村上春樹訳ということで買ってみて読んだけれど。、「フラニーとゾーイ」は、あまりにもつまらなくて、何箇所か(それも数十ページ)は3回くらい読み直したけれど、それでもつまらなかった。
ので、最後30ページくらいは読まずに本棚へと・・・これほどの駄作を読むのは筆者と訳者に失礼だろう。
↓カンボジアで延々と続いていた調査票の翻訳、何度訳し直したことか?
他方やはり村上春樹訳の「ティフアニーで朝食を」は、最初からテンポが良くてとても面白くて、同じ翻訳者でもこれだけ違う内容というか異なる訳し方になるんだと感じた。
やはり、原本がつまらないと、いくらいい翻訳者でもダメなのかもしれない。
↓タイ料理屋さんで、ガツガツ食べる息子たち
↓美味しい味付けの鶏肉、一人で一皿食べたのであった・・・・相変わらずエンゲル係数高し
翻訳って難しいな、と改めて思う。
私が今取り組んですでに一年くらいになる翻訳(というかサマリー)で取り上げているカンボジアの文学は
プム・デリチャン
コーラープ・パイリン
プカー・スロポワン
プレアアテット・タマイ
モルナ・メダー
の5作だったかな。トン・ティエブも入れようか迷っているところ。
今学期、これらの文学を学生と改めて読んで分析したけれど、やはりプレアアテット・タマイが好きかな。
プロレタリアート文学は、読者の心を揺さぶるものがあるのだ。
この物語の中で、「なぜ主人公の妻は出産の際に死ななければならなかったか?」って宿題を学部1年生に出してみたところ、あまりにも多様な解釈にびっくり。
文学が流して伝えているメッセージって、受け取り側によって全然異なるんだなと、カンボジア人の豊かな感受性に驚愕。日本だったら模範解答があって、それに沿ったから血で解答しようとするのだけれれど、カンボジア人は違う。
同じことをやるな、他人と同じ考えを持つなって延々とみんなに言ってるからな?
翻訳作業ではなくて、サマリーを作る作業なので、気楽だけれど、もうちょっと読み進めたいかな・・・・
それにしても、プレアアテット・タマイの作者は、インドラティービー賞まで受賞しているのに、この一作しか書いてないし、略歴なども全く不明なのだ。
もったいないな、戦争のせいで、貴重な人材だけでなく、彼にまつわる歴史が失われてしまったんだろうな。
この作者がもうちょっと他にも作品を書いてくれてたらな、本当に残念なのである。