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眠れる森の美女ナタリア




これまでわたしが見た英国ロイヤル・バレエの「眠れる森の美女」で、オーロラ姫を踊ってダントツなのは、ロイヤルでのキャリアも長くなった頃の、神憑ったアリーナ・コジョカル (Alina Cojocaru) だと断言してもよい(右写真、 ballet.net より)。

昨夜は待望のナタリア・オシポヴァ (Natalia Osipova) のオーロラ姫を見ることになっていた。
もしかしたらコジョカルをも上回るかもしれないという期待。
16歳の喜びに輝く姫に扮したオシポヴァが、舞台の隅から隅まで明るい光で照らすかのように踊ると、目が開けていられなくなるほどの美しさなんじゃないかと...


劇場に到着して当夜のキャスト表を受け取る。
時々、その横に小さい紙が余分に置いてあることがあり、それは良くないニュースがあると言うサインだ。

昨夜は、ああ、その小さい紙があったのだ...

ナタリア・オシポヴァが負傷のため欠場するというニュースは、ロイヤル・オペラ・ハウス中をいつもとは違う雰囲気にした。
しかも代役が、とても同格とは言えそうもないダンサーだというのだから、オシポヴァ大ファンの憮然たる面持ちはご想像頂けるだろう。
実際、劇場が埋まってゆくと空席が目立つセクションがあった。オシポヴァ目当てのファンがROHのツイッター等で事前にニュースを知って来なかったか、劇場に来てから帰ったかに違いない。

公演が始まる前にバレエマスターが舞台上に歩み出、事情(前日のリハーザルでの事故、オシポヴァは背中から落ち、病院に担ぎ込まれた等)を話した時は、「返金に応じろ!」「ブー!!」という罵声が飛び、足をバタバタ鳴らす抗議のアクションも起こるとげとげしさだった。

事故は事故であり避けられない。ある統計によると、バレエはいかなるスポーツと比較しても最も過酷で事故と負傷の多い身体運動(で、決してオカマっぽい男子がすなるヌルい身体運動ではない)だという結果が出ている。ダンサーとしての寿命を少しでも延ばすために、怪我や身体の管理は十分にしてもらいたいと願う。

しかし、オシポヴァクラスのダンサーを、オーロラ姫デヴューしたばかりの別クラス(と敢えて言う)のダンサーで代役を立てるというのはどういう了見なのか。オシポヴァを見るために奮発して100ポンド200ポンドの席を買ったり、チケット発売開始時間にネットの前に陣取ったファンの気持ちはどうなるのか。「がんばりますから見て下さい」というのは学芸会で通用するかもしれないが、プロもそれでいいのか。スケジュールや人事的に無理があるのは承知の上で、せめてヌネツやラムクラスを代役として立てるという気配りはできないのか...
みなさん、多少はそういう気持ちだったと思う。

どなたも、プロからわたしのような単なるディレッタントも、デヴューしたてのダンサーがオシポヴァの代わりをするという度胸を見守りたい、声援したいという気持ちもあると思う。しかしそれはそれ、これはこれなのである。


わたしはこんな険悪な雰囲気のロイヤル・バレエ公演を見たことがない。

客はオシポヴァ目当てのファンだけではなく、純粋に「バレエ」を見に来ている人たちもいるだろうから、ひとくくりにするのは正確ではないかもしれないが、客席では「見る気なし」「本気に声援する気なし」的な、気の抜けて室温になったサイダーのようなダルい空気がありありと、ありありと感じ取られた。

幕が開くと、他のダンサーもぎこちなく、固く、とまどっているような感じがしたのは思い過ごしだろうか。
そして「眠れる森の美女」の、虹の彼方にあるお伽の国のお話を寿ぐハッピーなムードは2幕目のオーロラ姫の登場で最低になった。

わたしはこのダンサーが踊るのを何度も見ている。主役を努めることもあるがまだ数としては少なく、オシポヴァやヌネツが主役の時に脇を固める重要なキャラクターを踊るソリスト。
わたしは、彼女はもしかしたら脇役時代が長過ぎたのではないかと感じざるを得なかった。人は長年割り当てられた役割に釘付けにされてしまう生き物なのかもしれない。
脇役が長いと何をしても「脇役」になるということ、主役と重要でも脇役では期待される華や存在感が全く違うということが明らかになった舞台だったと思う。

緊張マックスというこの状況を差し引いても彼女には主役の華や抗いがたい魅力がなかった。パの決め方は吉田都を彷彿とさせるところがなきにしもあらずだがそれだけで、身体の柔軟性に欠けるばかりでなく、表現力の柔軟性にもかなり乏しい。
ピルエットは回転数が足りず、アラベスクの足がどんどん下がってくる。振り付けはあちこちでスカスカなのが非常に目立つ。音楽が余る余る。また、先日観たラムのオーロラ姫とは振り付けがだいぶ変わっていて、例えばグラン・パ・ド・ドゥのグラン・フッテは完全に省略されていた(後日談:翌日にヌネツのオーロラ姫を見た。やはりグラン・フッテはやはり省略されていたので、このことは公平に書き加えておきたい)。

こんなにがっかりしたのは久しぶり、ロイヤルバレエで初めてかもしれない。


わたしは意地悪な観客になりたくない。若手が主役デヴューするのを応援したいと思っている。
史上最高のバレリーナとて、いつかは年をとり、引退するのだ。次の世代を歓迎し、育っていくのを見守らなくてはバレエというジャンル自体が枯れてしまう。
それに主役級のバレリーナが全員ロシア人のバレリーナになるのもどうかと思っている。バレリーナの体つきや表現力や技術にはよい意味でばらつきがあるべきであり、それがわたしがヌネツやラムを好きな理由でもあるのだ。

しかし、練習の多さや努力、経験ではどうにもならないところに別の次元の天賦の才というものも確実にある。
絶え間ない努力を続けることや、一筋の才能にも恵まれていないわたしが言うのもどうかと思うが、観客なし、批判なしでは成り立たないのが「芸術」。

また、わたしは「よく知りもしないくせに語るな」という語法は好きではない。例えば映画監督(カサヴェテスやゴダールや)の掲示板やブログ等に行くと「素人がカサヴェテスの芸術を語るな」と追い出されるケースがあり、なら誰が「玄人」と「素人」の線引きをするのか? 映画人でなければならないのか? その映画を繰り返し何回見たかか? どれだけ勉強したかか? 否、人はそれぞれその年齢、知性、知識量、経験、文化背景等に合わせて芸術を楽しめばいいのだと思う。その「楽しみ」の多様さによってしか、われわれ人間は「真」とか「神」とか、そういう概念を構成しえないからだ。


ナタリア・オシポヴァには、まさに眠れる森の美女のように十分に休んだ後、さらに強く美しくパワーアップして復活して欲しい。



(高田茜さんが代役で青い鳥のフロライン姫を踊り美しかった。 将来への期待! 期待! 次は彼女のオーロラ姫を見たい)
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