ボイシー日記

手がふさがっていては、新しいものは掴めない。

小江戸、蔵造りの川越へ。

2011-07-28 10:26:30 | 出来事
久しぶりに江戸時代の面影を残す蔵造りの町、
「小江戸」川越へ行ってきました。

川越のシンボルである時の鐘から、
明治11年設立、大正7年に改装された
レトロなりそな銀行の建物、
懐かしい駄菓子がならぶ菓子屋横丁、
春日局ゆかりの喜多院、
そして、五百羅漢などを見てきました。
町の所々に、まだNHKの連続ドラマ「つばさ」の
色あせたポスターも貼ってありました♪

黒い壁と重厚な瓦が印象的な蔵造りの家は、
今も往時の繁栄を偲ばせます。
大切に保存されていて、町の人たちの
意気込みが伝わってきます。
喜多院では、江戸城から移築された
三代将軍家光誕生の間や、
家光の乳母・春日局の化粧の間、
広い庭園を眺めました。
春日局の間には、公武合体で朝廷から
嫁入った和宮が使ったとされる
菊の御紋と葵の御紋が印された長持もありました。
五百羅漢も、いろんな表情の羅漢がいます。
微笑みかけてくる羅漢に、心が洗われました。

平日だったので観光客も少なく、
のんびりできた一日でした。
あっ、地ビールが酒屋にあったのに、
買ってくるのを忘れた。。

〈写真 時の鐘/蔵造りの家/りそな銀行/喜多院/五百羅漢〉


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大正時代が薫る、安曇野・第三部。

2011-07-24 16:50:19 | 
臼井吉見の「安曇野・第三部」読了。
「安曇野」はますます面白い。「坂の上の雲」より面白いのではないか。
ただ、知らない人物が次々と出てきてウィキペデアで調べたり、
登場する画家たちの絵画を見ながら読んでいるから、けっこう遅い。。。
で、またまた筋書きを忘れないための、メモがわりのネタバレブログ。

安曇野・第三部は、洋画家の中村ツネと
中村屋の黒光の長女・俊子の恋情から始まる。
荻原守衛(碌山)が急逝した後、ツネが中村屋のアトリエに引っ越してくる。
俊子がツネのモデルとなり、しばしば屋根伝いにアトリエを訪れ逢い引きをする。
ツネはルノワールに影響を受けた画風で俊子を描き、
大正3年(1914)に「少女裸像」を完成させる。

しかし、この裸像を描いたことで、黒光は二人の関係に気付き、
二人を離れさせようと、ツネをアトリエから追い出してしまう。
追い出されたツネは伊豆大島でしばらく静養する。
静養先で北海道の中原悌二郎や柳敬助たちと交わした書簡もある。
大正5年、下落合にアトリエを建て、そこを創作拠点とする。
中原悌二郎や鶴田吾郎などの仲間も出入りする。
このアトリエは、下落合に現存するらしい。

また、二男が死んで臥せっていた黒光は
木下尚江から岡田虎二郎の「静坐」を教えられ
日暮里の本行寺で静坐を始めてだんだん元気になっていく。
やがて中村屋で「静坐会」を開くようになる。

山本飼山は、崇拝していた社会主義者たちに対して
疑念を抱き厭世的になって自殺する。
その流れで、1910年の大逆事件後の判決に対する声や、
売文社を設立した堺枯川の社会主義論について、
また大杉栄、荒畑寒村が「近代思想」を発刊したことが書かれている。

大正3年に始まった第一次世界大戦で日本は好景気になる。
中村屋も成長したが、調子に乗って投機的な商売はせず堅実な経営をしていた。
その頃、インドの独立運動をしていた
ラース・ビハリ・ボースが日本に亡命し、中村屋に身を寄せる。
ボースが密偵から逃亡していた、その顛末も書かれている。
ボースは、西洋文明はすべて、インドから生まれたと気炎を吐く。
インド独立運動についても、いろいろ。。

そして、中村屋の定番である純インド式カリーは、
このボースが教えたものだった。へぇ~、がってん。
相馬夫妻の長女俊子が、ボースと結婚する。

大正5年、ロシアの盲目の詩人ワシリー・エロシェンコが
中村屋のアトリエで暮らすようになる。
そこで秋田雨雀、江口きよし、神近市子らと交流する。
その後シャムへ行ったりしたが
大正9年、目白駅で洋画家・鶴田吾郎に声をかけられ
下落合の中村ツネのアトリエに連れて行かれてモデルとなる。
中村ツネと鶴田吾郎それぞれがエロシェンコ像を描き、二つの傑作が生まれた。
しかし大正10年、エロシェンコは、
メーデーや社会主義の集会に参加したとして逮捕・国外追放となる。

信州では、ウイリアム・ブレークの版画展、
講演にきた柳宗悦と白樺派教員たちとの交流が書かれている。
ウイリアム・ブレークの版画展は、東京から始まり、
伊那の南箕輪村、上諏訪、飯田、塩尻などを巡回して穂高へ。
柳宗悦と白樺派教員たちとの芸術宗教論、
武者小路実篤の「新しき村」構想について語られ
信州の教育界と白樺派のつながりが強かったことを知った。

白樺派教員とは、軍国主義ではなく、
子供たちに自由で人間性あふれた教育を理想とする教員たちだが
戸倉事件を契機に、弾劾されることになる。
その中のひとり赤羽王郎は、信濃の教育界を懲戒免職となって
柳宗悦のすすめで、千葉県・我孫子にあるバーナード・リーチの窯を手伝うようになる。
また武者小路実篤の「新しき村」に賛同して入村する
中村亮平一家などについてもふれている。
雑誌「白樺」に影響を受けて、白樺派教員たちが雑誌「地上」を創刊。

島村抱月と松井須磨子の「芸術座」の話、トルストイの「復活」上演、
島村抱月死後の松井須磨子後追い自殺のこと。
演劇つながりで、秋田雨雀・黒光によって作られた劇団「先駆座」、
そこで上演されたストリンドベルク作「火遊び」、
秋田雨雀作「手投弾」、それを鑑賞した島崎藤村の批評などが書かれている。
秋田雨雀つながりで、文壇の有島武郎の情死が続く。

大正12年、関東大震災が起こる。
その前年、大杉栄はベルリンで開かれる国際アナーキスト大会に
参加するため日本出国。上海からマルセーユを経てパリへ。
そこで逮捕され日本に戻されていたが
震災後すぐに妻の野枝、甥の橘宗一と共に連行され3人が殺害される。
大杉栄は、甘粕正彦により射殺される。

結核だった中村ツネが、大正13年死去する。37歳。
中村屋では、大正14年に俊子が死亡。
旦那のボースは、日本に帰化して防須家を創立。
中村屋の安雄は、黒光の従姉の子供にあたる高橋和子と結婚。
新宿は想像以上の賑わいをみせはじめたが
三越などのデパートの進出により。中村屋は売上減となる。
その対策として日曜日の営業、平日の営業時間延長を行い、株式会社とする。
また、和菓子、洋菓子、パン部門の技術者を招聘した。

安雄は大正15年に渡欧留学。二女の千香子も渡欧。
四男の文雄はブラジルへ。
愛蔵は中国、朝鮮、子供たちのいるヨーロッパへ旅行するようになる。
朝鮮でみかけた松の実のお菓子、中国の月餅などを商品化する。
昭和2年には喫茶部(レストラン)を開設。
ボース仕込みの純インドカリー、ロシアのボルシチを提供する。
制服はルパシカを採用。
店員は69名、朝鮮人、ロシア人、トルコ人もいた。
山梨には軍鶏を育てる養鶏場、仙川には牧場をつくった。

この第三部も、とても面白かった。
中村屋で純インドカリーが誕生した経緯、
「中村屋サロン」と呼ばれて洋画家をはじめ
さまざまな人たちが出入りしたこと、
そして、信州の教育界と白樺派メンバーとのつながりが、
強かったことを知った。
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ゴーヤは、うんまいさー。

2011-07-22 15:12:16 | 
ゴーヤは、けっこう好きです。
ひと夏で、5回ぐらいはつくります。
あの苦い味が、たまりません。
スパムのかわりに豚肉を使います。
玉子は使いません。
ごま油で豆腐をまず炒めておき、
そのあと豚肉、そしてゴーヤを投入。
味噌と砂糖と醤油を入れてかきまぜて終了。
味付けはあまり濃くしないチャンプルーで、
ゴーヤの苦さを楽しみます。

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うなとろ&うなたま。

2011-07-21 20:09:29 | 
最近、家で食べた鰻料理です。
鰻に、ねばねば大和芋をトッピング。
そしてさつま芋の醤油煮、もずく酢でパワーアップ。

鰻の玉子とじは、
見た目はまずそうですが
柳川風でけっこう美味しかったです。

しかし、伝統の鰻専門店で、じっくり腰を落ち着けて、
本格うな重と、舌がしびれるような肝吸いを味わいたい。。。

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明治末の激動がわかる安曇野・第二部。

2011-07-09 19:54:56 | 
臼井吉見の「安曇野」第二部、読了。
明治30年代後半からの政治、思想、芸術、文化などがこの一冊でわかる。
何しろメモしておかないと、いろんな人が出たり入ったりして忘れてしまう。
ということで、忘れないためのメモも兼ねた、ネタバレブログです。

冒頭は荻原守衛の渡米、渡欧、ロダンをはじめとする芸術論。
パリでロダンの「考える人」を見て彫刻に目覚め、
彫刻は実物の真似ではなく、立体で思想をつかみ取り出すことだと知る。
さらに「永遠」を封じ込めているエジプト彫刻に影響を受ける。
高村光太郎と出会い、交流が始まる。

パリのジュリアン研究所で、中村屋の看板ロゴを書いた
書道家・画家の中村不折と出会う。
中村不折は、夏目漱石「我が輩は猫である」で、
障子越しに猫のしっぽをつかみあげている挿絵が有名。
その後イタリア、エジプトなどを訪れて1908年に帰国する。

中村屋は1907年12月15日新宿角筈に移ってくる。
「付近には、畑を囲んだ雑木林がつづき、あちこちに、
牛の遊んでいる牧場がはさまれていた。」という一文がある。
たしか芥川龍之介の実父も、新宿伊勢丹の前あたりで
牧場「耕牧舎」を経営していたから、
この風景のうちに含まれるのだろう。
ふむふむと納得する。

帰国した守衛は、中村屋の近くのアトリエで彫刻家として活動。
この頃、夏目漱石の「二百十日」を読み、
そのなかの人物・碌さんから「荻原碌山」と名乗るようになった。
新宿、大久保周辺には、国木田独歩、島崎藤村、
角筈には幸徳秋水がおり、内村鑑三も近くに住んでいる。
彼らは本郷時代から中村屋の得意先だった。

一方、木下尚江は、石川三四郎、阿部磯雄などと共に
1906年(明治39年)11月、キリスト教社会主義を標榜する「新紀元」創刊。
これに寄稿した徳富蘆花は、トルストイを訪ね帰国後、伊香保温泉にこもる。
木下尚江も、伊香保に長期滞在する。

その頃、田中正造が闘っていた足尾銅山鉱毒問題は、
「山」から「川」へ争点が移り、
鉱毒を沈殿させる貯水池が必要ということから
谷中村が買収の対象となり集団移住が始まる。
その貯水池が、いまの渡良瀬遊水池。

1908年には赤旗事件が起こる。
仙台の監獄から出てきた山口孤剣の歓迎会で
赤地に白の文字で「無政府共産」などと書いた赤旗を振ったことで、
堺利彦、荒畑寒村、大杉栄などが逮捕される。
このほか、キリスト教的社会主義、普通選挙運動についても
詳細に書かれていたが、割愛。。

相馬愛蔵は、蚕の準備で安曇野に帰ったりしていたが
親戚の出戻り女と怪しい仲になる。
守衛が安曇野へ帰り、その噂を聞き本人を責める。
新宿へ帰ると、中村屋の黒光にその事実を伝える。
その頃から守衛は、黒光に恋情を打ち明ける。

守衛はその後、奈良へ旅行し、日本の彫刻美を発見する。
守衛のアトリアでは、戸張孤雁、中村ツネ、中原悌二郎などが集うようになる。
また「文学界」を主宰した星野天地を鎌倉に訪ねたり、
画家や詩人、作家などの芸術グループ「パンの会」の集いに参加したりする。

その後、第三回文展に「デスペア」「労働者」「北条虎吉像」を出品。
このとき高村光太郎は、近代芸術を生み育てる展覧会の雰囲気ではないと、
文展そのものを激しく批判し、陳列された全作品を罵倒する。
ただ「北条虎吉像」だけは、「生」がほのめいていると褒め讃えた。

また、その頃の話として、有島武郎の「或る女」のモデルとなった
国木田独歩の妻、信子(黒光の従姉)のスキャンダルや、
諏訪出身でアララギ派歌人・島木赤彦の活動なども挿入するなど、
さまざまな出来事が紹介されている。

1910年になると、黒光の次男が体調を崩しそのまま死去。
守衛は最高傑作といわれる「女」を完成させた。
この像を見た黒光は、棒立ちになり、足がすくんでしまう。
しかし、守衛もその後急激に体調を崩し、吐血して急逝する。

以上、荒削りで書いたが、このほかにも話がいろんな分野にまたがり、
登場人物もたくさんいて、とてもここに書ききれない!

第二部は、ロダンに刺激されて彫刻家となった
天才・荻原守衛の生き様や黒光への恋心、
木下尚江をはじめとした社会主義運動家たちの活動などがメイン。
新宿移転した中村屋は、クリームパンやクリームワッフルの製造に成功していた。
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古書店主の随筆「昔日の客」。

2011-07-08 17:32:59 | 
東京・大森の古書店「山王書房」の店主による随筆「昔日の客」を読んだ。
アマゾンの解説をみたら、幻の名著で32年ぶりの復刻だとか。
尾崎一雄、尾崎士郎など文豪たちとの交流をはじめ、
日々のさりげない出来事をまとめた随筆で、どれも心に残るものばかり!
古書を愛し、古書店で知り合った人たちが本当に好きなのだという、
店主の人柄の良さがにじみ出ている一冊でした。

とくに好きだったのは「尾崎さんの臨終」。
話は尾崎士郎氏の臨終での出来事なのだが。。。
つい大笑いしてしまいました。。

実はこの本、以前は広告代理店に勤務していて、
今はネット書店を経営している同郷の方に教えられ読んだのだが、
実に清々しく、明るく、それでいて、ホロリとしたり、
ジーンと深く胸に残る随筆がちりばめられています。
古い本なのに、とても新鮮で、表現も素晴らしい。
誰にも教えたくないような本です。

著者・関口良雄氏は、長野県飯田市の出身。
伊那谷や飯田市の懐かしい風景が描かれている随筆も印象的でした。

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長野県人の青春群像「安曇野」。

2011-07-02 10:10:17 | 
臼井吉見の「安曇野」を読んでいる。
いま、NHK「おひさま」の舞台が安曇野なので
どんなところかと思い、借りてきて読んでみたが
全5部のうちまだ第1部だが、
これがまた想像以上の面白い内容で、読み応えあり!
明治時代の長野県についていろいろ書かれている。
長野県人としては必読の一冊。

「安曇野」は、明治時代初期に、安曇野で生まれた
相馬愛蔵・黒光夫妻、作家の木下尚江、
彫刻家の荻原守衛など5~6人の若者たちの青春群像物語。
相馬愛蔵・黒光夫妻は、新宿・中村屋の創設者である。
中村屋は何度も食べに行っていたのに、
長野県人だったとは知らなかった。。

物語は、仙台生まれで明治女学校に通っていた
相馬黒光が、油絵とオルガンだけを持って、
安曇野の相馬愛蔵のところへ嫁入るところから始まる。
そして、松本辺りの当時の養蚕の様子から、長野県庁の移庁・分県運動、
廃娼運動、長野県の飯田事件、栃木県の加波山事件などの自由民権運動、
さらに明治時代の東京の暮らしぶり、明治女学校など女学校の様子、
キリスト教のこと、田中正造の足尾銅山鉱毒事件など事細かに書かれてる。
いろんな資料を元に書かれていて、
いわばスラスラ読める歴史書みたいな本だ。

第1部では、結局、相馬黒光が安曇野の土地に馴染めず
夫婦で東京へ出て、帝大正門前にパン屋として
「中村屋」をオープンする準備のところで終わっている。

また、事実なのかわからないが、
相馬夫婦が東京で一旗揚げようと出て行く途中で
黒光の明治女学校時代の先生であった、
島崎藤村の小諸の家を訪ねる話まであった。
ちょうどその時、島崎藤村は、八ヶ岳から甲府、
諏訪を廻る修学旅行で居なかったが、
その修学旅行とは「千曲川のスケッチ」に書かれている。

「千曲川のスケッチ」にあったから挿入したのか、
事実としてそうだったのか。。
いや、訪ねたことも、フィクションなのか。。
いろいろ想像してみるのも愉快だ。
で、間髪入れず、「第2部」に突入中。
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