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Brugge Style
クリスマスの木
今年のクリスマスツリーは11月最終日曜日に完成させた。
この週末を逃してはクリスマスまで全く空き時間がなかったので、くつろぐ夫と娘にコートを着るように言い、車に飛び乗った。
ダウニング・ストリートの首相官邸に、毎年ツリーを納めているクリスマスツリーに特化した植木屋がサリー州にあると聞いていたのだ(ミーハー万歳)。サリー丘陵の美しい自然を眺めながらしばしドライブ。
あたふた出かけたためか家族全員電話すら持っていなかったので写真が一枚もないのだが、この植木屋がすごかった!
すごかったというのは一年中クリスマスのためだけに仕事をしているエルフみたいな人々がいて、広大で数が多く...とその点ではなく、そこで取引されているツリー1本1本のクオリティが非常に高かったのである。
生のクリスマスツリーを用意される方は良くご存知だと思うが、例えば背が高く、しかも中間より上の部分が比較的スカスカ気味でないツリーを探すのは結構難しいのである。
しかしここにあるのはどれを見てもぎっしり枝を茂らせた英国ハンサム揃い。
超美形なツリーをものの数分で見極めて購入し、屋台のホットドッグを頬張り、クリスマス気分は一気に盛り上がった。
帰宅してシャンパンを開けた。ベタなジャズクリスマスをかけながら飾り付ける。
ところが2、3日して2メートル以上あるこのツリーは...針が落ちない種類にもかかわらず、また、水をやっているにもかかわらず、すぐにぼろぼろと針を落とし始めた。こちらの管理の仕方が悪いのかと植木屋に電話をしたら、「その木はおそらく死んでしまっている。常時チェックして店頭に出ないようにはしているのだが、100パーセントというわけにはいかない。申し訳ないが、もう一度ツリーを選びに来てもらえないか」とのことだった。
悲しみがこみ上げてきた。
このイベントのためだけに育って来たのに、その前に死んでしまうなんてかわいそうすぎる。
第一、死んでしまっているとは言え、今はまだ十分美しいのに無駄にするのは切なすぎる。
そういうわけで未だに別のツリーを引き取りに行ってはいない。
夫は仕切り直しをしたがっている。
今年は2本飾るかなあ。
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alice's adventures in wonderland 2014
オープニング・ナイト。
ブラヴォー!
...一昨日の夜、夜半前に帰宅してワインを飲みながらここまで書いた。
ローレン・カスバートソン(Lauren Cuthbertson)は今季も怪我(足首骨折)で
不本意ながらまた今回も、サラ・ラム(Sarah Lamb)のアリスを見た。
「不本意」というのはラムに失礼なので弁解しておくと、
カスバートソン大ファンの娘の希望の誕生日プレゼントに
いい席をとっていたからだ。
結局、「これ以外にはありえない」というオーケストレイティングの妙に
ものすごい多幸感に包まれ
イルミネーション輝く街を踊るようにして帰路についた。
...カスバートソンのアリス、いつかは見られるのか。
アリスの見た夢のように。
アリスの見た夢と言えば、
結局、アリスが見た夢は現代っ子の見た夢だったというオチなのだが
舞台芸術ならではの良さが
この世と「不思議な国」は重なって存在するのだというコンセプトを
(他にはロイヤル・バレエの「くるみ割り人形も」そこを強調してるように思う)
ひきだしていて、すばらしい。
そして重なり合う世界というのが、
少女が大人になるというのは大きな跳躍などではなく、
実は地続きで重なり合っている複数の状態、
ということをも表しているのかなあなどと思ったりもした。
いつもはほとんど忘れているが、何かのきっかけで思い出す「不思議な国」の話は
懐かしさと切なさでわたしたちの心を一杯にする。
わたしたちはどこから来て、どこに行くのだろうと。
閑話休題。
マッド・ハッターのスティーブン・マクレー(Steven McRae)
ルイス・キャロル/白ウサギのエドワード・ワトソン(Edward Watson)
ジャックのフェデリコ・ボネッリ(Federico Bonelli)
メインキャラは全滅ですかというほど全部代役が立ち
しかしハートの女王のゼナイダ・ヤノウスキー(Zenaida Yanowsky)の
神がかり演技で大盛り上がり!
アリスの白黒チェッカーの舞台、妙な既視感があってので考えてみたら
午後遅いランチをとったロブションの2階にそっくりだ...
(写真はhttp://www.roh.org.ukより)
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rembrandt the late works
ナショナル・ギャラリーで開催中のRembrandt The Late Works展へ、2度目の見学へ行って来た。
1度目は約2ヶ月前、開催始まってすぐの週末は、もうもっのすごい混雑だった。
そろそろ落ち着いてきた頃かと思いきや、場所を譲り合い、気を使うほどには混み合っていた。
しかし、混雑が気にならないくらい絵の中に入って行けるのはレンブラントだからだろう。
彼がキャンバスに捕らえる一瞬のシーンは、見る人に次のシーンを期待させるので、他を忘れてその場に立ち尽してしまう。
現実が含む情報は無限だ。そこで、余計な情報は画面上の「一瞬」から排除する。同時に画面上の一瞬の、次の一瞬を想像させる情報はすべてもらさず描いている...
と言えばいいか。難しい。
写真家のアンリ・カルティエ=ブレソンの有名なクオートに「写真は一瞬の反応、絵画は瞑想」"Photography is an immediate reaction, drawing a meditation" Henri Cartier-Bresson)というのがあるが、その両方を絶妙なさじ加減で含むのがレンブラント、と言えばいいか。ちょっと違うかなあ。
アムステルダムの国立美術館、ハーグのマウリッツ・ハイス、オーストラリアや米国からも、レンブラントが40代に入ってから制作した名画が集結。うわーあの絵も来てるの? 敏腕キュレーターがおられるのですな! と、そんな面も感激。
また、ちょうどこの前、無形文化遺産に登録された「和紙」を使ったラディカルなエッチングの数々も。エッチングの最初版から完成版まで連続で展示されているおかげで、和紙の効果(ものすごく繊細で深みと奥行きのある瑞々しい仕上がりになるという印象をシロウトは受けた)を見ることができたのもボーナスだった。
レンブラントに肖像画を注文する人が、自分を立派に美しく理想化して描いて欲しいと願うのと、アーティスト・レンブラントがリアリズムを追求しつつしかも単なるリアリズムにとどまることなく、常に新しい手法、表現法を生み出そうとしたこととの齟齬。そうやって世間にもまれた続けたことや、プロテスタント文化圏にあってとんでもない浪費家であったことなど、彼の破天荒な後半生の逸話も今となっては作品に深みを与える愉快なエピソードだ。
王立芸術院で開催中のルネサンスの肖像画家モローニ展を見たばかりだったのも勉強になった。
カラヴァッジオをはさんで、レンブラントに続く系譜...(ちなみにモローニの肖像画は、レンブラントの肖像画よりもさらに「写真は一瞬の反応」面が強いと感じた。というのは、モローニは下書きをほとんどしなかったらしいですよ!!)
すばらしい。
"The Syndics"(右、ウィキペディアより)も来ています。わたしはこの絵が大好き! 懐かしいような気にさせられるので。
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くまのパディントン
先月末公開された映画「くまのパディントン」Paddingtonのキャンペーンにまんまと乗ってみる。
夫に指摘されたのだが、子供虐待防止団体NSPCCのキャンペーンでもあるそう。
そう、英国人がこういう抱き合わせをやらないわけがない。
ロンドン市内に50体ものパディントンが、
セレブリティのデザインしたさまざまなコスチュームをまとって立っているそうですよ!
最初、見かけるたびにマメに写真を撮ろうと思っていたのだが、
人気者の周りには常に人だかりがしているため早々に断念。
今日はたまたま誰もいなかったのでトラファルガー・スクエアーのかわいらしい彼を。
礼儀正しくてほろりとさせるあんなくまに、わたしも駅で出会ってみたい。
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日本人は抽象画を解読しようとするか
テイト・モダンをぶらぶらと。
(右はポロックのYellow Island。撮影したのは去年。ピンぼけですね...)
ぶらぶらしていたら、タンブラーで回ってきた記事を思い出した。
元記事が見つけられないのだが、こういう内容だ。
「日本人は、抽象画が何を描いているのか解読しようとする」
「日本人は、抽象画を抽象として説明なしにポンと受け入れるのが下手である」
「絵は頭で分かるものではないのに、日本人は頭で分かろうとするようだ」
どう思われますか。
わたしが最も知りたい、日本人に本当にそういう傾向があるとすればなぜなのかという理由には言及されていなかったので、自分で仮説を立てて楽しむことにする。
日本人が抽象画を抽象として受け入れられず、解読せずにいられない理由のひとつは、それはわれわれが表意文字である漢字を使うからだと思う。
例えば日本人(日本語話者は、の方が正確か)は、テキストを読む時に、漢字を「絵」として認識し、仮名を「文字」として処理しているそうだ。
人類一般が言語処理をする時に活動させる脳の「文字」分野だけではなく、日本語話者は他の人類一般が「絵」を処理する部分も同時に使用しているということだ。他の言語話者群とは異なり、ディスレクシア(難読症)が極端に少ないのもそのためであると説明する科学者もいるらしい。
おお、なんだかすごくないですか。
テイト・モダンなどでは、観光客らがガイドさんに向かって、「これ、何が言いたいの?」とか「ぜんっぜん分からないわー」などとおっしゃているのが時々聞こえてくる(わたしはこれはすごいことだと思う。分からないことを「分からない」、知らないことを「知らない」と気取らず言えること、それこそが知性の最初の発動であるからだ)。
だから必ずしも日本人ばかりが抽象画を解読しようとする傾向があるのではないと思う。しかし、まあここでは「日本人は抽象画を解読しようとする!」傾向があると仮定して話を進めよう。
わたしくしたち日本語話者は、知らない漢字をに出くわしたら、まず偏が何であるかで見当をつけようとし、旁で音を推測したりする。
そうしますよね? ね?
だから多くの日本語話者にとって、目の前の「絵」の意味が分からないというのは、落ち着かない、解決しなくて気持ちが悪い感覚なのではないか。
まるでテキスト中に、黒く塗られた一部があるのを見つけたかのように。
知らない漢字は読み飛ばしたり、文脈から推測することもできる。次に、形から意味や音を推測しようともする。気になって漢和辞典を引いたりもするだろう。漢和辞典を引くときも、さんずい、さんずい ...水関係ですな、とそう入る(例えば英語では水関係は「アクア○○」から推測できるが、「アクア」と「水そのもの」のシニフィアンとシニフィエの間には相当の乖離がある。一方で、「さんずい」と「水そのもの」はもっと近い。だって水を絵に描いたんだもん)。
これはもう身体に染み付いている脊髄反射の類いの運動なので、明日から改めようと決心してすぐに改められるわけでもない。これがわれわれ漢字使いの「絵」の見方なのだからしょうがないではないか。
「抽象画の意味が分からない」のは、「この漢字の読み方と意味が分からない」と告白するのと同じような感覚で、もしかしたら(もしかしたら、ですよ)日本語話者にとっては勉強不足、読書不足をさらすような恥ずかしさがある...まではいかないにしても、異常にひっかかると無意識に認識されているのかも。実際、「抽象画がどうも分からなくて恥ずかしい」という言い方をする人は少なくない。
「分からない!」を分からないままに経験することも美術鑑賞には大切な態度だ。画家も「分からなさ」を表現しているに違いないのだ。だって分かり切ったことを分かり切ったように描いても全然おもしろくないし、初めから何を描くか分かっていたら描く意味もない。初めから何を描くか分かっていたら...それは芸術ではない。実用工芸品だ。
しかし日本語話者が漢字を使うゆえに抽象絵画に意味を見いだそうとする傾向があるのなら、そういう見方ができるのは世界広しといえどもわれわれだけで、それはそれで特殊で大変愉快だ。
おもしろいなあ。
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