経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

4月19日「平安があるように」

2020-04-19 10:11:55 | 礼拝
聖書:ヨハネの福音書20章19節~29節 

 その日の夕方、弟子たちはエルサレムのある家に集まっていました。家の戸には誰も中に入れないようにしっかり鍵をかけてありました。先生である師が捕えられ、今度は自分たちの番かもしれないと恐れていたのです。その時、復活の主は弟子たちが集まっているその真ん中に立たれました。弟子たちはどれほど驚いたことでしょう。戸を開けて入ってきたわけではありません。鍵がかけられた家の部屋の中に突然立たれたのです。そして「平安があなたがたにあるように。」と言われました。「平安」とは、「シャローム」ということばですが、普段ユダヤの人たちが日常の挨拶を交わす時に使うことばです。弟子たちに裏切られたイエス様は弟子たちを責めることはしませんでした。そして主は傷跡が残っているご自分の手と脇腹を彼らにお見せになりました。弟子たちはその傷跡を見て確かに主であることを知り、「主を見て喜んだ」と記されています。

 しかしその場には十二弟子の一人であるデドモと呼ばれるトマスだけがいませんでした。彼一人だけ家の中にはいないで別行動をとっていたようです。そこにトマスが戻って来ると、興奮した仲間たちは彼に「私たちは主を見た」と口々に伝えました。しかし、トマスは信じることができず、仲間たちにきっぱりと言います。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」彼は自分の気持ちに正直で、周りの意見に流されることがない人物であったようです。他の弟子が皆「主を見た」と言っても、自分で見て確信を得なければ信じることができませんでした。信じたくても信じることができなかったのです。

 八日後に、主イエスは再びご自分を弟子たちに現わされました。今度はトマスも一緒でした。弟子たちは変わらず戸に鍵をかけ家の中に閉じこもっていました。すると再び、復活の主が弟子たちの真ん中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われました。そして今回は、トマス一人に向かって言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」主はトマスが以前言ったことを覚えていたのでしょう。トマスはもう自分で主の手と体に触って確かめる必要はありませんでした。トマスは「私の主、私の神よ。」とイエス様に告白します。彼は自分のためだけにご自身を現わし、十字架の傷痕を見せてくださった主の愛に触れて「私の主、私の神よ」と告白することができたのです。主のあわれみによります。短い信仰告白ですが、この告白が次の有名な主の言葉を引き出すことになります。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」今、私たちは復活の主を肉眼で見ることはできませんが、神のことばである聖書を通して私たちのために主がよみがえられたことを信じることができます。復活の主は「平安があなたがたにあるように」と声をかけていてくださいます。恐れと不安の中で身動きができない私たちの真ん中に立たれ、「シャローム」と挨拶されるのです。この時、復活の主の平安が私の心をお守りください。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 4月12日イースター礼拝 | トップ | 4月26日 礼拝 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝」カテゴリの最新記事