ボイシー日記

手がふさがっていては、新しいものは掴めない。

大正時代が薫る、安曇野・第三部。

2011-07-24 16:50:19 | 
臼井吉見の「安曇野・第三部」読了。
「安曇野」はますます面白い。「坂の上の雲」より面白いのではないか。
ただ、知らない人物が次々と出てきてウィキペデアで調べたり、
登場する画家たちの絵画を見ながら読んでいるから、けっこう遅い。。。
で、またまた筋書きを忘れないための、メモがわりのネタバレブログ。

安曇野・第三部は、洋画家の中村ツネと
中村屋の黒光の長女・俊子の恋情から始まる。
荻原守衛(碌山)が急逝した後、ツネが中村屋のアトリエに引っ越してくる。
俊子がツネのモデルとなり、しばしば屋根伝いにアトリエを訪れ逢い引きをする。
ツネはルノワールに影響を受けた画風で俊子を描き、
大正3年(1914)に「少女裸像」を完成させる。

しかし、この裸像を描いたことで、黒光は二人の関係に気付き、
二人を離れさせようと、ツネをアトリエから追い出してしまう。
追い出されたツネは伊豆大島でしばらく静養する。
静養先で北海道の中原悌二郎や柳敬助たちと交わした書簡もある。
大正5年、下落合にアトリエを建て、そこを創作拠点とする。
中原悌二郎や鶴田吾郎などの仲間も出入りする。
このアトリエは、下落合に現存するらしい。

また、二男が死んで臥せっていた黒光は
木下尚江から岡田虎二郎の「静坐」を教えられ
日暮里の本行寺で静坐を始めてだんだん元気になっていく。
やがて中村屋で「静坐会」を開くようになる。

山本飼山は、崇拝していた社会主義者たちに対して
疑念を抱き厭世的になって自殺する。
その流れで、1910年の大逆事件後の判決に対する声や、
売文社を設立した堺枯川の社会主義論について、
また大杉栄、荒畑寒村が「近代思想」を発刊したことが書かれている。

大正3年に始まった第一次世界大戦で日本は好景気になる。
中村屋も成長したが、調子に乗って投機的な商売はせず堅実な経営をしていた。
その頃、インドの独立運動をしていた
ラース・ビハリ・ボースが日本に亡命し、中村屋に身を寄せる。
ボースが密偵から逃亡していた、その顛末も書かれている。
ボースは、西洋文明はすべて、インドから生まれたと気炎を吐く。
インド独立運動についても、いろいろ。。

そして、中村屋の定番である純インド式カリーは、
このボースが教えたものだった。へぇ~、がってん。
相馬夫妻の長女俊子が、ボースと結婚する。

大正5年、ロシアの盲目の詩人ワシリー・エロシェンコが
中村屋のアトリエで暮らすようになる。
そこで秋田雨雀、江口きよし、神近市子らと交流する。
その後シャムへ行ったりしたが
大正9年、目白駅で洋画家・鶴田吾郎に声をかけられ
下落合の中村ツネのアトリエに連れて行かれてモデルとなる。
中村ツネと鶴田吾郎それぞれがエロシェンコ像を描き、二つの傑作が生まれた。
しかし大正10年、エロシェンコは、
メーデーや社会主義の集会に参加したとして逮捕・国外追放となる。

信州では、ウイリアム・ブレークの版画展、
講演にきた柳宗悦と白樺派教員たちとの交流が書かれている。
ウイリアム・ブレークの版画展は、東京から始まり、
伊那の南箕輪村、上諏訪、飯田、塩尻などを巡回して穂高へ。
柳宗悦と白樺派教員たちとの芸術宗教論、
武者小路実篤の「新しき村」構想について語られ
信州の教育界と白樺派のつながりが強かったことを知った。

白樺派教員とは、軍国主義ではなく、
子供たちに自由で人間性あふれた教育を理想とする教員たちだが
戸倉事件を契機に、弾劾されることになる。
その中のひとり赤羽王郎は、信濃の教育界を懲戒免職となって
柳宗悦のすすめで、千葉県・我孫子にあるバーナード・リーチの窯を手伝うようになる。
また武者小路実篤の「新しき村」に賛同して入村する
中村亮平一家などについてもふれている。
雑誌「白樺」に影響を受けて、白樺派教員たちが雑誌「地上」を創刊。

島村抱月と松井須磨子の「芸術座」の話、トルストイの「復活」上演、
島村抱月死後の松井須磨子後追い自殺のこと。
演劇つながりで、秋田雨雀・黒光によって作られた劇団「先駆座」、
そこで上演されたストリンドベルク作「火遊び」、
秋田雨雀作「手投弾」、それを鑑賞した島崎藤村の批評などが書かれている。
秋田雨雀つながりで、文壇の有島武郎の情死が続く。

大正12年、関東大震災が起こる。
その前年、大杉栄はベルリンで開かれる国際アナーキスト大会に
参加するため日本出国。上海からマルセーユを経てパリへ。
そこで逮捕され日本に戻されていたが
震災後すぐに妻の野枝、甥の橘宗一と共に連行され3人が殺害される。
大杉栄は、甘粕正彦により射殺される。

結核だった中村ツネが、大正13年死去する。37歳。
中村屋では、大正14年に俊子が死亡。
旦那のボースは、日本に帰化して防須家を創立。
中村屋の安雄は、黒光の従姉の子供にあたる高橋和子と結婚。
新宿は想像以上の賑わいをみせはじめたが
三越などのデパートの進出により。中村屋は売上減となる。
その対策として日曜日の営業、平日の営業時間延長を行い、株式会社とする。
また、和菓子、洋菓子、パン部門の技術者を招聘した。

安雄は大正15年に渡欧留学。二女の千香子も渡欧。
四男の文雄はブラジルへ。
愛蔵は中国、朝鮮、子供たちのいるヨーロッパへ旅行するようになる。
朝鮮でみかけた松の実のお菓子、中国の月餅などを商品化する。
昭和2年には喫茶部(レストラン)を開設。
ボース仕込みの純インドカリー、ロシアのボルシチを提供する。
制服はルパシカを採用。
店員は69名、朝鮮人、ロシア人、トルコ人もいた。
山梨には軍鶏を育てる養鶏場、仙川には牧場をつくった。

この第三部も、とても面白かった。
中村屋で純インドカリーが誕生した経緯、
「中村屋サロン」と呼ばれて洋画家をはじめ
さまざまな人たちが出入りしたこと、
そして、信州の教育界と白樺派メンバーとのつながりが、
強かったことを知った。
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