最近、話題になっている二人の人物。現代のベートーベンと割烹着の研究員。自分は、このことについてこう考えている。二名ともマスコミに祭り上げられた人たちだ。まず、現代のベートーベンさん。ハンディを全面に出して、ゴーストライターと組んで売り出したらしい。私は、どんな形であれ、人を感動させるものであればいいと思っている。しかし、残念ながら私の心は揺さぶられない。だいたいこんな軽薄短小な時代には、優れた芸術作品が生まれる土壌はない。私の言いたいことは、それだけだ。そして、割烹着の研究員さん。再生医療に新風を巻き起こし、ipsが霞んでしまうくらいの話題を巻き起こしたが、論文に不適切な部分があるとかで、今やバッシングの標的となっている。一般庶民の立場から言わせてもらうと、論文の評価はどうでもよい。とにかく、これが歴史的な大発見であることを願うばかりだ。私たちのまわりにも、難病で、再生医療による治療にいちるの望みをかけている人がいる。一刻も早く、この発見の正しいことが証明され、患者の命を救ってほしい
と願うばかりだ。
と願うばかりだ。
巷では、受験シーズンも終わりを迎えそうだが、昔、ボールペンで勉強していたことを思い出した。受験生は、自分がどの程度がんばってきたのか、とくに本番直前になると不安になる。そこでボールペンの登場だ。ボールペンを一本つぶすには、かなりの勉強量が必要になる。つまり、つぶしたボールペンの数は、自分の努力の積み重ねの証だ。それを見て自分を鼓舞していく。いつかそんな話をしたことがあった。すると、本当に実行した人がいたようだ。半年間で14本つぶし、全ての志望校に合格したとのこと。苦労した人が成功する話は、聞いていて嬉しくなる。
幸田露はんが、今、生きていたら、弟子入りしたい気分に駆られる。その著書「努力論」と「修省論」の内容は、本当に素晴らしく、現代人が忘れているポイントをズバリ指摘してくれている。そのどれもが、深く納得できるものであり、こういう人こそが、現代のリーダーとして人びとを啓蒙してほしい。
人前で話す機会があるたびに、何の脈絡もなく、何かの引用をもって話す人。たまにはいいが、毎回そうであると、本当にうんざりする。ご本人は、悦に入っているのかもしれないが、周囲はまた始まったか、と耳を閉ざす。当然、人の心には響いてこない。受け売りではなく、その人ならではの話が聞きたいのだ。その一方で、引用話を全くしない人が身近にいた。この方の話は、全て自分の経験話に基づく話ばかり。ナメクジの話、祖母の話、研究で感電したこと、饂飩の話、山岳温泉での失敗談・・。こちらは一つ一つ全て鮮明に覚えている。自分の経験から外れた引用に基づく話(うけうりちゃん)は、なんと空虚に感じられることだろう。
最近、我が家の朝のBGMは、サン・サーンスのピアノ協奏曲第5番「エジプト風」である。うるさい曲をかけると、いつも文句をいうママも、この曲は嫌いではないらしい。チッコリーニ氏の若い頃の録音である。彼は現在、米寿らしいが、今年、来日してこの曲を弾くという。どんな演奏になるのだろうか?「エジプト風」は、2楽章に特徴がある。エジプト風の旋律で異国情緒が溢れている。トータルとしては、やはりサン・サーンスらしく聴きやすい、心地のよい旋律である。サン・サーンスのコンチェルトは、首都圏の演奏会では、毎年どれくらいの頻度で取りあげられるのだろう。ルビンシュタインの十八番の2番。コルトーやカサドシュのお得意の4番同様、「エジプト風」も、もっともっと演奏されてよい曲だと思う。
武田せんせいのブログに詳しく書かれているこの件。事実だとすれば、かなりの社会問題である。人間、身内を守ろうとする気持ちはよくわかる。ならば、民衆に対してだって、警告くらいはしたらいいではないか?それを周囲に向かって、健康に影響はないといっておきながら、自分たちだけがヨウソを飲んで予防策をとっていたのだから、その罪は重い。患者のことはどうでもよく、自分たちのことしか考えていないといえる。完全に医師としては失格である。果たして大手マスコミは、この記事をとりあげるだろうか?日本のマスコミに健全性があれば、これを問題にするだろう。しかし、これまでの流れをみるかぎり、やはり何らかの力が働いて、もみ消されてしまうのではなかろうか?その辺のところを、よく注視してみたいと思っている。
昨日で数年来の仕事が一段落した。夜は打ち上げ会であった。全般的には、平穏な毎日であった。しかし、トータルとしては一長一短といったところか。メンバーの価値観が概ね同じベクトルを向いていれば問題はないのだが、中に足を引っぱったり、スタンドプレーをするのがいると、トータルとしてはロスが大きくなる。実際に理想的な構成メンバーとなることは稀である。打ち上げでは、とかく人の悪口や噂話になることが多い。そういう話題がとにかく好きな人がいる。自分も中に加わることもあるが、いつも嫌な後味が残る。もうみんないい歳なのだから、もう少し建設的な話題にしたいところである。自分が極力飲み会に参加しないのは、そういう事情がある。高いお金を出して、嫌な気分が残るのでは、全く無意味ではないか。やはり飲むときは、利害関係のない真っ直ぐな人とさわやかな談笑を楽しみたいものだ。
洗足学園の二人の先生によるデュオリサイタル。それも子供向けのリサイタルである。都会では頻繁に行われているのだろうが、子供向けの演奏会は、田舎では極端に少ない。情操教育が充分でない現状がある。この日は、ショパンやドビュッシーの表題がついているものから、子供たちのイメージを引き出したり、ピアノの内部を覗かせたり、かぶりつきで演奏を見せたりと、様々な試みをしていた。ちゃゆみんと出かけたが、充実したひとときになった。後半はブラームスのワルツ集とムソルグスキーのはげ山の一夜。