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家苞(いえづと)




旅に出たら、英国居住者は当地でおいしいものを買いに走る。

日持ちのしそうなものとか冷蔵が必要なものとか、冬場はあまり考えもしない。

ヴェネツィアでは飛行場に向かう前に欠かさず行くオーガニック食料品店で、上等のパルメジャーノ・レッジャーノの大きな塊ほか、水分が抜けた系の数種類のチーズを。真空パックしてくれるので機内持ち込みでも臭いが気にならない。
こちらではパスタやオリーブなども店主のアドヴァイスに従ってつい買ってしまうがはずれなし。バルナバ広場のパンタグリュエルという店。


前回のウィーンではウィンナー・シュニッツエル用の仔牛肉とカレーソーセージ用のソーセージを肉屋さんのカウンターで相談の上、買って帰った。保冷剤を入れて何重にもパックしてくれたので、帰宅後もまだ冷たかった。ちなみに飛行時間は2時間。
そうえいば野中映の超絶面白い音楽エッセイ集の中に「ブラームス狂いの変人の夫に、ドイツにザウワー・クラウトを買いに行かされる妻」(もちろんギャグ)という話があったなあ。

クグロフと、イースターの時期に食べるというジャム入りドーナツも買って帰った。




Demelのクグロフ。デメルの店先の店員さんは女性ばかりで、
げんなりするような混雑時でもみな落ち着いてやさしい。



パリではマレ地区のCarré pain de mieで焼きたての日本の食パンを2本(こちらは冷凍庫へ)。
生ハム、ブリー、ナッツ類、ケーキ。




こちらはエチエンヌ・マルセルのケーキ・パン屋さんBO&MIE。
今回はここのケーキを。何を食べても美味しく、店員さんもとっても感じがいい。



焼きたてふわふわもちもち水分の多い1本40センチほどの食パンが自重で潰れそうだったので、しっかりしたシャネルの紙袋に入れ替えておいたら、ホテルのレセプショニストが「マダム! これはシャネルのノベルティ?」ときれいな顔を輝かせた...もしそうだったらわたしはうれしがってここに写真を載せたろう。カメリアの焼印が入ってたりしてね...


ボルドーではバゲットを数本買ってから飛行場に向かった。家についてスライスしてから冷凍。
一番買って帰りたかったのはもちろん牡蠣だけど...バルザックのように一度に100個とか食べられる胃があったとしても、食べ溜めでは満足できない。


そういった生ものは(パルメジャーノ以外)とっくに消えてなくなってしまったが、以下日持ちのするものは大切に食べている(食べた)...





インターナショナル・スーパーマーケットJulius Meinl am Grabenで。
地元の人は「高いだけ」と笑うかもしれないが、
店内を彷徨い始めたら時間がいくらあっても足りない楽しさには変えられぬ。
商品ごとに原産国がはっきり明記してあるのがとても便利。
12月に行った時は、ロンドンでは見つけられなかった仏手柑も買って帰った。


ウィーン郊外にアプリコットの名産地があり、そちらのジャム。
左がジャムで、右はアプリコット・ソース。料理にも使え、わたしは豚肉に合わせるのが好き。
このジャム、正気を保っていられないほどおいしい! これを買うためだけにオーストリアへ飛びたいくらい。







Macarons Ferlionという小さい小さいお店


こちらはボルドーから足を伸ばしたサン=テミリオンで購入した「マカロンの原型」となった焼き菓子。修道院のレシピで少しだけ日持ちがする。
何と言ってもこのパッケージが可愛らしすぎる。切り取り線の入ったベイキングシートがついたままで、剥がしながら食べる...





ボン・マルシェのエピセリーよりも、普通のスーパーの方がだいぶお安く手に入ります...
2ユーロしないくらい。


いつもパリで買う、好物のノルマンディ地方のサブレ。スーパーで買うクッキーとは思えないほどのおいしさ。バターがいいのだろう。





夫と娘の好物、オーストリアのウェハース。ホテルの部屋に常備してあったりするほどの国民食。
わたしはレモン味が好み。どこででも買えるが(専門店さえある)まとめて買うとかなり重い。


ミラノで大好物、ポルチーニ茸(チーズよりもこちらの方が臭う)。
同じく大好物のカラスミ。カラスミはパスタはもちろん、炊きたてご飯にバターと一緒に乗せていただくのです...


ボルドーで買い求めた赤ワイン漬けの塩はバターと合わせるとたいへん美味だ。チョコレートがけのカベルネ・ソーヴィニヨン種の干しぶどうも。





パリではトリュフ塩。ここのがいちばん好きである。このメーカーのものはパッケージがかわいらしくてついいろいろ買ってしまいませんか...
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カルロ・クリヴェッリ






Carlo Crivelli, Madonnna and Child with Saints(San Domenico Tryptic) 1482 部分、ブレラ絵画館、ミラノ
(写真が悲劇的に下手クソで申し訳ありません...)



今年に入ってからも、けっこう旅行をしている。

ヴェネツイアを含むヴェネト州、ウィーン、ボルドー地方、パリ、ミラノ...
この間、ブルージュにたしか2回帰省、ロンドンに宿泊(家から1時間だけど)3回。

それらの地でモエが何をしているかというと、美食と音楽と、何より美術館! 

このところ、以前にも増してルネサンスの前段階から黎明期に強い関心を抱いていて、見たい、知りたいと思うことが次々と出てくる。
芋づる式に今までほとんど引かれなかったゴシック(特に国際ゴシック)にも俄然興味がでてきた。

ディレッタント以下のわたしが自分のテーマにしてずっと追っているのは

世界各地で「人間は世界をどのように解釈するか」「人間は何を美しいと思うか」「人間はどのようにして人間になったか」

特に世界の東側と常に接点の多かったヴェネツィア周辺と、芸術のパラダイムシフトの時代には、「人間は,,,」を理解する重要なキーのひとつがあるように思えるのだ。

...このような与太話を大いに語れるのが「喫茶モエ」のよいところ。有り難い。


さて、訪れた各地で大好きなジョヴァンニ・ベリーニとジョルジョーネを追うなか、猛烈に気になり始めた芸術家がある。

写真のCarlo Crivelli (1430年頃? - 1495年)。
最初の出会いは、もう10年以上前のロンドンのナショナル・ギャラリーのレクチャーにおいてThe Annunciation, with Saint Emidius 1486《受胎告知と聖エミディウス》の奇妙な絵を見た時だった(下写真)。





最初は「魔夜峰央か!」と思ったのだったが。
魔夜峰央、初期の妖し系の作品や、初期の「パタリロ!」など嫌いじゃない。むしろ好きかも。


わたしが敬愛するスーザン・ソンタグは「キャンプ」という様式について、『キャンプについてのノート』の中で、「キャンプとはカルロ・クリヴェッリの絵画である」と記している。
キャンプ様式とは「その悪趣味あるいは皮肉な価値のために、その中で何かが魅力を持っている美学のこと」(ウィキペディアより)だ。

ソンタグはバレエもキャンプ様式に分類しているので、わたしはそもそもキャンプ的な美が好きなのだろう。
そういえば魔夜峰央もキャンプ的なのかもしれない。

閑話休題。




Carlo Crivelli Coronation of the Virgin with the Holy Trinity and Saints1943 部分、ブレラ絵画館、ミラノ





Carlo Crivelli The Madonna of the Swallow 1470以降 部分、ナショナル・ギャラリー、ロンドン



クリヴェッリは1430年ごろのヴェネツィア生まれ。
1430年生まれなら、ジョヴァンニ・ベリーニと同じ年だ。

まだ6歳かそこらでヤコベロ・デル・フィオーレの元で修行を始め、続いてヴィヴァリーニ一族の、ついでフランチェスコ・スクァルチォーネの門下に入ったと考えられている。フランチェスコ・スクァルチォーネの門下には他にマンテーニャなどもいる。

ちなみにヴァザーリの『芸術家列伝』にはクリヴェッリの名前はない。このことから一流芸術家群に迎え入れられることなく、長らく忘れられたアーティストだった。

彼の作品は国際ゴシックに分類される。
すなわち、布地のドレープや刺繍などを再現するための細部への異常なこだわり、動植物への関心とそれらのアレゴリー的表現、時代の不安を反映した死との融和性、宮廷的洗練。

彼は当時主流になりつつあった油彩は使用せず、テンペラで描き続け、金箔を施したパネルにくっきりした線と鮮やかな色彩を特徴とし、時には鍵や甲冑や首飾りなどを別建てに作って画面に立体的に貼り付ける手法をも用いた。
ビザンティン美術風の豪奢さにあふれた作風は「古典主義的だが気品のあるフォルムは精緻を極め、聖人画ではあるが高貴なエロティシズムが画面に満ちている」(ウィキペディアより)。

クリヴェッリの作品はロンドンのナショナル・ギャラリーにも数点ある。




Carlo Crivelli The Dead Christ supported by Two Angels1470-5 ナショナル・ギャラリー、ロンドン



特にこの「キリスト昇天」のプットの愛らしい存在感といったら! 本当に見たんじゃないの? と思うほどだ。何時間でも眺めていられる。


最近ではヴェネツイアでも、パリにもミラノでも多くの作品を見た。世界中に分散してしまっているのは、祭壇画を多く描いたためだ。祭壇画は複数のパネルを組み合わせて一つの作品を構成させるので、分散しやすい。


彼の作品からは、西欧の美術というものの母体、出自がよくわかると思うのである。
すなわち、宗教の物語の反復、極端な美化、死後の自分の魂の救済にかかわる不安とそれをかき消すかのような豊かな願望。


アメリカの地方都市の美術館や、イタリアの田舎町の教会にも多くの分散したパネルがあるようなので(遠い都、東京の国立西洋美術館にもひとつある)、死ぬまでに全部見て回りたいなあ...と思っている。

"Some people look for a beautiful place, others make a place beautiful”
「美しい場所を探す人もいれば、美しい場所をそこに作る人もいる」

この文のストレートな意味合いとはちょっと違うが、芸術家とは後者で、わたしのような凡人は前者だと思った。
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ヴィツェンツア・ブレスト





忘れられないお菓子がある。

1月に旅行したイタリアはヴェネト州、ヴィツェンツアのカフェで食べたパリ・ブレストはピスタチオのクリームと黒オリーブ の組み合わせだった。

ピスタチオのクリームはパリ・ブレストであるからしてプラリネ・ムースリーヌ系ではあるもののほとんど甘くない。
ほんのり甘みのあるクリームの間に所々はさんである黒オリーブの塩気がすばらしいアクセント。

これがエスプレッソに合う合う...


このカフェ(一つ星のレストランに併設)では12時にランチ・タイムが始まる。
朝食用サンドイッチが綺麗に並べられていたショウケースの中身が12時にいっせいにカラフルなケーキに変わると、朝食を楽しむために集っていたお客が(みなたいてい新聞と犬を連れている)去り、ランチ客がワイングラスを傾けに来る。

パリ風のケーキが揃っているが、当然イタリア風のひねりがきいていてどれも素晴らしかった。
イタリア人、天才。


ウィーンの輸入食料品店ででたまたまピスタチオ・ペーストを目にしたのでとうとう家で再現してみた。
ちなみにものすごく参考になる辻調理専門学校のサイトのレシピを応用させていただいています。いい時代だ!

本家本元とはまず見た目の美しさが全然違うが、改良を重ねてあの味と姿に近づけたい。

ピスタチオのムースリーヌにミントの葉の清涼感がわたし好み。
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khatia buniatishvili@barbican




美しきピアニスト・ブニアティシヴィリの昨夜の公演終了後、シロウトなりにも言いたいことがたくさんあったのだが、少し冷静になってから書くことにした。


去年のリサイタルはロンドンのクイーン・エリザベス・ホール(360席)で空席があるくらいだったが、今年はバービカン・ホール(1158席)の3階部分を閉めた状態でほとんど満席だった。

じわじわ人気が出ているのだ。

花束とお手紙を持って、舞台へ駆け寄る男性の多さよ! 
いいなあー羨ましい。わたしもあんな人生が送りたかった(笑)。


Khatia Buniatishvili

Schubert
Sonata in B-flat major, D960
Standchen (arr Liszt)
Gretchen am Spinnrade (arr Liszt)
Erlkönig (arr Liszt)


Liszt
Transcendental Étude No 4 in D minor, Mazeppa
Hungarian Rhapsody No 6



まず、たぶん彼女の「公演」のスタイルは、わたしが聞きたいなと思う方向性とは違う。
たぶん彼女もそっちを目指していないと思う。

彼女(とマネージメント)が彼女のセールスポイントをよく理解して惜しみなく出し、唯一無二の存在を築き、クラシック音楽の敷居を低くすることに関してはうまくやってほしいと切に願っている。

リサイタルの構成からしてものすごく計算されていると思う。
あれは性交そのものである。ものすごーーーく超々スローなシューベルトのソナタで焦らしに焦らされ、マゼッパからハンガリー舞踊曲にいたる欲情爆発。
安いといえば安い。
どこまでも自己中心的でひたすら彼女(あるいは彼女が売りたいイメージ)を体現した演奏 。技巧で、というより曲芸で観客を幻惑。
でも嫌いではない。

ライブでは感動させた人が名ピアニストなのだから、当然ありだと思う。

胸がこぼれ落ちそうなほど大きく胸元の開いたドレスにハイヒール、真っ赤な唇、美しい眉を寄せ、カールさせた髪を振り乱し、時々かきあげながら、観客は彼女が速く弾けば弾くほど、爆音を鳴らせば鳴らすほど喜び、歓声をとばす。投げキッス。観客は完全に翻弄されて喜んでいる。すごいライブだ。


対照的に前半のシューベルトのソナタ21番への拍手のパラパラさ。
みな退屈しているのか、不安なのか、最初から最後まで咳き込んだり、動き回る人が異常に多い。
この演奏は最初こそ不安定で、むやみにスローではあったが、子供が鍵盤の上に横たわっているのではないかと思うほど慈愛に満ちた演奏だった(それでもわたしはシューベルトは内田さんの演奏の方がずっと好きだが)。


彼女を売る策略ーそれが成功した結果だろう、観客席の雰囲気がわたしが同席したいと思う雰囲気とは違った。
例えばオペラグラスを手にしたおっさんの多さよ。わたしの隣の紳士も、斜め前の紳士も。その気持ちはわからんではない。わたしだってあの美しいゆれる胸元を眺めたい。
それに演奏中に写真を撮ったり録画をしている(禁止されている)人の多さ。

そうだ、わたしはブニアティシヴィリに腹を立てているというよりも、観客に腹を立てていた。

次は彼女の演奏は見たいが(演奏を聞きたい、ではない)、あの観客に混ざるのは嫌だなあ...


(写真は会場のバービカン。八重桜が遠慮がちに咲いていた。わたしはこのコンプレックスがとても好きなのである)
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don quixote 2019, vadim muntagirov








今シーズンのロイヤル・バレエ『ドン・キホーテ』はまだあと3回ほど残っているが、わたしは昨夜(もう一昨日になってしまった)が見納めだった。

今シーズンは5回(リハーサルを入れたら6回)見た。できればもっと見たかったくらいだ。
なんせ、キトリ役はMarianela NunezとNatalia Osipova 、パートナーのバジリオ役はVadim Muntagirovしか見なかったので、それが心残りだ。
高田茜さんのキトリ、見たかった!

昨夜(一昨日)も会場が割れんばかりに盛り上がった。あまりに盛り上がるので会場の上の方から人が落ちてくるのではないかと思うほど。
わたしもナタリアが舞台に登場したらもうそれで胸がいっぱい幸せでいっぱいでおんおんと泣きたいくらい...
彼女がすばらしいのは、超絶技巧や個性的な解釈と表現力、あるいは即興能力だけではなく、踊りの楽しさと幸福感を観客に伝えるプレゼンテーションとコミュニケーション能力ゆえか。

もちろんミンクスのすばらしき音楽のせいもある。
世の中やひとりひとりの人生にどんなことが起ころうとも、舞台では常に素晴らしい太陽が輝いているのだ!


ところで今シーズンは、姿の美しいモンタギロフが貧乏な床屋には見えない、変装した王子様にしか見えないとクリティックを含め、いろいろなところで言われていた(わたしもそう思った)。
しかしそれがマイナスだと意見している人はわたしの知る限りではゼロで、誰もデレデレと「見えないよね?!」と喜んでいるかのようだった(わたしもそう思った)。

彼の恋人キトリはもちろん、誰が彼のことを愛せずにいられるの? という説得力。すばらしい。

また、彼を見ていると、女性をリフトしたり、バロンの静けさの元になる「力」「強さ」というのは、筋肉の隆々さではなく、体躯の重心の場所の確かさにあるのではないかと思う。

わたしも実はこれを機会にちょっとファンになってしまったかも。

次は『ロミオとジュリエット』のロミオ役が楽しみなのである。


......


ロイヤル・オペラハウス周辺でフットボールのサポーター兼ジレ・ジョーヌ・兼ブリクジッド賛成派が酔っ払って大騒ぎ、警察車両が多数出動し、大変な騒ぎだった。公演が終わって騒ぎのあった道を通るとプラスティックのカップやビールの空き瓶空き缶、紙ナプキンなどのゴミが文字通り山積みになっており、その阿鼻叫喚に唖然とした。ブリクジッドの行方、欧州の落日、最近興味深い本を読んだ。ダグラス・マレー『西洋の自死』
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