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sacred monsters - sylvie guillem




サドラーズ・ウェルズでシルヴィ・ギエム公演(Sylvie Guillem & Akram Khan ― ’Sacred Monsters’)を。

’Sacred Monsters’は2006年初出だが、来年の引退に向けてギエムが奏で始めたスワン・ソングの第一楽章という感じがした。

特徴は、バレエの訓練は受けたことがない、カタック・ダンサー(インド舞踊のひとつ。彼は周知の通り、
非常に優れたダンサーだ)のアクラム・カーンをパートナーにしていることと、舞踏の合間のコミカルで親密なモノローグとダイアローグの多さだろうか。
また、カーンとギエムの2人の合体でそのつど生まれるひとつの「怪物」の体は、自分の身体への執着を捨てた形で、(これに関しては「幻獣誕生」で書いた)身体運用の理想だと思う。ここはタイトルは「モンスターズ」ではなくて、「モンスター」と単数形にして欲しかった。「ひとつの(身体を持つ)聖なる怪物」。


ギエムと言えば、わたしの理解では「檻の外へ出ようとする」ことをテーマにしたダンサーだ。
バレリーナとしても優れた彼女がクラシック・バレエを嫌ったのは有名な話で、今年8月に見た'Two'では光の箱の中心に閉じ込められ、そこから脱出するような動きが印象的だったし、何年か前の'6000 Miles Away'は「役割」から逃れようとする人がテーマになっているのではないかと思った。

今回の’Sacred Monsters’は、もっとストレートで...

彼女は最初、鎖につながれていた。


しかもカーンは一番最初のモノローグで、ギエムがいかにしてクラシック・バレエのくびきから逃れようとしたか「語った」し、ギエム本人もかけあい漫才みたいな調子で「クラシックバレエのポーズをさせないでね!」とダイアローグの中ではっきり言う。

非常に楽しめた舞台だったのは認めるとして、この「語り」は、ダンスの中で、特にシルヴィ・ギエムという稀有のダンサーにとって、本当に必要なのだろうか。

わたしは必要ないのではないか、と思う。
「それ、ゆうてしまうの」と。

たしかに、カーンとの心温まるやりとりは舞台裏をかいま見たようでおもしろかったし、時間よ止まれ! 終わらないで! とすら思った。何より、スーパー完璧なギエムが仏語訛の英語で話し、気持ちにいちばんふさわしい単語を見つけようとしたり、「不安」を語ったりしたのは彼女の魅力を損ねるどころか、この会場内で彼女に恋しない人がいるだろうかという雰囲気を生んだ。

しかし、ダンサーは答えの用意されていない永遠の問いかけを舞踏で表現するからダンサーなのではないのか。そこが舞踏が言語に超越して持つ広がり、可能性なのではないのか。

ギエムの「不安」とは、「舞踏が根本的に備えている耐えられない無意味さ」(<聖なる怪物)であり、つまりそれは舞踏でもって「檻」の外に出ることは可能なのかという不安、永遠の問いかけである。

それをついに言葉で「言ってしまった」彼女のセリフの中に、西洋の言語至上主義に苦しめられた優れたダンサーを見たような気がした。


スワン・ソングとしてはこれ以上相応しい作品はないだろう。



ところでわたしにとってギエムには顔がないダンサーだ。
身体と踊りがあまりにも圧倒的すぎて、顔が印象に残らない、ただひとりのダンサーなのである。



(写真はwww.thegardian.comから)
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