ボイシー日記

手がふさがっていては、新しいものは掴めない。

新田次郎「武田信玄」。

2013-09-12 11:51:33 | 
この夏は、新田次郎の「武田信玄」を読んだ。
漠然とは知っていても、性格とか
どんな戦いをしたとか、あまり詳しくない。。

戦国時代、甲斐の武田信玄の勢力が増してくると
うちの田舎である下伊那地方も含めて
信州一帯はその支配下になったわけだが、
もともと武田信玄は諏訪社に信仰が篤く
軍神を祀って、諏訪法性の兜をかぶるなど
諏訪とは縁が深かった。
合戦のとき本陣に立てる旗も
「南無諏方南宮法性上下大明神」の諏訪法性の旗と
「風林火山」の孫子の旗がはためいていた。

信玄は、諏訪一族を滅ぼそうと
諏訪頼重を甲府の館に呼んで殺してしまったわけだが
その後、娘を側室に迎えて勝頼をもうけた。
また、周囲を今川義元、上杉謙信、
北条氏康などに囲まれ枕を高くして眠れずにいて
甲駿相の三国同盟をしたり、
上杉謙信とは度々睨み合いをして、
川中島の合戦は大小含めて5回ぐらいあった。
上州や武蔵野あたりにも軍をだしたり、
家康と結託して今川を倒すときは、
下伊那衆を遠江まで出張らせて家康を牽制したりしている。

また武士という前に、人格者でもあり、
「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉を残したり
甲州法度とか、信玄堤をつくったり、
侵略しても、その土地の自治を守ったりして治めた。
とても人心掌握に長けていた。
天下を統一した徳川家康も、どこかしら
この武田信玄の統治方法に影響を受けているらしい。

信玄は頻繁に合戦していたイメージがあるが
戦わずして双方がおさまるなら、
それに越したことはないという考えで
甲斐や駿河の金山で掘り出した金を相手に贈ったり、
謀略を駆使して土豪たちを配下に置いていった。
大合戦も面白いが、小競り合いも
けっこうおもしろかった。
小さな城を落とすために、水を止めたり、
城の地下に坑を掘ったり、
相手の田んぼの稲を刈ってしまうなど
笑える部分もあった。

飯田にあった信玄配下の城では
秋山信友という人もかなりの智将だったと紹介されていた。
徳川家康と戦った三方ケ原の戦いのときには、
下伊那衆を率いて三河地方に攻め入った。
また、東美濃の岩村城に入り、
死んだ城主・遠山景任の後妻で信長の叔母である
おつやの方を正室として迎えた。
うちの田舎にも、遠山姓が多く、
遠山景○という家もあるので、この一族の流れなのだろう。

織田信長と上洛を競いつつも、
西上途中の野田城攻めの後、病状が重くなり
甲斐へ戻る途中、下伊那阿智村で絶命。
死後3年間は死んだことを隠せという遺言を残して死んだ。
南信も、こうしてみると、武田信玄の足跡が
たくさん残っている。
コメント
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