経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

3月17日 「あなたは神の子キリスト」

2019-03-22 10:42:31 | 礼拝
マタイ16:13~20「あなたは神の子キリスト」


Ⅰ:ピリポ・カイザリヤでの問いかけ

(13)「さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々は人の子を誰だと言っていますか。』」
「ピリポ・カイザリヤ」は、ガリラヤ湖からはるか北のヘルモン山の南麓の高台にある町です。地中海岸にあるパレスチナのカイザリヤとは別の町です。ここはギリシャ文化の影響が強く、異教の神を祭った祭壇があり、この町はパニアスと呼ばれていました。ヘロデ王はローマ皇帝アウグストからこの町を与えられ、ここに大理石の神殿を建て、皇帝の像を安置しました。ヘロデ王の後、国主ピリポは、ローマ皇帝に敬意を表し、町の名をカイザリヤと改めます。地中海に面したカイザリヤと区別するため、自分の名を付け加えて、ピリポ・カイザリヤと呼びました。そのような偶像崇拝、皇帝崇拝がなされてきた場所で、イエスはあえて弟子たちに、「人々は人の子を誰だと言っていますか。」と尋ねたのです。

(14)「バプテスマのヨハネだという人もあり、エリヤだと言う人もあります。また他の人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
 弟子たちは、それまで聞いてきた人々の評判を口々に語りました。ある人たちは、イエスを現代の最大の聖者「バプテスマのヨハネ」と言っていました。確かにヨハネは立派な人物でしたが、彼はメシヤの先駆者にすぎませんでした。また、「エリヤ」とか「エレミヤ」だとか言う人たちもいました。彼らは偉大な預言者であり、メシヤの先駆者と考えられていたからです。しかし彼らもまたメシヤではありませんでした。要するに、人々はイエスを偉大な預言者と考えてはいましたが、メシヤとしては考えていなかったのです。

 そしてイエス様は弟子たちに、(15)「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問いかけたのです。ユダヤの人々は口々にヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだと言っているが、あなたがたはわたしのことを誰だと言うのかと問われたのです。
どうして、イエス様はどうして最初に人々の意見を聞き、次に弟子たちの意見を求めたのでしょうか?それは、弟子たち自身の答えをはっきりと聞きたかったからと言えます。人々の評判ではなく、弟子たち自身が誰だと思っているのか、そのことを明確にするために、最初に人々が言っていることを聞き、その次に弟子たちに問いかけたと思われます。
人は周りの意見や考えに流されやすいものです。多くの人たちがこう言っているから、こう考えているからと考えを合わせてしまうことがあります。しかし信仰は、他人の意見や考えではなく、自分と神様との関係においてのことです。人が良いと言っているから、人から勧められたから信じられるものではありません。イエス様は人の意見に流されず、自分の口ではっきりした答えを求めているのです。
「あなたは、わたしをだれだと言いますか」というこの問いは私たちにも投げかけられています。私たちは何と答えるでしょうか。


Ⅱ:ペテロの信仰告白

 ペテロは弟子たちを代表して「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白しました。
「生ける神」とは、本当は存在していない偽物の神ではなくて、生きていて、私たちを助けてくださる真実な神です。はるか昔から今に至るまで、人間を愛し、生きて働いてくださる方です。
「神の御子」とは、イエス様が人となられた神であり、神と同じであること表しています。
「キリスト」とは一つの職名で、アラム語の「メシヤ」のギリシャ語です。神によって油そそがれた「救い主」という意味を持っています。イエス様は神様が遣わされた救い主です。神の子なのに、人となりこの世に来られました。そして私たちの罪を赦すために十字架にかかり、死からよみがえられました。このお方を救い主と信じるとき、罪赦され永遠のいのちが与えられるのです。
ペテロは弟子たちを代表して、私たち神の民が待ち望んでいたメシヤこそ、ナザレのイエス、あなたです、と告白したのです。イエスは単なる偉人や宗教家、預言者などではなく、神の子救い主なのです。イエスが弟子たちを選び、寝食を共にして訓練した目的は、彼らがイエスをメシヤであると信じ、その信仰を告白することにありました。

(17)「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」
 イエスはこの答えに非常に満足し、「あなたは幸いです。」とペテロを祝福しました。イエスはこのペテロの告白を喜びました。「バルヨナ・シモン」というのは、「ヨナの子シモン」という意味であり、ペテロの正式な名前です。「ペテロ」というのは、イエスが彼につけたあだ名であって、ここでは意識的にペテロの正式な名前を呼んでいて、あらたまった感じを受けます。
 そして、イエスはペテロがこの信仰告白をすることができたのは、彼の理解力が優れていたからではなく、父なる神がそのことを彼に示して明らかにされたからであると付け加えています。イエスが神の子でありメシヤであることは、父なる神の啓示(隠されていたことが明らかになること)によるのです。

聖書は(Ⅰコリント12:3)「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」と述べています。
私たちがイエスはキリストであると告白できるのは、父なる神が私たちの心の中に働かせてくださる聖霊の働きによるのです。聖霊の働きを否定してしまっては、イエスをキリストであると信じる信仰は生まれてこないのです。ですから、ペテロが優れていたから、信仰が強かったから告白できたというのではないのです。神様にそうさせていただいたのです。事実、ペテロはこのすぐ後で、イエス様から「あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」とお叱りを受けるのです。また、イエス様が十字架に引かれていく時も、ペテロは自分の身の危険を感じ、イエスを三度知らないと否定しました。ですから、ペテロが「あなたは生ける神の子キリスト」と告白できたのは、彼の信仰が強くしっかりしていたからではなく、神様がそれを明らかにしてくださったからです。


Ⅲ:岩の上に建つ教会

(18)「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
ここで使われている「岩」ということばは、ギリシャ語で「ペトラ」と言い、ペテロと語呂合わせになっています。語呂合わせのような言葉の遊びは、ユダヤ人に大変好まれたもので、イエスもここで、そのような語呂合わせを使っています。イエスが「この岩」と言ったのは、ペテロが告白した信仰告白こそが、教会を支える基礎であるという意味です。信仰告白を基礎として、その上に目に見えない教会を建てると言われました。「教会」とは建物の教会堂のことではなく、本来、「集会」という意味であり、神の民の集まりを指しています。したがって、イエスが「教会を建てる」と言った時も、建物としての教会ではなく、目に見えない霊的な意味での信者の交わりとしての教会を意味しました。

「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」「ハデスの門」は地獄の門のことであり、滅びや死の力を意味しています。つまり、キリストの教会は、罪の刑罰である死の力にも打ち勝つことができるのです。なぜなら、教会の頭であるキリストは、罪の贖いを成し遂げ、死を打ち破って復活したからです。2千年に及ぶ教会の歴史は、あらゆる迫害や弾圧にも打ち勝って、このことばを実証しています。

初代教会において、弟子たちによって教えが伝えられ、キリスト教が広がっていきました。しかしそれは容易な道のりではなく、この世の勢力とぶつかりました。彼らは現世の利益を求めるギリシア・ローマの伝統的な多神教と相いれず、また皇帝崇拝をも認めようとしなかったため、ネロ帝以来たびたび迫害を受け、多くの殉教者を出しました。弟子たちはカタコンベと呼ばれる場所で隠れて集まりました。カタコンベとは地下に造られたキリスト教徒のお墓です。その墓の壁面には多くの絵が描かれています。その中の一つに、魚の絵があります。それは自分がクリスチャンということを表すしるしでした。当時迫害が激しい中、信仰を公にはできなかったので、魚のマークで自分がクリスチャンであることを表したのです。なぜ魚のマークがキリスト教徒を表すかは、ギリシャ語で、「イエス キリスト 神の 子 救い主」の頭文字を合わせると、「イクトゥス」「イクトュス」という読み方になり、それはギリシャ語で「魚」を意味する単語になるからです。今でも「ジーザス・フィッシュ」または「クリスチャン・フィッシュ」と呼ばれていて、キリスト教徒のシンボルとして魚のマークが使われています。この印がお互いの信仰を支え合う大きな励ましとなったのです。

クリスチャンの数が少ない日本において、お互いの信仰がどれほど励ましとなるでしょうか。私たちは一人で信仰を保っていくことは難しいものです。キリスト教が、さまざまな迫害や弾圧の中にあっても、この信仰告白の上に堅く立って教会が建てられてきました。ハデスの門もそれには打ち勝つことができませんでした。私たちもこの信仰に堅く立ち、互いに励まし合い、勝利の歩みをさせていただきましょう。
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3月10日 「わたしだ。恐れることはない」

2019-03-15 20:50:22 | 礼拝
聖書:マタイ:14:22-33 “わたしだ。恐れることはない”


Ⅰ:恐れる弟子たち

イエス様は強いて弟子たちを先に舟に乗り込ませ、向こう岸に行かせました。その間に群衆を帰らせました。弟子たちを向こう岸に行かせた理由は、イエスを王とする政治的な騒動から弟子たちが巻き込まれるのを守るためでした。群衆を帰らせた後、イエス様は一人祈るために山に登られ、夕方になってもそこにおられました。
(24)「しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。」
ガリラヤ湖には地形的な理由で激しい突風や嵐がしばしば起こりました。パンの奇跡が行われた寂しい所から、ベッサイダに向かいました。すでに岸から何キロメートルも離れていましたが、向かい風にあい、行くにも引き返すこともできず、途中で立ち往生していました。一晩中波風に悩まされていました。
(25)「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。」
「夜中の三時ごろ」は直訳「第四の夜回り」で午前3時~6時を意味します。弟子たちは長い時間漕ぎ続けたことになります。主は水の上を歩いて弟子たちのところに近づいて来られました。
 
(26)「弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『あれは幽霊だ。』と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。」
 主は湖の上を歩いて来られました。主は自然界をも支配されます。弟子たちは暗やみの中歩いて来るイエス様を見て、「あれは幽霊だ。」と慌てふためきました。弟子たちは取り乱し、中には恐ろしさのあまり叫び声を上げる者もいました。
弟子たちはこれまでイエス様の奇跡を見てきたはずです。5千人の給食の奇跡を見たばかりです。嵐を叱りつけると嵐は止みました。イエスが嵐を静める権威を持っておられることを体験していました。しかし、湖の上を歩いて通り過ぎようとしているそのイエスの姿は、幽霊にしか映らなかったのです。

 弟子たちは、イエス様が近くに来られたのに、イエス様だとはわからなかったのです。恐れと不安によって弟子たちの目は覆われていました。イエス様がそばにおられるのに気がつかないのです。私たちもそのようなことがあります。恐れや不安は私たちをイエス様から引き離し見えなくしてしまうものです。イエス様が私たちのところに来てくださっているのに、恐れがそれを分からなくしてしまうのです。

 
Ⅱ:「わたしだ」と話しかける主

 「しっかりしなさい」は、他の訳(新共同訳)ですと、「安心しなさい」と訳されています。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
「わたしだ」というのは、ギリシア語で「エゴーエイミ」、(I am)ということばです。特にヨハネの福音書には、多く使われています。「わたしは~である」という表現が使われています。「わたしがいのちのパンです。」(6:35)「わたしは、世の光です。」(8:12)「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(8:58)という具合に、ご自分が神であられることを宣言することばとされています。
また、出エジプト記で、モーセが主に名前を尋ねます。その時の神の答えが(出3:14)「わたしは、『わたしはある』という者である」と答えられました。「わたしはある」ということばは、「ある」というヘブル語の動詞であって、この「ある」という動詞から神の名の「ヤハウェ(エホバ)」という名前が用いられるようになりました。「わたしはある」ということばは、過去形にも現在形にも未来形にも訳される言葉です。すなわち、神は、永遠の昔から存在し、今も存在し、また永遠の未来にまで存在されるお方なのです。そしてこの名前には、神は他の存在に依存しない(自存的)なお方であり、唯一のお方であることが示されています。
この世のすべての物は移り変わって行きますが、真実の唯一の神は、永遠から永遠に至るまで存在されるお方です。そしてこの方は、決して人間と離れた存在ではなく、私たち人間と共にあるお方です。この「エゴー・エイミ」は「わたしがいる」とも訳すことができるのです。「わたしがいる」は、「わたしはあなたとともにいる」という意味でもあります。何がなくても、何が起ころうとも、神でおられるお方が共にいてくださいます。だからもう「恐れることはない」のです。恐れはこのお方によって取り除かれるのです。
 不安や怖れ、孤独の中で、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』とイエス様は私たちに声を掛けていてくださいます。イエス様の語りかけを聞く時に、私たちはどんなにか励まされ勇気づけられることでしょうか。


Ⅲ:主の御声を聞いて

 28節から31節までは他の福音書には記されていません。ペテロはイエス様だと分かると、イエス様の所に水の上を歩いて行こうとしました。「わたしだ」というイエス様のことばにペテロは励まされ心燃やされました。
(28)「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
(新改訳2017)「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と訳されています。
「あなたのところに行かせてください」とペテロはイエス様にお願いします。このことばから、ペテロの一刻も早くイエス様の所に行きたいという思いが伝わってきます。そして、イエス様が命令して、それに従えば、必ず歩いて行けるとそう信じました。ここにペテロの信仰を見ることができます。
(29)「イエスは『来なさい』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。」
イエス様の呼びかけに、ペテロは信仰をもって大胆に水の上に足を踏み出しました。イエス様のことばだけを頼りに大胆に踏み出しました。二歩、三歩進み、不思議なことに沈みません。

(30)「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください。』と言った。」
 ところが、突然ペテロは沈みかけました。激しい風を見て、心の中に一瞬恐れが生じたからです。イエスに心が向けられている時には、恐れは全くありませんでした。水の上を歩けました。しかし、イエスから目を離して、周囲の波風に目を向けた時、恐れが生じ、沈んでいったのです。
このことは、私たちに霊的な教訓を示しています。ぶれることなくイエス様を仰ぎ見ていくならば、恐れから守られるのです。しかし、目の前にある大きな問題に目を向けてしまうなら、その問題に飲み込まれてしまいます。聖書は「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル12:2)と教えています。

ペテロは沈みそうになった時に、「主よ。助けてください。」と主に呼び掛けました。
すると(31)「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』」イエス様はすぐ手を伸ばしてペテロを助けました。イエスは私たちの叫びにすぐ手を伸ばしつかんで助けてくださるのです。そしてイエス様はペテロの手を取りながら、無事舟に戻りました。その時、嵐はおさまりました。(バークレー)「聖者とは、絶対に倒れない人ではなくて、倒れても立ち上がって前進する人である。」

ペテロは「わたしだ」というイエス様の声を聞いて、イエス様だと知り、励まされ力をいただいて前に踏み出すことができたのです。私たちも向かい風に疲れ、なぜイエス様は来てくれないのかと、暗い夜が長く続くこともあります。しかし、「わたしだ。恐れることはない」という声を聞き、イエス様の姿をとらえて前に踏み出すことができるのです。そしてもし、恐れにイエス様を見失って沈みかけても、「主よ。助けてください。」と助けを求めるなら、すぐ手を伸ばしてつかみ、助けてくださるのです。
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