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Brugge Style
ギンガム・チェックは夏の香りがする
ショーや雑誌で見たわけでもなく、はいてる人を見かけたわけでもないのに、なぜか黒白チェックのスカートがすっんごく欲しいこのごろ。今期の流行モノではないためか、なかなか見つけられなかったのだが、Stella Jeanというイタリアのブランドでこの写真のようなスカートを発見。
おお、チェックの大きさも、ふんわり加減も理想的ではないか。
これをはいて夏の旅に出たい。ジーンズが似合う人がジーンズを着用するような旅の場面をわたしはこのスカートで通すのだ。もちろん素足にバレリーナを合わせて。長めのスカートは涼しいし、足さばきもいいし、どこにでも座れるし、結構便利なのだ。
...しかし残念なことにすでに完売してしまったらしい。
ああ、欲しいなあ。
わたしが子供の頃はまだ既製品の服の数が少なく、母は姉妹お揃いの服を仕立て屋さんであつらえてくれ、ギンガムチェックはそういう時代の夏服の香りがする。
ショウウインドウに、タイムスリップしてきたかのようなウエディングドレスやプロム用のドレスが飾られている街の仕立て屋で仕立ててもらおうか。生地はどこで買えばいいんだろう。リバティの生地売り場? リバティにはお直しを頼む腕のいいテイラーがいる(<おすすめ。リバティで買った服でなくても受けてくれる)ので彼女に聞いてみるか。滅茶苦茶高価な綿のスカートになりそうだが。
夏を楽しみにする理由はたくさんある。
(写真は matchsfashion.com より)
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is dit de oudste handtas ter wereld?
タイトルはベルギーのニュースのヘッドラインでオランダ語。
この文、同系(ジャーマニック)の英語と似ているのが分かりやすい文だと思う。
is dit de oudste handtas ter wereld?
is this the oldest handbag in the world?
(教科書風に)これは世界で一番古いハンドバッグですか?
字面を見るだけでも両言語が似ていることは分かるが、発音してみるとさらに驚くほど似ていると感じる。訛っているだけ? みたいな。東北で話されている言葉と関西で話されている言葉の差、程度。おもしろい。
しかし実際はオランダ語は英語よりも文法も発音もかなり難しいのだ!
...
夫が珍しく、わたしをどうしても連れて行きたい展覧会があると言った。
普通、展覧会の情報に詳しいのは、うちでは断然わたしであり、誘うのもわたしなのに。
ナショナル・ギャラリーのヴェロネーゼ展までにはまだ日がある。
テイト・モダンのリチャード・ハミルトン展に先日駆け込んだことは彼も知っている。
ビクトリア&アルバート美術館のイタリアン・ファッション展? それはわたしはとても見たいが、彼が行きたいと言うはずはない。
春麗らかな日、誘導されたのはコートルード・ギャラリーだった。夫が妻をぜひ連れて行きたいとウキウキ言ったのは、世界最古のハンドバッグ(ペルシャ/14世紀初頭)の展示を中心にした「宮廷と工芸/北イラクのマスターピース」という展覧会。
どうも彼はわたしが「ハンドバッグ」というイデアそのものを愛し、それにまつわる歴史もストーリーもすべて何にでも興味があると思っているらしい。
ええあたしゃハンドバッグが好きですよ。しかし、わたしが興味があるのはあのブランド、このブランド、自分が持って歩けるハンドバッグに限られるのだ...飾って眺めて耽美し、履いて気分がいいのはハイヒールだ。
彼のわたしに対する認識は、まあ毎度のように当たらざるといえども遠からず程度だが、ハンドバッグが女性にとって重要な役割を果たす、というのは事実だと思う。
ハンドバッグの中には、わたしたちがそれらなしでは外出できない道具、鏡や口紅や、香水や、レースのハンカチやメモ帳、本、(昨今はもちろんネット端末)が詰まってるのだ。
子供のとき絵を描くのが大好きだったわたしは、自分の分身を描く時には必ずハンドバッグの絵を描きこみ、その中には紙には描ききれない夢と憧れと可能性のすべてが全部詰まっていることにするのを一種の様式にしていた。
近現代でこそ女性が徐々に解放され、外に出て行くようになり、革製などの頑丈なバッグが主流になったが、昔は女性がハンドバッグを持って(小姓に持たせて)外出するというのは、よほど特別な機会だったのだろうと思う。特に宮廷の女性が身の回りのものをまとめるためのハンドバッグを必要とするというのは非日常に違いない。
700年前のペルシャの女性もそうだったのか。
どこに出かけたのだろう。
思い込みと言うのは怖い。
わたしは、この小さな写真からハンドバッグの表面の模様は絹の織り地模様で、クラッチバッグのような小型(底辺がせいぜい18センチほど)、ペルシャの宮廷の女性の所有物だろうと思い込んでいた。
ところが実物のこのバッグは真鍮製で、大きさは底辺が(正確な値が記されていなかった)25センチはあり、まちも最大幅で10センチ以上はある、贅沢な工芸品には違いないが、実用性も十分あるものだった。
絹織物製に見えたのは正にそれを模して制作されたからで、14世紀初頭のモスル(現在のイラクはバグダットから300キロ強、チグリスとユーフラテスの岸辺、古代都市ニネヴェのこと)の金属加工技術の高さを忍ぶことができる。
この時代、モスルはモンゴル帝国の一部で、当地の特産品だった真鍮製品は、東方から来た宮廷人好みのデザインを用いて生産されるようになったらしい。だからこのバッグはおそらくモンゴル帝国の身分の高い女性の所有物。
ということはモンゴル、騎馬民族、このハンドバッグの持ち主だった女性も、騎馬であちこち移動したのだろうか。傷みやすい絹製等ではない耐久性に優れた美しい真鍮のハンドバッグというのは愛されたでしょうな。これはわたしの想像だが。
解説にはハンドバッグの中身は、鏡、ナプキン、香水の類いだっただろうと記してあったから、あながち的外れでもないかもしれない。
もし、日本が元寇に征服されていたとしたらどんなハンドバッグができていたのだろう...
一室のみの展覧会だが、モンゴル帝国のように想像力が広がる主旨だった。
5月18日まで。
(ハンドバッグの写真はコートルード・ギャラリーから)
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a spring in my step

今日のサマセット・ハウスは、中庭の空間に春の日差しがたまっているようで大変美しかった。
重い扉を開けてそこに出たら、突然目の前が開けたような気がし、足取りが軽くなった。
開けた場所を眺めるのは、心を開くのに効果があるのかもしれない。
例えば冬の間、家の中に閉じこもりがちだったり、忙しくて辺りを見渡す暇もなかったり、
そういう時に、「外に出た!」と感じたければ
物理的に開けた場所を眺めると心も開けるような気がする。
って、別に新しい発見でもありませんが、
時々誰かに言われて思い出すのもいいかもしれない、と思って(笑)。
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セカイ通信ロンドン
このブログの前身は友達が発行するメルマガの小コラムだった。
それが廃刊になり、勢い余って場所を求めたのがこのブログ始めた理由のひとつ。
最初は個人情報に当たるようなことを書いて妹に怒られ、二度とおっちょこちょい(<わたしの別名)はしないと誓わされたり...それもよい思い出になってしまった(笑)。
さて、あれから10年以上経ち、再びわたしにコラムを書かないかという(別の)友達が現る。
誰かに「気にかけてもらえる」というのは、ほんとうに有り難いことだ。
わたしの超魅力的な友人、渡邊雅美さんが立ち上げた「マチュアな文化&ライフスタイル”をメインコンセプトに掲げるPR・イベントプランニング会社」ミロワ。そのサイトのカテゴリー、「セカイ通信」に寄稿した。
今回の記事は3月7日にアップされたセカイ通信「ロンドン・ナショナルギャラリーで」
友達に迷惑をかけるわけにはいかないので、普段書くブログ記事にはあり得ないほどの推敲を重ねた。
しかし出来上がったものはやはり従来のモエ節。
助長で、繰り返しが多く、その割には説明不足で細部が分かりにくく(自分が分かっていることはすっとばす)、「そういえば思い出した」という脱線が多く、付け焼き刃で、助詞の使い方が変で、総合すると頭の働きが鈍く、それでもみなさんにちょっとは認めて頂きたいという下心もあるので大風呂敷を拡げたり、自慢してみたり、ま、そういう「モエの文章にありがちなこと」に仕上がっている。
"we don't see things as they are, we see things as we are" 、われわれは物事の本質を見ているのではなく、自分の身の丈にしか物事を見られないのである。
このブログの外まで付き合いたくないわあ、とおっしゃる方もぜひミロワ内の別の記事を、好奇心満載の方はぜひわたくしのセカイデビューを、どうぞよろしくお願いいたします。
ご清聴ありがとうございました!
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旅に出るわけ
わたしは旅行が、三度の飯よりも何よりも好きだ。世界中の現地の人の目を借りて、「人間はどのように世界を解釈するか、どのような意味を与えるのか」「何を美しいと思うのか」ということをほんの少し見せてもらうのが、こうして書いているだけで身体が数センチ浮いてしまいそうなくらいに好きなのだ。
(女性の美の基準や、例えば太陽や蝶を美しいと思うかどうかは文化によって異なるが、花を美しいと思わない文化はたぶんないだろう...と、卓上の薔薇を見ている)
わたしは幸い何でも食べられ、身体も丈夫。どこに行ってもとても親切にしてもらった! と感じることができ、旅先で災難に合ったこともない。
もしかしたら現地の精霊たちに歓迎されているのかも、と思うことすらある。いや、おめでたいですね(笑)。
こんな話をするのは、先日、ある人から「外国はそれほどいいところではないと分かってしまった」という話を聞いたからである。
その時は、「世界中を見たわけでもないのに(「外国」という概念を一カ所に釘付けにしてしまうという点で)もったいない」と思ったのだが、もしかしたら外国にがっかりすることのない自分の方が現実が見えていず、何も分かっていないのかもと内省したのだ。わたしだって、旅先で見たいものしか見ていないのに変わりはないからだ。
別の友達がこんなことを言っていた。
旅の醍醐味のひとつは、毎回、旅先で「ここに住みたいなあ!」と思うような経験をし、後ろ髪を引かれながら帰宅、でも2、3日後には「やっぱり家が一番いいわー」と思うことだと。
わざわざお金と時間と神経を使って外国に出て行かなくても、家が一番いいのは最初から分かっている、とおっしゃる方もおられるだろう。しかし、その「家が一番いい」と、彼女が言う「家が一番いい」というのはちょっと違うと思う。「物差し」をひとつしか持たずに「家が一番いい」と言うのと、たくさん持っていて、今後も増やすつもりで「家が...」と言うのとの違いと説明すればいいだろうか。
ひっきょう、成熟とは自由自在な物差しをたくさん持つことだと思うのだがどうだろう。
わたしはどこに行っても毎度毎度「最っ高によかった!」「○○の街に心を捧げたい」ばっかりで、心がいくつあっても足りない。「家が一番」という日常肯定の心境ともほど遠く、それも「もったいない」感じがする。
また、「今後一生旅をして暮らせたらどんなにいいだろう!」と願うのは、都合のいいものだけを見、深い関わりを避け、義務や責任から逃れることを願う方便だという気もする。
先日、外国旅行からから帰宅して梅茶漬けを食べた。
旅から戻って、梅茶漬けを食べていると、「ほんとうに日本人でよかったなあ!」と思う。
これって、「家が一番!」のバリエーションかしらん。
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