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原作本と映画化

2022-03-01 07:02:41 | 日記
『砂の器』のテーマ曲 ピアノと管弦楽のための組曲「宿命」


松本清張の名作「砂の器」その映画を観ました。
フェイスブックで「砂の器」を巡ってやり取りしているのを見て、
私も観たくなりDVDを買って観たのです。



それは感動の映画だったのですが、
そうなると50年も前に読んだものの、
既に殆ど記憶に無い原作本を再び読みたくなり、再購入し読み終えました。

結論を先に言いますと、映画の方が良かった。

原作本は、推理小説の分野に入る本であり、
それ故に「犯人は誰か?」の要素が強く、
本筋とは外れた話で読者の興味をそそるといった部分が多いのですが、
映画は、推理小説とはまるで違って、
ある悲しい父子の運命を描いたヒューマンドラマになっています。

栄光の未来を約束され、これから羽ばたこうとしていた彼。
その全部を失う羽目にする殺人を、彼は何故しなければならなかったか?
その底にある悲しい父と子の運命。
それはあまりにも悲し過ぎる。





小説では描いていない部分で、しかし最も重要な部分は、
悲しい父子が「お遍路さん」の姿で各地を彷徨う姿です。
これはとても重要な部分で、
この物語を描くには無くてはならない部分だと私は思いました。
これがあったからこそ、彼が殺人を犯さざるを得なくなった原点を強く感じられるのです。

そして、映画では彼等父子が別離せざるを得なくなったシーン。
そして、原作とは違っていて父親は生存していて、
30年後の我が子の写真を見た父は、
刑事に対し「こんな人は知らね~」と、あくまでも我が子を護ろうと、
その血縁を泣きながら否定するのでした。

この2つのシーンは原作には無いのですが、
この2つこそ、映画を観た人達がみな泣いたシーンだと思います。
泣いたというよりそれは号泣でした。

悲しく重たい映画でしたが、いつまでも余韻の残る名作です。
主演の丹波哲郎は適役で、とてもいい味を出していますが、
森田健作は、こういったシリアスな映画には全く似合わない大根です。
丹波哲郎から「君は若いね」と言われる年代の俳優には、
藤竜也・小林稔侍・橋爪功・山本圭・細川俊之・中尾彬・近藤正臣・北大路欣也・田村正和・
こんなにいい顔ぶれがあるのに、
「青春って楽しいね~」みたいな森田健作は合わないね。



「砂の器」と共に最近観た「飢餓海峡」
この映画でも似た様な事を感じました。

主演の犯人役は三国連太郎です。
彼はこの映画で主演男優賞を受賞しました。
まさに三国連太郎を語る上でなくてはならない適役でした。

原作本でのキーワードに「犯人は大男」という言葉があります。
三国連太郎は当時としては大男であり、
またその風貌、何か奇怪な印象を与える風貌は、彼ならではのものでした。
ですから後年、数回ドラマ化された時の俳優を見ると、
萩原健一だとか、若山富三郎とかは普通の体格というだけで失格です。

原作では、犯人の犬飼太吉を慕って訪ねて来た杉戸八重(左幸子)は、
犯人に毒殺されるのですが、
映画では大男の犯人(三国連太郎)は体力にまかせて、
杉戸八重を抱き締めて絞め殺すのです。
それは原作を超えた発想のシーンでした。

また、伴淳三郎が良かった。
あの朴訥とした感じが映画には無くてはならない存在感を醸し出していました。
映画というのは、こういった存在感の有る役者が無くてはならないのですね。
しかし、高倉健は・・私はもっとダサい役者にやって欲しかった。
彼の存在感は主役を超えたとまではいきませんが、
大男の犯人より高倉健の方が背が高く、主役を喰いかねなかった。



このラストシーンくらい、強烈だったシーンはありません。
これがあったから「飢餓海峡」は強烈なインパクトで心に残ったのです。

映画というのは、その時その時の人気スターを登場させたいという、
映画会社の思惑があったりして、それが折角の名作の足を引っ張ったりします。
興行的に仕方ない事とはいえ、チョッとあれが残念だったという事は、ままありますね。

でも、この2つの映画は、最近映画をあまり観ていなかった私には、
強い余韻を残した映画だったのです。



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