函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

昆布はどこへ行くのだろうか

2010年09月18日 11時32分18秒 | えいこう語る
ウニ漁の詩を書いたので、今度は昆布漁の詩を書いてみた。
そこで下調べに、日本一の昆布の里といわれる隣町の南茅部図書館から、北海道大学水産学部教授だった大石圭一著の「昆布の道」を借りて読んだ。
数年前に一度目を通した本だが、今度はゆっくり読んでみた。
興味を惹かれるのは北海道の昆布が、日本海航路を通り薩摩から琉球、そして清国に輸出され、清国からは主に薬品元が輸入され、薩摩が富山の売薬業者に売りつけ、多額の蓄財をしていたということだ。
倒幕に参加した薩摩が、新式の武器を購入していたのは、その財力によるものらしい。
富山の業者は密田家である。後に金融業を営み、北陸銀行の創設に加わったという。
藩政時代は、長崎だけが交易を幕府から認められていたが、薩摩は琉球を通じて密貿易をしていた。
密田家も船を持っていて、松前からに薩摩に昆布を運んでいる。
当然、北前船からの昆布の横流しもあったに違いない。
横流しは人間の生活の知恵である。いつの時代も人間の考えは基本的には変わらないのだ。
※昆布漁の始まる朝。


]当時薩摩藩は、財政赤字を解消するため、調所広郷にその任を担当させた。
赤字解消後、調所は自殺している。どうやら密貿易との関係が匂う気がする。
この人物についても、調べてみたい。
ペリーが函館に来航後、通訳の羅新が昆布が函館から出荷されていることを知り、その後華僑が函館に来て、直接清国に昆布を運ぶことになる。
その華僑たちが昆布で得た財で建てたのが、現在の函館中華会館である。
その中には商売の神様である、関羽が祭られている。
普段、ほとんど昆布のことを考えないで昆布を扱っているが、昆布も明治維新の陰の立役者だったのだと、改めてその存在を再認識した。
私の店に、富山の薬売りの行商されている方が、年に数回食事に来てくれる。
そういえば、富山の方、お客様になっている漁師から、こちらの昆布をたくさん購入し持ち帰ると話していた。
富山の薬売りは、昔は全国に出歩いていたので、各地の情報に詳しかったようだ。その方も父親の代からの営業だという。
もしかして、父親から薩摩藩との関係を、詳しく聞いているかもしれない。
なんだか次回の来店が楽しみになってきた。
ただ接客見習の私は、時には他のお客さんを忘れ、話に花が咲いてしまうので、厨房から注意が飛んでくるのだ。それさえ気をつければ。