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Brugge Style
絵画にとって美とは何か
またタイトルで大風呂敷を広げてしまいました。今日は(も)長文、しかも分かりにくいです。なんせ書いてる本人が分かっていないのですから。
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ナショナル・ギャラリーで "Strange Beauty: Masters of the German Renaissance"(奇妙な美:ドイツ・ルネサンスの巨匠たち)展(3月11日終了)を見学。
この展覧会のコンセプトはわたしが特に興味をひかれるものであり、鑑賞するのをとても楽しみにしていた。
ナショナル・ギャラリーのサイトの説明文を簡単に紹介すると次の通り。
「ナショナル・ギャラリーが所蔵する、ハンス・ホルバイン(子)、アルブレヒト・デューラー、ルーカス・クラナハ(父)ら、ドイツ・ルネサンスの作品が、同ギャラリーに収蔵された19世紀以降、英国でどのように受け止められたかを識見する。
すなわち、なぜドイツ・ルネサンスに関しては極端な2つの評価があったのか、一方でドイツのアイデンティティと傑出した才能の粋と受け止められ、他方ではイタリア・ルネサンスに比較して、誇張が過ぎ、非常に醜く、胸くそが悪い (repulsive) とまで評されたのはなぜなのか...」
「美」とは何か、という永遠の謎。
人間はどういうものを「美しい」と感じるのか、という永遠の問い。
一展覧会に正解を求めるのはどだい無理な相談だが、もしヒントが与えられるとしたらワクワクせずにいられようか。
結果から述べると、最後までじっくり3時間鑑賞して、19世紀英国において最高の美とされたのはラファエロだということと、ラファエロの基準から大きく外れたドイツ・ルネサンス絵画は、長きに渡って蛇蠍のごとく嫌われたということだけはよく分かった。もう少しだけ詳しく言うと、19世紀の英国人は、ラファエロに代表されるイタリア・ルネサンスの絵画を、理想的であるという理由で「美しい」と絶賛し、ドイツ・ルネサンスの絵画を写実的(対象を「本物」ととらえ、それを写し取ることに心血を注ぎ、時にそれが行き過ぎ)ゆえに「醜悪」であると唾棄した。
しかし、なぜラファエロが最高の「美」なのか、何によって人間は「美」を感じるのかという最も知りたいことに関しては、ヒントを得られなかった。隔靴掻痒。
(右はラファエロの「アレキサンドリアの聖キャサリン」1508年。英国が諸手を上げて歓迎した純粋なる最高の「美」。大きな写真はこちら )
ラファエロは美しい。
わたしも、この絵は全然「好み」ではないが、美しいのだろうと思う。
理想的な美。この絵の何が人間に「理想的」「美」であると、そのように思わせるのだろう(そこを説明してくれると期待していたのだが)。
また、人々が(少なくとも19世紀英国人が)理想的であることを、写実的であることよりも数段「美しい」と考えるのはなぜなのか。
プラトンの有名な想起説においては、人間が不完全なこの世で「美」を感じることができるのは、目の前の対象が、かつてイデアの世界で見た完璧な「美」の典型を思い起こさせるからだとする。それが本当なのかどうかは分からないが、ラファエロの絵を前にして、理想的な「典型」に近いと感じる人は多いのかもしれない。
この展覧会でも取り上げられているドイツ・ルネサンスの巨匠、デューラーも「美」について「美とは神によって最初から世界に組み込まれているもの」と書き残しているそうだ。
しかし、完全な美を充溢させるために、多数のユニークな表現者を無限に必要とするならば(古今東西すべての表現者による表現=芸術をジグゾーパズルのように集結したとしても「完全な美」は未だにこの世では開示されていないし、おそらくされることもない)、「美」は観察される作品の側に「典型」のイメージとしてあるだけではなく、観察するわれわれの方に「経験」や「共感」としてあるのではないのか。
ああ、やっとハナシがここまで来た。
難航。分かりにくくてごめんなさい。
途中で読むのを止めた方のことを思うと申し訳ない。
このラファエロと比較して隣同士に展示してあったのが、左、バルドゥングの「三位一体と神秘のピエタ」だ。(1512年。大きな写真はこちら)ドイツ・ルネサンス期のものとしてはナショナル・ギャラリーに最も早いうち(19世紀)に所蔵された作品ということだったが、当時はまあとにかく、誰かに似た顔、そこに刻まれた皺、リアルな涙、苦悩の表情などの写実性が「胸くそが悪い」とものすごく不評だったらしい。
ベルクソン風に言うと、「美」とはこのバルドゥングに描かれたそれぞれのキャラクターのように「個別で具体的なもののうちにある」と言えるのだが。
わたしがこの絵を見ているまさにその時も、お年を召された上品な女性2人が「人体がフラットなのが気持ち悪さの理由だと思うのよ」と小声で話してた。
英国人は21世紀の現代ももこの絵を「気持ちが悪い」と思うのに変わりはないようだ(サンプルは2人だが)。
「理想的であることを写実的であることより『美しい』と感じるのはなぜか」だが、理想が写実よりもより美しいというのは、芸術美は精神から生まれたものであるから、自然より高級なものであると考える(例えばヘーゲル美学)、非常に西洋的な考え方が根底にあるからなのかもしれない。
もしも芸術が、単に自然の美を忠実にコピーするだけなら、芸術にはさほど意味はなくなるのだ。芸術は美の再現だが、理想的な美の再現でなければならないのである。芸術は自然以上に無限に魅力的な作品を創造しなければならないのだ。
あるいは、そういえばと書棚から手に取った橋本治の「人はなぜ『美しい』がわかるのか」は、「(人間の)利害とは関係なく『ただ存在しているだけのもの』を見た時、人は「美しい」と感じる」と述べていることを記しておきたい。
ひょっとして理想的なものは、「人間の都合に関係なく存在してる」ゆえに、写実的なもの(=人間の都合)よりも美しいのか。
橋本さんの主旨とはずいぶんずれるような気がするが。
...収拾がつかなくなってきたのでここらで止めよう。ここまで読みすすめて下さった方が何人おられるやら(笑)。
こうして「美」を求め、芸術家は創作を続け、わたしは美術館や音楽堂を徘徊する。
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