まくとぅーぷ

作ったお菓子のこと、読んだ本のこと、寄り道したカフェのこと。

ありがとうの代わりに 30days blog♪day 5

2020-10-12 21:10:17 | 日記

会社でこの秋子どもらに一押しの本を買って読んでみた。「なぜ僕らは働くのか。」池上彰さん監修。中学生から高校生向きということになっている。構成の半分は漫画。中高生には漫画がとっつきやすいのかな。普段このサイズの本の漫画って買わないからどうもコスパ悪いような気がしちゃうんだけどそれってわたしが年寄りだからなんだろう。

主人公の男の子は中2、将来が心配でふと夜中に目が醒めて眠れないという描写から始まるので、世の中にそんなに繊細な中2男子が存在するのかと驚く。いや中2差別じゃないけどさ。でもすぐにその理由がわかる。人生で挫折することはまあ割とあるけど(あるよね?)、ずいぶん早いタイミングだったんだね。

彼を直接励ますのが父母じゃなく叔母さんっていうのがいい。20代無茶苦茶に仕事して、今は独立してマイペースを保ってる彼女がいたいけな甥っ子に順々に渡す、経済社会の成り立ちの記事。新たな視点でいつもの生活を眺めてるうちに、だんだん元気になっていく中2男子。

中でもなるほどと思ったのが、「お金を払うのはありがとうの気持ちの表れ」というくだり。自分が必要なものを提供してくれる人に感謝する、それが代金を支払うということ。でも、例えば火事になった時に助けてくれた消防士には?都度は支払わないけど、彼らの給料を支払うために税金という仕組みがある。なので、「税金もありがとうの気持ちの表れ」なのね。こんなに頑張って働いたのに、こんなもんしか給料出なくて、しかもこんなに税金取られるのか、なんて思っちゃダメなんだった。もちろん、「提供されるものに対して、妥当だと思うこと」が前提になるってこともちゃんと書いてある。税金の妥当性。いや一回そこから離れよう。

QOLって言葉も出てきた。クオリティ オブ ライフ。自分にとってしあわせな人生とは、そのための仕事とは。わたしはこのことを意識し始めたのって40代見えてきたくらいだと思う。中高生のうちにこういう価値観を見せてもらえるのっていいね。あるいは、そんなに若いうちから意識しないとならないほど、殺伐とした世の中になってしまったってことかも知れないが。

本に書いてあることは特別突飛なことでもなく、当然なんだけど改めてそういうふうに書かれるとなるほどそうだよね、と再認識する、または、忘れてたけど思い出す、そんなこと。社会の荒波をざっぱんざっぱん被ったおとなはもしかしたら「そうは言うけどさ。綺麗事だよな。」って反論したくなるかも知れない。でも一旦はここをニュートラルなラインとして、子どもたちには持って欲しいな。すべからく人はしあわせになるために生まれたんだからさ。そのためには関わる人のしあわせも考えないと。

これを中高生が実際読んだら、どんな感想を持つのだろうか。ちょうどいい置き場所があるから、持って行ってみようかな。そういえばわたし子どもの頃、母と同じ本読んで交換感想文とかやってて面白かった、というか、母が何言ってるのかその時はよくわからなかったんだけど。しかしかなりウザい親だ、わたしが子どもで良かったようなものの。

これまでやってきたいくつかの仕事は、外見かなり異なるけれど、基本はなんかのサービスを提供するもので、お客さんがそれで仕事の処理速度が上がったり、人事評価が上がったり(なにそれ)、不便が解消されたりして、直接感謝を言葉でいただくことも多かった。期待を外してしまって苦情を言われることもあった。間違いなく言えることは、「社会に繋がってる実感」が明確にあるということ。だから出産育児で3年弱、専業主婦していた間は自分がドロップアウトしたようで本当に辛かった。あの時これ読んでたらな。

様々な方面の人が「働き方改革」なんて唱えるけど、みんなが、自分はこれが大事っていうもの一本持ってればいいだけの事なんじゃないかと思う。無理やり年休取らせるのが改革じゃないからね。

そうそう、こないだ書ききれなかった「ミサリングのOG自慢」もう一つ書く。集まった5人中4人が食の仕事につこうとしてて、残りの1人のこと。彼女は難関大学の3年生で、シューカツが始まっている。今時はオンラインだって。一般企業の説明会を何十と聞いて、どうにもピンと来るものがなく、公務員一択にしようと考えている。地域社会の活性化に携わる仕事をしたいんだって。会社の先輩のご子息のことを思い出した。公務員2年目、岩手に派遣されてまさにそういう仕事を担当した。地元の団体と協力して働くんだけど、彼らの熱意溢れる仕事振りに魅了され、多忙ながらも充実した日々を過ごしたそうだ。高校時代、大人顔負けの見事な仕切りでお菓子教室の周年祭を成功させた彼女にはとても向いてると思う。心から応援する。やりたい仕事、なりたい自分がちゃんと持てるうちの娘達(うちの?)本当に素晴らしい。

だけど、そういうのちゃんと持てない子達もいて当然。前にも書いたけど、中学で「将来なりたいものを書きなさい」って言われて白紙で出して親が呼び出されたのはうちのムスメで、形は謝罪しながらも「そんなもん書けるか、あんたは中学の時にすでにこんなしょうもない教師になるって書けたんだろうね」って腹の中で思ってた親がわたしだ。あの先生にあの時この本読ませてやれたらな。

「たらな」って何度言っても仕方のないことなので、読めるチャンスのある人は、チャンスのある時に読んだらいいと思う。コスパが、なんて言って申し訳なかった。価値ある1,500円。


焼きぼっくり。 30days blog♪day 4

2020-10-12 19:54:09 | 日記
時折フロントガラスに付く細かな雨の雫を払いながら、いつもの駐車場に入る。大きなショッピングモールのなかを通るのに、なにやら木の枝だの迷彩色の巾着だのリュックだのを抱えて歩くと必ず家族連れが二度見する。
 
 
出口からさらに歩いて5分ほど、河原に到着するとすでに橋の下には人だかり。しかも今日はご丁寧にカラフルなバルーンでできた掲示物まで。「鶴見鴨居連合」って書いてあるのか、それとも「記念日おめでとう」って書いてあるのかは、外国語なのでわからない。
 
 
女性の身にまとうサリーが色鮮やかで、ガンガン鳴ってる音楽はインド映画でよく聞くハイテンポなもの。携帯で写真を撮りあってる男性の横をすりぬけるように川の淵を歩き、小さなスペースを確保する。
 
 
荷物を降ろしたらまずは椅子を組み立て、腰を下ろして今度は焚き火台を組み立てる。今日いちばんやりたかったのは、松ぼっくりの点火。友達にリサーチして公園を歩き回って探し、しばらくガレージのはじっこで乾燥させた。
 
 
焚き火台に松ぼっくりを4個くらい乗せ、その隙間に麻縄をほぐしてふわふわにしたものをつっこんで、小枝を数本差しかけたら準備完了。チャッカマンも持ってるけど、使うのはファイヤースターター。
 
 
焚き火の先輩らがそれをやってるのを見ながら、「なんだってやりにくいことをわざわざやりたいんだろう。」って思っていたんだけど、今はわかる。
 
 
メタルを擦って興した小さな火花が麻にうまく移り、そこに小さな炎が生まれる。それを枯れた松の葉や松ぼっくりに移し、すこし大きな炎にする。小枝、中くらいの枝、とだんだん炎を大きくして、最後は太い薪に。そこまで育てれば炎はお湯を沸かしてもくれるし、米も炊いてくれる。マシュマロも肉も焼いてくれる。熾火にアルミで包んだお芋やりんごをつっこんでおけば、いつのまにかほくほくに焼き上がる。
 
 
だけどわたしにとっては調理は副産物で、じぶんで育てた炎のゆらぎを見つめているのが至福のとき。いったん炎がおさまっても、新たに木をくべて、100均の魚とり網をばらして作った火吹き棒で酸素を送り込めば、また元気に舞い踊る。なんて気のいいやつなんだろう。
 
 
ん?こいつを燃やしてほしいって?よしよしこっちに寄せな。それからちょいとこのへんに息吹き掛けてくんな。いや違うその角度じゃねえよ。そうそう、じゃあ行くよ、おっと、次の薪用意したか?またイチからだと大変だからな。
 


夫は夫で、自分の焚き火台で火を興し、お湯を沸かして豆を挽きフィールドコーヒーを作ってる。寒川氏にならってケトルを振り回して粉を沈着させる、ハジメスイングに果敢に挑み、結果たいそうな量のコーヒーを浴びる。無理やり圧をかけて淹れるのではなく、粉がお湯を吸い込んでゆっくり出来上がるコーヒーのとろりとした甘さに酔いしれる。川の上を流れる風は穏やかで、台風が遠くに移動してくれたことをありがたく思う。
 
 
そうこうしてるうちに持参した木材が尽きてしまった。形の良い大きな松ぼっくりをひとつ、熾の上に乗せる。おしりのほうに風を送ると、あっという間に芯が赤くなって、渦を巻くように美しい炎があがる。ぱんと張りつめていた小さい無数の羽根が、ロングスカートのように白く垂れ下がり、やがて粉々になって風に乗る。
 
 
最後に残った小さな欠片をスチールのお菓子缶で代用の炭入れに仕舞って蓋をする。灰は土に帰りアルカリとなるけど、黒く燃え残ったものはいつまでも分解されないのだ。来たときとおんなじにして帰るのが外遊びの基本。
 
 
さあ、これで明日からまた働ける。そして働いたらまた燃やしに来る。
待っててね河原。