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泥水に咲く清らかな花




今日はバレエの話だけでなく、「知性について」をわたしなりにヨタヨタ考えてみたので、バレエに興味のない方もどうぞお帰りにならないで。

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タイトル、自分で書いていてそのクサさに赤面してしまう。

ロイヤル・バレエの「マノン (Manon)」、マノン役サラ・ラム (Sarah Lamb) で。

「マノン」を見るのは久しぶり。良くも悪くも、さすがの「語りの」ロイヤル・バレエだった。
ロイヤル・バレエは、クラシックとは違う(もちろんモダンでもない)ジャンル「物語バレエ」を発展させ続けている。
これから、ヌネツ(Marianela Nunez) とオシポヴァ (Natalia Osipova) の踊るマノンを見るつもりだ。身体能力、表現力、音楽性のどれもに優れた個性溢れるダンサー達は、公演ごとにひとつの物語「マノン」をさまざまに語るだろう。ロイヤルバレエの長所の一つはダンサーの優秀さにもいろいろある、ということなのだ。



隣り合わせた女性にお話をうかがっていると、このようなことをおっしゃった。

「抽象的なモダン・バレエよりも、しっかりストーリーのあるクラシック・バレエの方が好きだと知り合いのバレエマニアに話したら、それならバレエではなくて芝居を見たらいいのではないかと言われ、言い返せなかった。抽象性の高いものを好めないのは知性が劣っているからであるとほのめかされて悔しい」と。笑っておられたが。

知性か。

AでもBでもなく、Cが好きだという他人の感覚を、自分の感覚の限界を乗り越えて想像することこそ知性だと思うのだが。
芸術鑑賞は知性的活動の最たるもので、つまり、自分の感覚の限界をアクロバティックに乗り越えて、他人の感覚を想像することではないのか。


わたしに言わせれば、「しっかりストーリーのあるバレエが好きなら芝居を見てればいいんじゃない?」というのは、例えば「甘いものが食べたいなら砂糖を食べておけば一緒じゃない?」と同種の野暮だ。
「ストーリーのはっきりしたバレエがお好きなら、こういう芝居もお好きじゃないかしら、一度ご覧になってみたら」と言えばいいのに、人間は得てして自分の好みや感覚だけが正統で(ここは「知的で」とか「真理で」「美しくて」「一番流行っていて」「ヘルシーで」「政治的に正しくて」等に置き換えてもいい)、他は全部、少しあるいは大分劣っているとなぜか思いたいものなのだ。自戒自戒。

他人の好みを取り上げて、「あれだけが最高で、こっちはバカバカしい」とか、「××の良さが分からないなんて」と言うことの野暮さ...
その偏狭さを少しずつ書き換え広げてくれるのが芸術なのかもしれない。

ああっそうだ、大人は芸術が偏狭さを修正してくれることをなんとなく分かっているから、子供に向かって、たくさん本を読めとか、この芝居は子供時代に見ておいたほうがいいとか、楽器を習えとか、絵画は実物を見ておかないとなどと口うるさく言うのかも! 大人もたまにはいいことを言うじゃないか(笑)。



バレエはどんなに筋書きがはっきりしていて分かりやすいお話であっても、決して言語を使用しない。その点で劇とは別ものだ。
また、クラシック・バレエの特徴は様式美であり、自由が比較的少ない。
言語がストーリーを積極的に限定してこない分、解釈は各自にゆだねられ、意味の階段を好きなだけ降りて行ける。
「型」がある中で際立つアーティスト(ダンサーだけでなく演出家や演奏家を含め)の資質や差異を堪能する。

そして、しつこいが、上手い役者やダンサーには「他人の感覚を、自分の感覚の限界を乗り越えて想像する知性」が備わっている。もしも「優れた観客」というのがあるとすれば、その人物には「他人の感覚を、自分の感覚の限界を乗り越えて想像する知性」が備わっているかもしれない。


マノンは最後、ルイジアナの沼地で泥まみれで息絶える。泥より出て泥に染まらない美しい清らかな花...マノンの人となりを言葉にすればそれは演歌だ。が、舞踏で観客にそのように感じさせる(あるいは全くそのように感じないダンサーも観客もいるかもしれない)、それこそがバレエの真骨頂だ。



(写真はROBから)
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