ボイシー日記

手がふさがっていては、新しいものは掴めない。

アメリカンカールが来た。

2013-10-31 10:34:43 | ねこ
なぜか家に子猫がきました。
3ヶ月くらいの、
アメリカンカールの女の子です。

耳がひっくり返っていて
タビー模様です。

昨日はまだ部屋が馴染んでなくて
走り回っていましたが
きょうは少し落ち着いてきました。

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麦藁手、十草、馬の目。

2013-10-29 14:39:06 | 独り言
歳のせいか、陶器がちょっと気になり始めました。。。
昔から、十草文様の器が好きで
茶碗や皿などにそうした文様のものを使っていました。

先日、民藝運動の柳宗悦の随筆を読んでいたら
瀬戸物のなかかでもとくに尾張品野の麦藁手という、
縦に太い線と細い線が描かれた器がいいと書かれていて
ますます引かれようになりました。
(白洲正子も麦藁手の器が好きだったとか・・)

そもそも柳宗悦は、雑器こそ、美の究極であるという。
「雑器の美」という随筆に
雑器は誰もが使い民衆の器具であり
希有のものではなく、いつも巷にあふれている。
毀れれば、同じものが供給される。
多量に生産され供給され、同じ手作業の
反復によって、強くて確かな美が生まれる。
多量な製作は、必然、美しき器たる運命を受ける。
雑器と呼ばれる器の背後には、長き年月と多くの汗と
限りなき繰り返しとがもたらす技術の完成がある。

無学な職人から作られたもの、
当時の民衆の誰もが用いるもの、
下物(げてもの)と呼ばれて
日々の雑具に用いられるもの、
裏手の暗き室内で使われるもの、彩りもなく、
貧しき素朴なもの、数も多く廉価なもの、
この低い器の中に高い美が宿っている、と言っている。

なんだか、すべてにおいて、納得させられます。

◎ ◎ ◎

で、瀬戸品野・小春花窯の麦藁手、十草、
馬の目の器、各1点を入手しました。

麦藁手の鉢は、カレーなどを入れたら
とてもおいしく見えそうな20cmほどの平鉢。
色加減もよく、存在感のある器です。

そして二色十草という、
繊細で親しみやい縦縞の五寸切立鉢。
これは筑前煮などの煮物を入れるのに最適!

そして皿の周囲に、馬の目のような
渦巻き文様が描かれた、馬の目皿。
この馬の目文様は、
江戸時代から明治時代にかけて流行し
街道筋の旅籠などでごく一般的に使われた
陶器の代表的な文様らしいです。
使って洗ったりするのに気を使いそうだけど
日頃使いにしたいと思います。
(写真:上より 麦藁手の鉢/二色十草の鉢/馬の目皿)

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キーマカレーとブルーマウンテン。

2013-10-23 15:31:51 | 
お昼ご飯は、家で手軽にできる
キーマカレーセットを作り
カルディコーヒーから届いたばかりの
ブルーマウンテン・ストレート豆を味わいました!
ブルーマウンテン豆は
200gで3000円弱と少々高かったけど、
コーヒーミルを買ったついでに、
最高峰の味に挑戦してみました。

ミルでブルーマウンテン豆を挽いてドリップ。
貴重な豆だから、挽いた後の粉も
砂金を扱うように大切に扱いました。。
味は、人生で2回ぐらいしか飲んだ事がないので
まさにこれがブルーマウンテンやっ!と
胸を張って言い切れませんが
豊かな香りと繊細な味わいがあり
バランスがいい感じでした。

今まで強いコーヒーを好んで飲んでいたので
少し物足りない感じもしなくはありませんでしたが
おしゃれなカフェで過ごす贅沢な時間のようでした。

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コーヒーミル買ったけど、見る?

2013-10-21 10:24:11 | 
カリタのコーヒーミル、
クラシックミルを買いました。
朝いつも入れていたコーヒーも
ミルでカリカリと挽くと
ゆったりと時間が流れるみたいで
心が落ち着いてきます。

豆は近所のスーパーにあったモカ。
初めは極細挽きにしてカリカリ。
2杯目は、中細挽き。
挽きたてで、モカ独特の爽やかな香りと
酸味がして、上質の味わいとなりました。
ブルーマウンテン豆、
スターバックスの豆も欲しい。。。
いろいろな豆や挽き具合など試して
極上のオリジナルブレンドを作りたいと思います。

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武田家滅亡の「武田勝頼」。

2013-10-17 21:50:23 | 
新田次郎「武田信玄」の後に
続編である「武田勝頼」を読んだ。
元亀4年(1573)武田信玄が西上途中で病死したあと
勝頼が武田家の家督を継いだわけだが、
周囲には信玄時代の古参謀や老将がいて
実質、権力を握っていなかったといえる。
勝頼がまだ未熟で、当主にふさわしくないと
周りから思われていた。
しかも勝頼は、信玄から聊爾者(おっちょこちょい)
と呼ばれ、まだまだ子供扱いされていた。

いろんな資料や本を読むと、勝頼は武将としての
能力が足りなかったように書かれているが、
新田次郎は、随所に、勝頼が当主でありながら
古参謀たちにはっきりと自分の意見を言えずに、
戦においても彼らの意見に押し切られて
歯がゆい思いをしているといった書き方をしている。
わりとシンパシーを感じていたようだ。

勝頼は、天正2年(1574)になると
織田軍の美濃の明知城を攻め落とし、
さらに遠州(掛川)の高天神城も陥落させた。
信玄が落とせなかった高天神城を落城させるなど
27~28歳で、けっこう頑張っている。
しかし高天神城、名前からしてかっこいい。
一度行ってみたいものだ。

高天神城はその当時、
徳川軍下の小笠原長忠が守っていた。
この人は信州の小笠原家の分流で
先祖は武田家と同じらしい。
高天神城が攻められた際も、
家康は援軍を出したかったが
単独では強い武田軍と戦うことは無理だとして
信長の支援を待っていた。
しかし信長も本願寺や長島の一向一揆などに
気をとられていて積極的に支援を出さなかった。
その後高天神城は、武田勢の岡部真幸が守る。

 ◆
◆ ◆
 ◆

一方、三河の長篠城は、信玄の死後、
徳川家康に奪われていた。
長篠城は元々、三河北部の武士である
山家三方衆の菅沼一族の城だったが、
今川、徳川に支配された後、
武田軍の秋山信友が三河に攻め込むと、
当時の城主・菅沼正貞は武田軍に屈した。
信玄没後は、家康が近くの作手城の
奥平貞能、貞昌親子を味方に引き入れるなどして
不安定になった長篠城を再度手に入れた。

長篠城は、天正3年(1575)に武田勝頼が
攻め込むときは奥平貞昌が守っていた。
勝頼に囲まれながらも、長篠城から
信長のいる岡崎城へ援軍を求めに出た
鳥居強右衛門などの活躍もあり、
やがて3万8000の織田・徳川連合軍が到着。
設楽原で1万5000の武田軍との戦いが始まったが、
織田・徳川連合軍の圧倒的な勝利に終わった。
主な敗因としては、信長の巧みな謀略と、
武田家家臣の穴山信君が勝頼の指揮に
従わなかったこと等があげられている。

小説では、このとき織田軍下の佐久間信盛が
織田側に謀反するという書状を武田側に送り、
武田側がすっかりそれを信じて攻めたが
佐久間信盛は寝返らず苦戦を続け、
火縄銃の三段撃ち戦法や馬防柵に阻まれた。
織田軍の足軽たちは、その柵から出たり入ったりして戦い、
織田・徳川連合軍に大した戦死者は出なかったが
武田の名将は数多く死んで武田軍の決定的敗北となった。

 ◆
◆ ◆
 ◆

こうなると形勢は徐々に武田軍に不利になり、
飯田城主であった秋山信友が守っていた
美濃の岩村城も攻め落とされ
大島、座光寺氏らと共に長良川で磔にされた。

岡部真幸が城将であった遠州の高天神城も、
天正8年家康に囲まれ、ついに落城。
このとき、副将クラスの横田尹松(ただまつ)、
相木市兵衛らが脱出して甲府へ逃げ戻った。
小説では「横田尹松と鷺坂甚太夫の二人だけが
ようやく敵中を突破して青崩峠を越え信濃の伊奈に入り、
平岡で相木市兵衛と安西平左衛門等に会った。
ここが集合場所であった。」とある。

ん?平岡?そうだったのか?
創作なのか真実なのかは不明だが
まあ地理的には合っている。

高天神城が落城すると、
さらに武田家滅亡のスピードは加速する。
この切羽詰まったときに勝頼は
韮崎に信長軍を迎え撃つ新府城を築こうとしていた。
古府中には躑躅ケ崎の館しかなかったからだ。
しかし、その新府城に木曽の材木を用いようと
木曽義昌に伐採を命じたが、
負担が重すぎるということで反感を買い
やがて義昌は信長側に寝返ることになった。

そして信長は、勝頼の力が衰えたとみるや
長男・信忠を伊那谷と木曽谷の
二手から信州へ進軍させる。
うちの田舎の近所にある下条村は
下条氏ゆかりの地であるが、
その下条氏は家臣に城を追い出される。
飯田・松尾城の小笠原信嶺氏も織田側に内応していた。
飯田城の保科正直は城を捨てて逃亡。
信玄の弟である信綱が守る大島城も自滅するなど
織田軍はすんなりと伊那谷を進軍することができた。
それにしても、下伊那衆は、勝頼時代になると
すっかり心は武田から離れていたのだな。
武田勝頼の時代になると、信玄の頃に比べて
農民たちへの取り立ても厳しく、
信濃衆の民心はすっかり離れていた。

伊那谷最後の城ともいえる高遠城は
勝頼の異母弟である仁科盛信が城主であり、
激しく抵抗したがここもあえなく落城。
やがて武田家最大の家臣であり
強い血縁関係にあった穴山信君も
徳川方に寝返ることとなり、
人心になだれ現象が起きた。
伊那谷から織田軍が、そして穴山信君が守っていた
駿府側からも徳川軍が攻めてきて、
甲府の町から人は逃げていった。

 ◆
◆ ◆
 ◆

最後は新府城に火を放ち、
夫人と長男、一部の家臣だけで
笹子峠の奥の天目山へ逃げ込み自刃した。
このとき最後まで勝頼をフォローし、
アドバイスをしたのが真田昌幸だった。
甲府を離れるときも、自分の領内である
吾妻の岩櫃城へ来るようにと誘った。
信玄の眼といわれた武将・真田昌幸は、
当主となった若い勝頼が周りから軽んじられても
つねに味方となり忠実に武田家に尽くした。
尊敬するなぁ。
というわけで、いまは「真田太平記」を
読み進んでいます。。
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主力選手に欠けた豚汁。

2013-10-15 19:30:31 | 
空気がだんだん冷えてきました。
で、材料があまりなかったけど
豚汁を食べたくなり作ってみました。
材料は、冷蔵庫にあった
豚バラ肉、大根、にんじん、舞茸、豆腐。
定番であるこんにゃく、さといも、ごぼうといった
主力選手を欠いた準レギュラー打線で構成された豚汁。
久しぶりに作ったけど、
けっこう美味しく仕上がりました。

ところでTVでは
大型の台風26号が接近しているという
ニュースが流れていますが
そういえば、9月中旬の台風で
田舎の村では飯田線がずっと不通で、
先日復旧したばかり。。。
またまた不通にならなければいいがと
祈っております。

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花小金井の西洋料理店。

2013-10-03 21:49:47 | 
立原道造が病の床で
「5月の風をゼリーにして持ってきて」と
友人にねだったという話があるが
これからも爽やかな風が心地いい季節。
武蔵野の雑木林を抜けて吹いてくる
10月の風をゼリーにして舌に乗せたら
どんな味がするだろうかと思いました。

ところで、先日、花小金井にある
「葡萄家」という、こじんまりとした
西洋料理店へ行ってみました。
開店早々で客もまばら。
ランチはミラノ風カツレツ。
柔らかな豚肉を粉チーズ入りの
衣で揚げてありました。
ほかに、パエリア、ドリアセットの
ランチなどがあり。

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