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世界最速の駆逐艦

2024-09-08 11:03:07 | 軍艦
世界最速の軍艦、それは駆逐艦と言われる艦種に在ります。

1864年、イギリス人のロバート・ホワイトが魚雷を発明しました。
魚雷は年々発達を遂げ、1発でも大型艦を撃沈できる恐るべき兵器になって行きました。
この魚雷を攻撃兵器として開発されたのが水雷艇です。
排水量300トン程度で、速力は27ノット(時速50キロ)前後。
それが各国の魚雷艇の平均的なものでした。

この小うるさい、それでいて高速力の水雷艇を駆逐する為に造られたのが、
後の駆逐艦です。
駆逐艦の世界標準レベルは、1200~2000トンくらいの艦でした。
しかし、高速力の水雷艇を駆逐する為には、それより高速でないと役に立ちません。
その為に駆逐艦は高速にならざるを得ずに、各種軍艦の中でも、最も高速力がありました。
特に、フランス、イタリアの2国は、そのスピードに血道をあげたのです。



イギリス海軍の駆逐艦スウィフトはあらゆる船舶の中で、
世界最初の40ノット(時速74,08キロ)を記録した船舶です。
排水量1700トン、全長107,8メートル。
蒸気タービン出力5万馬力。
この高出力エンジンを積む為に武装は異例の軽装備で、
10,2センチ(4インチ)単装砲4門。魚雷発射管2門だけでした。



日本には2代目に当たる「島風」、という駆逐艦が40,9ノット(時速75,6キロ)を記録し、
日本最速艦を誇ったのです。
排水量2894トン、全長129,5メートルの大型駆逐艦で、
12,7センチ(5インチ)連装砲3基、6門、53センチ魚雷発射管6基、15本、
の重武装でしたが、建造が複雑で手間がかかる事から、1艦のみの製造で終わってしまいました。
世界最大の戦艦、大和の22分の1の重さで、その馬力は大和の半分もあったのです。

しかし、フランスとイタリアの2国はスピード競争でしのぎを削っていました。
イタリア海軍のスピード狂は有名ですが、
世界一弱いイタリア海軍と、早々と降伏してしまったフランス海軍が、
スピードなど競っても、意味ない感じがしますね。

イタリアは1928年に、ナヴィガトリ級駆逐艦を建造します。
排水量1900トン、5万馬力で、38,7ノット(時速71,67キロ)
を出しましたが、それがイタリア駆逐艦の最速記録でした。



イタリアに対し、フランスも黙ってはいません。
ル・ファンタクス級駆逐艦を建造します。
排水量2569トン、全長132,4メートル。74000馬力。
13,8センチ(5,4インチ)砲5門。3連装魚雷発射管3基という重武装。
1935年4月、5番艦のル・テリブルは45,02ノット(時速83,37キロ)を出します。
この驚愕的記録は、通常形態の艦船が記録した世界最高速度で、
現在に至るもこの速力を破った艦船は存在しません。

しかし、世界最大の戦艦大和が、
65000トン、全長263メートル。15万馬力、速力27ノット(時速50キロ)
だというのに、これらの高速駆逐艦は、
1900トン~2600トンしかないのに、その馬力は戦艦大和の半分というのですから、
船体内部の殆どをエンジン(タービン)で占められているという化け物です。





現代になると、こういった通常形態とは違ったスタイルの高速船がありますが、
それでもル・テリブルの時速83キロは容易には超せません。
全長132メートル、2569トンの軍艦が、
荒波を立ててぶっ飛ぶ姿は、さぞ迫力があるのでしょうね。


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栄光のホンダCB92

2024-09-08 07:18:52 | バイク


ホンダ、CB92は1959年、125ccバイクです。
125ccという事は、第二種原動機付自転車。



フェンダー後部にはこんなマークが書かれていました。
原動機付自転車・・あまりの時代錯誤は、もうお笑いですね。

ホンダ(本田技術研究所)は、本田宗一郎が築いた企業です。
本田宗一郎は、ホンダブランドを世界一にするんだという固い思いを持っていました。
ホンダという名前を世界中に知ってもらう最短距離は、
世界的なオートバイレースで優勝する事です。



その最高峰のレースが、イギリスで行われる、マン島TTレースです。
ホンダはマン島TTレース出場を宣言したのでした。
と言っても昨日今日の新参者ホンダがいきなり勝てる筈はありません。

ホンダはまず1954年の国際オートレースに出場します。
これは欧州メーカーに全く歯が立たずでした。

次は翌1955年の国内レース、浅間火山レースに出場します。
浅間火山レースは、創成期のオートバイ界でトップに位置するレースでした。
ホンダは期待されながらも、ヤマハに敗れました。

1957年に第2回全日本オートバイ耐久レースに出場しますが、勝てませんでした。
1958年の全日本は中止。
1959年に、第3回全日本オートバイ耐久レースに出場。



       そしてやっと優勝の栄冠を勝ち取る事が出来たのです。
       これの為に開発されたのが、CB92だったのです。

当時、日本のバイクは125ccか、250cc全盛の時代で、
大型バイクというと白バイの750ccくらいしか見かけませんでした。
ホンダは125ccをベンリイ号(便利から採った)
250ccはドリーム(夢)と名付けていました。

そしてCB92の、CBはその後、ホンダのスポーツバイクの名前として継承されていき、
初めてCBを付けたのは、このCB92からでした。

ホンダ初のスーパースポーツとかも言われるみたいですが、



基本は普通バイクのC92と同じ、神社仏閣と言われたプレスフレームだし、



フロントフォークは、真のスポーツとは言えないボトムリンクでした。



本当の意味での本格スーパースポーツは、
翌1960年11月の、ドリームCB72と言えるでしょう。



とは言っても、私も数回見かけましたが、
あの深紅のフレームに角ばった燃料タンクは、凄いインパクトがありシビレました。
今、このバイクを駆って東名高速を走り、
サービスエリアにこいつを停めたら、きっと人だかりがするでしょう。
今更1300ccだ2500ccだなんて珍しくもない。
たった125ccの、この美しいバイクはそれとは次元が違うのです。
あの、本田宗一郎の(夢)が見えるのです。


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