ボイシー日記

手がふさがっていては、新しいものは掴めない。

100周年の山手線。

2009-09-30 10:30:10 | 独り言
ふだん地下鉄ばかり乗って、
JRは3ヵ月に一度乗ればいいほうのオイラが
たまたま赤羽から有楽町に向かっていたとき、
東京駅のホームで山手線を待っていたら
ホームの端っこに、カメラを構えた鉄男たちの群れを発見。
ムムッ、これはなにかある!と思いながら待っていたら、
チョコレート色の「山手線命名100周年電車」が入ってきました。

そういえば、先週行った新宮では
祝・紀勢本線全線開通50年記念列車が
走っていたのを見たが、こちらでは100周年。。
同じ国内でも、紀伊半島は、
東京から半世紀も遅れて開通したのか、なんてことを、
東京駅のホームに立ってしみじみ思いました。
〈写真:左/命名100周年の山手線 右/開通50周年の紀勢本線〉

哀愁のレイン・レイン/チェリッシュ
http://www.youtube.com/watch?v=dQXn10jQcag&feature=related

山手1.jpgきせ.jpg

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紀州紀行[2]那智・潮岬・枯木灘。

2009-09-25 14:24:39 | 出来事
2日目、新宮から那智勝浦へは、国道42号線を車で30分程度。
まずは、熊野古道をひら~り歩こうと大門坂へ行く。
熊野古道は、周辺各地から熊野三山へと通じる参詣の道で
大門坂は中辺路の一部であり、熊野那智大社、青岸渡寺への参道。

大門坂あたりは、比較的昔の面影が残っている地で
樹齢800年を誇る2本の夫婦杉が門のように並んで立ち、
そこから鬱蒼とした杉の巨木と、
平安時代につくられた石畳の登り道が約600m続く。
時々、平安時代の貸衣装を着て優雅に歩く女性の姿もいて趣がある。
同行したK君とともに、一緒に写真を撮らせてもらった。

熊野那智大社の社伝によると、
日本神話において、神武東征で神武天皇が熊野灘に上陸したとき、
那智山中に光り輝く御滝を見つけ、そこに国づくりの神である
大己貴命(大国主命:オオクニヌシノミコト)をまつり、
また主祭神として夫須美神をおまつりしたとある。
そしてサッカー日本代表のキャラクターでも知られている八咫烏は
熊野国から大和国へ入る際の道案内をしたとされる。

さて、大門坂から熊野古道をてろてろ歩き、
途中でさわやかな「じゃばらジュース」を飲みつつ
熊野那智大社、青岸渡寺へ到着。
遠くに高さ133mの御滝も見える。滝の口には注連縄が張られている。
瀧の間近にある飛瀧神社へ足を運ぶ。
オイラの観光クライマックスは昨日だったので♪、二人の後をだらだらと歩く。
写真を撮る回数も激減。。。
前日は熊野速玉大社、今日は熊野那智大社を参拝。
本来なら、熊野三山すべてをまわりたいのだが、
今回は日程的に厳しいので、熊野本宮大社はまた今度ということに。。。

那智勝浦で昼食にしようと、そのまま漁港へ。
新鮮なまぐろイカ丼と「ガシラ(カサゴ)」の煮付けを食らう。
その後、太地にあるくじら博物館へ。イルカやシャチのショー、
バンドウクジラの餌やりを楽しんで新宮へ戻りました。

次の日は、紀伊大島、最南端の潮岬、枯木灘へ。
紀伊大島には、樫野埼灯台がある。「日本の灯台の父」といわれる、
リチャード・ヘンリー・ブラントンが手がけた灯台の1基で、
明治3年に初点灯した、日本最古の石造灯台。
やはり、灯台は郷愁を誘う。ずっとここで、海を眺めていたいと思った。

またここは、明治23年に起きたトルコ船「エルトゥールル号」遭難の際、
地元民が懸命な救助にあたったことで、
日本とトルコの友好関係がつくられた場所。
トルコ記念館、遭難慰霊碑、トルコ土産店などもあった。
その後、潮岬に立つ灯台へ。潮岬灯台は急な階段で登る設計になっており
レンズ下のテラスまで行く。テラス幅はかなり狭い。
そこからは、太平洋に突き出た岩の連なりがしっかり見えた。
その後、枯木灘をドライブする。
中上健次の「枯木灘」を読み、ここはぜひ走ってみたいと思っていたが
眩しい光があふれ、風光明媚な景色が続いていた。

そして、ここまで来たのなら、いっそ南紀白浜、和歌山市方面を
周って帰ろうかということになり、そのまま国道42号線を走る。
「和歌山城を見ようぜ」とK君が言い出し、「はい、そうしましょう」と向かう。
途中、渋滞に巻き込まれながらも、夕刻に和歌山城着。
天守閣の下まで行き、その姿に堪能する。
当初の計画にはなかった和歌山城も見て、
紀伊半島を東から西へ抜けて帰ってきた。
中上健次の故郷・新宮を歩き、熊野詣をし、
潮岬や枯木灘の光と風を満喫して、十分リフリレッシュできた。

〈写真:熊野古道/熊野那智大社/八咫烏/胎内くぐりの楠の巨木/
青岸渡寺と那智の滝/くじら博物館のイルカショー/樫野埼灯台/
潮岬/潮岬灯台/枯木灘/和歌山城/地酒&地ビール〉

江戸ポルカ〈熊野本宮LIVE〉/一青窈
http://www.youtube.com/watch?v=bPBcuI9QrO0

熊野古道.jpg
熊野古道












那智大ミ.jpg
熊野那智大社










八咫烏.jpg
八咫烏












楠.jpg
胎内くぐりの楠の巨木












那智の瀧.jpg
青岸渡寺と那智の滝










くじら.jpg
くじら博物館のイルカショー










樫野埼.jpg
樫野埼灯台










潮岬1.jpg
潮岬










潮岬2.jpg
潮岬灯台












枯木灘.jpg
枯木灘










城.jpg
和歌山城










熊野ビール.jpg
地酒&地ビール

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紀州紀行[1]新宮。

2009-09-24 11:11:41 | 出来事
シルバーウィークに、
中上健次の故郷・新宮と
冥土のみやげとして熊野詣をしてきた。

三重県から国道42号線を南下していき、
山中の急な坂道を降りると熊野灘が見えてくる。
ちょうど朝に新宮に着くように出発したので、
熊野市の七里御浜では朝日が昇る瞬間を見ることができた。
その後、熊野市から鉄橋を渡り新宮市内へ。
橋を渡って街へ入るというのは、
臨場感が高まる。どこかドキドキする。

街のシンボルともいえる、巨岩「ゴトビキ岩」に
神が降臨したという神倉神社へ行く。
ここは、2月6日の火まつりに、若衆がたいまつを持って
538段の石段を一気に駆け下りる舞台となる。
その石段、ほぼ垂直なところもあり、
老体となったオイラには昇るだけで苦行だった。
さらに熊野速玉大社、東京から移築・復元した佐藤春夫記念館、
浮島の森、新宮市立図書館にある中上健次資料館、
南谷共同墓地にある中上健次の墓などへ。

新宮で最もテンションが上がったのは、
駅前の春日地区、野田地区を散策したときだ。
いまは地区改善事業によって、市内を分断していた
臥龍山は崩され、昔の路地の面影はないが
中上健次の物語の中へ一歩足を踏み入れたような気持ち。
同じ地に立ち、ほぼ同じ目の高さでこの街を見ていることに感無量。
この旅は、昔の同僚二人と一緒に行ったのだが
明らかに温度差がある。
二人とも、この駅前の住宅地がどうしたの?
という冷めた視線を投げかけてくる。。。

新宮市立図書館内には、中上健次資料館が
設置されているが、訪れた日は閉まっていた。
しかし図書館スタッフの方が資料や
直筆原稿などを見せてくださったり、
いろいろ説明をしていただいて頭が下がった。
また中上健次の生前最後の姿を撮影し、
熊野について語っているビデオなども見ることができた。
さらにスタッフの方の話は、
新宮を舞台にした辻原登の「許されざる者」に及び、
彼は、ここで2ヶ月くらい資料調べをしてあの本を書き上げたらしい。

2日目は早朝、王子ヶ浜から熊野川河口あたりを散策。
熊野灘は、恐ろしいほどの海鳴り。ドッドーと、唸り方が違う!
そして熊野川対岸にある紀州製紙工場を眺めつつ、
材木センターから、蓬莱山の麓にある阿須賀神社、徐福公園を見て、
那智勝浦、熊野古道へと向かったのだった。〈続く〉

〈写真:熊野市の獅子巌/新宮への鉄橋/神倉神社/
神倉神社からの眺望/熊野速玉大社/佐藤春夫記念館/春日地区1,2/
野田地区/朝顔の家/芙蓉の花/中上健次の直筆原稿/南谷共同墓地/
王子ヶ浜/熊野川河口付近/材木センター/夜の繁華街〉

好きになった人/都はるみ
http://www.youtube.com/watch?v=tQj4Jw__Z74&feature=related

熊野市.jpg
熊野市の獅子巌








鉄橋.jpg
新宮への鉄橋








神倉神ミ.jpg
神倉神社








神倉から.jpg
神倉神社からの眺望








速玉.jpg
熊野速玉大社








春夫.jpg
佐藤春夫記念館










春日1.jpg
春日地区1










春日3.jpg
春日地区2








野田.jpg
野田地区








朝顔.jpg
朝顔の家








芙蓉jpg.jpg
芙蓉の花










ゆらく.jpg
中上健次の直筆原稿








南谷.jpg
南谷共同墓地








王子ヶ浜.jpg
王子ヶ浜








河口.jpg
熊野川河口付近








材木.jpg
材木センター








夜.jpg
夜の繁華街

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みんな、伊那谷ずら。

2009-09-18 16:57:53 | 独り言
おつきあいさせていただている得意先の方たちが、
オイラの田舎のすぐ近所だということを
最近知って、びっくりしました。

ブログのプロフィールに
南信州の山奥から出てきたことを書いていたら
その方から電話があり、
南信州のどこなの?ということになり、
最南端の村ですが、なにか?ときくと、
へぇ~、ぼくはINA市です、
もう一人のN君はIIDA市です、
なんて話になりました。

えっ!みんな伊那谷出身なの?
さらにNさんはIIDA市?!近い!近すぎる!
中学・高校生時代、
オイラにとって都会といえばIIDA市。
よく出かけていました。

そういえば、東京にでてきても
長野県出身という人はたまにいたけど
伊那谷の人とは、あまりお目に
かかったことがありませんでした。

いや~、これはもう、
以前「秘密のケンミンSHOW」で紹介された
IIDA市民しか食べていないという
ネギタレでおでんを食べながら
「伊那谷会」を開くしかないずら、と思いました。
ローカルネタで盛り上がってしまいました。。。

遠い日/タテタカコ
http://www.youtube.com/watch?v=RJuWbfpvayY&feature=related

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そんな人だった?堀辰雄。

2009-09-13 12:20:47 | 
しつこいけど、またまた堀辰雄ネタ。
川村湊の「物語の娘」のなかで紹介されていた
江藤淳の「昭和の文人」を読んだ。
江藤淳が堀辰雄に対してすごい嫌悪感をもって
書いている本ということだったが、なるほど、すごい怒りぶり。

江藤淳は、いろんな点について、怒っている。
堀辰雄は、文学的な嘘をついて、世間を欺いていた。
文学者の風上にもおけない不逞の輩・・・みたいな鼻息だ。
どんどん、堀辰雄のイメージが崩れてくる。

「聖家族」についていえば、あれはフィクション=小説なのだが、
主人公が筆者、堀辰雄であるようなニュアンスで書かれている。
堀辰雄自身の複雑な出自を隠して、
するりと、小説の中に自分をすべりこませた、と言っている。

堀辰雄は、エリートで才女な片山夫人や芥川龍之介と
関係をつくっておきたかった。
それで、「聖家族」の主人公が、
一見、堀辰雄自身であるような虚構の世界をつくった。

堀辰雄の実父は裁判所の書記で
養父は彫金師というごく普通の家柄なのに
小説のなかで既成事実をつくりあげて
自分もいかにも一流の出自であるような錯覚を
読者にもたせようとしていたというのだ。


また、芥川龍之介や片山夫人たちと過ごした軽井沢から
養父に対して、送金してくれという手紙を出しているが、
その内容も横柄な感じだ。

「この際、80円なければ、東京へは戻れない。
すこし贅沢し過ぎたようだが、勘弁してください。
なにしろ一流の生活を、みんなとしていたんだから。
そうして、この80円のお蔭で、
僕もだいぶ一流の人々に可愛いがられたんだから。
堀辰雄もいくらか有名になったんだ。
但し、80円は最低の予算をいったのでそのつもりで。」

もらった養父にしてみれば、ムカッとするような手紙だ。
そのしばらく後にも、
「あれから10円以上はつるや旅館で食べたので、
送金を80円から90円にあげておいた。~」 などとある。


堀辰雄は、「聖家族」をフィクションとしながらも
誇大妄想的な自分の夢を、実在の人を借りて書いてしまった。
周りの人は、はた迷惑だ。

「聖家族」が発表されて、
堀辰雄と片山總子(宗瑛)との仲が噂になったとき、
片山夫人は周囲の関係者に、
堀辰雄と娘とは何の関係もないと説明して歩いたという。
片山總子も、縁談を邪魔されたみたいなことを書いている。

それで堀辰雄は凹んだのだろうか、反省したのだろうか。
その後に発表された小説「美しい村」では、
最後のほうで、散歩している途中で細木夫人(片山夫人)の
別荘がでてくるが、そこを避けて通りたいと書かれている。
別荘に近づくと、心臓をしめつけられるような息苦しさを覚えるとある。

最初読んだときは、なんでだろう?と思っていたが
このいきさつを知って、
なるほど、そういうことだったのかと納得した。
「聖家族」で周りを苦しめたことに対する自責の念、
後ろめたさがあったんだと理解した。

秋の一日/下成佐登子
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=yVgzA3FC1lc

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辻原登「許されざる者」。

2009-09-08 18:43:44 | 
辻原登の「許されざる者〈上・下〉」を読んだ。
1910年に起きた悲惨な大逆事件(天皇暗殺計画)に至る
少し前の時代の様子を描いている。
心温まるすばらしい小説だ。

実在の人物と架空の人物がうまくミックスされ
暗い時代ながら、登場する人々が明るく希望に満ちている。
身分を超えた、かなわぬ恋情物語にも心ふるえる。
またガス灯の点灯人、時計のねじ巻き職人なども
いいキャラクターとなっているばかりか、
物語の展開で重要なポジションを担っている。
日露戦争時の、こうした西洋化が進む地方都市の暮らしぶりが
ディテールまで描かれているのもよかった。

中上健次の本のなかに、何度か紀州大逆事件のことが
書かれていて興味があり、この本を手にとってみたが
読み終わり、その頃の新宮の雰囲気や
社会主義運動の様子が少し実感できたようだ。

明治時代後期、日本は日露戦争で辛くもロシアに勝利したが、
ロシアから賠償金をもらえなかったことから
民衆の不満感情が高まり、暴徒化して日比谷事件へと発展。
その後、社会主義者たちの台頭に対して政府がきびしく弾圧した。

日清・日露戦争から1945年の太平洋戦争終結まで、
さらに林房雄的にいえば、1853年のペリー来航から1945年までの、
ほぼ100年にわたる時代のなかで、1910年の大逆事件は、
社会主義者弾圧の最も象徴的な事件のひとつだった。

幸徳秋水や大石誠之助をはじめとするグループが
天皇殺害を目論んだとして、その分子が大量処刑されたが、
実際に計画に関与したのはわずかな人だった。
行き過ぎた弾圧だったことが、あとでわかる。

また、瀬戸内寂聴の「奇縁まんだら」という本を読んだら
同じように社会主義者弾圧の赤旗事件で投獄された
荒畑寒村という人について語られており、
瀬戸内寂聴と交流があったと書かれていて驚いた。
そんな昔から生きていたのかぁ~。
ちなみに荒畑寒村は、幸徳秋水と暮らした
同じ社会主義者の管野スガの前夫。
管野スガがモデルの人物も「許されざる者」に登場している。

この本で「許されざる者」とは、当然天皇暗殺を目論み
社会をひっくり返そうとした社会主義グループなのだが、
いまの時代からみると、それを弾圧し
無実の罪で多くの人を死刑にした大逆事件の統制サイドも
許されざる者のひとりだったように思う。

パラノイア/EGO-WRAPPIN'
http://www.youtube.com/watch?v=zhxoQMzQngg&feature=related

許され.jpg

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知ってるつもり?堀辰雄。

2009-09-06 16:35:09 | 
堀辰雄の作品は「ルウベンスの偽画」から始まる作品群によって、
軽井沢文学というイメージができあがっているが
それ以前にも、習作期間としてではあるが新興芸術派の
モダニズム小説と呼ばれる小説を書いている。

それは川村湊の「物語の娘」という著書の中で知ったのだが
「水族館」という、浅草を舞台にした短編小説などだ。
「水族館」は、カジノや酒場、踊り子、男装の麗人、同性愛といった
都会の風俗とともに、人間の欲望を描いている。
また当時、堀辰雄は浅草のダンサーと恋をしていたらしい。
短命で薄幸な女性との儚い恋・・というイメージとは、ほど遠い。
芸術家は誰でも、自分のイメージを確立する前には
いろいろとあるものだが、これは180°違う。

また「ルウベンスの偽画」「聖家族」「奈緒子」などの
恋人役のモデルとなった片山總子(宗瑛)は、
堀辰雄との噂が立つことに迷惑だったようだ。
片山總子が71歳のときの肉声インタビューがあり
そこで「堀さんの気持ちはわかっていたが、
私のほうは歓迎しなかった・・・」とある。
堀辰雄の一方的な片思いとも思えるが、
しかし、インタビューしたとき
堀辰雄の妻も生きているのだから
どこまで本心なのかというのも疑われる。

現に「ルウベンスの偽画」「聖家族」を発表した翌1931年には
軽井沢の別荘にいた片山總子から堀辰雄にあてて
「遊びにいらっしゃい。室生犀星先生は庭づくりに夢中です。
 今年は日本人が少ないようです。
 家のベッドは たいそうギイギイいいます。さよなら」
という手紙を出している。
そして堀辰雄は、この年も軽井沢に長期滞在している。
軽井沢の別荘からこんな手紙をもらったら、
誰だって、惚れてまうやろー!

1924年から毎年軽井沢に来ていた堀辰雄が、
別荘を手に入れて住んでみようと思ったのは
この片山家の別荘に
招かれてからかもしれないと、著者は書いている。

また堀辰雄は、片山總子をめぐって
韓国人作家と三角関係となり、
ナイフを持って追い回されたということだ。
これも堀辰雄らしくないエピソードだ。

芥川龍之介の自殺、恋敵との刃傷沙汰など、
辛い時期を乗り越えて
1933年、婚約者である矢野綾子と出会うが
富士見のサナトリウムで看取り、
その2年後に妻を迎えている。
また創作ノートには、
「奈緒子」が完結するまでの構想は書かれていたが、
未完で終わってしまったのが、なんとも悲しい。

LAST DAY/ルルティア
http://www.youtube.com/watch?v=fcpGiz332cY&feature=related

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