牛を造り、都合のよい神にしてしまいました。唯一の神を信じ待ち望む者でありますように。
Ⅲ:唯一の神に立ち返る(11~14、31~32)
この後、神はイスラエルの民の背信に対して烈火のごとく怒ります。神はこれらの民にさばきを下し、彼らを絶ち滅ぼすと言われましたが、その後のモーセの必死のとりなしの祈りによって、神はイスラエルを滅ぼすことを思いとどまります。とりなしの祈りというのは、本人に代わって、その人のために祈ることです。モーセは懸命に主に嘆願しました。
(11~13)「もしイスラエル人を滅ぼされるなら、エジプト人が、『神は悪意をもってイスラエル人を連れ出したのだ』と言うでしょう。ですから、どうぞ燃える怒りをおさめてください。また先祖に対して、神が祝福すると言われた約束を思い出してください」
山から降りたモーセは民の堕落がはなはだしかったのを見て、神は災いを思い直すと言われたが、本当に大丈夫だろうかと不安を覚え、もう一度山に登り、民の罪のためにとりなしの祈りを捧げました。
(30)「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」
「贖う」とは、捕えられている人を身代金を払うことによって解放することです。ある時は、誰かの命と引き換えにすることによって人の命を救うことです。
モーセは主のところに戻って言いました。
(31~32)「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら―。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
モーセは神が本当に彼らの罪をお赦しになる気持ちがあるのかどうか、その答えを待っていたようです。しかし神からの答えはありませんでした。その後モーセは、「もしも民の罪を赦していただけないなら、私の名をあなたの書物から消してください」と言っています。彼はこの民が救われるためには、自分が滅んでしまってもかまわないとまで思っていたのです。ただ単に肉体が滅びるというだけではなく、神の書物から自分の名前が消されても構わない、すなわち、彼らの身代わりに自分が永遠の地獄に落とされても構わないと言っているのです。こんな不信仰な民のために、モーセはそこまで思っていたのです。はたして自分には、滅びゆく魂のために、モーセのような愛と重荷とをもって、とりなしているだろうかと反省させられます。
モーセは、やがて来るべきキリストの型であり、キリストは私たちのためにとりなしの祈りをし、十字架にかかられ、全人類の罪を代わりに受けてくださいました。主イエスは十字架の上でこう叫ばれました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)ご自分が十字架につけられているにもかかわらず、自分を十字架につけた人々のためにとりなしの祈りをしておられるのです。
聖アウグスティヌスの母モニカのとりなしの祈り。
母モニカには悩みがありました。息子のアウグスティヌスが、まことの神様に従わず、放蕩な生活をしていたからです。彼女は息子のために祈り続けました。しかしアウグスティヌスは19歳で同棲して2人の子供をもうけました。また彼は善悪二元論を唱えるマニ教にのめり込み、ますます神から離れていきます。モニカはついに司祭のアンブロシウスに相談しました。アンブロシウスは彼女にこう言います。「安心して帰りなさい。涙の子は決して滅びることはありません。」そしてついに彼女のとりなしの祈りは聞き届けられました。彼が32歳の時、司祭から洗礼を受けました。モニカが天に召される1年前のことでした。彼が洗礼を受けるとモニカは「私がこの世に少しでも長く生きたいと願った望みは一つだけです。それは死ぬ前に、クリスチャンになったあなたを見ることでした」といって喜んだそうです。
アウグスティヌスは母の献身的な愛と涙の祈りによって生まれ変わり救われました。私たち自身が救われたのも、誰か他の人が私のためにとりなしてくれたからです。今度は、私たちが、人々が唯一の神に立ち返るようとりなしていきます。
アドベントを迎えました。私たちの生活の中には多くの神々や偶像であふれています。そのような中で私たちが唯一の神を信じ、主のご降誕を待ち望みます。そしてこのクリスマス、私たちの周りのいる人たちが唯一まことの神様に立ち返るように、クリスマスの喜びをお伝えしていきましょう。