日本・ベルギー・英国 喫茶モエ営業中
Brugge Style
abstract expressionism
ロイヤル・アカデミーで開催中のAbstract Expressionism「抽象表現主義」展へ。
いわゆる「ニューヨーク派」が一堂に会した展覧会で、アメリカから例の大きなキャンバスがたくさん(ほんとうにたくさん)来英している。必見だと思う。
大好きなマーク・ロスコーと、クリフォード・スティルがわたしのもっぱらの関心ごとであったが、他のアーティスト作品とのエコーも大変おもしろかった。
そしてあらためてロスコーの「ファサード」概念打たれた。
ファサード概念とはつまり、両義的であること、暴露と隠蔽、動きと停滞、時間と無時間...など
それはわれわれを招き、そして閉じる。閉じて、また招く世界の入り口なのである。
...と書き始めた時、今読んでいる中野孝次著「ブリューゲルへの旅」で、ブリューゲルを表してこういうくだりを読んだ。
「この画家は主体的客観、自己対社会、自己対自然というような一筋縄の対比で割り切れる人物ではない」(48ページ)
ブリューゲルとロスコーでは径庭の隔たりがあるような気がするが、「これってもしかしてロスコーに当てはまるんじゃない?」という名分析が散見され、ものすごくエキサイティングな夜長を楽しんでいるのだがどうだろう。
例えば
「それは互いが互いに無限に関わり合いつつ、こっちが他を規定し他がこっちを相対化し、行く目と帰る目が行違い、物をイロニー化し、全体を見方によって緑にも赤にも光る玉虫色の複合体にしてしまう。あの目の動きは一体なんだろう。一人の目が世界を見、表現しているのではない。まるで描き手までが、見る者でありつつ見られる一個のものとなって、画面のなかに呑込まれているかのようだ」(48ページ)
「それらの個別的な現実をこえてさらにその奥にある、自然や、働く者の原型といったものへと誘うように作用してくる」(54ページ)
「ちょうどシェイクスピアの世界が民衆の生の実装に開かれていながら、彼自身の精神によって統一されているように、ブリューゲルという思想によってだけ統一されている。あそこに描かれた人物たちは、固体でありながら、いわば固体の代表、固体の複数の集約表現となっている。ちょうど彼の自然が写生そのものでなく、いわば複合的な世界風景であるように」(81ページ)
「画面構成は一点に向かって閉鎖的に組み立てられず、われわれはまるでその中を通過できるようである。彼にあっては絵は常に外部の現実にたいしてひらかれている」(103ページ)
あともう一回は必ず見に行くと思う。
平日の午前中で激混みだったので、いつなら空いているのだろう...空いている時に行きたい。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )