経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

4月25日礼拝

2021-04-26 13:36:01 | 礼拝
出エジプト記1章15節~2章10節 「モーセの誕生」

 ヨセフはエジプトで宰相となり、父ヤコブと兄弟たちをエジプトに呼び寄せました。その後イスラエル人はエジプトで増えていきました。ヨセフたちが世を去ってからも、神はイスラエルを祝福し民を増やされたのです。しかし、この時代に多くのイスラエル人は、先祖たちが保っていた純粋な信仰を失い、エジプト人の偶像崇拝に妥協するようになってしまったようです。 (8)やがて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こりました。すると、エジプト王ファラオはイスラエル人が力を持つことを恐れ、彼らの勢力を弱めようと、彼らを奴隷にして過酷な労働をさせるようにしました。しかし、苦しめれば苦しめるほどイスラエルの民はますます増え広がっていきました。またそればかりではなく、エジプトの王は、へブル人の助産婦たちに、へブル人の男の子が生まれた時には直ちに殺すようにという命令を下しました。(17)「しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはしないで、男の子を生かしておきました。」なぜなら、彼女らは、自分たちの国を支配する王よりも、生きて働かれる神を恐れたからです。そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼んで(18)「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」と怒りますが、助産婦たちは上手に言い訳をして、自分のいのちをかけてまでも王の命令に従いませんでした。それゆえ、神はこの助産婦たちを大いに祝福され、イスラエルの民は非常に増え、強くなりました。そこでファラオは、分娩の時に殺すことができないなら、生まれた後でナイル川に投げ込むように命じたのです。
 
 その頃、あるイスラエル人の夫婦に男の子モーセが生まれます。モーセはこのような危機的な状況の中で生まれました。両親はもちろん王の命令を知っていましたが、かわいい赤ちゃんを川に投げ込むことはできませんでした。彼らも王よりも神を恐れたのです。3か月間はどうにか隠すことができましたが、もうこれ以上隠しきれないと判断すると、赤ちゃんを籠に寝かせナイル川の葦の茂みに置きました。それは、決してあきらめと絶望のうちに流したのではなく、神様の守りに信頼してお委ねしたのです。彼らは、「どうかこの子を助けてください」と必死に祈り続けたことでしょう。 (5)すると、神は彼らの祈りに答えてすばらしいことをなさいました。ちょうどその場所に、ファラオの娘が水浴びをしようとナイル川に下りてきました。 (6)籠を開けてみると、男の子が泣いていたのです。彼女はその子を見た時に、へブル人の子どもであると分かりましたが、「かわいそう」と思ったのです。神は彼女の心にその子をあわれむ心を与えられました。その様子をずっと見ていた姉のミリアムはとっさに飛び出していき、大胆にも (7)「私が行って、あなた様にへブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために。」と提案すると、王女はその提案を快く受け入れます。ミリアムは大急ぎで家に戻り、母を連れてパロの娘のもとに戻って来ました。それで、母親は、エジプトの王女からの支援も受けながら、男の子に乳を飲ませて育てることになります。やがてその子が大きくなった時、母はその子をパロの娘のところに連れて行きました。そして、王女の息子となり、「モーセ」と名づけられ、将来イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放する、引き出すリーダーとして立てられていくのです。このように、安逸な暮らしの中で偶像崇拝にのめり込みかけていたイスラエル人は、この苦しみの中で、まことの神に向かって叫ぶようになり、やがてはすばらしい神の力による解放を体験するようになるのです。「荒野で恵みを見出す。」(エレミヤ31:2)とあるように、このような荒野の中でこそ、神様に祈り、叫び求めてすばらしい恵みを見出すことができるのです。日々、主に助けを求めていけますように。日々主の恵みが私たちを支えてくださいますように。
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4月18日礼拝

2021-04-19 14:02:53 | 礼拝
ルカの福音書24章36~53節 「復活の証人」

 復活の日の夜、弟子たちは恐れて身を寄せ合いながら集まっていました。彼らはこの日起こった出来事を互いに話し合っていました。(36)その時、再び復活の主が弟子たちの真ん中に立たれたのです。そして (36)「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。弟子たちはどんなに驚いたことでしょうか。イエス様は震え上がっている弟子たちを見て、(38~39)「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」と言われました。イエス様はご自身が確かによみがえらえたことを弟子たちに示すために、十字架の傷痕が残る手足をお見せになり、さわってみなさいと言われたのです。弟子たちは非常に喜びましたが、一方まだ信じられず、不思議な感じでした。それでイエス様は、「ここに何か食べ物がありますか」と言われたので、焼き魚を一切れ差し出すと、それを取って彼らの前で召し上がりました。そのことによって、幽霊などではなく、彼らの錯覚でも夢でもなく、ちゃんと肉体をもって復活したことを示そうとされたのです。

 続いてイエス様は、聖書の約束のことばを弟子たちに語られます。 (45)「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」とあるように、弟子たちの心を開いて言われました。キリストが十字架に掛かり、三日目に墓からよみがえられたことはすでに実現しました。それによって、罪の赦しの悔い改めがすべての人々に宣べ伝えられます。そして(48)「あなたがたは、これらのことの証人となる」と言われました。しかし主は続けて (49)「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」と言われたのです。すぐに宣教を始めるのではなく、エルサレムにとどまって、父が約束された聖霊が下るのを待つように命じられました。なぜなら、聖霊を受ける時に、キリストの証人となるからです。

 復活の日の夜の出来事から、すでに40日が過ぎていました。イエスは11弟子を連れて、オリーブ山の山裾にあるベタニアに来られました。そこで、イエスは手を上げて彼らを祝福されました。祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられました。 (52)弟子たちは非常な喜びを抱いてエルサレムに帰っていきました。彼らの心に満ちていたのは、もはや恐れや疑いではなく、(52)「大きな喜び」でした。そのため、彼らは(53)「いつも宮にいて神をほめたたえていました。」そして、召天から10日後に、弟子たちはいよいよ上より聖霊の力受けて、イエスが語られた通りに、弟子たちは「これらのことの証人となり」、このイエスお一人が救い主であることを宣べ伝えていきます。イエス様はよみがえられ、この40日間何度も何度も弟子たちにご自身を現されました。これまで見てきたように、復活の主は最初にマグダラのマリアをはじめ、墓に来た女性の弟子たちにご自身を現されました。また、エマオ途上の弟子たちに現され、聖書を説き明かされました。そして今回、部屋に閉じこもっている弟子たちにご自身を現されたのです。彼らは大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえました。主はよみがえり今も生きておられます。あなたの心にも疑いや恐れがあるかもしれません。しかし、復活の主は「平安があるように」とよみがえりの体を示して、私たちが信じることができるようにし、上よりの力をもって復活の証人としてくださるのです。
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4月11日礼拝

2021-04-12 15:56:36 | 礼拝
ルカの福音書24章13~32節 「心は内で燃えて」 

 イエス様がよみがえられたその日、二人の弟子はエルサレムから西に11キロ、エマオという場所に向かっていました。彼らはこの日の朝起きた出来事(墓の中が空っぽになっていた)について、話し合ったり、論じ合ったりしながら歩いていました。すると、そこに、イエス様ご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始めました。しかし、「二人の目はさえぎられていて」、その方がイエスであるとはわかりませんでした。イエスの死に直面して望みを失い、途方に暮れていたでしょうか、また復活したという噂に頭が混乱していたかもしれません。いずれにせよ、二人の目はさえぎられていて、イエスだとは分からなかったのです。私たちも同じように、イエス様が私たちに近づき共に歩んでいてくださるのにわからないことがあります。それはなぜでしょうか?この世のものに目がさえぎられているからです。そのため、イエス様が見えなくなってしまいます。そして、それは恐れや不安、希望が持てない生き方へと追いやるのです。

 (17)イエス様は二人と一緒に歩きながら言われました。「その話は何のことですか。」「どんなことですか」と言われると、二人は「ナザレ人イエス様のことです。」と答えて、イエスが行いにもことばにも力ある預言者であったこと、祭司長たちや議員たちがこの方を死刑にさだめ十字架につけたこと、そして、自分たちはこの方こそイスラエルを解放する方だと期待していたことを語りました。そして葬られた墓からイエス様の体がなくなっていたことを語りました。ここに、復活の主が弟子たちと一緒に歩きながら、語り合う姿が描かれています。私たちは、祈りを通して主と語り合えるのです。耳を傾けてくださる主に、私たちは何でも語る特権が与えられています。でも、なぜ祈れないでしょうか?疲れているから、忙しいから、祈っても無駄だからといろいろな理由をつけて祈ることをしません。しかし、肉の思いを乗り越えて、一度祈り始めるならば、後は神が祈らせてくださる、祈る力を与えてくださるのです。

 そこで、イエス様は彼らに言われました。(25~26)「ああ、愚かな人たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」「苦しみを受け」て「その栄光に入る」とは、十字架にかかり復活されるということです。それからイエス様は、旧約聖書全体から、ご自分について書かれていることを彼らに説明されました。二人の弟子は、イエス様ご自身から、イエスの苦難と栄光に関する聖書のことばを聞かされて、主が復活されたという確信が与えられていきます。エマオの村に近づくと、イエス様はまだ先へ行こうとされました。すると、弟子たちのほうから、(29)「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って無理に願ったので、イエス様は彼らといっしょに泊まるために中に入られました。そしてその人がパンを取って祝福し、裂いて渡されるのを見て、二人は目が開かれて、その人がイエスだと分かりました。五千人の給食や、話に聞いていた最後の晩餐の出来事を思い起こしたのかもしれません。理由は定かではありませんが、ただ言えることは、イエス様が道々語ってくださったことばが彼らを復活の主イエスに導く結果になりました。彼らはその時のことを回想して言っています。(32)「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」この後、心を燃やされた二人はただちにエルサレムにいる仲間のもとへ戻っていきます。復活の主は私たちを失望から希望へと変えてくださるのです。
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4月4日召天者記念イースター礼拝

2021-04-05 14:09:49 | 礼拝
ルカの福音書24章1~12節「復活の朝」

 (1)「週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。」女性たちは、日曜の明け方早く準備しておいた香料を持って墓に向かいました。主は安息日の直前に亡くなられたので、遺体を丁寧に埋葬することができませんでした。それを心苦しく思った女性たちは香料を持って墓を訪れたのです。香料は匂いを抑えるために遺体に塗るものです。女性たちはどんなにイエス様を慕っていたことでしょうか。彼女たちはイエス様を敬い、心から愛していました。(1)「明け方早く」ということばには、彼女たちのイエス様への思いの深さが表されています。十字架刑の際、男の弟子たちは身の危険を感じて逃げたのに、女の弟子たちはイエスが埋葬されるまで、しっかりと見届けていました。今回も、身の危険を覚悟の上で、埋葬用の香料を携えて訪れます。ただ、この時点では、彼女たちもまた、イエス様がよみがえったということは少しも考えてはいませんでした。

 ところが、彼女たちが墓に着いてみると、墓の入り口を塞いでいた大きな石が脇に転がされていました。驚いた女性たちは恐る恐る中へ入ってみると、なんと、そこにあるはずのイエス様の体はなくなっていました。墓の中には体を包んでいた亜麻布だけが残されていました。女性たちは、あるはずの遺体がないことで茫然としていました。すると、光り輝く衣を着た二人の御使いが、女性たちに近づいてきました。恐ろしくなって顔を伏せる女性たちに御使いは語りかけます。(5)「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。」(6)「ここにはおられません。よみがえられたのです。」と、イエス様が死から復活された事実を伝えます。そして、(6~7)「まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」と、主が話されたことを思い出すよう促しました。私たちは主の復活を信じています。しかし、そう信じて実際に生活しているでしょうか?生きて働いておられる主をこの世の常識や理解の中に押し込めてしまってはいないでしょうか。

 イエスのことばを思い出した女性たちは、どうしたでしょうか?(9)「そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告」しました。恐れから復活の喜びに変えられた彼女たちは、主がよみがえられたことを他の弟子たちに伝えたのです。報告した女性たちは、(10)「マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たち」でした。しかし使徒たちは、その話がたわごとのように思えたので信じることができせんでした。イエス様にお従いしていたのは、使徒たちだけではなく、女の弟子たちも従っていました。いやむしろ、女の弟子たちが忠実に従っていたと言えるのです。そして、その女性たちの中でも「マグダラのマリア」の名前がいつも最初に出てきます。彼女は以前七つの悪霊につかれていたといいますから、以前は、とにかく悲惨な生き方で、生けるしかばねとも言えるような生涯だったと思われます。そういうところから主によって救われただけに、主への感謝は誰にも負けないくらい深かったに違いありません。同じような感謝をもって献身的に仕えた婦人たちの中でも、マリアは筆頭に記されています。彼女は主の十字架の時も、恐れを忘れてそのそばに立ちました。葬りの後も彼女は主から離れられませんでした。彼女がどれほど主を愛していたのかがよくわかります。復活の主が最初に彼女に現れたのは、偶然ではなかったでしょう。ところで、私たちはどれほどイエス様を愛しているでしょうか?主は私が罪から救われるために、十字架にかかり、永遠のいのちのために三日目によみがえられました。罪の縄目から救い出してくださり、いのちを与えてくださったのです。主を愛しお従いしていきましょう。
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