雪山に消えたあいつ ダーク・ダックス
歌声喫茶でも時々唄われる「雪山に消えたあいつ」
私は、この歌を聴くと、松濤明を想い描きます。
松濤明は昭和24年に北アルプスの槍ヶ岳で逝った登山家です。
彼の生涯は「風雪のビバーク」という本になり、
彼が最期にしたためた遺書は、あまりにも有名なのです。
槍ヶ岳に行く為には、4つの方角からの道があります。
東からの東鎌尾根。
これは、北アルプスの入門的で代表的なルートで、
いわゆる「表銀座縦走コース」と言われる、
中房温泉から燕(つばくろ)岳を辿るルート。
私の槍ヶ岳・初登攀もこのルートからでした。
その反対側には西鎌尾根。
これは三俣蓮華岳を経て、富山県側に至るルート。
そして、南側に南鎌尾根。
これは危険な大キレットを経て穂高岳に至るルート。
私は、槍穂高全山縦走の時など2回経験しています。
さて、北側に登山道はありません。
その道なき道が、松濤明が逝った(北鎌尾根)
槍穂高全山縦走の時は、
北アルプス最難関ルート、西穂高~奥穂高を10時間くらい歩き続けるのですが、
(私はほぼ歩き詰めで12時間かかりました)
北鎌尾根は、更に難度が上の国内最難関のルートであり、
岳人が最後に目指す、憧れのルートです。
私はこのルートを単独で行きたいと願っていたのですが、
その願いは永遠に無くなってしまいました。
写真、左が松濤明・右側が一緒に逝った岳友・有元克己。
彼らは昭和23年12月21日に行動を開始します。
湯俣温泉から川沿いに登行するという長大なルートです。
現在、このルートを辿る事はまず無く、
途中の大天井岳から貧乏沢に下るルートをとります。
翌、昭和24年正月、
彼らは北鎌コルまで達します。
しかし、この年の正月は大暴風雪の悪天候で彼らを苦しめます。
そして、ラジウス(コンロ)が壊れてしまい、濡れた衣類を乾かす事ができません。
飲み水を作る事も出来なくなってしまいます。
1月2日に登るか下るかの岐路に立たされますが、
ラジウスが応急修理で何とか燃え出したので、登行を開始します。
これが全てを決定したのです。
この時点で下れば、彼等は助かったかもしれません。
1月3日、登攀開始。
1月4日、暴風雪に阻まれビバーク。
(ビバーク・・不時の露営)
(写真の享年28歳は26歳の誤りです)
1月5日、風雪。身体も服も装備も何もかもが凍り付いて、
アイゼンも付ける事が出来なくなります。
アイゼンの無い登山靴で、雪面をステップカットで足場を作りながら、
槍ヶ岳を目指すが、有元が千丈沢側に滑落、
登り直す力はもう無い様なので、自分も千丈側に下る。
(もし、松濤ひとりだけだったら遭難しなかったかも知れない)
この時、松濤明を上高地で待っている女性が居ました。
彼はその事を知りませんでしたが・・・
その女性の名前は芳田美枝子さん。
写真は、松濤明26歳、美枝子さんが32歳の時です。
実際は芳田美枝子さんは、彼より8歳年下です。
ですから、松濤明が死んだ時、彼女は18歳だったのです。
昭和23年9月。
美枝子が働く、岐阜県・新穂高温泉の食堂に、
ザックを背負った松濤明が入って来ました。
食堂の従業員は盆休みで、18歳の彼女が一人っきり。
たまたま共通の知人がいた二人はすぐに打ち解けました。
この時彼女は「一目で電気ショックに打たれた様な・・」
つまり彼女は松濤明に一目惚れだったのです。
その時の出会いはわずか一時間半。
昼食後彼は食堂を出て行きます。
翌10月、松濤明は山岳会の後輩を連れて再び、新穂高を訪れます。
10月3日から8日早朝までの滞在で、
登攀はたった一日だけ、彼と彼女は深夜まで話し込んだりしました。
「山の中に少女が居る。夢の様だ、また行きたい」と、
松濤明に誘われて同行した後輩の権平完さんは、
「松濤明も美枝子さんが好きなんだ」という印象を持った。
松濤は、冬季国体目指してスキーの練習をしているという美枝子さんに、
東京でスキー靴を注文してあげようと約束して去った。
年が明けて約束のスキー靴を松本市内で受け取った美枝子は、
そのスキー靴を松濤に見せようと思い立ち、
深い雪の中を二日がかりで上高地へと辿り着いたのです。
それは1月6日。
北鎌尾根で松濤明が力尽きた日でした。
行違ったと考えた彼女は、新穂高温泉で彼に会えるかもしれないと、
10日未明に上高地を出発します。
しかし、彼の消息はその後も届かない。
長野県側に下山したのだろうと考えた美枝子は、
2月、8キロ離れた麓の郵便局で葉書を受け取ります。
それには「松濤君はそちらに下りていませんか?」
捜索中の山岳会からだったのです。
「もう、腰が抜けてしまいました。信じられなくて」・・・
この北鎌尾根では、
昭和11年に(単独行)で、超有名だった、
新田次郎の小説「孤高の人」のモデル、
加藤文太郎も亡くなっています。
さて、
昭和24年1月6日。
松濤明と僚友、有元克己の最期が近づいていました。
ここからが、有名な松濤明の遺書になります。
(殆どがカタカナなのですが、読みにくいので普通文にします)
1月6日。風雪
全身凍って力なし。
何とか湯俣までと思うも有元を捨てるに忍びず死を決す。
お母さん、あなたの優しさにただ感謝。
一足先に、お父さんの所へ行きます。
何の孝養も出来ずに死ぬ罪をお許しください。
井上さんなどに色々相談して・・
井上さん、色々ありがとうございました。
家族の事またお願い。
手の指、凍傷で思う事千分の一も書けず申し訳なし。
母、弟を頼みます。
有元と死を決したのが6時。
今、14時、中々死ねない。
ようやく腰まで硬直がきた。
全身ふるえ、有元HERZ(チョッと意味不明・脈が弱ってきたか?)
そろそろ苦し。
日暮れと共にすべて終わらん。
ユタカ・ヤスシ・タカオよ済まぬ、許せ。
強く孝養たのむ。
最後まで戦うも命。友の辺に捨つるも命。共に逝く。
彼らの遺体は、翌年夏に発見されました。
遺体のそばには、ビニールに包まれた遺書があり、
捜索に当たった山岳会の先輩が、多くの関係者達の前でそれを読みあげました。
読み上げる〇〇氏(名前は失念)も涙、涙。
それを聞く人達もただただ滂沱たる涙だったそうです。
この遺書は長野県の大町・山岳博物館に展示されています。
歌声喫茶でも時々唄われる「雪山に消えたあいつ」
私は、この歌を聴くと、松濤明を想い描きます。
松濤明は昭和24年に北アルプスの槍ヶ岳で逝った登山家です。
彼の生涯は「風雪のビバーク」という本になり、
彼が最期にしたためた遺書は、あまりにも有名なのです。
槍ヶ岳に行く為には、4つの方角からの道があります。
東からの東鎌尾根。
これは、北アルプスの入門的で代表的なルートで、
いわゆる「表銀座縦走コース」と言われる、
中房温泉から燕(つばくろ)岳を辿るルート。
私の槍ヶ岳・初登攀もこのルートからでした。
その反対側には西鎌尾根。
これは三俣蓮華岳を経て、富山県側に至るルート。
そして、南側に南鎌尾根。
これは危険な大キレットを経て穂高岳に至るルート。
私は、槍穂高全山縦走の時など2回経験しています。
さて、北側に登山道はありません。
その道なき道が、松濤明が逝った(北鎌尾根)
槍穂高全山縦走の時は、
北アルプス最難関ルート、西穂高~奥穂高を10時間くらい歩き続けるのですが、
(私はほぼ歩き詰めで12時間かかりました)
北鎌尾根は、更に難度が上の国内最難関のルートであり、
岳人が最後に目指す、憧れのルートです。
私はこのルートを単独で行きたいと願っていたのですが、
その願いは永遠に無くなってしまいました。
写真、左が松濤明・右側が一緒に逝った岳友・有元克己。
彼らは昭和23年12月21日に行動を開始します。
湯俣温泉から川沿いに登行するという長大なルートです。
現在、このルートを辿る事はまず無く、
途中の大天井岳から貧乏沢に下るルートをとります。
翌、昭和24年正月、
彼らは北鎌コルまで達します。
しかし、この年の正月は大暴風雪の悪天候で彼らを苦しめます。
そして、ラジウス(コンロ)が壊れてしまい、濡れた衣類を乾かす事ができません。
飲み水を作る事も出来なくなってしまいます。
1月2日に登るか下るかの岐路に立たされますが、
ラジウスが応急修理で何とか燃え出したので、登行を開始します。
これが全てを決定したのです。
この時点で下れば、彼等は助かったかもしれません。
1月3日、登攀開始。
1月4日、暴風雪に阻まれビバーク。
(ビバーク・・不時の露営)
(写真の享年28歳は26歳の誤りです)
1月5日、風雪。身体も服も装備も何もかもが凍り付いて、
アイゼンも付ける事が出来なくなります。
アイゼンの無い登山靴で、雪面をステップカットで足場を作りながら、
槍ヶ岳を目指すが、有元が千丈沢側に滑落、
登り直す力はもう無い様なので、自分も千丈側に下る。
(もし、松濤ひとりだけだったら遭難しなかったかも知れない)
この時、松濤明を上高地で待っている女性が居ました。
彼はその事を知りませんでしたが・・・
その女性の名前は芳田美枝子さん。
写真は、松濤明26歳、美枝子さんが32歳の時です。
実際は芳田美枝子さんは、彼より8歳年下です。
ですから、松濤明が死んだ時、彼女は18歳だったのです。
昭和23年9月。
美枝子が働く、岐阜県・新穂高温泉の食堂に、
ザックを背負った松濤明が入って来ました。
食堂の従業員は盆休みで、18歳の彼女が一人っきり。
たまたま共通の知人がいた二人はすぐに打ち解けました。
この時彼女は「一目で電気ショックに打たれた様な・・」
つまり彼女は松濤明に一目惚れだったのです。
その時の出会いはわずか一時間半。
昼食後彼は食堂を出て行きます。
翌10月、松濤明は山岳会の後輩を連れて再び、新穂高を訪れます。
10月3日から8日早朝までの滞在で、
登攀はたった一日だけ、彼と彼女は深夜まで話し込んだりしました。
「山の中に少女が居る。夢の様だ、また行きたい」と、
松濤明に誘われて同行した後輩の権平完さんは、
「松濤明も美枝子さんが好きなんだ」という印象を持った。
松濤は、冬季国体目指してスキーの練習をしているという美枝子さんに、
東京でスキー靴を注文してあげようと約束して去った。
年が明けて約束のスキー靴を松本市内で受け取った美枝子は、
そのスキー靴を松濤に見せようと思い立ち、
深い雪の中を二日がかりで上高地へと辿り着いたのです。
それは1月6日。
北鎌尾根で松濤明が力尽きた日でした。
行違ったと考えた彼女は、新穂高温泉で彼に会えるかもしれないと、
10日未明に上高地を出発します。
しかし、彼の消息はその後も届かない。
長野県側に下山したのだろうと考えた美枝子は、
2月、8キロ離れた麓の郵便局で葉書を受け取ります。
それには「松濤君はそちらに下りていませんか?」
捜索中の山岳会からだったのです。
「もう、腰が抜けてしまいました。信じられなくて」・・・
この北鎌尾根では、
昭和11年に(単独行)で、超有名だった、
新田次郎の小説「孤高の人」のモデル、
加藤文太郎も亡くなっています。
さて、
昭和24年1月6日。
松濤明と僚友、有元克己の最期が近づいていました。
ここからが、有名な松濤明の遺書になります。
(殆どがカタカナなのですが、読みにくいので普通文にします)
1月6日。風雪
全身凍って力なし。
何とか湯俣までと思うも有元を捨てるに忍びず死を決す。
お母さん、あなたの優しさにただ感謝。
一足先に、お父さんの所へ行きます。
何の孝養も出来ずに死ぬ罪をお許しください。
井上さんなどに色々相談して・・
井上さん、色々ありがとうございました。
家族の事またお願い。
手の指、凍傷で思う事千分の一も書けず申し訳なし。
母、弟を頼みます。
有元と死を決したのが6時。
今、14時、中々死ねない。
ようやく腰まで硬直がきた。
全身ふるえ、有元HERZ(チョッと意味不明・脈が弱ってきたか?)
そろそろ苦し。
日暮れと共にすべて終わらん。
ユタカ・ヤスシ・タカオよ済まぬ、許せ。
強く孝養たのむ。
最後まで戦うも命。友の辺に捨つるも命。共に逝く。
彼らの遺体は、翌年夏に発見されました。
遺体のそばには、ビニールに包まれた遺書があり、
捜索に当たった山岳会の先輩が、多くの関係者達の前でそれを読みあげました。
読み上げる〇〇氏(名前は失念)も涙、涙。
それを聞く人達もただただ滂沱たる涙だったそうです。
この遺書は長野県の大町・山岳博物館に展示されています。
「風雪のビバーク」は是非、ご一読ください。感動しますよ。
生まれた時を1歳として、正月を越えると1歳増えますので。
行年は29歳でなく、28歳となっています。
松濤明は1922年3月5日生まれ。
行年は1949年1月6日ですので、
正確には26歳10ヶ月となります。
今後ともよろしくお願いいたします。
若い日に何度も読みました。
松濤明さん。。。井上靖の小説『氷壁』のモデルとしても知られています。
松濤さんの所属した社会人山岳会は登歩渓流会。。。
一般的にトホケイリュウカイと呼ばれがちですが、会の名前の正式な読み方は『トボケル会』です。
谷川岳一ノ倉沢の各ルートの初登攀などに多数の記録を残した登山家の所属した著名な山岳会です。間もなく創立90周年を迎える山岳会です。
その後、新潟の越後三山に囲まれた水無川の奥深い沢山の沢を登り圧巻のオツルミズ沢などにも記録を残したり、北海道の利尻岳南稜の夏季初登攀や冬季の登攀記録もあります。
ヒマラヤはヌプツェをはじめ、英国と合同隊でエベレスト南壁にトライした国井さんというクライマーも居ます。
松濤さんの記録や遺品は長野の信濃大町にある山岳博物館で見学できます。
同博物館の資料室には貴重な歴史に残る会報が所蔵されていますが一般の閲覧は難しいと思われます。
その開放の中には、戦後復員した松濤さんが物資不足のなかガリ版で作った登歩渓流会の会報が所蔵されており、彼がガリ版で制作した会報の前後の時代は活字であるのに対して、完全な手作りの会報であることを思えば、胸に迫るものがありました。
信濃大町の山岳博物館はまだ行った事がなく、気がかりな存在で、いつかは行って遺書など見てみたいと思っています。
松濤明の時代には先鋭なクライマーなどが話題になった時代ですが、現在の山岳会は社会的にどんな存在となっているのでしょうね?
松濤さん のことに関して関心がございましたなら、
文芸春秋社の『二人のアキラ、美枝子の山』平塚晶人著とか、
中央公論社の『私の谷川岳』杉本光作著のなかにも断片的ではありますが記載されていて人物像が垣間見られる気がいたします。
また、山と渓谷社創立70周年記念出版の『新編 風雪のビヴァーク』では、クライマー遠藤甲太さんの解説つきで、松濤さんの山行記録などが編さんされていて、こちらも一読の価値があると存じます。
ただ、古い本たちですので、絶版になっていて入手には手間がかかると思われます。(笑)
いま思いますに、山登りも古き良き時代のブームと言いますか、あの日あの時の空気感や感覚とか香りの良き思い出が山岳史の歴史の中で生き続けているのでしょう。
たとえば、穂高の屏風岩とか剣岳のチンネ左稜線とか谷川だけ一ノ倉の烏帽子奥壁、衝立、滝沢スラブと多くの山登り愛好家がトレースし、私も多少なりとも若い日には血気盛んに経験させていただきましたものの、しょせんハーケンやボルトがあって当然のルートを辿るクライミングは充足感は有るものの、初登攀の偉大な登山家の感動には、遠く及ぶものではないのですね。(笑)
それでも、興味の赴くままに先輩登山家に指導されて経験できたことは、とても幸せな事だったのかもしれません。
杉本光作氏は、松濤明の遺体と遺書が発見された時に、みんなの前でその遺書を読み上げた人でしたよね。
私は岩とか壁とかとは無縁のハイカーでしたが、昭和20年、30年代の、いわゆる町の山岳会と大学の山岳会とのしのぎを削る争いなど、本で読むと実に興味深く、今では無い(物語)にも感じられて、それはそれでいいモンですね。
私の沿線の京王線には、高尾山に行くのであろうハイカーの姿をよく見かけますが、流石にニッカズボンという方は・・もう居なくなりました。
私はニッカが大好きだったんですが、もしあれを履くと(年寄り~ッ)という目で見られるのがオチなんでしょう。やれやれ・・
『ニッカズボン』ですか。(笑)懐かしいですね。
私も当時は履いてましたし合宿などの時にも、そのスタイルが当たり前の時代でしたが、それでも若氣のなんとかと申しましょうか当時まだ二十歳になったかならないかの頃に先輩と穂高の屏風岩という垂直数百メートルのルートを登攀した時には当時としては珍しくジャージのズボンでした。動きやすい気がしてまして。(笑)
そして、いまでは骨とう品のような、フランスのシャモニの名工が作った鍛造ものの木製シャフトのピッケルをピカピカに磨いて杖代わりにしてハイキングのような山登りに使ってます。
ノスタルジーに浸りながら。(笑)
雪も氷もないノドカな山登りなのに、そうでもしないと使う機会もない年齢になってますので。(笑)